Dead Head
後編
結局、関係スタッフの努力で驚異的な巻き返しを見せ、当初予想されていた『30分遅れ』からほんの10分オーバーしただけの40分遅れでの出発となった。 敬一郎とは何度も飛んでいるけれど、彼が操縦する機をキャビンで経験出来るのは、ワクワクを通り越してドキドキだ。 もちろん、ときめいてドキドキ…の方だが。 「嬉しそうだな、雪哉」 「はい。こんな経験、滅多に出来ないと思うので」 「ソレは言えてるな。そういやうちの息子も『パパの飛行機乗るの大好き』って、いつも言ってくれたよなあ…」 遠い涙目になった杉野を、雪哉が慌てて宥めた。 「あ、あのっ、キャプテン、気を確かに…」 「ううっ」 宥めつつ搭乗したが、キャビンに入るのはいつも気を遣う。 特にパイロットはクルーだとわからないようにしなくてはいけないのが鉄則で、超ダサくてしかも安物くさいウィンドブレーカーを羽織るのも、肩章や胸章が付いたパイロットシャツを隠すためなのだ。 フライトバッグは貨物ではなくて、持ち込みで所定の場所に預かってもらっている。 普通は受託手荷物――タグは一目でクルーとわかるものがつけられる――になるのだが、今日は折り返しすぐの出発なのでその時間がなく、キャビンクルーに頼んだ。 座席は最後尾中央の3人掛け。 雪哉は中央。 その右隣の通路側に杉野が座る。 左側には先ほど熱心に出発準備を見ていた青年が乗ってきて、すぐに雑誌を広げて熱心に読んでいる。 忙しそうに通路を行き交うキャビンクルーも全員よく知った顔ばかりだが、言葉は交わさないし、視線も合わさないように気をつける。 離陸前のクルーはとにかく忙しいのだ。 ボーディングブリッジが離れ、機体が動き出す。 この時間が旅客機の『出発時刻』だ。 厳密に言うと、タイヤを留めているブロックが外された時…だが。 タキシング――滑走路まで向かう走行――の間に安全デモンストレーションがあり、キャビンクルーのアナウンスが入る。 搭乗の礼と遅れた事への詫びの後、『本日の機長は来栖。副操縦士は中野。チーフパーサーは岡林でございます』と流れ、思わず『うふっ』と笑いを漏らしてしまうと、杉野が『ぷっ』と吹き出して頭にパフパフ攻撃をお見舞いしてきた。 ちなみに、入籍以降、雪哉と敬一郎が一緒に飛ぶと、キャビンクルーたちはあることに困っているのだという。 乗客から『CAさん、アナウンス間違ったよ』と言われるらしい。 そう、『機長は来栖、副操縦士は来栖』…となるからだ。 このアナウンスはコックピットではモニターしていないので、そう言えばそうなるんだなあと、最初はかなり照れくさかったのだが、この頃やっと少し慣れてきたところだ。 その後キャビンクルーたちは『いっそのこと、『機長も副操縦士も来栖』…ってのは?』とか、『そこまで言うなら『今日は来栖親子が操縦してます』…って言っちゃえば?』とか、果ては『機長はパパ来栖、副操縦士はちび来栖とかどう?』から『機長は来栖、コ・パイはゆっきー!がいい』なんてむちゃくちゃなことまで飛び出して、勝手に盛り上がっているらしい。 とりあえず、『間違ってるよ』と忠告してくれた乗客には、『実は同じ名前なんです』とか『なんと、親子なんですよ』と本当の事を言っているようだ。 『同じ名前』だというと、『へ〜、それは紛らわしくて困るね』と同情され、『親子なんですよ』と言うと、『ええっ?!』とびっくりされるらしいが、社内にも本当の親子パイロットは4組いて、みな『ベテラン機長と若い副操縦士』のコンビだ。 ただ4組ともライセンスが違ったり、ベースが違ったりして同じ機に乗り合わせる機会がないから、どうしても雪哉と敬一郎が目立ってしまうというわけだ。 コックピットから離陸の合図――チャイムが2回鳴って、チーフパーサーの離陸アナウンスがあり、離陸滑走が始まった。 コックピットではあまり聞こえないエンジン音が、キャビンにいると身体にまで響いてくる。 外の様子を見なくても、身体に掛かるGで、おおよそのスピードはわかる。 ――V1…。 離陸決心速度だ。これを越えての離陸中止はできない。何が起こっても、とりあえず飛び立たなくてはオーバーランして大惨事になる。 ――Vr…。 