2016 クリスマス企画

『怪人、参上!』 & 『サンタが部屋にやってきた』



 怪人、参上!
(注:怪人とは、『I Love まりちゃん』の登場人物です。
ちなみに『初恋の人:前編にもちらりと登場しています))
 


 フルサービスキャリアのエアラインでは、キャビンの備品の仕様変更というのはそう珍しい話ではない。

 例えばビジネスクラスのアメニティなどは、コストとニーズのバランスを常に計りつつ、一定期間で採用ブランドを変更している。

 常連客に飽きられないように…という思惑もあるが、そこはそれ、『前のがよかった』と言われることも少なくないので、まさに『難しい舵取り』だ。



 ある日のこと。

 ジャパン・スカイウェイズでは、そこそこの期間採用されてきたビジネスクラスのブランケットが一新された。

 今まではどちらかというと、耐久性と扱いやすさが重視されてきたのだが、今回の仕様変更で、手触りのなめらかさを追求しつつも滑りにくい仕上がりになっていて、乗客だけでなく、扱うクルーたちにも好評だ。

 ところが、この仕様変更はキャビンクルーたちの間では、歓迎されつつも『謎だね』と話題に上がっていた。 

 ファーストクラスの仕様変更がなかったからだ。

 ファーストクラス仕様のものは、元々品質が高い。
 だから…と言うのなら理解も出来るが、今回の仕様変更で、ビジネスクラスの方が品質が高くなってしまったのだ。

 ならば、ファーストクラスも更に…となるはずなのだが、ファーストクラスの仕様変更は当分無いと言う話なのだ。

 それに、ビジネスクラスのブランケットも、不評だったと言う訳ではなかったから。


                     ☆★☆


「なんで、ビジネスクラスだけなんだろ」

 今日も今日とて、コミュニケーションに長けたクルーたちは、情報交換という名目の井戸端会議に花を咲かせている。

「それ、私、ちょっとネタ掴んじゃったのよね」
「あ、やっぱり訳ありですか?」

 身を乗り出してくる若手に、ベテランが頷いた。

「とあるお客様がね、やっと好みの肌触りになったね…っておっしゃったのよ」

「え? どなたですか?」

 漸くビジネスクラスが担当できるところまで昇格したばかりのクルーには、まだまだ顧客のあれこれを掴めているとはいえない。

「あー、あなたはまだ担当してないかも。財界の超有名人なんだけど、御用達のエアラインを、長年使っていらした外資系からうちに変えて下さってまだ1年くらいだから」

 そこまでの情報で、チーフパーサー昇格訓練中のクルーが『ああ!』と手をたたいた。

「もしかして、MAJECの前田会長ですか?」

 一代で世界規模のIT企業を作り上げた財界の傑物の名は、顧客でなくとも知っていて当たり前と言うレベルだ。

「そう! そろそろ引退してのんびりしたいんだ…なんて仰りながらも精力的に飛び回ってらして、デキる男の見本みたいな方なんだけど、機内では気さくで優しい方なのよ」

「会長もダンディですけど、お連れになってる秘書さんも、超イケてますよねえ〜」

 会長の側にはいつも、少しばかり年齢不詳な穏やかで優しい笑顔が寄り添っているのだが、アシスタントパーサー以上のクルーたちはみな、彼が第2秘書だと知っている。

 ちなみに、国際線の乗客名簿はアルファベット表記なのだが、第2秘書氏の小難しい苗字について、いったいどんな漢字を書くのかは、クルーたちの間でも未だに謎なのだが。

「それにしても、どうしてうちに乗り換えて下さったんでしょう?」

 超イケてる…に同意しつつ、アシスタントパーサーが言うと、この井戸端会議を仕切っているチーフパーサーが『それね…』と、話を引き取った。

「なんでも、会長が母校の理事長をされていた頃に凄く可愛がってた生徒がいて、何かの機会にその子と再会したらジャスカのクルーになってて、それから…ってことみたい」

 聞いてクルーたちは目を丸くした。

「それ、すごいことじゃないんですか? その子のために御用達を変えたってことですよね?」

「あの会長にそこまでさせるって…」

 財界の伝説とまで言われる人物にそんな行動を起こさせるとは…と、こうなったら、『その子』をとことん突き止めないと気が済まないという空気が井戸端周辺で盛り上がり始めた。

