『君が幸せであるために』&『君の愛を奏でて』

〜子猫たちの昼下がり〜
2013年改訂版





「はじめまして」

 初対面の定番である挨拶をにこやかに交わし、遠慮がちにそっと握った手のひらはひんやりと心地よかった。

 今、音楽評論家・佐上香である僕の目の前に、綺麗な立ち姿を見せてくれているのは、新進気鋭のフルーティスト、奈月葵くん――まだ大学生――だ。

 以前僕は、ある音楽雑誌の依頼で彼のデビューリサイタルの評論を書いた。
 そして今回、「その後の企画」みたいな感じで、彼との対談がセッティングされたんだ。


 僕と奈月くんは現在同じ学年だ。けれど僕は2年遅れて大学生になったから、現役合格の彼は僕より2つ年下ってことになる。

 そんな彼はすでに高校時代から注目されていた演奏家で、20歳になって漸く正式にデビューしたわけなんだけど、それも遅いくらいだって言われていたんだ。

 だから、彼が正式にデビューして以来、楽壇は彼の話題で溢れている。

 突出した技術力と、いい意味で若さを感じさせない深い表現力。
 その上、目を瞠るような美少年――歳は20歳だけど見た目はまだ高校生くらいの可愛らしさだから、美青年と言うよりは美少年の方がぴったりなんだ――とくれば、周囲が放っておかない。


 4人兄弟の末っ子である彼の、すぐ上の兄であるチェリストの桐生守くんがデビューしてから1年。
 スーパースターの出現が続いて、日本の楽壇は活気付いている…と言ったところだ。 




 対談の時間は約2時間。

 僕らは、雑誌社の担当さんの期待に応えるべく、笑顔を絶やさず、優等生の受け答えで無事に対談を終えて…。

 僕らは『送っていきますよ』と言ってくれた担当さんの申し出を丁重にお断りし、一旦その場で『さよなら』をした。

 けれど、本当に話したかったのはこれから。

 僕らは最初のうち合わせ通り、対談が行われたホテルから徒歩10分ほどの別のホテルのロビーで落ち合った。

 そして、葵くんのお薦めのカフェの、奥まった席に落ちついたんだ。



「いつも兄がお世話になってありがとうございます」

 席について、オーダーを済ませると――対談中、ほとんど何も口にしなかった葵くんが頼んだのは、大きなチョコパだった――葵くんがにこやかに言う。

 彼が今言った『兄』とは、その桐生守くんのこと。

 実は、守くんのデビューリサイタルで伴奏をつとめたのは誰あろう…岳志なんだ。

 岳志と守くんの縁は、実は二人の知らないところでずっと以前からあった。


 守くんの母上――ピアニストの桐生香奈子先生と岳志は同じ師匠に師事したことのある、いわば『姉弟弟子』で、岳志が腱鞘炎に絶望して姿を消してしまった時も、香奈子先生は随分心を痛めてくれたそうなんだ。

 だから、岳志が楽壇に復帰したときも、香奈子先生はリサイタルに駆けつけてくれて、以降また、以前のように親しくおつき合いさせてもらってるってわけなんだ。

 だから、守くんのデビューにあたってピアニストを捜すと言うことになったとき、香奈子先生が岳志を推薦してくれて、そして顔を合わせた二人は意気投合、現在に至る…ってところだ。

 そして、いつも岳志と一緒にいる僕のことも、当然のように守くんにはバレてしまっているってわけ。


「こちらこそお世話になっています」

 …ま、『そういうこと』の多い業界で助かった…って気はするけどね…。

「いつも、守くんから葵くんの話は伺ってるんです。だから、今日をとっても楽しみにしていました」

「僕もです。守から陽日さんのことはいつも…。花城さんにはリサイタルの時に一度だけご挨拶させていただいたんですけど…」

 葵くんはそこで言葉を切り、にっこりと微笑んだ。

「でも、まさか花城さんの恋人である陽日さんが、実は評論家の佐上香さんだったなんて、ほんと、驚きでした」

 普段、評論家は顔を出さない。
 世に出るのはその評論文だけだから、僕の場合は初対面の人は大概『まさかこんな若造だったとは…』って驚きを――黙ったまま――顔に出すんだ。


