Happy Wedding?

【後編】

ゆっきーと、怪しいキャプテンたち。
8年愛と新婚さんと、そして…。




 雪哉がシンガポールへ向けて飛び立った頃、サンフランシスコからノンノンが帰ってきた。

 デブリーフィングを終え、メールボックスをチェックして、あとは帰宅…だが。

 その、乗務員のメールボックスがずらりと並んだところで、ノンノンが突然携帯で写真を撮った。


「野崎さん、何撮ったんですか?」

 後ろにいた後輩キャビンクルーが尋ねる。

「あ、うん、ちょっと記念にね」

 辺りを見回して、なんの記念だろうかと、後輩は首をひねった。

 現場は、コ・パイのボックスとキャビンクルーのボックスが向かい合わせにずらりと並んでいる場所だった。

 ノンノンの写メにはひとつのボックスが写っている。

 ネームプレートは『不動雪哉』。
 もっとも『個人的な用件』で使われることが多いと言われているボックスだ。

 ――ふふっ、今日で見納めだもんね、この名前も。




 翌朝。
 多くのキャビンクルーが国内線早朝便に向けてショウアップしてくる。

 皆、まずメールボックスをチェックするのだが。

「…あれ?」

 些細な違和感。

「どうかされました?」

 首をひねる先輩の後ろから、後輩が声を掛ける。

「あ、ううん、なんか、ちょっと違う物見たような気が…」
「違う物、ですか?」

 何のことだろうと辺りを見回した。

「……え?」

 後輩が眉を寄せた。
 確かに何か違和感があった。

「…先輩」
「…ね、なんか変じゃない?」
「…確かに…」

 ふたりがいったい何なんだと、もう一度辺りを見回そうとしたその時。

「ええっ? 何これ?!」

 後ろからやってきた、2人よりも先輩のクルーが声を上げた。

 その声に、辺りにいたキャビンクルーもコ・パイも、少し離れたところにある機長のメールボックス付近の人影も注目した。

「なに?」
「なんかあった?」
「まさか不審物?」

 コ・パイたちがやってきて、辺りが騒然となったその時。
 彼女が指さすボックスをみたもうひとりが、また声を上げた。

「くるす…ゆきや?!」

 そう、そこにあったはずの『不動雪哉』のネームプレートが『来栖雪哉』に変わっていたのだ。

「なにこれ、ゆっきーのボックスじゃなかった?」
「そうですよ、ここゆっきーですよ」

 そう、みんな覚えているのだ。自分とゆっきーのボックスの場所だけは。
 ちなみに敬一郎と信隆の場所も大概みんな知っているが。


「確かに下は雪哉だけど、なんで上が『来栖』?」
「来栖って、来栖キャプテンの来栖?」
「同じ字だよ」

 コ・パイたちも混じって大騒ぎになった。

 そこへ、うっしーが現れた。

「何騒いでんだ? 何かあったのか?」
「あ! キャプテン、これ見て下さい!」

 彼女たちが指すそこにはやっぱり『来栖雪哉』の文字。

 だがうっしーは『ああ、入籍したからな』と笑顔になった。

 ――にゅうせき?

 辺りが一瞬シンとなる。

「あの、キャプテン、にゅうせき…ってなんですか?」

「あ? 入籍っつったら、同じ戸籍に入ることに決まってるじゃないか」

「…ええと、雪哉くんが、ですか?」

「そうだよ。雪哉が来栖の籍に入ったんだ」


 ――くるすってだれ? どのくるす? まさか、あのくるす?

 その時の誰もが、そう思ったに違いない。

「ほら、みんな急がないとブリーフィングだろ? 遅刻したら始末書だぞ」

 ほらほら急げとうっしーに急かされて、クルーたちはそれぞれのブリーフィング場所へ渋々散っていった。

 だが、早朝は出発便が集中しているから次々とクルーたちがショウアップしてくる。

「え、なにこれ」
「どういうことっ?」

 結局、夕方にバンクーバー便乗務のためにショウアップしてきた信隆によって事の次第が明らかになるまで、大騒ぎは延々と続いたのであった。




 早朝の大騒ぎから遡ること数時間。
 深夜に出発するシンガポール便のキャビン・ブリーフィングで、雪哉はその事に触れなかった。

 ブリーフィングを始める時には、全員が顔見知りでも、機長から順に名乗るのが決まりなのだが、敢えて『副操縦士、不動です』と言った。

 出発前の、最も忙しくて集中力が必要な時に私事で騒がせたくなかったからだ。

 向こうには早朝に到着し、復路便は翌朝発。
 24時間ほどのステイになるこの便では、クルー全員で食事に行くことはあまりない。
 ショウアップから数えると9時間ほどになる深夜勤務後の身体の調整方法がまちまちだからだ。

 なので、ホテルへ移動するクルーバスの中ででも、機会があれば話をしてみようかな…程度に考えていて、幸い、誰ひとりとして雪哉の胸のネームプレートが『来栖』『Y.Kurusu』に変わっている事にも気付かない。

 もうすぐ7月で、行き先も亜熱帯なので上着は着用していないから、パイロットシャツにネームプレートを付けているのだけれど、案外いつもくっついているものには意識はいかないものらしい。

 いや、雪哉が意識的に、左手で胸のところに業務用のタブレット端末を抱えているから…かも知れないが。


 定刻に出発したシンガポール行きは順調にオートパイロットに移行した。

 その直後、想定外の事が起こった。

 キャプテンから、『雪哉、アナウンス代わってくれ』と言われたのだ!