操縦桿を引くタイミングだ。機体がふわりと浮き上がり、接地音がすうっと消える。 ――相変わらず気持ちのいいテイクオフだなあ…。 うっとりと目を閉じれば、今コックピットにいる敬一郎の姿がありありと脳裏に浮かぶ。 コールの声まで聞こえてきそうだ。 離陸の速度は機体重量によってフライトごとに設定が変わるのだが、身体に感じるGに差が出るほどではないから、何度も離陸をしていると、そのうちに身体が感覚を覚えてしまう。 ただ、実際の乗務では当然速度計をモニターしているので、こんな風に身体任せに感じられるのはデッドヘッドの時だけだから、この感覚も大切にしたいなと雪哉は考えている。 やがて順調に水平飛行へと移行して、そろそろオーパイだな…と思った頃、ベルトサインが消えた。 残念なのは、ビジネス客が多い時間帯の短距離路線は機長のアナウンスがないので、スピーカーを通した敬一郎の声が聞けないことだ。 出発が遅れた場合にはアナウンスをすることもあるのだが、今日は天候が悪化する一方なので、こういう時には集中しているからアナウンスはやはりない。 機長アナウンスは隣でいつも聞いているけれど――時々『代わって』と言われるが――生声とスピーカーでは違うんだろうなあ…と、うっかり妄想してしまいそうになる。 ただ、アナウンスがある時間帯でも、雪哉がデッドヘッドしていたら、敬一郎はコ・パイにやらせてしまうだろうな…という気もしないではないが。 関空−羽田間は飛行時間が短いので、機内サービスは希望する乗客のみ。有料サービスもあるが、無料のドリンクサービスを希望する乗客は多いから、キャビンクルーたちは大忙しだ。 そんな彼女たちの邪魔にならないように大人しくして、デッドヘッド同士はあまり私語も交わさないから、特に短距離の場合は寝てしまうことが多く、現に隣の杉野はすでに爆睡モードのようだ。 さっきも椅子で寝ていたのに。 ――キャプテン、大丈夫かな…。 プライベートがストレスになっているところに、ついさっきの着陸もかなりストレスになっただろうことは、雪哉には容易に察せられた。 地上では代替機の到着を今や遅しと待っていて、けれど空港は超混雑で、着陸待ちで旋回している機が目視できるだけでも何機もいて、しかも天候は刻一刻と悪化していた。 閉鎖までにはまだまだ至らないだろうけれど、出来るだけ風の影響が少ないうちに降りて、早く折り返し便を飛ばしたいとは、操縦桿を握る人間なら誰しもが思うところだ。 それでも苛つくことなく、着陸準備からエンジンのシャットダウンまで一時の気も抜かずに冷静かつ迅速に操縦する杉野機長の姿はやはり雪哉の憧れだから、せめてプライベートのストレスから早く解放されますようにと願う。 諸々のストレスから体調不良になり、一時乗務停止になるパイロットは少なくない。 雪哉たちのエアラインはその率が他社より少ないのだが、ないというわけではない。 けれど他社より少ないのは、飛行時間の制限がきちんと管理されているからで、オーバーワークにならないようにスケジューリングが厳密にされているおかげだ。 その分、飛行時間は稼げないわけだが、その代わりに最後まで健康で飛べると言われている。 それはつまり、事故率が下がるということに繋がるわけだ。 優秀な人材が、フラッグキャリアを選ばずにこちらへ来ることがままあるのは、そんな運航体制のあり方が支持されてのことだ。 上下関係の風通しの良さもあるが。 関空−羽田間の飛行時間で離着陸に関わらない巡航の時間は30分あるかないかだ。 もっと長く乗っていたかったけれど、きっとコックピットではランディング・ブリーフィングが始まっている頃だ。 そう思うとやっぱり、コックピットに一緒にいるのがいいなあ…なんて思ってしまったりもして、雪哉としては複雑な心境だ。 やがて、最終着陸態勢に入ったとアナウンスがあり、クルーたちもみな着席した。 この段階でトイレに行きたいと言い出して、止めるのも聞かずに立ち上がってしまう乗客がたまにいて、結果着陸をやり直す――ゴーアラウンドに至るケースがある。 幸い雪哉は当たったことがないが、違う機材のチームにいる同期が遭遇して大変だったと聞いた事があるので、今こうして穏やかな状態で着陸を待てるキャビンでよかったなあと思う。 