 でも、目の前の葵くんの驚きはそう言う類の驚きではなく、クラシック界という特殊な環境の中で、歳の近い人間が活動しているという喜びの驚きに近くて、僕はホッとする。

 それに…実は守くんから聞いてるんだよね。葵くんの恋人が男性であるってこと。
 相手は知らないんだけど、やっぱり音楽関係者のような気がするんだ。何となく…だけどね。

 だから、僕は葵くんに、そして葵くんは僕に、より近しいものを感じてしまうのかも知れない。

 だって、今日、対談のあとに二人だけで会いませんか…ってお誘いは、両方から同時にかかっちゃって、僕は守くんから『葵がとても喜んでました』って聞いたし、葵くんにもまた、守くんから僕が凄く喜んだことが伝わってるんだ。


「僕も、まさか守くんと葵くんが兄弟だったなんて、びっくりでした」

 そう、彼らは苗字が違う。
 とは言っても、現在の葵くんの本名は『桐生葵』で『奈月』というのは亡くなったお母さんの苗字だそうだ。

 桐生家の兄弟――守くんと葵くんの上にはまだあと二人兄がいて、その二人もまた揃いも揃って才能に溢れた若き音楽家ときているんだ――が、全員腹違いだというのはクラシック界ではすでに有名な話なんだけど、葵くんは諸事情から認知が遅れ、桐生家の籍に入ったのは高校を卒業した頃のことらしい。
 
 まあ、それも葵くんの正式デビューと同時に公表されて周知の事実となり――それ以前、彼の高校時代に週刊誌ネタにされたことがあるそうで、その時に一応公表していたそうなんだけど、僕はまだ、デビュー前だった彼らのことは知らなかったんだ――今に至っている。

 そして、今の葵くんは桐生の姓を名乗らずに旧姓のまま活動しているけれど、その裏にどんな気持ちが隠されているのか、僕には知る由もない。

 ただ、ここまでに至る道のりが尋常でなかった…ってことだけは、なんとなく察せられるんだけれど…。


「そうそう、上の二人のお兄さんたちはお元気ですか?」

「はい、おかげさまで元気にしてます」

 ヴァイオリニストの次兄、昇くんはすでに国内外でいくつかコンクールを獲っているんだけど、デビューはまだ。
 なんでも本人の意思で、大学在校中はデビューしないと言っているらしい。

 僕はまだ彼とは面識がないんだけれど、演奏は何度も耳にしていて、そして彼もまた金髪の美形ときているから、デビューすればまた大騒ぎになるんじゃないかと今から楽しみにしているところ。

 ちなみに彼の現在の本名は『光安昇』で、すでに養子に出てるんだそうだ。
 ただし、これは表には流れてない情報で、旧姓のまま『桐生昇』でデビューするだろう…ってのは、守くんから仕入れた話。

 どんなうちへ養子に行ったのかは全然聞いたことないんだけど、香奈子先生と同じく、岳志と同門の先輩ピアニストで、国費留学生にもなったことがある優秀な人に「光安さん」と言う人がいたんだ。

 しかもその人は現在、知る人ぞ知る『聖陵学院管弦楽部』――別名『若手音楽家養成所』――の顧問をやっている。

 桐生家の兄弟たちは全員聖陵のOBだから、もしかしたらもしかして…なんて思ってるんだけど。


「昇くん、やっぱりデビューは卒業までお預け?」

 そう尋ねると、葵くんは可愛い仕草でちょっと肩を竦めて見せた。

「ええと…、本人の意志が固くて…」

 それはまた…。

「なにか、理由とかあるの…かな?」

 それはもちろん、評論家としての純粋な疑問だったわけなんだけれど…。

 葵くんは、可笑しそうにクスッと小さく笑ったんだ。

「実は、学生でいられる4年間は新婚生活を楽しんでいたいらしくて」

 …え。もしかして、ビンゴ?