「えっ、僕がするんですかっ?」 

 そうだった。想定外ではなく、この大橋機長は、世界で1番怖いのが奥さんで、1番苦手なのが機内アナウンスだと公言して憚らない人だった。


「ん? いつも代わってくれるじゃないか。今日に限ってなんだ? どうかしたのか?」

 代わりたくて代わっているのではなくて、代われと言われるから代わっているだけだ。

 だいたい明文化はされていないものの、機内アナウンスはできるだけ機長が行うように…とのお達しなのだが。

「い、いえっ、何でもないですっ」

 ちなみに大橋機長は牛島機長の2つ上で、全社的憧れの人、『華ちゃん』を奪っていったうっしーを『人類の敵』と呼んでいるが、そのくせしょっちゅう2人で飲みに行く仲良し振りだ。

「あ、もしかして誰か知り合いでも乗ってるとか?」
「や、違います」
「…ふうん…」
「あ、あのっ、やりますっ」

 そう、いつかは言わねばならないのだ。

「…おう、頼むな」
「…はい…あ、交信お願いします」
「roger」
「You have ATC」
「I have ATC」

 これで、アナウンス中に管制から呼びかけられたら機長が受けることになる。

 雪哉はひとつ深呼吸をして、ヘッドセットのマイクをキャビン向けに切り替えた。

 もう飛んでしまったから、この際腹を括って新しい名前――愛する人と同じ苗字を名乗ろうと決めた。一応。


「ご搭乗の皆様、本日はジャパン・スカイウェイズ269便シンガポール行きをご利用いただきまして、ありがとうございます。操縦席より、副操縦士の…」

 ほんの一瞬、間が空いてしまった。
 実は、まだ自分で『来栖』と名乗ったことがない。
 敬一郎を呼ぶために何度も口にした名前なのに、上手く話せるか、瞬間不安になった。

 が。

「…来栖がご案内いたします。当機は定刻に東京国際空港を出発いたしまして、現在は…」

 現在地や速度、高度の他、到着地の情報や途中気流が悪いところを通過することなどを伝え、同じことをざっくりと英語で繰り返して、キャビンへ繋いでいたスイッチを切り替える。