羽田は風の影響を受けやすい空港だ。 今の風も、飛び立った時より格段に悪い状況になっているはず。 向かい風ならむしろありがたいが、横風と追い風は怖い。 管制はできるだけそれらを避ける滑走路と進入経路を選ぶのだが、それでも風は吹いていて、刻一刻とその向きと力を変えるから、高度が下がって速度が落ちてくると神経を使う。 離陸と着陸のどちらが怖いかと聞かれたら、間違いなく離陸だと答えるけど――速度が上がっている分危険も大きいからだ――それでも気象条件が悪い中での着陸はパイロットにとって大きなストレスになる。 今日の風の状況だとかなり厳しいランディングにはなりそうだけれど、敬一郎には問題ないレベルだ。 そう思った時、機体はふわりと舞い降りた。 エンジンの逆噴射の音がうなりを上げる。 「うわ、今日の機長、めっちゃランディング上手いなあ」 左隣の大学生風が思わず…といった様子で声を上げた。 「あ、わかります?」 思わず雪哉も応えてしまう。 「ああ、俺、チビの頃から飛行機大好きでさ、ランディングにはちょっとうるさいわけ」 ニカっと笑って隣人は言ってくれる。 「わあ、凄いですね」 飛行機大好きと聞いて、雪哉の目が輝く。 雪哉もチビの頃から飛行機が大好きだったが、初めて乗ったのは、高校の修学旅行だった。 あの時の喜びと興奮は今でも忘れられない。 「まあね。今日なんか横風結構キツいじゃん? なのにこんなに安定してるのってやっぱすごいなあって思うんだ」 うんうんと同意してからよく見ると、手には航空関連の雑誌がある。 一般マニア向けと言うよりは、よりメカニックなマニア向けの雑誌で、雪哉もよく読んでいた覚えがある。 「普段乗られてるのはどこの飛行機が多いですか?」 「ここのだよ。一応だけどマイレージ会員だしな」 「そうなんですね」 にっこりと微笑まれて隣人は何故か顔を赤くする。 「ええと、普段乗られてて離着陸で感じられることとかありますか?」 「そうだなあ、このクラスの機材だと結構みんな上手いって気がしてる。ちゃんと機体の高さにあったランディングしてると思うし、軸のずれも少ないんだろうなあって感じもするな。テイクオフもさ、『どっこいしょ』って感じの時と、吸い込まれるように上がっていく時とあるじゃん?」 「そうですね」 機体の重量と速度のバランスに左右される離陸だけれど、確かにパイロットの腕も要る。 推力や上昇角度、タイミングのすべてが揃って初めて吸い込まれるように上がっていけるのだ。 「そういや今日の機長、テイクオフも上手かったな」 「喜ぶと思います」 雪哉のようなひよこのパイロットは当然のことながら、経験を積んだベテランでも乗客から『ナイス・テイクオフ』や『ナイス・ランディング』と言われると嬉しいのだと、多くの大先輩たちから聞いている。 「え?」 「いえ、何でもありません。詳しくてらっしゃいますね」 「へへっ、実はパイロットになりたいんだ」 「あ、そうなんですか?」 雪哉が大きな瞳をさらに見開く。 「今大学4年なんだけど、航大受けてる最中なんだ」 「わあ、かっこいい〜」 敬一郎が航大だったせいもあって、雪哉は『航大』と聞くと、無条件に目をキラキラさせてしまう癖がある。 そんな雪哉が航大へ行かずに自社養成の道を選んだのはもちろん金銭的な問題だ。 航大へ行けば数百万の学費がかかるが、自社養成だと最初から社員として給与があるから。 一日でも早く独り立ちしなくてはいけなかった雪哉には、この道しかなかったのである。 「航大行って、このエアラインに入るのが夢なんだ」 かつての雪哉と同じ夢をもつ青年の目の輝きに、雪哉は自分もそうだったのかなと思い、その気持ちのまま飛び続けたいなと願う。 「がんばって、絶対叶えて下さいね」 待ってるよ…と、心の中だけで呟いて、拳を握りしめてそう言うと、『おう、絶対叶えてみせる!』と、同じく拳を握りしめて、力強い言葉が返ってきた。 そんな雪哉の右隣で、いつの間に目覚めていたのか杉野が笑いをかみ殺している。 機体はスポットに到着した。 40分遅れで出発し、到着はなんと35分遅れ。 この距離で5分は驚異的な短縮だ。 