 僕が目を丸くしていると、葵くんはニコニコと笑いながら、

「陽日さんには白状していいと思うんだけど…」

 と、前置きして、その『新婚生活』を詳しく語ってくれたんだ。


 そう。僕の推理は正しかった。

 昇くんは、顧問である光安『先生』と恋に落ちたんだ。
 しかも彼らの出会いは、昇くんが小学生の時だったっていうから更に驚きだったりして。

 それにしても随分な年の差だよね。
 僕と岳志も10歳違うから結構離れてる方だと思うけど、昇くんたちは…それ以上ってことだもんね。


「先生も4年間なら…って昇の気持ちを尊重して下さってるんだけど、卒業したら、ちゃんと自分のなすべき仕事をしなさいって…」

「そうか…。聴衆としては待ち遠しいけど、きっとこの4年間が昇くんにもたらすものって大きいんだろうね」

 そう言うと、葵くんは凄く嬉しそうに頷いた。

「じゃあ、『デビューを楽しみにしています』って伝えてくれる?」

「はい! 昇、喜ぶと思います。 あ、それと…」

「なに?」

「その、昇のデビューのことでちょっと…」

 そう前置きして、葵くんは悪戯っぽく微笑んだ。

「なに?」

「実は、昇も『デビューリサイタルの時は花城さんのピアノがいい』っていつも言ってて…」

「ほんとに?」

 僕の問いかけに、葵くんは真剣な眼差しで頷いた。

 それは、岳志、きっと喜ぶだろうな。

『伴奏』という仕事を嫌うピアニストもたくさんいるけれど、岳志は違う。

 ソロばかりやっていると感性が鈍くなる…って言うんだ。

 自分みたいなタイプのピアニストは、常に人と触れて、自分と違う音楽に触れて、ぶつかったり寄り添ったりしながら自分を磨いていかないとダメなんだ…って。

 僕もその意見には賛成で、岳志が伴奏をやったり、カルテットやトリオを組むのは凄く好き。

 だから多分…ううん、きっと、昇くんのお相手も喜んでつとめるんじゃないかな。


「でも、花城さんすごくお忙しいのに、守の伴奏もあれからずっと続けていただいているから、昇としてはやっぱり遠慮があるみたいで」

 デビューが遅れると、そう言う弊害もあるにはある…か。
 でもきっと大丈夫。

「岳志、きっと喜ぶと思うけど」

「ほんとに?」

 嬉しそうに、葵くんが瞳を輝かせた。

 そして、いつの間にか僕たちは子供の時からの友達のように話していて、それに気がつかないほど話が弾んでいたから、自然に僕は、彼らを誘う言葉を口にしていた。



「もしよければ、一度兄弟揃ってうちへ遊びに来ない? そうすれば、自然と昇くんとの繋がりも出来ると思うし…」

「うわ! 嬉しい〜。ありがとう、陽日さん!」

 それはほんの思いつきで口に出たことなんだけど、実際言ってみてから、我ながらこれは良い提案かも…と、思った。

 どうしてかというと…。

「僕ももちろんそうなんだけど、岳志がね、悟くんに会いたがってるんだ」

「え? 悟に?」

 桐生家の長男の悟くんはピアニスト……だった。

 彼も大学へ入るなりコンクールに優勝して、正式なソロデビューこそまだだったけれど、すでに伴奏ピアノで活躍していて、管弦の有名プレイヤーたちから直々にご指名がかかるほどだったんだ。