 口にしてしまえば案外大したことなかったな…と、雪哉は少し微笑んだ。

 今、身体は遠く離れているけれど、名乗ったことで愛する人の懐に守られている気がして、心はとても温かい。


「キャプテン、交信ありがとうございました」

 穏やかな気分のまま言ったが、返事がない。

 普通ならばすぐに『You have ATC』と返ってきて、雪哉がそれに 『I have ATC』と答えて、管制とのやり取りはまた雪哉の担当になるはず…なのだが。

「キャプテン?」

 左を見れば、そこには『大きな白目の中に黒目が点になったマンガのような顔』でこっちを見ている大橋機長がいた。

「…雪哉、今、何つった?」
「あ、ええと、ですね。副操縦士の来栖、です」

 とりあえず、困った時には笑顔だ。そして、指で自分の左胸を指す。
 そこには真新しいネームプレート。

「来栖?」

 大きな白目の中で点になったままの黒目が雪哉の左胸を見る。

「あ、はい。来栖雪哉…です」

 ちょっと…いや、かなり照れくさい。
 敬一郎は『来栖雪哉って、いい響きだな』と言ってくれたけれど。

 管制から呼びかけがあった。
 が、まだATCを取り返していない。

 大橋機長が即座に応答し、やりとりを完了する。

「キャプテン、とりあえずATC下さい」
「あ、ああ、すまん。You have ATC」
「I have ATC」

 これはどんな時にも絶対に省いてはいけない手順だ。
 口にすることで、自分が今何を手にしているのかを確認するために行われているのだから。

「で、それって、苗字が変わったってことか?」

「はい。そうです」

「来栖って、どの来栖だ」

「ええと、あの、よくご存じの来栖…だと」

「もしかして、俺の5歳下の、ムカつくほどイケメンでくそ真面目で有能かつ敏腕で最速最年少記録保持者で半年でヨメに逃げられたバツイチの来栖か?」

 上げてるのか下げてるのか、よくわからない言われようだが。

「ええと、それ、です。僕、来栖機長の養子になりました」

 大橋機長は顔中目玉になった。

「ええっ?! マジでかっ?!」

「あ、はい、マジで」

 答えた雪哉は、続く大橋機長の言葉はきっと、『どうしてだ?』とか『何があった?』…のようなものだと予想していたのだが。

「くっっっっっそう〜来栖のヤツ〜」

 大橋機長は何故かいきなり唸り始めた。

「77課のマスコットにして全社的アイドルの雪哉をかっ攫っていくとはいい度胸じゃねえか〜〜。人類の敵がまたひとり増えたぞ〜。俺様が成敗してくれるっ」

 うっしーに続いて、敬一郎も『人類の敵』に認定されてしまったようだ。

「向こうに着いたら、真っ先に来栖に『呪いのメール』送ってやるぜっ。雪哉、ヤツは今どこにいるんだ?」

「あ、あの、来栖機長は今、サンフランシスコ便に乗務中で…」

「ああ、シスコか。日付が変わってすぐの便だな。ってことは、俺たちが先に羽田に帰着だな。よし、メールボックスも不幸の手紙だらけにしてやろうじゃねぇか〜」

 雪哉が管制に高度と速度を報告している最中も、大橋機長は隣で呪いの言葉を吐いているのだが。

「ん? そういや雪哉、さっきから何つってる?」
「はい?」

「来栖のこと、機長って呼んだか?」
「あ、はい」

 ここは職場だ。それが普通で当たり前だ。

「何でだよ。養子縁組したんだろ? 親子になったんじゃねえのか?」
「はい、そう、ですけど」

「んじゃ、パパって呼ばなきゃダメじゃんよ」
「ぱ、パパっ?!」

 考えたこともなかった。当然だが。

「ってさ、雪哉の両親はどうしたんだ?」
「あ、僕、両親いないんです」
「え、そうなのか?」

 声のトーンがやっと落ち着いた。

「あ、はい。もう随分前なんで」
「…お前……」

 大橋機長が眉を寄せて痛ましそうに雪哉を見る。

 今までの経験だと、この後に続く言葉はだいたい『苦労したんだね』とか『寂しかったね』…等だが。

「そんなことなら、わざわざ独身バツイチのとこに行かなくても、うちに来れば良かったじゃん〜。俺んち、娘ばっかり3人で賑やかだぞ? ただ、怖いかーちゃんと4人でLINEしてて、俺、仲間はずれなんだけどな。あ〜っ、俺も雪哉を息子にしたかった〜!」

 そう言われて、怖いお母さんと女の子ばかり3人はちょっと気後れしちゃいそうだなと思った雪哉だが、息子にしたかったと言われるのはやっぱり嬉しいかもしれないと、なんだか複雑な感じだ。

 そんなやりとりを、管制との交信の合間に繰り広げていると、キャビンから『伺ってもよろしいですか』と連絡があり、了承を伝えるとコックピットのドアに合図のノックがあった。

 頷く大橋機長を確認して解錠すると、華やかな美人が入って来る。

 彼女はノンノンの同期のチーフパーサーで、今年の初めに2つ下のコ・パイと結婚したばかりの新婚さんだ。

「お疲れさまです。キャビンはウェルカムサービスが終了し、消灯しました。一息つかれますか?」

「ああ、お疲れさん。俺、緑茶にしてくれ。『来栖くん』は何にする?」
「きゃ〜ぷて〜ん」
「いいじゃん、悔しいんだから少しくらい復讐させろ〜!」

 2人のやりとりに、美人が小さく『え…っ』と漏らした。

「…もしかしてあのアナウンス、私の聞き間違いではなかったんですか?」

 どうやらてっきり聞き間違いだと思われていたらしい。
 そのままの方が平和だったのだが。

「そうなんだよ、みんなのアイドルを独り占めした『人類の敵』がまたひとり現れたってわけだ」

「雪哉くん…来栖…ってまさか…」

「あ、あのっ、ですねっ、向こうに着いたら、その、ちゃんと説明しますっ」

 とりあえず、この場をなんとか凌ごうとしたその時。

『Japan Skyways 269…』

「わああっ。コントロールが呼んでますからっ」

 慌ててヘッドセットを切り替えて応答をする。


「キャプテン、私、離陸前のアナウンスで『副操縦士は不動』と言ってしまったんですが」

「お客様から何か言われた?」

「いいえ、今の所は何も」

「んじゃ、この後何か聞かれたら、適当に言っといてくれ。苗字が変わったのは事実だからな」

 と、大橋機長が親指でくいっと示した先は、雪哉の左胸。

 ネームプレートを見てチーフパーサーはパッチリおめめを更に見開いた。

 いつもは人気ナンバーワンのイケメン機長の左胸で見るネームプレートがそこにあった。

「K.Kurusuでなくて、Y.Kurusuなところがまた…」

「何かビミョーにエッチくさいよな」

「キャプテン、この場合は『萌える』と言う言葉の方が適当かと思いますが」

「ああ、なるほど。萌えってこういう時に使うのか。娘たちがしゃべってんの聞いててもちっともわかんなくてなぁ」

 だからといって、コックピットで萌える必要はこれっぽっちもないのだが。

「ま、お楽しみは降りてからってことで、雪哉には路線限定のジュース頼むよ」

「承知いたしました。降りてからが楽しみですね、キャプテン」

「ってことだ」

 なにやらゴニョゴニョと会話されていることを、雪哉はとっくに終わっている交信に集中している振りでやり過ごした。
 
 冷や汗をかきながら。



 大橋機長と雪哉のシップは定刻より少し早く、シンガポール・チャンギ空港に到着したが、空港事務所の無線LANでメールを受信したクルーたちのすべてに、これでもかというくらいのメールが送りつけられていた。


『ゆっきー乗ってるでしょっ?! 何があったのか聞いてっ! 報告待つ!』


 それは雪哉のメールも同じだったのだが、雪哉は敢えて受信ボックスを開かずに、まだ太平洋上であろう敬一郎宛に、『シンガポールに到着しました』とだけ送った。

 隣には『呪いのメール』を嬉々として打っている大橋機長の姿が…。



 そしてこの頃、敬一郎は平和に太平洋上を飛んでいて、現地到着時に、雪哉からの到着メールと大橋機長の『呪いのメール』を見て笑ってしまったのだが、さすがに機長宛に直接問いただすメールを送りつけてくるコ・パイやキャビンクルーはいなくて、同じチームの機長たちには信隆の手がすでに回っていたから、雪哉が巻き込まれている大騒ぎには気づいていなかった。


 ただ、同じシップに乗っていたクルーたちはやはり、同僚たちから『真相究明求む』のメールを受信していて、質問攻めにあったが。

 それでも何より嬉しかったのは、雪哉が機内アナウンスで『来栖』と名乗ってくれたことだ。

 今はここにいないのに、でもこの腕の中に抱いているような気がして、心が温かくなる。

 このフライトが終われば、雪哉との暮らしがはじまる。

 合い鍵は渡してあったが、敬一郎がいない時に雪哉が訪れることはもちろんなくて、でもこれからは、あの家に雪哉がいるのだと思うと、どこを飛んでいても幸せな気分でいられそうな気がしている。