速度を上げるだけでは無理だから、何をしたのか後で聞いてみようと雪哉が思った時、ドアがオープンになり、一斉にキャビンが騒がしくなる。 こういう時、最後尾はかえって楽だ。 どうせ最後まで降りられないのだから、のんびり構えていられる。 乗り継ぎがあれば、そうもいかないだろうけれど。 「ねえねえ、話の続きしたいからさ、ちょっとでいいからお茶しない?」 「お誘いいただいて嬉しいんですが、僕、まだ仕事が残ってるんですよ」 「えっ、社会人なんだ?」 やっぱり言われてしまった。 どうせパイロットシャツでも『コスプレ?』と言われるに違いない。 「ええ、まあとりあえず」 「会社どの辺り?」 「羽田勤務なんですが…」 その時、杉野が雪哉の肩を叩いた。 「行こうか」 「あ、はい!」 振り返って答え、そしてまた向き直る。 「すみません。上司と一緒なので、これで失礼します」 ぺこりと頭を下げると、青年は柔らかく笑った。 「そっか、残念だな。でも、また会えるといいな」 「そうですね。きっとまた会えますよ」 「うん、なんか俺もそんな気がする」 きっと同じ空が待っているに違いない。 「頑張って下さいね」 「ありがと。絶対叶えるよ。じゃあね」 「さよなら」 見送って、ほとんどの乗客が前方へ移動すると、キャビンクルーたちと『お疲れさまでした』と挨拶を交わす。 預けていたフライトバッグを受け取って、ウィンドブレーカーを脱いでパイロットの姿に戻るとやっぱり何となくホッとする。 ちなみに夏場は制服の上着は着なくていいことになっている。 夏用の上着はないからだ。 キャビンクルーたちはまだ後片付けをしていて、コックピットの敬一郎もまだ点検作業などがあるから出てこない。 雪哉と杉野もデブリーフィングをしなくてはいけないから、一足先にオペレーションセンターに戻るべく、降機してボーディングブリッジを渡っていった。 「しかし、驚異的な短縮だったな。5分も縮めやがった」 杉野が腕時計を見て言う。 「ですよね」 「ルートのショートカットだけじゃ無理だな」 雪哉もそう思っていた。 「高度下げたんでしょうか?」 「それくらいしか考えられないよなあ」 高度を下げると気温が上がるので、速度が上がる。 ただ、空気抵抗も大きくなるので燃費は悪くなるというデメリットがある。 「でもそれって燃費めっちゃヤバイですよね?」 「だよな。でも機材変更の遅れだし、代替機のフェリーしてまで欠航避けたくらいだから……って、もしかして誰か乗ってたのかな」 「あ、VIPですか?」 「ああ。政府要人辺りだと、多少の無理はせざるを得ないからな」 天候悪化で欠航ともなれば致し方ないが、今日のような『自社理由』では『飛べません』とはなかなか言えない。 しかも今日はどのエアラインもギリギリいっぱいで飛んでいて空席ゼロ状態で振替えが利かないとなれば尚更だ。 伊丹空港ならば『新幹線』と言う選択もあるが、関空では欠航にならない限りその選択肢は厳しいから、急いで東京へ戻らなければならない大物閣僚などから『何とかしてくれないか』と言われれば、何とかせざるを得ないこともある。 今後のためにも。 「後で来栖に聞いてみるか」 「そうですね」 それが1番早そうだと結論づける。 「で、航大目指してるヤツがいたな」 「あれ? キャプテンいつから起きてたんですか?」 てっきりドアオープンまで爆睡していたのだと思っていた。 「いやもう面白くってさ、聞き入っちゃたわけ」 茶化してはいるが、杉野もそもそも『飛行機大好き少年』が成長してパイロットになったクチだから、ああ言う話題は大好きなのだ。 「あの人、アラウンドチェックとかグランドハンドリングの仕事も熱心に見てたんですよ。だから本当に飛行機好きなんだなあ…って。そう言う人に搭乗した時の印象とか聞けるチャンスってなかなか無いですし」 「それは確かに言えてるな」 「なんか現場の生の声が聞ける! って感じで、ちょっとコーフンしちゃいました」 そんな雪哉の頭をまたパフパフして、杉野も柔らかく笑う。 「盛り上がってたお隣さんが、いつか仲間になるといいな」 「ほんとですね」 キャプテンも少し浮上したみたいかな…と、雪哉は少し、ホッとする。 