果てしなく青
後編
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その夜、当直にあたっていた薫は仮眠室にいた。 何もかも忘れてしまえるほど忙しくなればいいのにと思う反面、それでは急病人の発生を願うことになってしまうので、それは困ると頭を振る。 彰と連絡を絶ってから、薫はアメリカ行きを受諾していた。 期間は2年。あちらで救急医療の最先端のノウハウを学び、技術を身につけてこなくてはいけない。 彰とのことを思っていた頃はどうしても素直に行きたいと言えなかったが、今はもう、早く行きたくて仕方が無い。 まだまだ想いは捨てきれなくて苦しいばかりだが、いつかきっと、『素敵な恋だった』と懐かしく思い出せる日が来ると信じて、今は前を向くしかないと、何度も自分に言い聞かせている。 だが、心だけでなく、身体までもがしっかりと彰を覚えてしまった今では、本当に『思い出にする』ことができるのか、不安しかない。 ――静かだな。 こんな夜は珍しいな…と思ったが、やはりここは都心の戦場だった。 胸ポケットの院内携帯が震える。 『本田先生! 救急お願いします!」 「状況教えて下さい」 仮眠室のドアを開け、静まりかえった廊下をエレベーターへと向かう。 『29歳男性。旅客機が乱気流に巻き込まれて、身体を強打の模様です。意識レベルは300。外傷は視認できませんが、右肩周辺が挫滅と見られます』 外傷が見られない状況で意識レベル300はまずいな…と、薫の足が駆け足になった。 ☆★☆ 搬送されてきた男性――中原香平は骨折や脱臼そのものは複雑なものではなかったが、所謂『外傷性ショック』の状況で重篤な状態だった。 「本田先生、お疲れ様でした」 手術を終えて、サポートしていた循環器外科1年目の若手が薫に声を掛けた。 「相変わらず完璧なオペでしたね」 「完璧なサポートのおかげだよ」 笑顔を返せば、『先生のお手伝いが出来て光栄です』…と、照れたような表情が返ってくる。 仮眠室へ戻る前に、一度ICUを覗いて様子を確認する。 薫が主治医としてつくのは、基本的にはICUを出るまで――つまり、命の危機を脱するまで…だ。 一般病棟に移れば新たに担当医がつくが、執刀医として退院までのサポートは必ず行うから、常に複数の患者を抱えたフル稼働状態だ。 忙しいには違いないが、深い傷を負って運ばれて来た人たちが元気を取り戻していくのを見るのは喜び以外の何ものでもない。 「バイタル、安定してるね」 「はい」 患者は、麻酔で眠った状態で酸素マスクをつけていても、そうとわかるくらい、随分な美形だ。 そう言えば、術後に説明をした『上司』だという男性も美形だったなと薫は思い返す。 術前には『子供を抱えた状態で肩を強打した模様』としか情報がなかったが、術後に客室乗務員だときいた。 乱気流の中、席を離れてしまった子供をかばっての事故だと聞き、その責任感の強さに驚いた。 そうだ、確か、彰からも聞いていた。 客室乗務員は、おもてなしをするだけでなく、主たる業務は保安要員なのだと。 優しくたくましい彰も、いざと言うときは、きっとこんな風に身を挺して乗客を守るんだろうなと、もう二度と逢うことのない愛しい人の思い出がよぎり、薫は小さく息をついた。 あの後、『会いたい』とメールがきた。が、会うどころか返信すら怖くてできず、一言『嘘をついてごめんなさい』と返した後、耐えられなくなって着信を拒否してしまった。 「中原さん、ジャスカの国際線チーフパーサーなんだそうですよ」 うっかり物思いに耽ってしまいそうになった薫に、隣にいた看護師が話しかけてきた。 「え? そう、なんだ」 「最近、ジャスカはイケメン乗務員が多いって噂だったんですけど、ほんとだったみたいですね」 もしかしたら同じ航空会社かも知れない…ということにまで頭が回っていなかった。 羽田ベースの客室乗務員の数は多いと聞いてはいたが、もしかしたら彰と関わりのある人かも知れないなと、薫は眠る香平を見つめた。 もしもそうなら、きっと、彰も喜んでくれるだろう…と。 ☆★☆ 次の朝。出勤してきた薫にかかる声があった。 「おはよう、薫」 「あれ、英臣くん、どうしたの?」 そこにいたのは、薫を医師の道に進ませるきっかけを作った敬愛する従兄、前島英臣だった。 「酒井先生と詰めに入ってるんだ」 「ああ、例の新しい解析装置?」 彼は現在は医師をやめていて、医療機器メーカーを立ち上げて成功を収めている若き実業家だ。 「そう。実は一昨日の夜も遅くまで話してたんだが、お前は緊急オペに入ったところだったんだ」 「あ、うん。ジャスカのホノルル便が乱気流に巻き込まれてけが人が出たんだ」 「ジャスカだって?」 英臣が顔色を変えた。 「どうかした?」 「あ、いや、クルーに知り合いがいるんだ」 そう言われて薫の脳裏に浮かぶのは当然彰の姿だが。 「あれ、そうなの? 怪我したの、クルーだよ。ええと、確かチーフパーサーって」 「…女性、か?」 「ううん、男性。意識不明の状態でも美形ってわかるくらい美人さんで、若手のナースたちが浮ついてるよ」 「…まさか…」 青ざめた英臣に、薫は首をかしげ、そして思い至る。 「もしかして、知り合い?」 「…中原くん…じゃ、ないだろうな」 『まさか』で『もしかして』…の結果に、薫は少し眉を寄せた。 「あ〜、残念だけど、中原さん」 その言葉に、英臣は更に顔色を変えて薫の肩を掴んで揺さぶった。 「容態はっ?!」 「あ、うん、かなり面倒な状況になってたから時間かかったけど、成功したよ。あとはリハビリ次第ってとこだから、予後をしっかり見守らないとって思ってる」 「…そうか…」 あからさまにホッとした様子の英臣に、薫は少しばかり小さい声で付け加えた。 「まあ、あと2〜3時間搬送が遅れてたら、ちょっと取り返しのつかないことになってたかも…だけど」 その言葉に英臣は、また更に顔色を変えた。 「本当かっ?」 「うん。…って、やっぱり知り合いなんだ。