「で、どこなんです? その学校って」
「確か聖陵学院だったと思うんだよね」

 なにしろ超有名人なので、ちょっとネットで調べれば、主なプロフィールは簡単に手に入る。

「ああ! あの、頭と財力が揃ってないと入れない究極のお坊ちゃま学校ですね!」

 各界で、大学の学閥をしのぐと言われている『聖陵閥』は、人数が少ない分、強固だとも言われている。

「って、クルーに聖陵出身いるんだ?」

 聞いたことないな…と、首をひねる、もう1人のチーフパーサーに、アシスタントパーサーが確認を入れた。

「男性クルーですよねえ」

「そりゃそうでしょ、聖陵は男子校だもん」

「確か中高一貫の全寮制よね?」

「うは。それは萌えです〜」

 ワクワクするぺーぺーのクルーに、隣の2年先輩は肩をすくめた。

「なに言ってんの。中学生ならともかく、男子高校生の集団なんて、むさ苦しいもんだよ」

「だよね〜」

 自分たちがイケメン揃いの職場にいるものだから、ついつい『男子の集団』に夢をもってしまうのは致し方ない…ということろだろう。


 そんな、盛り上がりまくっている井戸端に、女帝が通りかかった。

「なになに? 集まって何か楽しい話?」

「あ、小野CP!」

「小野CPならご存知かも」

「ん? 何でも聞きなさ〜い」

 教官チーフパーサーは、私に任せなさいと胸を張るが、可愛い後輩たちからの質問は、乗務とは全く関係ない話だった。

「男性クルーで聖陵学院出身って、誰かご存知ですか?」

「へ? 聖陵?」

 なんのこっちゃと首をひねったが、女帝はすぐに、ある人物を思い出した。

「…ああ、そういえば都築CCPが聖陵だったかな」

 予想外の名が飛び出して、その場の全員が一斉にざわついた。

「えーっ!」

「まさかの都築教官〜?」

「なんかイメージ違う〜」

「うんうん、教官って、男子校って感じしないですよ」

「言えてる。共学校で王子サマしてるとこしか思い浮かばない」

 それもこれも、圧倒的女子社会の中で社会人生活を送ってきた彼しか見ていない所為だが。

「え、そう? なんか全寮制男子校でも君臨されてた感じするけど」

(注:都築くん在校時は全寮制ではありませんでした)

「あ、それもわかるかも〜」

「ん〜、確かに男子校で超モテてても違和感ない〜」

 勝手な感想が飛び交う中、女帝が口をはさんだ。

「って、聖陵がなに?」

「あ、すみません。ビジネスクラスのブランケットが変わったって話で…」

 聖陵、都築CCP、ビジネスクラスのブランケット…と、まるで三題噺のネタ状態だったが、さすがに女帝はすぐオチにたどり着いた。

「ああ、ブランケットの仕様変更ってことは、前田会長の話?」

「そう、それです!」

 さすが小野CP…と、感じ入っているクルーたちだが…。

「あれね、財界人の会合かなんかの時に、立ち話で前田会長がうちの社長に、『おたくのエアラインはブランケット以外は満点だね』って仰った一言で見直しが決まったらしいよ」