 とにかくこんなに何かを『待ち遠しい』と感じたのは初めてだ。


 そして、中2日置いて帰着した時、『とりあえず入籍おめでとう』とか『もしかしてこれで独身に終止符なのか?』とか『新米パパ、子育て頑張って下さいね!』などのお祝い(?)メッセージが溢れてはみ出た自分のメールボックスを見て、唖然としたのであった。

 もちろん、その中には『不幸の手紙』が差出人名入りで入っていた。

『成敗されたくなければ今度飲みに行こう。ただしお前の奢りだ』

 最後には『息子も連れてこい』と、書き添えてあった。




 大騒ぎのすぐ後、雪哉が、寮から敬一郎が待つマンションへ引っ越す時がやって来た。

 朝から荷物の運びだしなどを訓練生たちが手伝ってくれているのだが、『雪哉さんがいなくなるのは寂しい』と泣き出すヤツも出る始末で、雪哉は慰めたり荷物を詰めたり大忙しだ。

「それにしても荷物少ないっすね」
「本しかないですよ」
「うん、本しかないんだよ」

 服も必要最低限しか持っていないし、とにかく私物は極端に少ない。

 ちなみにチョコの空き箱はちゃんと処分した。
 思い出を、空き箱に頼らなくて良くなったから。


「大切なものって、フライトバッグの中身くらいだなあ」

 電子マニュアルの他に、チャート類や、何より大切なたくさんの免許とパスポート、ヘッドセットにサングラスに手袋に…と、必要なものがぎっしり詰まっている。

「お、さすが天才パイロットですね」
「やめてって、それ」

 確かに少しは適正があるかも知れないなと自分でも感じてはいるが、雪哉としては『こんなので天才なんて言ったら、天才が怒るだろ』くらいにしか思っていない。

 ただ、訓練生時代の成績が良かったからすぐに憧れていた機材に乗ることができて、それはラッキーだったと思っているが。


「キャプテンは?」

 運良くこの日公休の昌晴が、車を借りて荷物を運んでくれる事になっている。

「うん、自分が顔出すとパイ訓(パイロット訓練生)たちが気を遣うからって。向こうで待っててくれてる」

「あっちはキャプテンひとりか?」

「ううん。都築さんと野崎さんが来てくれてる」

 こちらからの荷物はしれているが、あちらは家具の搬入もある。

 寮の家具類は備え付けだから、敬一郎は雪哉のために新しい机やベッドを揃えてくれたのだ。

 雪哉の部屋に『一応ベッドがある』のは、それなりの『対外的配慮』だが、ノンノンは『え、なんでベッドが別?』と、マジ顔で呟いたのであった。


「さて、全部積んだ?」
「うん、大丈夫」

 言って、寮を振り返る。

 入社前日、やっと自分の力で歩けるようになった喜びと、見えてきたパイロットへの道に、期待に溢れてここへ来た。

 いつかはここからも独り立ちしなくてはいけないと思っていたけれど、まさかこんなに幸せな形で後にするとは夢にも思っていなかった。

 生まれてからずっと施設や寮で暮らしてきて、初めて『家』と呼べる場所を持てることになり、そしてそこには愛する人がいてくれる。


「みんな、頑張ってね。今度会う時はきっと、みんなも『3本線』だよ」

 鼻をすすりながら見送る訓練生たちに、そう声を掛けて、雪哉は『またね』と手を振った。




 夕方の東京を品川から人形町に向かって走る車があった。

「ほんと、遠回りになってゴメンね」

「いえ、全然。ただ、運転するのが久しぶりなんで、へたくそですみません」

「え? 別にヘタじゃないよ? それに、毎日あんなにデカいシップでちゃんと滑走路まで行ったり来たりできるんだから、こんなちっこい箱くらいどうってことないでしょ」

 あははと笑うノンノンに、昌晴も『なるほどね』と笑う。


 雪哉の引越が終わった後、『ひとり暮らしの経験からいつの間にか自炊男子になっていた』キャプテンと、『大学4年間のひとり暮らしでかなり腕に磨きを掛けてしまった自炊男子』のコ・パイと、『ずっと施設と寮の生活だったから料理は取りあえずのことしかできない』コ・パイと、『ソムリエ資格を持ち、サービングは完璧だけれど料理は食べる方が好き』な教官チーフパーサーと、同じくソムリエ資格は持ってるけれど、『ご飯くらい炊けるわよ、失礼ね』と言い放つ美人チーフパーサーの計5人で夕食を囲み、翌日も公休日の3人を残して、昌晴とノンノンは翌日の乗務にさし支えないようにと、まだ夕陽が空に残っているうちに新婚家庭を後にした。