今日はまだICUだから無理だけど、明日の朝には出られる予定だから、明後日くらいなら面会出来るようにしてあげるけど…」 「いや、いい。…な、薫」 「なに?」 「お前、中原くんの主治医なんだよな」 「あ、うん。ICU出たら別の担当医がつくけど、僕も退院まではサポートするし、今から様子見に行くとこだけと」 その言葉に英臣は、薫の肩をガシッと掴んで固い表情で言った。 「確かに俺と中原くんは知り合いだ。だが彼には黙っておいてくれ。お前とのことは」 忙しく海外を飛び回る英臣だから、きっとその縁で知り合ったのだろうことは何となく想像がついたが、いずれにしても内緒にしろというのは解せないし、何より、いつも泰然自若としている尊敬する従兄のこんな様子は初めてで、薫は首をひねるばかりだ。 「へ? なんで?」 「いや、ちょっと色々あってな。少し時間が欲しいんだ」 「…なんか、あったの?」 時間が欲しいというのもまた、初めて聞くような弱気な言葉な気がして、余計に薫は気になった。 「…まあな。また話せる日がくれば白状するから、頼む。今は黙って協力してくれ」 だめ押しが『頼む』ときて、薫は、看護師たちから『薫センセ、黒目くりくりで可愛い〜』と言われている目をすうっと細めて、長身の英臣を見上げる。 「…ふぅん」 「な、くれぐれも頼んだぞ。それと、中原くんの容態はまた随時教えてくれ」 そう言いおいて、英臣は会議室へと行ってしまった。 ――どういうこと? 理由も示されないまま、自分のことは内緒だけれど様子は聞かせろだなんて…と、薫は首を捻るばかりだった。 |
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運びこまれてから48時間と少しをすぎた頃、香平は一般病棟へ移った。 病気と違い、外傷はオペが完璧なら後の治りは早い。 ただ、香平の場合は、ショック状態にあったから、もうしばらくは内科的観察も必要だが、予後は良いだろうと薫は判断していた。 だが、本人がまだ酸素マスクをつけた状態で口にした『復職』に関しては、『今は考えずに治療に専念しよう』としかアドバイスできなかったが。 一般病棟へ移動した日の午後から薫は休みを取り、翌日出勤すると、救急搬送が比較的少ない日中の間に…と、薫は香平の様子を見に向かった。 軽くノックをしてドアをスライドすると、とんでもない美貌が柔らかい笑顔で迎えてくれる。 空港からの救急搬送に同乗してきた彼が、実はジャスカの客室乗務員で一番偉い人らしい…というのは、ナースたちが教えてくれた情報だ。 術後に説明をしたときには憔悴しきった様子だったから、単に顔立ちが整ってるなという程度の感想だったが、その後、見れば見るほど桁外れの美形で、彼と言い、中原香平と言い、随分美形揃いのエアラインだな…と、思っているのは薫だけでなく、関わっている病院スタッフ全員の意見だ。 薫はその上、彰と言う美丈夫も知っているし。 ただ、次の旅行は絶対ジャスカで行く…と、ナースたちが盛り上がっているのを聞いて、自分がアメリカへ発つ時には、ジャスカだけはないな…と、苦しい気持ちになったものだ。 ベッドに近寄れば、香平は眠っていた。 持続的な痛み止めを点滴から入れているので、安らいだ表情をしている。 そうでなければ、まだまだ痛みで眠るどころではないはずだ。 「様子はどうですか?」 尋ねながら脈をとる。 「おかげさまで、話す口調もしっかりとしてきました」 「それは良かったです。後は日にち薬ですからね。日ごとに楽になっていくと思いますので」 「ありがとうございます」 軽く頭を下げる仕草すら優雅な様子を、さすがにトップという人は違うなと感じながら見て、ふと、視線を動かしてみれば枕元の見事なフラワーアレンジメントが目に入った。 一目で相当な金額を出したことが見て取れるほどのものだ。 しかも、添えられているカードには…。 ――英臣くん、黙っとけとか言っといて、ちゃっかりコンタクト取ってんじゃん…。 今度あったら絶対白状させてやろうと決めて、薫は『また夜に来ます』と告げて、病室を出た…と、その時、身体が誰かにぶつかった。 「あっ…と、すみません」 よろけた薫がそう言うと、しっかりと抱き留めてくれた腕の主の声がした。 「いえ、こちらこそ申し訳ありません。大丈夫ですか?」 ☆★☆ その日、ホノルルから帰着して公休に入っていた彰はメールで信隆に呼び出されていた。 香平の意識が戻ったことは、ホノルルを発つ直前に空港事務所で知らされて、男性クルーたちは歓喜の声を上げ、女性クルーたちは抱き合って大泣きした。 『お客様が搭乗される前に、その顔をなんとかしろよ』と、笑いながらキャプテンから指摘された女性クルーたちは、見るも無惨なアイメイクになっていて、必死で化粧直ししつつも嬉しくてまた泣き笑いしてしまう有り様だった。 信隆からの呼び出しは『香平の見舞いに来い』ということだったのだが、まだICUを出たばかりの面会謝絶で、見舞えるようになるのはずいぶん先だと聞いていたし、何より『誰が見舞いに行くか』で早くも紛糾している中、『他のクルーには内緒だよ』と念押しまでされて、香平に会えるのは嬉しいが、それ以上に『よくわからない』ことだらけで、ともかく彰は病院へ向かった。 香平の病室はナースステーションから近い個室だった。 教えられた部屋の前に立ち、名前を確認してから、控え目にノックをしようとあげた手は、ドアを叩かずに人の肩辺りに当たってしまった。 中から人が出てきたからだ。 「あっ…と、すみません」 そう言ってよろけた、小振りな身体を抱き留めると、なぜか覚えのある抱き心地で。 「いえ、こちらこそ申し訳ありません。大丈夫ですか?」 抱きかかえた状態で、自分よりずいぶんと下にある顔に目を向けて、その人物を認識した瞬間に、彰は目を見開いた。 そしてそれは、腕の中の人物も同じで。 「かおる?!」 腕の中には、探し続けた誰よりも愛おしくて恋しい人がいた。 