 まさかの爆弾情報と、予想外にデカくなってきた話にあたりが静まりかえった。

「…って、どうしてビジネスクラスだけなんですか?」
「ファーストクラスはそのままですけど…」

 立ち直ったクルーたちは、質問を続けたが。

「会長がビジネスクラスにしか乗られないからよ」

「えっ!? そうなんですか? あんな世界的企業のトップなのに?」

「ってか、『だからビジネスクラスだけ』…ってのも驚き…」

 まったくもって、エラい人たちというのは訳がわからん…と、被雇用者たちは半ば脱力だ。

「や、それはいいとして、そこへ聖陵が絡んでくるってのはどうして?」

 女帝が疑問を投げた。

 そう、前田会長とビジネスクラスのブランケットはすぐに結びついたが、もうひとつの『お題』はさすがの女帝も繋がらなかったのだ。

「あ、それなんですけど、前田会長がお気に入りのエアラインをうちに変更された理由が、『可愛がってた聖陵の後輩がジャスカにいるから』って話なんですよ」

「え、前田会長、聖陵OBなんだ。…あ、それで都築CCPって話か」

「そうなんですよ」

「あの前田会長にそこまでさせるのって、誰なんだって」

 なるほどね…と言いつつも、女帝はまたしても首をひねって異論を唱えた。

「都築CCPねえ…。うーん、彼は違うんじゃないかな?」

「え? どうしてですか?」

 教官なら『可愛がられていた』というのもありそうだと、誰もがほぼ納得できる結論に着地できそうだったのに。

「だって、彼がクルーになってもう随分だよ? ただでさえ目立つヤツだし、今更って気がするんだなあ」

「あ…」
「確かに」

 クルーになったその日から、ジャスカで最も目立つ有名クルーだったことを思えば、それも納得だ。

「っと、待って。パイロットって可能性もあるよ」

「あ、そうですよね」

「え〜、わざわざエアライン乗り換えるんだったら、キャビンクルーって気がするんですけど」

 そう、コックピットクルーには、そう簡単には会えない。
 彼らの搭乗時刻にゲート前で張り込みでもしていない限り。

「あ、香平くんとか!」 

 その言葉に全員が一瞬目を見開いた。

 そう、彼が、『可愛がられるのが似合う男性クルーNo1』であろうことは、誰しもが考えることだ。

「…いや、彼は都立の進学校だよ」
「あ〜、そう言えばそうだった」

 移籍してきた時、香平のプロフィールは事細かに出回ったのだ。

 出身大学や学部はともかく、卒論の内容まで知っているクルーがいたことに香平が脱力していたのは、ヘッドハンティング同期の面々しか知らないことだが。

「岡田くんは仙台だったよね」

「そう。そのくせ牛タン苦手だけど」

「え、マジ? もったいない」

「みーくんCPは?」

「彼は千葉。成田ベースになったら実家に戻らなきゃいけないから、羽田ベースを希望したんだとか」

 どうでも良いネタまで披露しつつ、さらに片っ端から名前を上げていったが、ほとんどのクルーは『足取り』がつかめたものの、やはり聖陵出身者には行き当たらなかった。

 自分が知る限りでは聖陵出身のキャビンクルーはいなかったような気がする…と、女帝が証言したこともあって、ここで行き詰まったかと思ったが、やはり諦められない。

 そう、キャビンクルーは、『疑問はとことん突き詰めて解決する』…という姿勢が大事なのだ。


「じゃあ、やっぱりパイロットですよ」

「でも、それならもう、探しようがないかも」

「キャビンクルーと違って、人数多過ぎだもんねえ」

「でも、それってもしかして、都築CCP聞けばわかるかもですよ。後輩だから」

「そっか、その手があるね」

「や、そもそも『あの会長』にそこまでさせちゃうなんて、私はもう、ゆっきーくらいしか思いつかないし」

「あはは。それめっちゃありそう〜」

「ってか、話がデキすぎ〜」

「や、ゆっきーが聖陵って聞いたことないよね?」

「うん、ないない。そもそも中学で中原CPと一緒だったんだし」

「あ、そうだった〜!」

 ヒートアップして、きゃあきゃあと笑い合っていると、帰着した遥花が通りかかった。