ボーディングブリッジを渡ったら、ゲート付近にはもうほとんど乗客の姿は無い。 他のゲートへ向かう乗客が通る程度だ。 オペレーションセンターへ向かおうとしたところで、ふと目を転じた先に、先ほどのイタリアモドキがいた。 どうやら雪哉が出てくるのを本当に待っていたらしい。 ウィンドブレーカーを脱いだ雪哉の姿に絶句している様子なのだが、そんな彼に雪哉はにっこり笑ってみせた。 「ご利用ありがとうございました。またのご搭乗を心よりお待ち申し上げております」 ぺこりと頭を下げて、通り過ぎる。 そんな様子をみて、杉野は雪哉の耳にコソッと言う。 「モテモテだな、雪哉」 けれど返ってきた返事は…。 「あの程度は日常茶飯事ですよ」 「…すげーな」 「全校生徒の9割が寮生活って男子校出身なんで、免疫ついてますから」 ニコッと笑う雪哉が、『免疫』を通り越して、『感染源』に見えた杉野であった。 |
「今日は世話になったな」 「なんの、お仕事ですから。 とは言え、関空で待機になった時にはちょっと焦ったけどな」 お互いにデブリーフィングを終えて、敬一郎と杉野は機長のロッカールームで漸くまともに会話を交わすことができた。 「で、もしかして今日はVIPでもいたのか?」 杉野の問いが、『フェリー→驚異の5分短縮』に掛かっていることは、敬一郎にはすぐにわかった。 「ああ、大物がいたのは確かなんだが、準備を急いだのは誰が乗ろうが関係ないことだし、VIPにしても『飛んでさえくれればいい。ついでに急いでもらえると助かるが』って話だったから、5分の短縮に挑戦する気はさらさらなかったんだ。 ところが、どの道フェリーまでしたんだから、この際燃費のことはいいからとにかく急げって上からのお達しだったんで、ちょうどいいなと思って、今日の空だとどの高度で一番早く飛べるかやってみたんだ」 「…羨ましいことしやがって」 「だろ? もう、中野と盛り上がったのなんの」 燃費はいいからなんて、エアラインパイロットはまず一生言われる事はない。 燃費が無視できるのは、安全を守る時だけなのだ。 それはつまり、パイロットにとっては嬉しくない事態というわけで。 「雪哉も『高度下げたのかなあ』なんて言ってたから、後で教えてやれよ」 「ああ、そうだな。しかし、雪哉が乗ってると思うと妙にそわそわしたな」 「……幸せそうな顔しやがって」 「ん? 何か言ったか?」 「いや、何にも」 私生活でも操縦席でもウハウハな親友をちらっと見て、杉野の頭にちょっとしたリベンジネタが浮かんだ。 「ってさ、お前んちの愛息だけどさ、もう、ゲート前でも機内でもモテモテだったぜ?」 「なんだって?」 思惑通り、敬一郎の顔色が変わった。 「一寝入りしてやろうと思ってたのに、雪哉がナンパされまくるから、面白くって寝てられなかったっての」 「ナンパって、誰にっ?」 「誰って、そりゃ『お客様』しかいねえだろ。この場合は」 掴みかからんばかりの敬一郎に、投下する燃料の質と量を少し誤ったような気がしないでもないが、やってしまった以上は最後まで燃やしておくしかないだろう。 「ひとり? とか、どこまで行くの ?とか、羽田でちょっとお茶しない? とかさ」 「雪哉は大丈夫だったのか?!」 心配しなくてもお前の愛息の方が『病原菌』だ…とは言えないが。 「大丈夫もへったくれもないさ。 …そうだな、あの技をキャビンクルーの研修に生かさない手はないぞ」 うんうんとひとり納得している杉野に、敬一郎は首を傾げた。 「…どういうことだ?」 |
数日後。 「雪哉、客室訓練部から何か頼まれたそうだな」 相変わらず雪哉に関する情報は敬一郎の耳にすぐ入る。 いつも『情報源はどこだろう』と不思議に思っている雪哉だが、どこもへったくれも運航部と客室乗務部全体が『スパイ化』していることに気がついていないのは雪哉だけだ。 ただ、客室訓練部絡みのネタは、先日ついに現場トップに昇り詰めた教官チーフパーサーが情報源だろうとは想像がつくのだが。 「あ、うん」 「何だったんだ?」 先日のデッドヘッドの後、『ナンパされまくったって本当か?』と散々心配されて、翌日が公休日だったりしたら、間違いなく一晩中寝かせてもらえなかっただろうなと言う状況になったから――公休だったら良かったのにな…とは、ちょっと思ったけれど――この件も黙ってたのに…と、雪哉は少し、唇を尖らせる。 その可愛い唇に敬一郎が『チュッ』と啄むようなキスを落とすと、雪哉は観念したように口を開いた。 「…ええと、『機内でナンパされたとき――事を荒立てない上手な交わし方講座』の講師頼まれた……」 「…杉野のヤツ〜…」 |