初めて見る白衣姿は眩しくて、胸元に目を落とせば、そこには写真付きのIDカードがあった。 『外科 本田薫』 「ほんだ…かおる」 そう呟いた瞬間、腕の中の薫は目一杯腕を突っ張って、彰を突き飛ばして駆けていった。 「かおる!」 追いかけようとした彰の腕を、後ろからグッと掴んで引き戻す手があった。 「彰、落ち着いて」 「教官…」 「やっぱり彼が『かおるくん』か。まさか、香平の執刀医だったなんて、ちょっとでなく驚いたけどな」 「えっ、中原CPの?!」 「そう。香平を救ってくれた人だ」 尊敬する大切な先輩の命を救ってくれたのが愛する人だったとは、何という巡り合わせなのだろうかと彰は天を仰ぐ。 「見たのが一枚きりの無防備な笑顔の横顔だったから、最初はピンとこなかったんだ。先生が手術着ってこともあったし、私も余裕がなかったからね。けれど、名前を見て確信したよ。彼が、彰の最愛の人だって」 「あ…だから」 「そう、会わせて上げようと思ってね」 まさか、こんなところではち合わせることになるとは思いもよらなかったが、大事な教え子と愛する人の命の恩人が恋仲だなんて、こんな嬉しいことはないと、信隆は何が何でもハッピーエンドに持ち込む気でいた。 「ああ見えて、香平の2つ上なんだそうだ。看護師さんたちからも患者さんたちからも、薫先生なんて呼ばれていて、人気者らしい」 信隆の話に、彰は複雑そうな顔を見せる。 薫が最初から本名を教えてくれていたことはとてつもなく嬉しいが、きっと『そうは見えない』年齢が自分の目を曇らせて、薫を傷つけてきたに違いない。 「まあ、後のことは心配いらないから。まさか病院で痴話喧嘩ってわけにもいかないだろ?」 「教官…」 「せっかく来たんだから、香平の顔見て行く? 眠ってるけど」 茶目っ気たっぷりに言われて、彰は神妙な面持ちで頷いた。 窓が広い――それでも見えるのは高層ビルばかりだが――明るい病室に入れば、そこには安らいだ顔で静かに眠る香平がいた。 「なんだか、キスしたら目覚めそうな寝顔ですね」 そう、まるで眠り姫のようで。 「やっちゃったらAP昇格候補名簿から削除するよ」 「えっ」 笑いを含んだその言葉に、彰が驚く。 まだ何も聞かされていなかったから。 昇格候補名簿に載って、初めて訓練に投入される決まりだ。 「次の発表分に入ってる。けれど今のままの状況なら、訓練を乗り切るのは厳しいからな。本田先生としっかり話をつけなさい」 「…はい」 信隆は、明日、薫が病院を出る時間と通用口を教えてくれた。 薫は夜勤に入る前に、また香平の様子を見にやってきた。 さぞかし来づらかっただろうと思ったが、さすがにそこはプロらしく、しかし、やはり平静を装っているのがありありと見て取れて、見た目の可愛らしさの所為で、痛々しさの方が際だってしまう。 香平を診て、薫が部屋を出ようとした時、信隆が呼び止めた。 「先生、少しよろしいですか?」 「はい、なんでしょう」 静かに見上げて来た薫に、信隆は優しく言った。 「先生。彰の話を聞いてやっていただけませんか?」 「都築さん…」 「先生に会えなくなってから、乗務に差し支えるほど萎れています」 瞬間、薫の瞳に怯えの色が浮かんだのを見て取り、信隆は殊更柔らかく微笑んで、言った。 「あ、蛇足ですが、私もかつて、あの『瑠璃色の空間』で息抜きしていたひとりなんですよ」 「えっ」 まさか、このとんでもなく美しい人もそうなのか…と、薫は目を見開いた。 「今は愛しい人がいるので、卒業しましたが」 と、見遣るのは、眠っている香平。 「ええっ」 直属の上司で、両親からも『お任せしています』と聞いているが、それにしては親密で、だが怪我をした経緯を考えると会社の人間が付いていることについて『そんなもんかな』とお気楽に考えていたから、余計にビックリだ。 だが、そう言う目で見れば、これでもかと言うくらいお似合いだ。 『中原さんも都築さんも素敵〜!』…と、ターゲットロックオン状態の若手ナースたちにはお気の毒様…だが。 驚いている薫を優しく見つめ、それから信隆は少しばかり深刻な顔を作った。 「彰ですが、あまり食も進んでいないように見受けられますし、ミスこそしませんが、長時間の乗務はかなり堪えている様子ですので、このままではいずれ遠くないうちに乗務停止命令を出すことになり、地上勤務に回されると思います」 「…そ、んな…」 思いもしなかったことを突きつけられて、薫は息を詰めた。 「客室乗務員は心身ともに健康でなくては務まりませんので」 「…そう、ですね」 自分の勝手で振り回し、直接謝罪する事もなく逃げてしまった。 これで、彰が乗れなくなってしまっては、余りにも申し訳ないし、何より彼には新しい人――今度こそ理想の人――と出会って欲しいと、今、漸く思えた。 「都築さん」 「はい」 「ありがとうございます。ちゃんと、けじめをつけます」 目も耳も塞いでいた薫を、正しい方向へ向けてくれた信隆に感謝を告げれば、信隆はそれを微かな苦笑いで受け止めてから、言葉を継いだ。 「私の立場で申し上げるのも何ですが、彰は信頼に値する男ですよ」 その言葉の真意が掴みきれず、薫は曖昧な笑顔を見せて、頭を下げて部屋を出ようとした。 その背中に、信隆の明るい声が被った。 「そうそう」 「はい?」 「弊社では、次年度から同性パートナーシップ制度を導入することになりました」 「あ、ええと…」 意味はわかるが、自分には関係の無いことだと薫は少しばかり狼狽える。 「プレス発表はまだですので、オフレコでお願いします」 その気の無いものまでその気にさせてしまいそうな、決まりすぎているウィンクをひとつ投げて、『お忙しい中、お時間をいただきまして、ありがとうございました』と、信隆は優雅な所作で頭を下げた。 |