 向かっているのはノンノンの家――実家暮らし――だ。


「ま、ゆっきーに振られた者同士、これからも仲良くしようよ」

 実はノンノン、振られた直後にステイ先で昌晴に愚痴ったことがあるのだ。『キミの相棒に振られちゃったわよ』と。

 その時の様子で、ノンノンは昌晴もまた、雪哉を見つめていることに気づいたのだが…。

「あの、俺、別に、振られてませんけど」
「え? 告ってないの?」

「…ってか、その前に諦めました」
「え。なんで? やっぱ同性の壁って高かったわけ?」

 来栖キャプテンはあっさり乗り越えちゃったけど…とは口にしなかったが。

「や、そうじゃなくてですね」

 とっくの昔にお見通しだったという彼女になら、自分も愚痴っていいかな…と、昌晴はかいつまんで経緯を話した。

 雪哉の恋が幸せな結末を迎えた今は、どれもこれも笑い話にできそうで。 



「へ〜、藤木くん、男前じゃん」

 あらましを聞いてノンノンは、明るい声で『やるじゃん』と肩を叩く。

「でしょ? そこんとこは自覚してます」
「なんじゃそりゃ」

 高揚した気分のまま、笑い合う。
 きっと新婚家庭で当てられっぱなしだったせいに違いない。

「あ〜、でも『これだけ』は雪哉に負けたくなかったんだけどな〜」
「結局『ゴールイン』も先越されちゃったわけだ」
「ってことですよ」

 ゲームセンターでは優位に立てるのだが、人生の節目では必ず先を越されていて、その小さな背中はいつしか『目標』になっていた。

「キミもいい男だから、すぐに良い人見つかるって」
「ですかねえ」
「自信持てって」

 そうは言われても、今のところは『飛ぶこと』が最優先で、積極的に出会いを求める気にはあまりなっていない。

 だからつい、他力本願な言葉が転がり落ちた。

「でも、この仕事って出会いがないんですよ」
「何言ってんの。周りにこれでもかってくらい美人のクルーがゴロゴロしてるじゃん」

 確かにそうだが、実際キャビンクルーと接触する時間は少ないし、ステイ先で話が出来る機会を持てるようになったのは、国際線を飛び始めてからだ。

 それに、ごく最近まで、雪哉しか目に入っていなかった。
 メールボックスにはそれなりにアプローチがあったような気もするが。

「美人が多すぎて目移りしちゃってるんですよ」
「お、上手いこと躱すね〜」

 取り繕っても、ノンノンにはやはりお見通しだ。

「でもさ、コ・パイとキャビンクルーのカップル、実際多いよ?」
「確かにそうですね。先輩方で職場結婚の人、たくさん聞きます」

 昌晴のチームの機長にも、職場結婚は多い。

「でしょ? ってか、職場結婚が多いのは、それなりに理由があるんだよ」

 まだまだ結婚は先のような気がしている昌晴だが、職場の結婚事情にはやはり興味はあって、ノンノンの話の続きを待つ。

「勤務体制熟知してるでしょ? 業務内容もよく把握してるから、やっぱりお互いに思いやり合えるところ多いって、先輩たちも言ってたし」

「確かにそうですね。24時間365日の不規則勤務って、家族の理解が何よりも大切ですよね」

 昌晴の言葉に『そうなの』と頷いて、『実はね』…と、言葉を継いだ。

「2年ちょっと前のことなんだけどね、同期の子が婚約したんだけど、婚約者から退職してくれって迫られて悩んでたんだよ」

「辞めろっていうんですか?」

「そうなの」

「今時?」

「そう思うでしょ? 自分が帰ってきた時に、家にいてくれないような仕事はダメなんだって」

 昌晴の両親と兄夫婦は共働きで、妹は専業主婦になっているが、仕事を続けるか家庭に入るのかは本人の考えと家庭の事情次第だと思っている昌晴には、自分の都合だけで『辞めてくれ』と迫るのは奇異な事に思える。


「んじゃ、そう言う仕事の子と結婚すりゃいいのに」

 軽く返したが…。

「だよね〜…って言いたいとこだけど、好きになっちゃったものは仕方ないってとこかな」

「あー、まあそれはわかりますけど」

「理屈じゃ無いんだよね、人を好きになるって」

「…同感です」

 まさに経験してきたことだ。それこそ。
 相手の条件がどうであれ、惚れてしまえばそれまでなのだ。

「でさ、都築さんと私が相談に乗ってたわけ。彼女も揺れてたからね。せっかくここまで頑張って好きな仕事してきたのに、ここで辞めちゃっていいのかどうかって」

「でしょうね」

 空で一人前の仕事をしようと思ったら、それはそれは大変な努力がいるのだ。


「で、ある時、ご飯しながら相談に乗ってたら、彼氏が乗り込んで来たのよ。俺との約束反故にして誰と会ってんだ…って」

「うへ、なんだそいつ。めっちゃウザくないですか?」

「ウザいの通り越してるよ。まあ、顔だけは割とイケてたけど、顔だけ良くても仕方ないし」

 男は中身だと、ノンノンは当然のように思っていて、雪哉に恋をしたのもその中身の男らしさから…だったのだが――見た目だけなら好きにはなっていなかった。自分よりちっちゃくて可愛い子はちょっと『ゴメン』だから――その『雪哉の男前度』はすでに広く認知され始めている。

 ただ『女子力がそれ以上に高い』と評されているのもまた事実で、要は『魅力的な男の子』…という所に帰結してしまうのだが。


「で、都築さんがね。もう少し彼女の事を信用して、尊重してあげたらどうですか? …って言ったわけ。そしたらもう喧嘩上等状態でね〜」

「随分キレやすい男ですね」

「や、あれは都築さんが美し過ぎるのも原因だと思うな。私が一緒にいたからまだ良かったけど、都築さんと2人で会ってたりしたら、初っ端から修羅場だったかも。背高い、スタイルいい、顔綺麗な上に、言うことまでイケてるからねえ」

 つまりは『邪推』が大いに含まれていたということだ。

「あー、まあ、あれだけ何もかも揃ってる人、珍しいですからね」

「まあね。でも、都築さんは基本『教え子には手を出さない主義』だし」

「あ、そうなんですか?」

「うん。都築さん、教官資格取るの早かったからね、私の少し下の期くらいからはみんな教え子だから」

 訓練センターの教官は、センターを卒業すれば後は年に一度の定期訓練か、昇格のための訓練でしか接点が無くなるが、OJTの教官はそもそも所属が訓練部ではなく、クルーとして乗員部に属する『仲間』だから、その後もずっと見守り導いてくれる『先生』だ。