「わ〜、なんか楽しそう〜、なになに?」

「あ、遥花、お疲れ〜」
「太田AP、お帰りなさい〜」

「あ、そうだ、遥花。キャビン、コックピット問わず、聖陵出身のクルーって誰か知ってる?」

 女帝に問われて遥花は、『お腹ペコペコ〜』と、クルーたちが摘まんでいたクッキーに手を伸ばしつつ、さらっと言った。

「ゆっきー、聖陵ですよ。高校からですけど」

「「「「「ええっ!?」」」」」

 見事に決まったオチに、誰もが激しく納得し、一件落着と相成った。

 そう、こうなったらもう、事の真偽はもうどうでもいいのだ。
 ゆっきーだから。
 

                   ☆★☆


 その頃、都内某所にそびえ立つビルの33階では。

「お疲れ様でした」

 ヨーロッパ出張から戻った会長を秘書室長が迎えた。

「あちらのセレブをひとり、再起不能にしたとか聞きましたが」

 久々にやらかしましたね…と、言わんばかりだが、そもそも会長が理由もなく『やらかす』ことはないので、口調に責める色はない。

「ああ、パーティーに現れたバカセレブが桐哉に一目惚れしやがって、譲ってくれとか言い出してな。あんまりしつこいんで一泡吹かせてやったが再起不能なんてことはないぞ。せいぜい2、3年節約すればなんとか生きていける程度には残してやったからな」


 大切な第2秘書を譲れだなどと、バカバカしいにもほどがある上に、それを金銭にモノを言わせようという傲慢かつ無礼な態度が我慢ならなかったので、『お金のありがたみ』がわかる状況に追い込んで差し上げただけだ。

 その第2秘書は、会長を社まで送り届けたところで勤務終了となり、あっという間に恋人――警視庁の警視正だったりする――に拉致られていったが。

「ところで、今日のフライトはいかがでしたか?」

 乗り心地の質問ではない。目の保養になるクルーはいましたか…という意味だ。

「ああ、今日は、久しぶりに都築くんが乗っていたよ」
「そうでしたか」

 それはよかったですね…と続けると。

「まあな。確かに彼は観賞用としては完璧だな。恋人にしたら厄介そうだが」

 彼も可愛い後輩には違いないが、自分が目を掛けるまでもなく、彼は彼のキャリアを順調に重ねているから、見守るだけで十分なのだ。

 それ以上に介入しようとは全く思わない。

 それは…。

「そうですね。確かに彼からは会長と同じニオイがします」

 そういうことだ。

「ん? 鋭い嗅覚だな。淳は戌年生まれだったか?」

「そう言う話じゃありません。それより、せっかくお気に入りの来栖副操縦士の便に乗っても顔が見られなくて残念ですね」

 なーんて、これっぽっちも残念そうでなく言われたが、思いもよらず、会長からの反論はなかった。

「そうなんだよ。会うだけなら来栖本家に行けばいいんだがな、肝心の可愛い制服姿をまだ一度も生で拝んでないんだよ〜」

 珍しく弱った顔を見せる会長に、秘書室長は『そう何でもかんでも思い通りにはいきませんよ』と、いつもの調子で優しく諭す。

 だが、その『弱った顔』の裏で、こっそり『なんちゃって制服でも作って着せちゃおうかな〜』なんて、とんでもないことを画策しているとは、さすがの秘書室長も気づいてはいなかった。

 …と言うことはなくて、『まさかNYのお気に入りのテーラーで制服作っちゃおうかな…なんて思ってるんじゃないでしょうね』と、横目でチラリと流して、こっそりため息をついていたのであった。




 そして後日。

 来栖本家のお屋敷の奥座敷で、『財界の怪人』と『政界のご意見番』が、NY直送の衣装箱を前にウハウハと獲物の到着を待っているなどとは、羽田に帰着したばかりの天才パイロットは知る由もなかった。



                     おしまい



サンタが部屋にやってきた。


 国際線に乗務していると、『時差』という強敵の他に、季節によっては『気温差』という伏兵もいる。

 もちろん訓練生の頃からそれらを克服する対処方法については学んでいるし、諸先輩方は、マジなものから『それネタだろう』としか思えないようなものまで、山のようにアドバイスをくれる。