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覚悟を決めて、彰を訪ねようとした薫だったが、彰は病院の通用口からひとつ曲がった角で薫を待っていた。 「薫…」 「彰…」 「おいで。ちゃんと話、しよう」 「うん」 そう。もう覚悟は決まっている。 きちんと謝って、ちゃんと終わりにすると。 手首を捕まれたままタクシーに連れ込まれ、たどり着いたのは、もう二度と訪れることはないと思っていた彰の部屋だった。 そして、中に入り、部屋の鍵が掛かった瞬間、彰は薫の両の二の腕を掴んで言った。 「どんだけ探したと思ってるんだよっ。俺、本当に死に物狂いで探したんだからなっ」 どんなに詰られても、それは自分の罪だから真っ直ぐ受け止める覚悟はしていたが、実際にその怒りを目の当たりにしてしまうと、心が折れそうになる。 けれど薫は、何もかも彰を解放するためなのだと、耐えた。 「…ごめんなさい」 そう、黙って消えたのは自分の勝手で、振り返ればなんて大人気ないことをしたのだろうかと、申し訳なくて消え入りたい気分だ。 逃げたのは、怖かったからだ。 呆れた顔で別れを告げられるくらいなら、消えた方がマシだと背中を向けた。 今はそれらをすべて謝罪して、そして今までありがとうと伝えたかった。 が。 「頼むから、もうどこにも行かないでくれ。ずっと、俺の腕の中にいてよ…」 言葉と同時に抱きしめられる。 「…え?」 思いもしなかった言葉に薫が目を見開く。 「愛してるんだ、薫…」 どうしてそうなるのか、本当に分からなくて、薫は声を上げた。 「でもっ、僕は彰を騙してたのにっ」 「それは、俺が好きだったからだろ?」 「う…」 「俺とずっと一緒にいたかったからだろ?!」 真実のど真ん中を突かれて、言葉を無くした。 「俺もずっと薫と一緒にいたい」 「でも、僕は彰の理想じゃない。年だって6つも上だし…」 「いや、そんなことはどうでも良いんだけど」 「だって、5歳上とか、パスって言ってた…」 そう、それがずっと、想う心を縛り付けてきたのだ。 「へ? いつ?」 と、言いつつ彰は気がついた。 確か『lapisRazuri』で、ノリで言ってしまった気がする。 「…あ、ああ、あれは単なるノリだってば」 まるっきり嘘でもないが、優先度は低い話であって、『そうだったらいいな』程度のことだ。今となっては。 「でも…」 「ってか、薫、あの時俺のこと気にしてくれてたんだ?」 「…ちがっ…ちょっと耳に入っただけ…っ」 耳まで真っ赤になった薫はもう、食べてしまいたいくらいに可愛い。 「心配しなくても、姉さん女房は金のわらじ履いてでも探せ…って言うじゃん」 「は? 何それ」 「え。知らないの? 日本人の先達の金言なんだけどさ」 「…初めて聞いた…」 「解釈には諸説あるけど、要は年上の恋人は美味しいぞ…ってこと」 「…なんかちょっと違う気がする…」 「まあまあ。とにかく俺は薫を離す気はないからな。薫も覚悟を決めて」 「俺についてこい…とか言うわけ?」 「その通り。…や、俺が薫を抱え上げて、生きていくよ。大事に守っていくから、全部預けて」 それでもまだ、『理想』の様なことを言う彰に、薫も必死になる。 「でもっ、僕は守ってもらうような可愛い人間じゃ…」 「何言ってんの。職場で気を張ってる分、俺の前では気を抜いて甘えりゃ良いってことだよ。外科医の本田先生は頼りになる人だけど、俺の薫は誰よりも可愛い人だし、だいたいベッドの中じゃ、俺任せの俺頼みじゃん」 「ベッ…!」 ドカンと火を噴いて真っ赤になれば、『ほら、やっぱり純情可愛い子ちゃんじゃん』…と、頬をつつかれて、視線が泳ぐ。 「な? もう観念しろって」 あやすように、抱きしめられた背中をポンポンと叩かれて、薫はひとつ息をつき、真っ直ぐに彰を見上げてきた。 「じゃあ、一つだけ僕のお願いも聞いて」 「薫のお願いならいくつでも」 「僕も、彰を守りたい。大事な彰をずっと守っていきたい」 薫の気持ちが嬉しくて、でれっと緩みそうな顔を必死で引き締めつつ、彰は嬉しそうに頷いた。 「うん、じゃあ心臓止まったらマッサージよろしく」 「…ばっ…、縁起でもないこと言うなってばっ」 「救急救命センターの先生が一緒なんて、怖いものなしじゃん、俺」 「…今の所は外傷しか治せませんが」 しかも、道具がなければお手上げだ。 「でも、ヤバいと思ったら何とかしてくれるだろ?」 「う…、そりゃまあ…」 これはもう、さっさと救急専門医資格も取らなければ…と、思ったその時。 「あ」 思い出した。 「なに? どうした?」 「僕、アメリカへ行くことになったんだ」 「へ? なんで?」 「2年間、救急専門病院で研修させてもらえることになって」 「すごいじゃん。で、アメリカのどこ?」 「ロス」 「ああ、それなら全然問題なし! 俺、月に2回はロスに飛んでるから、ステイ中に会えるじゃん」 「そ…そんなもの?」 「そう、そんなもん。それに、これから何十年も一緒にいるんだから、2年くらいたいしたことないって。俺もその間に少しでもチーフパーサーに近づけるように頑張るし」 さらりと『長いこれから』を口にする彰に、薫は急に照れくさくなってその厚い胸に顔を埋める。 「そうだ!薫、英会話苦手って言ってたよな」 「あ、うん」 そうなのだ。向こうで働くとなったら、英語で完璧にコミュニケーションがとれなくてはいけないから、薫はその克服に少しばかり憂鬱になっていることろなのだ。 困った様に眉を下げる薫に一つキスを贈り、彰は提案してきた。 「俺が鍛えてあげるよ」 「えっ、ほんと?」 喧嘩まで出来るという語学力の持ち主にマンツーマンで教えてもらえるなんて…と、薫を目を輝かせた。 が。 「言葉ってさ、ベッドの中で習うのが一番の近道って言うの、知ってる?」 「へ?」 どういう意味だと、首を捻ってみる。 「ピロートークっつってさ、ま、古風な言い方すると『閨の睦言』って感じだけど、ともかくベッドの中でいちゃいちゃしながら交わす言葉が一番語学学習には良いって俗説があるんだ」 「…う」 そう言う話ですかと、薫は赤くなるしかない。 「ほら、いちゃいちゃしてるうちに、発音が滑らかになるって感じ?」 