1年ほど後。 ある航大生が帰省のためにお気に入りのエアラインに乗っていた。 彼の夢は、このエアラインのパイロットになることだ。 乗れば必ずチェックする機内誌を手に取り、端から端まで丹念に読む。 特にお気に入りの記事は、機長たちがリレー式で綴るコラム。 苦労話から笑い話まで、毎回読み応えがある記事になっている。 そして、最近楽しみにしているのは、副操縦士のインタビュー記事で、タイトルは『パイロットへの道』。 近年不安視されている『パイロット不足』を念頭に置いてなのか、副操縦士たちがどうしてパイロットになろうと思ったのか…や、その道のりがどうであったのか、また夢をかなえて今はどんなパイロット生活を送っているか…などがインタビューという形で載っている。 前回は航大出身の副操縦士のインタビューで、同じ道を通った先輩の記事を興味深く読んだ。 今回は、自社養成所出身の副操縦士のインタビューだった。 冒頭に、パイロットを目指すものなら誰もが憧れる肩章と胸章のついたパイロットシャツ姿で微笑む、どうしようもなく可愛らしい――どうみても高校生のコスプレチックだが――副操縦士の写真と入社以降のプロフィールが載っている。 ――やっと、会えた。 写真を見てそう思った。 てっきり高校生くらいだと思っていたけれど、別れ際に社会人だとわかった。 『飛行機大好き』がありありとわかって嬉しくなり、つい多くを語ってしまった。 航大に入ってから、あの席にはデッドヘッドのクルーがいることが多いと聞いた。 羽田勤務と言っていて、とても可愛らしい顔だったから、もしかしたらキャビンクルーだったのかも知れないな…と思い、夢を叶えてこのエアラインに入れば会えるかもしれないと思い、一層頑張れた。 ――先輩だったんだ。 副操縦士昇格当時からこのライセンスということは、訓練生時代の成績は1番か2番。 そんな、このエアライン特有の裏情報を知るようになったのも、航大に入ってからだ。 記事の内容は、長期間で多岐に渡った採用試験での苦労や地上職を経験して得たもの…など、航大出身では経験し得ないことや、養成所での同期との絆などが優しい言葉で真摯に語られていて、引き込まれるように読んだ。 印象的だったのは、フライトしていて1番辛いことはと尋ねられて、『悪天候などでお客様を目的地までお連れできないことです』と答えていたこと。 空を飛ぶと言う夢をかなえた後には、職業人としての意識の成長が必要なのだと感じた。 そう言えば、路線訓練をわずか3ヶ月と言う驚異の短期間で走り抜けて昇格した強者がいると聞いたことがある。 プロフィールの『入社年月日』と『副操縦士昇格年月日』を比較してみると、もしかしたらそれはこの人かもしれないな…と思った。 そして、インタビューの最後を見て、彼は目を見張った。 『以前、便乗中に偶然パイロット志望の方と隣り合わせの席になりました。このエアラインに入るのが夢だと目を輝かせて語ってくれた彼と、再会できる日を楽しみにしています』 ――覚えててくれたんだ…。待ってて。絶対あなたに会いに行くから。 己の預かり知らぬところで、いつの間にか17も年下のライバルが出現しているなどとは、この時の来栖機長は知る由もなかった。 |
END |
おまけ小咄
『ガンバレ!杉野キャプテン!&ガンバレ!イタリアモドキ!』