 けれど、結局は『経験がものを言う』のであって、ひとつひとつのフライトの積み重ねがクルーたちを強くしていくのだ。

 そしてここにひとり、新人でもないのに、初めて気温差の罠に落ちたと思われるアシスタントパーサーがいた。

 体力には自身があったし――細身なのは自覚しているが――健康にも細心の注意をはらっている。

 流行期に入る前にきちんとインフルエンザの予防接種も受けたし、当然念入りに手を洗い、うがいも欠かさない。

 マイコップとうがい薬と消毒ジェルを持ち歩くのは、ジャスカのクルーの間では『常識』なのだ。

 なのに、風邪を引いてしまった。

 確かに疲れはたまっていたかも知れない。

 やっとファーストクラス資格の訓練までたどり着き、この資格が取れればついにチーフパーサー昇格候補名簿に名前が載る。

 だから、オフの時も様々な資格講座に通い、必死で勉強してきた。

 入社以来、ずっと先頭を走ってきた自分が躓くわけにはいかないと、がむしゃらにやってきた。

 疲れなんて、若さでカバーできると信じて。


                     ☆★☆


 年末年始の繁忙期を抜けた頃。

 生え抜き男性クルー第1期の出世頭、岡田悠理が体調の異変に気がついたのは、フランクフルトからの復路便に乗務した直後のことだった。

 羽田を飛び立った時には元気そのものだったし、ヨーロッパには寒波がきていて、フランクフルトの最低気温が氷点下になるだろう予報もちゃんとチェックしていたし、そのつもりでステイの準備も整えていた。

 しかし、実際現地に到着してみれば、少し暖かかった東京との最低気温の差は10℃以上もあり、先輩クルーから使い捨てカイロをわけてもらうほどだったのだ。 

 復路便の機内で最初に自覚した症状はのどの痛みで、それは1日ほどで治まってきたので、これなら次のフライトに差し支えることはないなと思っていたのに、喉の治まりと引き換えに、今度は徐々に熱が上がってきた。

 3日間の公休が終わる頃には、体温は38℃になろうとしていて、慌てて病院に駆け込んだ。

 幸いインフルエンザではなかったが、風邪症状を起こす何かに感染しているのは血液検査で明白となり、悠理はここでやむなく『悪足掻き』をやめて、客室乗務部に連絡を取った。

 入社以来、初めての病欠になってしまった。

 そして。
 発熱で乗務できないことを電話で申告し、ゼネラルマネージャーからも『しっかり休んで治してね』と言われて、とにかく早く治さなくちゃ…と、潜り込んだベッドの中、沈んでいく意識の中で、ふと思った。

 ――雪哉さん、大丈夫かなあ…。

 今回のフライトは、『寒いの大嫌い〜!』と公言している雪哉がコ・パイだったのだが、案の定、到着するなり『僕、ホテルから出ない』と宣言して、温かいホテルから一歩も出なかった。

 もちろん、悠理も遊び歩いていたわけではないけれど、一歩も出なかった訳ではないし、出掛けた際に背中がゾクッときたのも事実で、やっぱりあの瞬間に風邪菌に乗り移られたのかもしれないなと、今更ながらのことをぼんやり思いつつ、意識だけでなく、身体の重さにベッドまで沈み込んでいくような感覚に捕らわれる。

 そして、眠りに落ちる瞬間に脳裏に浮かんだのは、最近さらにキュートさを増してきたと評判の、香平の優しい微笑みだった。 

 ――そうだ…、中原さん、今日からフランクフルトだったかも…。

 大好きな彼が風邪をひきませんように…と、祈りつつ、悠理は意識を手放した。
 

                     ☆★☆


 どれくらいの時間が経ったのか。

 遠くで何か、電子音が鳴り続いている。

 聞き覚えのある音だが、これはこんなに耳障りだっただろうか。

 聞こえてはいるのだが、それが現実のものかどうかわからない。
 夢の向こう側から聞こえているような気もする。

 電子音は、切れては鳴り…を繰り返していたが、しばらくすると、沈黙した。

 それからまた、意識は浮かんだり沈んだりを繰り返していたが、きっとそれなりの時間が経ったのだろうと思われる頃、玄関あたりでガチャガチャと音がした。

 だが、悠理にはそれも、夢うつつの音にしか聞こえなかった。

 けれど、次に入ってきた音は、耳のすぐそばで、しかもかなり焦った声だった。

「ユーリ! 大丈夫か?!」

 ――ほえ…?