だが、そうは言われても、『はい、そうですか』と丸飲みできるはずもない。 「え〜」 全く信じていない風の薫に、彰は少しばかり声を潜め、身を屈めて薫の耳に妖しく囁いた。 「それなら、早速実践しようか」 「へ?」 あっと思う間もなく抱き上げられ、彰が向かうのは寝室だ。 「ま、待って! シャワーさせてってば!」 「いいよ、そんなの」 「良くないっ。僕、勤務明けで汗かいてるしっ」 暴れる薫に、彰は仕方ないなと呟いて、その身体を下ろさないままバスルームへと向かった。 ☆★☆ 「や、んっ」 いつもはこれでもかと言うくらいに優しく始まる彰の行為は、今日は端からぶっ飛ばしだった。 薫が初体験だったことにつけ込んで、気持ちだけでなく身体の快楽でも繋ぎ止めようとしていた目論見が見事に外れて薫は姿を消してしまったのだから、今度こそ、離れられないほどの想いをさせてやろうと燃え滾っている。 初っ端から責め立てられて、いつもなら噛み殺していた薫の声がいつになく艶めいてくる。 それはきっと、心が解放されたから。 その声に煽られて彰は、繋ぎ留められているのは自分の方だと自覚する。 「…も、だめ…っ」 頭と肩を抱きかかえられたままの抽挿に、逃げ場のない快感を植え付けられた薫は限界を訴えて上り詰めた。 と、同時に彰もまた自身を解放したが、その瞬間に英語で何かを口走った。 「…え…いま、なに…」 耳元で確かに聞こえた言葉は、日本語でないことだけはわかったが意味はさっぱり解らず、上がる息の中でどうにか言えば、今度は日本語が返ってきた。 「薫の中にぶちまけたい」 「ふぇっ!?」 「…って言ったんだよ」 なんてことを…と真っ赤に染めあがる薫の頬を彰は柔らかく啄む。 「そのうち薫も何かすごいこと口走って?」 英語で…と、囁かれて、そんな会話は職場で必要じゃないんだけど…と、思いはしたが当然言葉にはならず、結局薫はまた声が涸れるまで喘がされてしまったのだった。 「大丈夫?」 よく冷えたミネラルウォーターを口移しで飲まされて、薫はどうにか『うん』と一言だけ返す。 逃げていた分を取り返すように激しく抱かれて、身体はヘトヘトだけれど気持ちは満たされている。 その満足感のままに、彰の腕の中でウトウトし始めた薫だったが…。 「あ、大事なこと忘れてた!」 突然、彰が声を上げ、薫は飛び起きた。 身体はがっちり拘束されたままだけれど。 「へっ? 今度はなにっ?」 見上げれば、真剣な眼差しがあった。 「薫、中原CPを助けてくれて、本当にありがとう」 「しーぴー?」 「あ、ごめん、チーフパーサーのこと。ちなみにアシスタントパーサーはエーピー」 彰の解説に、薫は『そうなんだ』と頷きつつ、彰が生きる世界のことを少し知ることができて嬉しくなる。 「中原CPは外資系からヘッドハンティングされてきた優秀な人なんだけど、優秀ってだけじゃなくて、ほんと優しくて暖かい人だからみんなの憧れで、慕われてて、特に俺たち駆け出しの男性クルーにとっては生き神様みたいな存在なんだ」 生き神様とはまた凄い表現だが、それほどまでの人なのだとは、彼の優しげな顔立ちからはあまり想像ができない。 第一、薫は香平の両親や信隆とは何度もコミュニケーションを取っているが、肝心の本人とはまだじっくり話をしていない。 こちらが一方的に状況を説明したり、容態を尋ねたりしているだけだから。 まだ眠っている時間の方が長いので、そのうちゆっくり話せる機会もあるだろうけれど。 「でさ、とにかく中原CPには追っかけみたいなのがいっぱいいて、病室にあっためっちゃ高そうなフラワーアレンジメントも、うちのVIP会員で超イケメンのエグゼクティブからの贈り物だったし」 「…え?」 その贈り主は間違いなく薫の従兄だ。 「いつもフランクフルト行き711便で中原CPご指名で、ステイ中に誘い出して口説いてるっての、欧米路線に乗るクルーはみんな知ってたんだけど、いち早く見舞いを送ってくるなんて、さすがに成功してる実業家は違うなって感じ?」 やっぱり一流の男は凄いよなあ…と感心しきりの彰の話に、薫は開いた口が塞がらない。 まさか、英臣がそうだったなんて。 だが、これであの慌てっぷりには合点がいった。 しかも、きっと不調に終わったのであろう事まで想像がついてしまった。 何より、英臣の恋愛対象が同性だなんて思いもしなかったから、次に機会があったらそれとなくカミングアウトしてみようかと思った。 ただ、自分の恋人がジャスカのクルーだと知ったら、さぞかし驚くだろうなと、可笑しくもあり、申し訳なくもあり…だ。 もしかしたら、『お前だけ幸せになってズルい』と、拗ねちゃうかも…なんて、やっぱりちょっと可笑しくなる。 いずれにしても、薫にとっては『身内の失恋』なわけで、口調は同情たっぷりのものになる。 「…そっか、でも、中原さんは都築さんの恋人だもんねえ」 あの英臣に失恋なんて言葉はまったく似合わないが、相手があの『ウルトラ美形』では仕方がないかと諦めもつく。 英臣には『相手が悪かったね』と慰めるしかない。 そして、彰は薫の言葉に目を見開いた。 「はい〜!? なにそれっ、誰がそんなこと…」 「え? だって、僕、都築さんから直接聞いたよ。中原さんのこと、愛しい人って」 知らなかったんだ…と、薫は『やば、内緒だったのかな』と、肩を竦めてどうフォローしようかと思案したのだが、彰の言葉は少々意味不明だった。 「教官〜、やっぱり中原CPに手ぇ出したな〜!」 「え? どういうこと?」 やっぱりとか、手を出したとか、事情を知らないから訳がわからない。 「や、女子たちの間で、勝手に『都築教官と中原CP』ってカップル作って盛り上がってんのは知ってたんだ。もともと都築教官はバイだって公表してるし。でも、中原CPは他に好きな人がいるんじゃないかって、もっぱらの噂でさ」 そのお相手は『ジャスカのアイドル・パイロット』というのが『定番ネタ』だが。 