「教官資格って、普通はどれくらいで取るもんです?」

「うーん、余所は知らないけど、うちの場合は、早いと33歳を過ぎたくらいから上級チーフパーサー試験受けてみるかって声がかかって、それが取れてからだいたい2、3年後かなあ、教官資格試験は。 でも都築さんは、元々総合職で入社して運航本部に配属される予定だった人でね、研修で行った客室訓練部にハマっちゃって、部長に直訴して訓練部に異動した人だから何かと型破りで、30くらいで教官資格取ってたと思うよ」

 信隆が元々総合職だったと言うのは初耳で、昌晴は『知らなかった』と驚いた。

「最初からクルーだったわけじゃないってことですか?」

「そうだよ。訓練部に異動して、いろいろ携わってるうちに『乗ってみなきゃわかんないだろ』って気持ちになったんだって。で、乗員部へ異動してクルーへの華麗なる転身ってわけよ。もう、乗っちゃったらあっという間に人気者でね。すぐに追っかけまで現れたっての、有名な話なんだ」

 何もかも納得できそうな事ばかりだ。

「ストーカーとかいそうですよね」
「いるよ」

 あっさり肯定されて、昌晴が『ええっ?』と大声を上げた。

「マジですか、それ」

 笑える冗談のつもりで言ったのに。

「うん、何人もいるんだよ。しかもみんな上級会員とか大株主とか有名人とかでね。まあ都築さんに会いたくて上級会員になったり株主になったりしてんのかもだけど、とにかく行きすぎたことすると、都築さんからにっこり笑って『ダメ出し』されちゃうから、みんな割と大人しいかな」

「変なストーカーですね…」

 大人しくてストーカーというのかどうか、疑問だと思ったが。

「まあ、プライベートに干渉したり、機内で暴走しない限りいいかなって感じだけど、10時間越えのフライト中、ジッと見つめられてるのもストレスだと思うよ」

「…やっぱ、怖えぇ…」

 考えただけで恐ろしい。

「ま、確かに都築さんは完璧な人だけど、実際のところ、煮詰まったら子供っぽくなって可愛いんだよ?」

 煮詰まるも可愛いも、全く似つかわしくない言葉だが。

「可愛い…ですか?」
「うん」
「ええと、都築さんが…ですよね?」
「だよ」

 当然じゃん…と言うノンノンに、『野崎さんも噂に違わぬ大物だな』〜と、昌晴はもちろん内心だけで呟いている。

「って、何の話してたっけ?」
「ええと…野崎さんの同期の人の結婚話ですよ」
「あ、そうだった。脱線しまくったね」

 あははと屈託なく笑うノンノンは、今日は乗務中の完璧メイクではなくすっぴん風メイクで、いつもよりも幼い感じが可愛くて、昌晴は『人気があるだけのことはあるな』と、納得する。


「でね、都築さんが、彼女のキャリアにもう少し目を向けて上げられませんか…って話をしたら、女性の立場とか地位とか、そんな話は聞き飽きてるって。結婚すれば旦那に従うのが女性の本来の姿だって、ぶち上げちゃってね〜」

「…いつの時代の話ですか、それ」

「だよね。…ま、そん時、隣にいた私には、都築さんが密かにキレる音が聞こえちゃってさ、こりゃ一発お見舞いしそうだなと思ったんだ。そしたら都築さん、案の定、小さく笑ってね、『何言ってんの、キミ。そんな綺麗事じゃなくてね、彼女を一人前のキャリアに育てるのに、うちの社がどんだけ費用掛けたと思ってんの? 乗客の安全のためにそれだけ真剣に時間と手間をかけて人材育成してるんだよ』って、そりゃあもう、あの斬れそうな美貌でこれでもかってくらい、作り笑いでにっこりと穏やかに」

「…それ、怖くないですか?」

 あの顔で作り笑いでにこやかに穏やかに、その台詞を吐かれた日には、凍りつきそうだ。

「怖かったよ〜もう〜」

 言葉ではそう言いつつも嬉しそうだが。

「でもね、ああ、久しぶりに聞いたなあって思ったんだ。都築さん、訓練生から昇格した子には必ず聞くんだよ。『君は何のためにシップに居るんだ?』って」

「何のため…ですか?」

「そう。みんな色々な答えを持ってるけどね、都築さんはこういうの。『君たちがシップに居るのは、担当のドアから90秒以内に乗客を安全に避難させるためだ。それを忘れた時には、君はもう乗ってはいけない』って」

「…胸に落ちてきますね」

「うん…」

 自分たちが乗員乗客全員の命を預かっているのと同じように、彼女たちもまた、同じ使命を帯びて、その上に笑顔でもてなしているということを改めて思い出す。
 
 そして、あの大きな機体が飛んで帰ってくるためには、地上のスタッフも含めて本当にたくさんの『仲間』がいるということをもう一度認識して、その現場で一緒に働ける幸せを噛みしめる。

 失恋はしちゃったけれど。

「ま、都築さんが本気出しちゃったらもう、向かうところ敵無しだからね、あっちもきっと怖かったんだと思うよ。ぶるぶる震えながら、女子の教育なんかに金なんか掛けたって無駄なんだ…なんて言いだしてね。CAなんて所詮接客業なんだから適当でいいんだ、どうせ航空会社はその無駄金の分を航空運賃に乗っけて乗客からふんだくってんだろとか、もう言いたい放題で地雷踏みまくり」