 呼ばれてぼんやり開けた目だったが、画像はぼやけていて、ちっともピントが合わない。

 なんだか目の前がキラキラ光っている。

「ああ、よかった。生きてるな」

 心底安堵した様子の声と同時に、ひんやりした手が額に触れた。

 そういえば、起きる気力が無くて、張り替えないまま放置していた額の冷却剤はすでに乾いてパリパリだったのだ。 

 それが剥がされて、触れてきた手はまだ少し熱い額に心地良い。

「…きゃ…ぷてん?」

 やっと合ってきたピントの真ん中には、相変わらず美しい金髪と青い瞳、それに見合った端正な顔立ちがあった。

「水分は? ちゃんと取ってる?」
「ええと…ずっと寝てたので…」
「わかった。ちょっと待って」

 何かごそごそと音がして、目の前に経口補水液が差し出された。

「起きられる?」
「…えと、たぶん…」

 と、思ったが身体が思うように動かない。

「ちょっと失礼」

 言うなりニコラは片手で悠理の頭を抱え、もう一方の手で肩を抱いてそっと起こす。

「…う、わ…」

 ずっと寝ていた所為か、めまいがした。

「大丈夫?」
「あ、はい…すみません…」

「飲めそう?」
「たぶん…」

 多分と言いつつも、やっぱり喉はからからになっていて、健康なときにはやたらとマズい経口補水液も、今は妙に美味しい。



「やれやれ、心配したよ。連絡取れなくなったから」

 風邪で休んだと聞いて、メールをしたが返事はなく、電話をしても留守電に繋がるばかりで、とんでもなく不安に陥っていたのだ。

「すみません」

「いや、こんなに具合が悪いとは思ってなかったから、もっと早く様子を見に来ればよかったと後悔してるところだよ」

「…僕も、こんなに具合が悪くなるつもりはなかったんですけど…」

「病気というのはそんなものさ」

 頭を優しく撫でてくれる大きな手が、やたらと心地よくて、悠理は小さく息をつく。

「この調子じゃ、何にも食べてないね?」
「あ、はい」

 ほぼ昏睡状態だったので、お腹が減ったという自覚もなかったが、そう言われてみれば、胃の中は空っぽで、これじゃあ治るものも治らないと、やっと思い至った。

「よし、じゃあちょっとキッチンを借りるよ」
「え?」

 ニコラは悠理をベッドに寝かせると、立ち上がり、なにやらゴソゴソと始め、そして、あっという間に、ホカホカと湯気を上げるスープマグを持って来た。

「少しでもお腹に入れておいた方がいいからね」

「ありがとうございます。すみません、ご迷惑おかけして」

 抱き起こされながら言う悠理に、ニコラは優しく笑んで見せる。

「僕の大事なユーリだからね。僕が面倒をみるのは当たり前だよ」


 ――へ?

 なんだかとんでもないことを言われたような気がするのだが、まだ頭がちゃんと回っていなくて、しかも目の前には良い匂いが漂っていて、悠理の意識はとりあえず本能に従ってしまった。


「…うわ、美味しい…」

 ゆるめに炊いた粥だったが、ほんのりと出汁の風味がして、喉をすんなり通っていく。

「ふふっ、ちょっとね、出汁にはこだわってるんだ。ほら、国際線ターミナルに鰹節専門店あるだろう? あそこは僕の御用達だ」

 金髪碧眼、しかも長身男前が店頭で出汁を楽しむ姿は、日本橋本店ならさぞかし目立つだろうけれど、国際線ターミナルでは違和感なく溶け込んでいるに違いないなと悠理はこっそり笑う。

 水分を取って、お腹も温もって、頭も霧が晴れたようにすっきりしてきた。


 と、そこで疑問が。

「…って、キャプテン、どうやって入ってこられたんですか?」

 ベッドに沈む前、玄関の鍵はちゃんと閉めた覚えがある。

「ああ、大家さんに『兄です』って言ったら開けてくれたよ」
「…はい?」

 一瞬騙されそうになったが、マンガじゃあるまいし、すぐに『そんなアホな』と内心で突っ込んだ。関西人ではないけれど。

 このマンションは大手不動産会社のもので、大家さんなんて個人が存在しないし、そもそも『金髪碧眼』が『兄』と言って信じて貰えるはずがない。

 そして、ニコラも笑ってすぐに種明かしをしてくれた。

「いや、実は客室乗務員部から不動産会社に連絡してもらったんだ。帰着してからも全然連絡が取れないからこれは様子を見に行かなきゃと思ってたら、オフィスでも悠理に連絡が取れないって慌ててね。じゃあ僕が行ってきますってことになったわけだ」