「でもさ、教官が長期休暇を前倒しで取って中原CPの付きっきりの看護に入ったって聞いて、これはヤバいんじゃないかって、中原CP狙いのクルーやスタッフが騒然でさ」 なにしろ恋敵が信隆では絶対太刀打ちできないのは明々白々だから。 そうか、やっぱりな…と、ブツブツいう彰に、薫は疑問を投げてみる。 「あ、でも都築さんだってそうじゃないの? あの人もめっちゃモテそうだし、ガッカリする人、多いんじゃ…」 ともかく、薫が今まであった人間の中でダントツの美形だから、あの人に恋い焦がれる人間はそれこそ老若男女問わずだろうと思われて。 「や、あの人は、『そう言う対象』としてはもう、見た目も中身も『高嶺の花』が過ぎるわけ。客室乗員部の絶対君主で、ご尊顔を拝謁させていただけるだけで望外の喜びってレベルだから、誰もマジでは狙ってないよ」 あまりに大げさな言い回しだが、本人を知っているとそれも頷けてしまえるところが恐ろしい。 「あの、さ」 「うん?」 「彰…は? 彰もモテる…だろ」 「自分の意中じゃない人からモテてもしかたないだろ?」 蕩けるような笑顔でいわれたが、なんだか少しはぐらかされたような気がする。 「えっと、それはやっぱりモテるって…」 「薫もすごいって聞いたよ? 患者さんにまでモテモテって」 「自分がそうじゃない相手にモテても‥」 「な、そうだろ?」 言われて思わず吹き出してしまった。 「俺はもう、薫さえ居てくれたら一生幸せに生きていけるよ」 「…ん、僕も…」 いや、きっとこれから先、お互いの家族のこともあるし、ハードルはまだまだあるだろうことは薄々わかってはいる。 けれど、2人の想いが変わらなければ、それは永遠だとはっきり確信できた。 今度こそ、重くなってきたまぶたに逆らわず、そっと目を閉じる。 今までずっと、自分はひとりぼっちだと決めつけて、『lapisRazuri』にしか居場所はないと思い込んで来たけれど、彰が勇気を出して声をかけてくれて、そして懸命に追いかけてくれたから、この温かさに包まれる事ができた。 「都築さんに…もう一度お礼…言わなきゃ…」 「俺も。教官のおかげでやっと薫を捕まえることができたからな」 「…うん」 「なあ、アメリカ行くときさ、俺のシップに乗って?」 この世で一番大切な人を腕に抱き、彰もまた夢見心地で言う。 「……うん」 何よりも望んだ腕に抱きしめられて、まどろみながら答える。 「俺の大好きな青い空を、薫と一緒に見たいよ…」 「………うん…」 どこまでいっても青い空。 青だったり蒼だったり碧だったり瑠璃だったり群青だったり、様々に変化するけど、空は青。 朝も、昼も、夜も、青。 静かに沈み込んで行く意識の中、薫をそっと守っていてくれていた『あの』瑠璃色の空間は、鮮やかな空へと吸い込まれていった。 |
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通常の勤務と渡米の準備で慌ただしく半年余りが過ぎ、薫はロサンゼルス行きの126便に乗っていた。 勤務先からは当然エコノミークラスの料金しか支給されないから、彰が社員として有している権利を使ってビジネスクラスを用意してくれようとしたのだが、薫は『贅沢だよ』と渋った。 だが彰は『隣に邪なヤツが座って薫の身に何かあったらどうするんだよ』と、呆れてものが言えなくなるような理由を繰り出し、『ビジネスクラスだと席は独立してるから安心!』と、強引に決めてしまったのだ。 彰はつい先日アシスタントパーサーに昇格した。 アシスタントパーサーは通常1便に4名ほど乗るが、それぞれ有している資格によって、担当は変わってくる。 彰のような新米アシスタントパーサーは、ビジネスクラスの責任者資格はまだ取れていないので、エコノミーの責任者か、ビジネスクラスの補佐に当たるかのどちらかだ。 どちらにアサイン*されるかは通常プリ・ブリーフィングで発表されると聞いていた薫は、せっかく彰の乗務便に乗れるのに、彼が働く姿を見られなかったらもったいないなと思っていた。 だが、『家族とか友達が乗るって申告しておけば、融通を効かせてもらえることも多いんだ』と彰が言っていたとおり、この日はビジネスクラスにアサインされて、搭乗してみれば、満面の笑顔で迎えてくれた。 『本田様、本日のご搭乗ありがとうございます』なんて言われてしまって、相当照れくさかったけれど。 キャビンで生き生きと働く彰は、ちょっと妬けちゃうくらいに素敵な笑顔を乗客たちに向けていて、惚れ直してしまう。 薫には、一応『よそ行き』の顔で応対してくれるのだが、さり気なく手を握ってきたりして、そのたびに顔が赤くなっていないかと気になってしまう始末だ。 そして彰はと言えば…。 薫がいるのが嬉しくて、いつもに増して張り切ってにこやかに接客しつつも、まさかの事態に内心で頭を抱えていた。 プリ・ブリーフィングまで、当然知らなかったのだ。 信隆が審査乗務するとは。 「本田先生が乗られてるって?」 国際線OJTのクルーのチェックでエコノミーにいる信隆は、審査対象クルーが休憩に入った途端にわざわざビジネスクラスまでやって来て彰にそう言った。 「…どうしてご存知なんですか?」 「ん? 健太郎が『彰から申請があったんでビジネスクラスにアサインしました』って報告してきたから、もしかしてと思ったらドンピシャでさ」 この便のチーフパーサーはミーくんだ。 「…察し良すぎですよ、教官…」 たったそれだけの情報で…と、脱力するしかない。 薫とのことが丸く収まって、改めて報告と礼を述べた彰に、信隆は『これからも平坦じゃない道のりかもしれないけれど、2人きりじゃないってこと、忘れないように。困った時や迷った時にはいつでも相談においで』と言ってくれて、彰も薫も感激しまくったのだ。 そしてその言葉通り、いつも信隆は気にかけてくれるのだが、その代償とばかりに事あるごとに冷やかされているのだ。 だが、『だって、大事な教え子と命の恩人が恋人同士なんて、嬉しいじゃないか』と、万人が蕩けてしまいそうな笑顔で言われてしまえば、返す言葉も無い。 