 ケラケラと笑うノンノンだけれど、やっぱりその暴言はきっと許せなかったのだろうと、昌晴にはわかった。自分も同じだ。

「それで、どうなったんですか? …まさか殴り合いとか…?」

 こういうタイプは追い詰められたら何をするかわからない。いきなり殴りかかってこないとも限らない。

「やだ〜都築さんがそんなことするわけないじゃない〜。ま、殴りかかられたところで都築さんの方が強いに決まってるけど、都築さんはね、彼女に、『どう? この人についていって幸せになれそう?』って」

「うは」

 流石だ。それしかない。
 殴りかかられても大丈夫…とは、ちょっと思えないけれど。
 確かに長身でしっかりした体つきだが、常の優しげで優雅な様子からは『腕っぷし』は想像し難いから。


「ま、結果は言わずもがなだけど、向こうの捨て台詞が傑作でねえ〜。『俺のこと棄てたら絶対後悔するんだからなっ』って。 『棄てられる方』だって自覚してるのがもう笑えてさ〜」

 確かに…と、昌晴も笑いを漏らす。

 そして、『どんな機内トラブルも収めてしまう』と言われている教官チーフパーサーの、まさに本領発揮だったのだろうと思った。

 まして、自分の大切な仲間の幸せが掛かっているのだから。


「結局婚約破棄して、その後出会ったコ・パイくんと、この春めでたくゴールインしたよ」

「えっ? もしかしてそれって…」

 思い当たる人物がひとり。
 先月同じシップに乗った、華やかな美人のチーフパーサーは新婚で、確かノンノンと同期と聞いている。
 相手のコ・パイはチームが違うから、名前しか知らないが。

「ま、固有名詞は出さないけど、思ってる通りだと思うよ。でもね、この前シンガポールから帰った後……ええと、確か雪哉くんが入籍直後に乗って大騒ぎになった便だと思うけど、おめでたがわかってね、来週から地上勤務だよ」

 喜ばしいが、複雑なのだ。働く女性にとってのこの問題は。

「赤ちゃんができるのは本当に嬉しいことだけど、彼女もすっごい努力してここまで来たのに、また戻ってこれるのかなあ…って考えるとね、いろいろ思うところはあるわけよ。結婚は乗り切れても、出産は乗り切れない人多いからなあ…」

 でも、愛する人の子供なら、きっと欲しいに決まっている…とも、ノンノンは思っているから、だからこそ割り切れない思いでいる。

 その様子を見てとり、昌晴は柔らかい声で言った。

「そうですね、そこだけは、男じゃどうしても代わってあげられない部分ですよね。でも、俺だったら絶対、なんとかしてやりたいと思いますよ」

 愛する人が同じ空の上で、同じ気持ちで飛んでいるのだから。

 そう思うと、かつて恋を諦めていた雪哉が、想いを寄せる人と共に空に在ることで自分を納得させようとしていた気持ちに少し近づけた気がした。

 同じ価値観を持って共に飛んでいると言うのは、とても大きくて大切な事だから。

「勤務体制とか業務内容を理解してるってのもあるでしょうけど、何より俺たちコ・パイは、空へ上がるまでの苦労や、飛び続けることの大変さを知ってるから、キャビンのみんながどれくらい頑張ってるのか、わかってあげられるし、逆も同じだと思うんです」

 そう、誰もが飛びたいと願って、ここへ来た『仲間』だから。

 そんな昌晴に、ノンノンは目を細めて微笑んだ。

「ふふっ、やっぱり男前だね〜。その気持ちを忘れずに恋人探しなさい」 

「了解です。野崎さんもいい男ゲットして下さい」

「よっしゃ、望み棄てずに頑張るか〜」

 コレといった心当たりもないし、結婚したい気も、今はもうそれほどはないけれど、取りあえず望みは繋いでおくかな…と、内心で笑い、ともかく良い友達が増えたなとノンノンは素直に喜んだ。