「えっ」

 夢うつつで聞いていた電子音は、やはり夢ではなかったのだ。

「GMもついてくるって言ったんだけど、とりあえずお任せ下さいってことにして…、あ、報告入れなきゃいけないな」

 ちょっとごめん…と、ニコラはスマホを取り出して、メールを打ち始めた。

 隣で悠理は少しばかり青ざめている。

 ちゃんと休むことは伝えてあっても、その後、音信不通状態になってしまったのだから、相当心配を掛けてしまったはずだと。

 とにかくニコラが帰ったら速攻で電話をしないと…と、思ったところでインターフォンが鳴った。

 出なきゃ…と、悠理は身体を起こそうとしたが、まだ思うようにいかない。

 頭を押さえた悠理の肩を優しく叩いて、スマホをポケットに入れるとニコラは立ち上がり、玄関へ向かった。


 ――誰、だろう。

 そう思ったときに耳に入ったのは…。


「悠理! 生きてる?!」

 仙台にいるはずの次姉――理佳子の声だった。

「理佳ねえ…なんで…」

「会社から、悠理と連絡が取れないって電話もらって、慌てて『はやぶさ』に飛び乗って…」

 慌てて来たものの、顔を見れば無事がわかりホッとして、理佳子はちらりと視線をニコラに流した。

「あ〜、ごめん…。ちょっと体調不良で意識不明だったみたいで…」

 そんなに昏睡していたのだろうかと、今更ながらに思うのだが、覚えがないのは確かなので仕方がない。


「ユーリくんのお姉様でいらっしゃいますか?」

 視線の端から、顔を見ていなければ日本人が話しているのだとしか思えない流暢かつ丁寧な発音で尋ねられ、理佳子は少し、言葉に詰まる。

「あ、はい、姉ですが、ええと、どちら様で…」

「申し遅れました。私はこう言うものです」

 名刺を差し出すニコラに、悠理が『オフでも名刺持ち歩いてるんですか』と突っ込もうとしたとき。

 受け取った名刺に目を落とした理佳子が呟いた。

「…日本文化研究家…ですか?」

 ――へ?

「ええ、日本愛が高じて一昨年に来日しました。以来ユーリくんには研究のお手伝いをしていただいていまして」

 ――…なに、それ…。

 確かに日本人よりも日本文化に詳しいが、そんな怪しい活動をしているとは全く知らない。

 理佳子は名刺から視線をあげて、横目で悠理を見る。

「…ほんとに?」

 その目は『あんた、ちゃんと客室乗務員やってるの?』と、疑惑に満ちている。

「や、それは違…っ」

 そんな怪しいアシスタントはしていないと、慌てて否定しようとしたとき。


「あ、普段はこんなこともしています」

 もう一枚、差し出された名刺にチラリと見えたのは、見慣れた虹色の翼。
 そう、自分が持っているのと同じデザインだ。


「……機長さんっ!?」

「はい。ジャパン・スカイウェイズで旅客機を飛ばしてます」

『こっちを出すのが先だろう』…なんて突っ込む気力はもうない。


「あのっ、悠理がお世話になって……って、あ! もしかして…サンタさん、ですか?」

 よく見れば、この美しい瞳には見覚えがあった。
 映像の中、アップになったサンタクロースがこんな美しい瞳だったはずだ。

 けれど、映像よりずいぶん若くてイケメンだと、理佳子は目を見開く。

 それはそうだろう。何しろあの時は立派なお髭をつけていたし、お腹には綿を詰めて、それはそれは恰幅の良いサンタさんに仕立て上がっていたのだから。


「あ、ご覧になりましたか? こちらこそ、あの時にはユーリくんにお付き合い頂いたおかげで非常に皆さんから喜んでいただいたんですよ。ムリをお願いしてしまいましたが、ユーリくんにも快く引き受けていただいて、本当にありがたかったです」