と言うわけで今日も、『こりゃヤバいな』と思っていたのだが。 スルッとギャレイから出て行った信隆はすぐに戻ってきて、『本田先生、ますますお肌ツヤツヤだな。あんまり可愛いんで撫でちゃった』…なんて言うではないか。 「きょ、教官っ!」 それは聞き捨てならないと彰が目を尖らせると『うそうそ、彰が慌てるのが面白くってさ〜』と、満足気に戻って行った。 だが、それだけでは終わらなかった。 『中原CPを助けてくれたお医者さんが乗ってるんだって! しかもゆっきーカテゴリーの可愛い子ちゃんだよ!』と、いつの間にかクルーたちの間で情報が共有されていて、『え、なに? もしかして高野くんってば、やたら親密だけど個人的に知り合いなの?』と詮索されて、それならば大きな声で『俺のパートナーです!』と言いふらしてまわりたいところなのだが、絶対に薫が嫌がると思って仕方なく『マブダチです』と答えたら、『え〜。マブダチの手、握るか? ふつー』…と訝られて、『見てたんかい!』と、思わず突っ込んでしまい、結局墓穴を掘ることになってしまった。 そんなやり取りがギャレイで交わされていて、すっかりクルーたちの注目を浴びているとはつゆ知らず、薫はゆったりとしたシートにくるまれて夢見心地だ。 月に2度は126便に乗務する彰だから、遠距離恋愛と言えど会える機会はそれなりに持てそうで、この2年間をそれぞれの場所で精一杯頑張ろうと約束をした。 彰はチーフパーサーを目指し――2年での昇格は無理だけれど、少しでも多くの資格を取ることが目標だ――薫は救急医の資格を取ってフライトドクターを目指す。 空を飛ぶ目的は違うけれど、同じ空で、それぞれの役割を完璧に果たせるように、ずっとずっと支え合って生きていきたいと願う。 広がる星空の下、群青色の空に包まれて、薫はふわっと微笑んだ。 空はいつでも青。どこまでも青。果てしなく…。 |
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END |
アサイン*…割り当てる、任命する。
おまけ小咄2題
その1 『展望デッキは危険がいっぱい』
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薫が渡米する直前の休日のこと。 第2ターミナルの展望デッキで、彰と薫は夕暮れの滑走路を眺めていた。 辺りから家族連れの姿は消え、ライトアップされたデッキはデートスポットに変わりつつある。 高校生の頃から、羽田の展望デッキでデートするのが夢だった彰は、その夢を叶えてご満悦だ。 薫を背後から抱きしめていちゃいちゃしていると、いつの間にか両側に小ぶりな人影が…。 「陽も暮れようかってのに、今日は何だか暑いねえ」 「ホントだね、ラブが溢れてホットスポットじゃん」 「わああっ!」 両側の会話に、彰が飛び上がった。 薫は腕の中で固まっている。 「ゆ、雪哉さんっ、太田AP!」 「ふふっ、見ぃちゃった」 「高野くんの恋人、めっちゃ可愛いし〜」 「こ、こんなところで何をっ」 「遅番スタンバイなんだよね〜」 「ね〜」 両側からステレオでハモられ、『それならちゃんとスタンバイルームにいて下さい!』…なんて、先輩2人に言えるはずもなく――だいたいスタンバイルームにいなくてはいけないルールもないし――彰はがっくりと脱力する。 「高野くんってば、ここのところ絶好調だと思ってたのよね〜」 「あ、そうなんだ?」 「うん。AP昇格審査も、ここ数年での最高評価だったって聞いたし」 「わ〜凄い〜。愛の力?」 「そう、絶対それ!」 固まっていた薫が真っ黒おめめをパッチリ開いて彰を見上げた。 その様子に、両側のおじゃま虫は視線を合わせて『うふふ』と笑う。 「あ、ごめんね〜、お邪魔だったね〜」 「うんうん、お邪魔だね〜」 「じゃーねー、デート頑張れ〜」 「頑張れ〜」 2人はスキップでもしそうな足取りで去っていった。 突然の事に驚き、完全にフリーズしていた薫だったが、冷やかされたことよりも彰のことが嬉しかった。 「彰、最高評価だったんだ? 凄いね」 「や、まあ、おかげさまって言うか、なんて言うか」 両側から冷やかされた『愛の力』は本当なのだ。 それまでだって全力でやってきたけれど、薫がいてくれることで、さらに踏ん張りが効くようになった。 「…えと、今の人たちは? 制服じゃなかったみたいだけど…」 審査の内情を知っているからには職場関係者だろうけれど、2人とも、なんの変哲もなく割とダサいウィンドブレーカーを着ていたから、何者なのかわからない。 「あ、2人とも先輩なんだけど、スタンバイ中に外に出るときは制服隠す決まりになってるから」 「へ〜、そうなんだ」 彰が教えてくれる『業界の裏ネタ』は、今や薫の『お楽しみ』でもある。 「で、右にいたのが国際線APの太田遥花さん、左にいたのが副操縦士の来栖雪哉さん」 「えっ!? あの可愛い坊やがパイロット?!」 「そう。しかも天才って呼ばれてる、うちのアイドルパイロット。歳は薫の2つ下」 「…あれが、にじゅうきゅうさい…」 「ま、時々いるんだよな。薫や雪哉さんみたいな年齢不詳の天才くんが」 「僕は天才なんかじゃないよ」 「はいはい」 「って、なんかよく似た感じの2人だったけど」 「そう。双子漫才コンビって言われてる」 「えっ、双子なんだ?」 「いや、全然」 「…なにそれ」 わけわかんない…と、脱力する薫を抱きしめて、彰は笑う。 「2人がコロコロと戯れてるとこなんか見てると、みんな『ここが職場だってこと忘れる』とか、『和む〜』とかってさ、ともかく人気者なわけ。あ、ちなみに雪哉さんは中原CPとは中学の同級生で親友同士なんだ」 すっかり回復して復職した香平が、また元気に空で活躍している様子を、薫は彰から度々聞いていて喜んでいる。 完全に回復して通院も終えた患者の『その後』を知る機会はほとんどないから、こうして『その後』を知ることができるのはとても嬉しいのだ。 