 そう、少なくとも大学2年の終わり頃までは、兄弟の誰よりも多くステージをこなしていたはずなんだ。

 直接話したことはまだないんだけれど、僕は何度も彼の伴奏について評論をしていて、その一つ一つがとても印象に残っているから間違いはない。


 彼は、近い将来に岳志のライバルになる――もちろん良い意味で。


 僕はそう思ったんだ。

 けれど彼は、ある時を境にぱたりと姿を見せなくなり、そして…。


「そう言えば、悟くんは指揮科に変わったって聞いたんだけど」

 僕は、出来るだけさりげなく訊ねてみた。

 本来なら、葵くんのデビューには悟くんのピアノって決まっていたらしいのに、結局、伴奏をつとめたのは母上である香奈子先生だった。

 岳志からの情報だと、悟くんはピアノ科の3年次を休学して今年から指揮科の3年に編入し直したらしい…って事なんだ。

 確かに彼の父親は世界的な指揮者だから、その才能は受け継いでいるのかも知れないけれど、それにしてもあれだけ優れたピアニストだったのに…って、岳志は――岳志だけじゃなくて、もちろん僕もそうなんだけれど――すごく残念がっているんだ。

 でも、まさかそれを、彼の母親である香奈子先生に直接訊ねるのも躊躇われるってことで、今回葵くんからそのわけをさりげなく聞き出してこい…なんて岳志から言い渡されてたりしてて。

 だから、悟くんをうちに招くことができれば、わざわざここで根ほり葉ほり聞かなくても岳志が直接話を聞けるってわけで…。

 でも、葵くんは僕の意図に気がついたみたいだった。


「うん、去年一年間休学して、今年3年次編入で指揮科に変わったんだ」

 やっぱり…。

「ピアノはやめちゃったの?」

「うん、もう人前では弾かないと思うよ」


 …それは衝撃的な一言だった。

 あれだけ優秀で、すでにその実績を認められている若きピアニストが、もう弾かない…だなんて。

 けれど、葵くんの言葉には翳りはなく、その可愛らしい微笑みは作ったものでも何でもなく、天然に明るいものだから、僕はどうリアクションをしていいかわからなくなった。

 そして、そんな僕に葵くんは穏やかに微笑んで見せた。


「僕は元々、悟には指揮者を目指して欲しいと思ってたんだ」

「え、そうなんだ?」

 うん、と葵くんは大きく頷いた。

「悟は高校時代に管弦楽部でずっと振っていたんだけれど、誰の目から見ても悟に指揮者の才があるのは明らかだった。もちろんピアノも凄かったけれど。 でも僕は、悟には一つの楽器にとらわれないで欲しいと思ってた。 オーケストラという強烈な個性の集まりを引きつけてまとめて、そして一つのものを作り上げていく力が悟にはあると思うんだ」


 僕は悟くんの指揮を見たことがないから、今の葵くんの言葉にそのまま同意はできない。

 けれど、葵くんが言うのならきっと確かなんだろうと言う思いは、ある。

 …聞いてみたい…悟くんが、そのタクトで操る交響曲を…。


 にこやかに微笑んでいた葵くんの瞳が、ふいに真剣味を帯びた。

「だから、僕はこれでよかったと思ってる」


 その一言で僕は察した。

 悟くんは、自ら進んでピアノを手放したんではないということを。

『休学』という空白の時に、何かがあったのだということを。


「…そっか…。じゃあ、僕は新進気鋭の指揮者のデビューを心待ちにしていていいんだね」

 今、ここでその『何か』を聞き出すのはやめよう…と、何となく思った。

 桐生家の兄弟たちがうちへ遊びに来てくれて、その時に悟くんが話したいと思えば、きっと岳志が聞くだろう。その、『何か』を。


「うん! …そうだ! 花城さんのピアノコンチェルトを悟の指揮で出来たら凄いだろうね〜。その時はもちろん、僕も昇も守も、オケに入れてもらわなくっちゃ!」


 そして、葵くんが目を輝かせて語ったその夢が実現するのは、実はそう遠い日ではなかったのだった。


END


2005年同人誌ご予約御礼として初稿UP
2013年7月改訂版UP


8年も前に、陽日の話にかこつけて、君愛の壮大なネタ振りをしてしまいました(汗)
そのネタを回収できるのかどうか、君愛3にかかっているわけですが、
君愛3は葵の高校3年編でもなければ大学生編でもないのです。
さて、誰が主役なのかお楽しみに(*^m^*)
あ、もちろん、あいつもこいつもどいつもそいつも、出て参りますが(笑)

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