 いや、快く引き受けた覚えはこれっぽっちもない。
 悠理的には、あれは初代トナカイの罠にはめられただけだ。

 だが、理佳子はすっかり納得して、ウキウキと話を続けている。

「そうだったんですね。悠理は仕事の話を何にもしないので、うちではちゃんと務まっているんだろうかと心配してたんです」

「いやいや、ユーリくんは同期の出世頭なんですよ。それに、来年のジャスカ公式カレンダーはユーリくんが表紙なんですよ」


 ――ちょっと待った。なんで知ってる?

 その話を誰にもしたことはないし、一応まだ、企画部の部外秘で、関係者しか知らないはずなのに。

「え〜! ほんとですか?! すごいね、悠理、やったね!」

「…や、他の適任者から押しつけられただけだし…」

 まだ力の入らない身体から、蚊の鳴くような声で弁解したが、理佳子もニコラも聞いちゃあいない。


「それに、こんな素敵な人まで側にいてくれて、よかったね、悠理。お姉ちゃん、安心しちゃったよ〜」

 ――え゛。



 …そうだった。理佳子にはバレていたのだ。


『あんたさあ、女の子に興味ないんでしょ』

 理佳子にそう言われたのは、確か高校2年の秋だった。

 一応、『別にそんなことないけど』と、誤魔化しはしたが、『ま、時代は変わりつつあるんだから、自由に生きていけば良いって。ただし、就職するときには、職場はしっかり選んだ方がいいよ』と返されたのだ。

 そして悠理は、語学力を生かせる仕事に就きたいと思ってはいたが、そのアドバイスもあって、客室乗務員の道を選んだ。

 国外へ出るしかないかと思っていたときに、ジャスカが男性キャビンクルーの採用を開始してくれたのは本当に運が良かった。

 香平や健太郎は国外を選ばざるを得なかったわけだし、自分がジャスカという恵まれた職場で最初からキャリアを積めるのは都築教官のおかげだと、悠理は改めて感謝をし、早く良くなってまた頑張らないと…と、強く思う。


 と、その時。

「機長さん、これからも悠理のこと、どうぞよろしくお願いいたします」

「いえいえ、こちらこそ末永くよろしくお願いいたします。あ、ニコラと呼んで下さい、お姉さん」

「えー! 良いんですか?! やーん、こんなイケメンさんにお姉さんって呼んでもらえるなんて、嬉しいです〜。あ、今度ぜひ、仙台にもいらして下さい! ご案内します! 良いとこ一杯あるんですよ」

「本当ですか?! 仙台も独特の文化がたくさんあって、とても興味があるんです。ぜひお願いします!」

「お任せ下さい! めいっぱい、おもてなししちゃいますよ〜」


『悠理は仙台っ子のくせに牛タンが苦手なんですよ』だとか、『それは残念きわまりないですね』だとか、どうでもいい話で盛り上がっている2人に、『また熱が上がりそう…』と頭を抱えて、悠理は寝たふりを決め込んだ。


 ――早く、飛びたいな。

 身体の芯からぽかぽかと暖かくなってきて、悠理はそのまま、またゆっくりと眠りに落ちていく。

 頭をそっと撫でてくれる、大きな手の温もりを夢の中で感じながら。




 こうして、トナカイさんのおうちの外堀は、サンタさんによって着々と埋められていくのでありました。

 Merry Christmas!


2016クリスマス企画、お召し上がりありがとうございました。

『トナカイの逆襲』から一年。
『トナカイの覚醒』はもうすぐ?
いえいえ、そうはいきません(笑)

ちなみに、怪人の第2秘書さんは、君愛の彼です(*^m^*)
彼が秘書になった話は、2007年に書いていまして、地下のどこかにあるのです。
タイトルは『ある春の日のMAJEC』…です。多分(おい)


ではではみなさま、メリークリスマス&良いお年を〜!



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