そして、そのパートナーのおかげで『今がある』彰と薫だが、信隆の口から香平に『事実』が伝えられているのか、いないのか、今のところ確認は出来ていない。 香平は彰に何も言わないし、そぶりもないから、知らない確率は90%超えだろうなと彰は思っている。 『隠し事』の苦手な『プチ天然さん』で、知っていて知らない振りは難しい人だから。 ちなみに信隆は、『そのうち自然にバレるのが一番良い』と思っている。 「あ、そう言えば、中高生くらいの可愛い男の子が中原さんの病室に出入りして、弟か何かかと思ってたら、どうもジャスカのパイロットらしいってナースたちが驚愕してたことがあったんだけど、もしかして…」 「それそれ、きっとそれ。公休の時は必ず見舞いに行ってたみたいだし」 「都築さんともすごく親密だから、もしかして三角関係じゃないかって妄想がナース・ステーション中で…」 「あのさ、薫」 「ん?」 「薫んとこの看護師さんたちってさ、わりと腐ってない?」 「…確かに…」 「…ま、それでもうちのクルーの妄想力には負けるけどさ」 なにしろあちらこちらで男性クルー同士のカップルが妄想のネタにされているのだ。 最近の傑作は『オーリックキャプテン×岡田悠理AP』というカップリングで、男性クルーたちは一様に『そりゃないって』…と、笑い飛ばしているのだが。 と、真横からまた声が掛かった。 「あら〜、今、お誉めに与ったかしら?」 「お、小野教官! ど、どうしてここにっ」 「ん? さっき帰着してデブリが終わったとこなんだけど、遥花とゆっきーが、今デッキに行ったら疲れも吹っ飛ぶハッピーな気分になれるって言うから〜」 「はいぃ〜?」 「ほんと、良いもの見せてもらっちゃった〜。ご・ち・そ・う・さ・ま ![]() 固まる2人に鮮やかに微笑んで、国際線女帝CPはうふふ…と踵を返したのだが…。 「ほらほら、みんな何見てるの〜。羨ましいからってのぞき見しないの。さ、戻るわよ〜」 その言葉に恐る恐る視線を巡らせてみれば…。 同じシップで帰着したらしきクルーたちの、目から上だけが物陰から怪しげに覗いているという、心霊写真状態が展開されていた。 「えー、教官〜、もうちょっと覗いてましょうよ〜」 「だめだめ、覗いてるのバレちゃったら意味ないし〜」 「って、もしかして高野くんも戦線離脱ですか?」 「やーん、私ちょっと狙ってたのに〜」 遠ざかっていく会話の最後の方は、彰が薫の耳をふさいで聞かせなかったが。 「…なんか、ここ、危ないね…」 「…や、普通、デッキに出てくるクルーってあんまりいないんだけど…」 今度から、デートは国際線ターミナルのデッキにしようと心に決めた彰であった。 |
おしまい |
その2 『すぷらった〜』
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ある夜のこと。 薫はオンコール待機もない完全休日、彰もつい先ほど自宅スタンバイが起用なく終了し、2人はいちゃつきながらテレビをつけた。 普段はニュースしかテレビを見ない2人だが、この日は彰がどうしても一緒に見たい番組があるというので、リビングのラグの上に腰を下ろし、彰は薫を後ろから囲うように抱きかかえる。 そして、センセーショナルな音楽とともに、画面には赤く猛々しいフォントで『救急病棟24時!』の文字がデカデカと踊り、番組が始まった。 番組は、冒頭から救急救命センターの騒然とした様子がモザイク入りまくりで展開されている。 「薫の日常ってこんな感じ?」 「うん、まあ、だいたいこんな感じ」 知ることのできない『薫の日常』に少しでも触れてみたくて、彰的には『意を決して』番組を視聴することにしたのだが、画面の中はかなり凄惨なことになっている。 「俺…、わりと血とか、そう言うの駄目なんだけど…」 「ああ、男性ってそういう人多いよね」 「薫は…もちろん平気…」 「そりゃ、血を見てビビってたらどの科の医者も務まんないよ」 「…だよなあ」 画面では、モザイクが入っているものの、心停止の患者の胸を開いて直接心臓をマッサージしているシーンが展開されている。 「俺、AEDとか心臓マッサージは訓練してるけど…」 「そういえばジャスカのクルーは救急員資格必須だったよね」 「うん。まあ、おかげさまでその資格を生かす現場に遭遇しなくて済んでるけど」 「何もないのが何よりだよね」 「ほんとだよなあ。…ってさ、薫は当然アレとかも…」 「開胸心臓マッサージ? もちろんあるよ」 「直接、手で心臓…?」 「うん、胸切って、手突っ込んで、直接心臓を揉んで脳に血流を送るんだ。まあ、最後の手段だけど」 「…うう…」 「でも、それで救命できたときにはもう、泣きたくなるほど嬉しいよ」 「薫ってば、かっこいい〜」 「や、こうなるまでは色々あったよ。最初の頃はオペの度にご飯食べられなくなったりしたし」 「…うへ」 「初めて救急の現場に立ち会ったときは、足竦んだよ。もう、ぐちゃぐちゃで」 「…ぐちゃぐちゃって…まさか…」 「うん、骨とか皮膚とか混ざっちゃって」 「……うげ…」 「でも、先輩のドクターに頭ひっぱたかれて、『ボーッとしてんじゃねえっ、さっさと手動かせ! 出来ないなら帰れっ。邪魔だ!』って怒鳴られちゃって、我に返ったっけ」 「…過酷な現場だ…」 「毎日のことだからね。いちいち動揺してたら助けられるものも助けられないし、慣れるしかなかったよ」 流血の事故現場の映像を前にして思わず目を背けてしまった彰は、画面を直視したまま、『ちゅるる〜』と美味しそうに濃厚トマトジュースをストローで吸い上げる薫の横顔を見下ろして、『俺の薫センセってば男前〜』と感動しつつも、それからしばらくの間、機内でトマトジュースのサーブができなくなってしまったのだった。 |
おしまい |
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