*ちょっとした後日談〜『ガンバレ! 杉野キャプテン!』 「あ、杉野。ちょっと聞きたいことがあるんだが」 「ん? パパはまた雪哉の心配か?」 「…まあ、そうだが」 「やっぱり。で、なんだ?」 「先週のフェリーフライトの後、こっちへ帰って来た時にゲートで雪哉を待ち伏せしてたヤツって、知ってるか?」 「…ああ、若造のくせにやたらとキメキメのブランド野郎な。雪哉の制服姿見て絶句してやがったけど」 「…それか…」 「なんだよ、なんかあったのか?」 「それ、あの時乗ってたVIPの甥っ子で秘書なんだと」 「はあ? そうなんだ。あの軽薄そうな坊ちゃんが。へ〜。…で?」 「『あの時便乗していた副操縦士に会わせて欲しい』と上にねじ込んできやがった」 「はいぃぃ?? なんだよそれ。ナンパ不成功の嫌がらせか?」 「いや、それが『とてもいい子だったので、是非会いたい』って訳のわからんことを言いだしたらしいんだ」 「やなヤツだな〜。オジサマの権威を笠に着て雪哉を引っ張り出そうってわけか」 「そういうことだな。…ったく、ロクでもないやつだ。今度の選挙じゃ絶対入れてやらん」 「で、どうしたんだよ」 「うちの父親の耳にチラッと入れたら、速攻で動いた」 「…来栖名誉教授が出てきたと言うことは…与党の大物か」 「呼びつけて『うちの可愛い孫に何の用だ』って一喝したらしい」 「怖えぇ〜」 「立ってる者は親でも使え…ってやつだ」 「…それ、ちょっと違う気がするけど…」 「そう言えば、お前も大変なんだって?」 「あ、雪哉から聞いてくれた?」 「ああ、『恋愛相談』は苦手だが、『離婚相談』には乗ってやれるぞ」 「お、頼もしいねえ。経験者のありがたいお言葉を聞かせてくれよ」 「とりあえず、全部手放すことだな」 「へ?」 「今持ってる資産、全部奥さんに渡せ。で、『もう何にも残ってないから』って綺麗に清算しろ。それでお前は一からやり直せ。それが1番手っ取り早い」 「……随分ヘビーだな」 「そうか? まだかろうじて30代のうちにやり直せるんだからラッキーなもんだぞ」 「…なんか、お前が言うとやっぱり説得力があるな…」 「そりゃそうさ。俺だってそれで乗り切ったんだからな。揉めるとろくなことがないぞ。神経消耗するだけで、得るものは何もない」 「ってさ、離婚切り出されるってことは、やっぱりこっちにも非があるのかねえ…」 「俺にはそうは思えないが、その辺りの感覚は男女差があるからな、必死で考えたところで理解しきれるとは限らない。それよりお前が最後まで責任持たなきゃならんのは、息子のことだけだ。奥さんとは痛み分けだと思うしかない」 「…だな。とにかく息子のことだけは権利を主張して義務を遂行しようと思う」 「ああ、それで良いと思う。それに、傷が癒えたらまたきっと新しい出会いがあるって」 「お前みたいに?」 「まあな、そう言うことだ」 「な、ひとつ聞いていいか?」 「なんだ?」 「お前と雪哉の間にあるのは、なんだ? 信頼か? 情か?」 「そんなもの、『愛』に決まってるだろうが」 「ってことは、もしかして…」 「ん?」 「お前さ、雪哉を養子にする時、子供できないっつったじゃん」 「あ? 言ったかな?」 「…嘘ってことか…」 「ま、嘘も方便って素晴らしい言葉が日本にはあるからな」 「…了解。俺も前向きに頑張るよ」 あっさりと認められてしまって、自分もこれくらいぶっ飛んでみるか…と、ちょっと違う方向に頑張ってしまいそうな杉野機長であった。 ☆ .。.:*・゜ *もうひとつ! 『ガンバレ! イタリアモドキ!』 またあの子の夢を見た。 都内の超一等地に立つ豪邸の一室で、若き政治家秘書――仮にK.Yとしておこう――は、広いベッドに起き上がり、ため息をつく。 与党の大物政治家の甥っ子で、将来跡を継ぐべく秘書として修行中の彼は、叔父に随行して出掛けた先で、運命の出会いをした。 急いで東京へ戻らなければならない事態が起きたというのに、予約していた飛行機は機体不具合で代替機の到着待ちになってしまった。 叔父やその他の関係者とVIPルームで待つのも気詰まりで、『様子を見てきます』と出てきた待合いラウンジで、熱心に飛行機を見ている少年を見かけた。 まるでヨーロッパの宗教画から抜け出た天使のような彼は、ダサくて安物くさいウインドブレーカーを着ていたが、それでも充分なほど美しく、自分がコーディネートしたイタリアンカジュアルでも着せようものならとんでもないことになりそうな可愛らしさで、まさに一目惚れとはこの事だと、雷に打たれたような気持ちになった。 この出会いを逃してなるものかと、積極的に声を掛けた。 素っ気ないところも媚びがなくていい。 高校生かと思ったがすでに社会人だという。 どこまで行くのか訪ねたら『羽田』というお茶目な答えが返ってきた。 それはみんな同じだ。この飛行機は羽田行きなのだから。 突っ込めば、空港で働いているという。 この可愛らしさなら、もしかしたら、客室乗務員かグランドスタッフかも知れない。 そうだ、ダサいこのウインドブレーカーの下はきっと制服に違いない。 このエアラインのグランドスタッフの制服はさっぱり覚えていないが、客室乗務員の制服は絶妙な色合いのグレー系のスーツで、アクセントとしてダーツ部分に桜色の細いラインのパイピングが配された、なかなかお洒落なものだ。 この子が着れば、さぞかし可愛いだろう…と思ったのだが、可愛い彼のスラックスは濃紺だ。 と言うことは、エアライン関係者ではないのか。 ともかく、必死で話しかけたが可愛い彼は飛行機に夢中だ。 そんなところも可愛いが。 結局、彼の座席は聞き出せたものの、あまりに離れていて、機内での接触は図れずに終わった。 こうなったら、降りたときになんとしてでも連絡先をゲットしようと心に決めて、急ぐ叔父をもうひとりの古参の秘書に任せ、最後に降りて来るであろう彼をまちぶせした。 彼はなかなか降りて来なかった。 …が。 可愛い話し声が聞こえてきて、彼が現れた。 あのダサいウインドブレーカーはもう着ていなくて、その下は予想通りに制服だったが、予想外の制服だった。 3本線の肩章。 まさかパイロットだとは思わなかった。 一瞬、子供でもパイロットになれるのかと思ってしまったが、機長らしき4本線の肩章の男と笑いながら歩く姿はなかなか様になっている。 目があった。 『ご利用ありがとうございました。またのご搭乗を心よりお待ち申し上げております』 ニコッと笑んで、彼は去っていった。 連絡先は聞けなかったが、ここのパイロットなら探すのに苦労はないだろう。 叔父はここのトップとツーカーだから。 叔父に頼み込んで、あの可愛いパイロットを探してもらった。 来栖雪哉と言うらしい。 名前も可愛いが、苗字で気がつくべきだったのだ。 叔父の名前を使っていい相手かどうかと言うことを。 案の定、叔父から大目玉を食らった。 何とか会いたいと画策したのだが、それが『来栖家』の耳に入ってしまい、叔父が呼び出されて『うちの可愛い孫に何の用だ』と怒られてしまったらしい。 そう、可愛い彼は、政財界に知らぬもの無き大物政治学者の孫だったのだ。 確かに育ちの良さそうな顔をしていた。 彼の父親――大物政治学者の息子――は同じエアラインの機長だそうだ。 叔父によると、大学で国際政治学を修めた息子は、末は博士か大臣か…と、将来を嘱望されていたそうなのだが、本人はもともとパイロットが夢だったそうで、あっさりその道へ行ってしまったのだという。 高校時代には『防衛大学校へ行って戦闘機乗りを目指していた』と言う噂もあるが、父親の話なのでどうでもいい。 可愛い彼本人は、なんと東大卒で、エアラインでは『天才パイロット』と呼ばれるほどの才能の持ち主らしい。 そうは見えなかったが。 こうして、思わぬ高い壁にぶち当たり、彼と会えるチャンスはついえた。 キャビンクルーではないから、飛行機に乗ったとしても会える訳でもなく、ツテとコネを駆使してスケジュールを聞き出そうにも、それをすればまたきっと大目玉だ。 いっそのこと、このエアラインに転職しようかと思った。 入社自体はコネで何とでもなる。 ただ、彼がいるオペレーションセンターに出入りする職種は専門職ばかりなので、コネ入社の総合職ではなかなか厳しそうで。 八方ふさがりかと頭を抱えたが、あることに思いついた! そうだ! 総理大臣になればいいのだ! 総理になって政府専用機のパイロットに彼を呼べばいい! 自分が総理になれる頃には、きっと彼も機長になっているだろう。 なんて素晴らしい考えだろうと自画自賛して、心を入れ替えて秘書業務に邁進し、早くやり手の政治家になろうと心に決めた。 ただ、政府専用機のパイロットが航空自衛隊のパイロットと決められていることに彼が気がつくのは、ずっと後の事だった。 |
ちゃんちゃん。 |
*Novels TOP*
*HOME*