「そうだ、スケジュールの閲覧、許可してくれない?」

「あ、もちろんOKですよ。その代わり、野崎さんのもお願いします」

「Roger」

「お。いい発音ですね」

「当然じゃん。これでも国際線のチーパーだよ? TOEIC900点だし」

「えー! すげっ」

 当然国際線のクルーは英語が堪能に決まっているが、思わぬ高得点に驚きを隠せない。

「だろ? で、藤木くんは『航空英語能力証明』のレベルはいくつ?」

 パイロットに必須の資格を問えば、少し間をおいて、若干沈んだ声が返ってきた。

「…4です…」
「それ、国際線パイロットのぎりぎりじゃん」

 3以下では国際線は飛べない。

「…です。ちなみに、言いたかないですけど、雪哉は6です」
「え〜! 無期限資格持ってんだっ、ゆっきー、すごっ!」

 6が最高で、一度このレベルを取ると、更新不要の一生ものの資格になる。

「でしょ?」

「あ〜、でもじゃあ私も言いたかないけど言っとこうかな」
「なんですか?」

「都築さんはTOEIC930点なんだよ」
「……あの人のことではそうは驚きませんよ」

「日本語と英語とドイツ語とイタリア語のクワドリンガル」
「…まだまだ」

「大学生の時、ヴァイオリンの学生コンクールで2位になってる」
「…え。」

「空手黒帯」
「………まいった…」

「勝った! …ってこんなの勝ってもしょうがないじゃん〜」

 不毛な対決に笑い声で終止符を打ち、笑いすぎて涙が滲んだ目尻を拭けば、昌晴が『そうだ』と、何事かを思いつく。

「野崎さん、俺に英語教えて下さいよ」
「お、次の更新時にはレベル5を目指すかね?」
「そのつもりで」

 そう、負けっぱなしではいられない。雪哉には。

「よっしゃ、お姉さんに任せなさ〜い。その代わりスパルタだよ?」
「え〜、お手柔らかに願いますよ〜」

「あ、でも、一緒に勉強できる相手がいて嬉しいかも」
「野崎さんも何かあるんですか?」

 キャビンクルーの試験のことは、パイロットはほとんど知らない。
 訓練生が乗ると、キャビンブリーフィングの時に知らされはするけれど。

「上級チーパー試験の準備を始めて下さい…ってお達しが来ちゃったのよ」

「えっ、お声掛かりですか?」

「うん。同期で初めてだから、ちょっと心細いかなあって思うんだけど、取りあえず、先頭の私が落ちるわけにいかないからね。頑張るよ」

 真っ直ぐ前を向いて宣言する明るい横顔は、この仕事への誇りと情熱に満ちている。

「野崎さん、落ちる気しないですよ、俺」

『都築信隆の右腕』と呼ばれているのは伊達ではないのだ。

「ふふっ、何だかんだ言って、藤木くんってば乗せるの上手いね〜」

 ノンノンの家までの道のりの、倍以上を走ってなお、話の尽きない2人であった。




 そして、その年の暮れのこと。

「って、野崎さんが苗字変わったら、ノンノンじゃなくて、フーノンになるんですか?」

 雪哉がそう言うと、ノンノンは『え〜!』と不満げな声を上げる。

「雪哉くん、やめてよ、マヌケじゃないの、それ」


 隣にいた信隆が、笑いながら『そう言えば』…と、ひとつネタを披露してくれた。

「藤木くんが大橋キャプテンから『不幸の手紙』を受け取ったって言ってたな。コ・パイ2年目の分際で『ポスト・華ちゃん』に手を出すとはいい度胸してるじゃねえか…って。でも、大橋キャプテンから『不幸の手紙』もらった人は、みんな幸せになってるんだよね」


 まさかの『大橋機長、”愛の守護神”説』に、雪哉とノンノンは目を丸くして、顔を見合わせて笑い合った。


 
Are you happy?


と言うわけで、次の番外編『Dead Head』は、
大橋機長から不幸の手紙をもらっていなかったキャプテンとゆっきーのお話です。


おまけSS2つ

『いつも、これからも。&うっしーの愛情』

 
*いつも、これからも。


 その感情は突然湧いてきた。

 雪哉は今までひとりで生活したことがない。
 生まれてから中学を卒業するまではずっと施設にいて、それから後はずっと寮生活。
 必ず誰かの気配が近くにある中で暮らしてきた。

 けれど、この『家』に愛する人と暮らし始めて半月と少しが経ち、ひとりでシンと静まりかえった部屋の中で勉強をしていて、不意に、静けさに押しつぶされそうな気がした。

 それは『寂しい』でも『怖い』でもない、不思議な圧迫感。

 あと2時間ほどで敬一郎が帰ってくるはず。

 だから、少し我慢をすればすむのだけれど、一度感じてしまったことは『無かったこと』には出来なくて、雪哉は身を竦めて辺りを見回した。

 半月が過ぎて、少しは慣れた気がしていた『家』に、大事なものがない。

 そう、敬一郎の気配が、ない。

 思いついてしまうと、もういても経ってもいられず、雪哉は立ち上がって寝室に向かった。


 敬一郎の枕を抱きしめてみたけれど、カバーは洗い立てで清潔な柔軟剤の香りしかしない。

 どこにも何もないのだろうかと思うと、急に怖くなった。

 その時目についたのは、敬一郎のクローゼットだ。

 開けてみると、そこには出社する時のスーツやワイシャツ、ちょっとした外出着や普段着も整然と掛けられている。

 何となく、敬一郎の気配がした。

 迷わず雪哉はクローゼットにごそごそと入り込んだ。
 小さめの身体はあっさりと潜り込めてしまう。

 やっと身体の周りに敬一郎の気配がしてきた。

 一番手近にあった上着を取り、抱きしめる。

 ――敬一郎さん…。

 うっとりと目を閉じると、雪哉の身体はそのままゆっくりと床へと沈んだ。


                   ☆ .。.:*・゜


「雪哉?」

 帰宅した敬一郎がまず目にしたのはリビングのテーブルに並べられたままの、雪哉のテキスト類。

 広げたままになっているが雪哉の姿はない。

 バスルーム周辺にもベッドにも姿がなく、かといって出かけた形跡もない。

「雪哉、どこだ?」

 そもそも室内に人の気配がない。

 急に不安になり、雪哉の携帯を鳴らしてみた。
 が、それはリビングのソファにあって…。

 携帯も持たずに出かけるはずがなく、一気に不安が増した。

 だが、何処を探せば良いのかわからない。

 いや、そう言えばベッドの上に枕が転がっていた気がする。
 もう一度ベッドルームへ戻ってみると、クローゼットからかすかに音がした。

「…雪哉?」

 そっと扉を開けると…。

 そこには、敬一郎の上着を抱きしめて、丸くなって眠る雪哉の姿があった。

 その姿に、見つけた安堵と切なさが募った。

 そっと跪いて、その小さな頭を撫でる。

「寂しかったか…? ひとりにしてごめんな、雪哉」

 これから先も、ある程度はすれ違う生活がずっと続く。
 それは敬一郎も雪哉もちゃんとわかっている。

 けれど、それを『当たり前』にしないで、雪哉を存分に甘やかしてやろう…と、敬一郎は雪哉をそっと抱き上げて、額に小さなキスを贈る。

「う…ん」
 
 小さく声を漏らし、雪哉が敬一郎の『上着』にしがみつく。

「おいおい雪哉、本物が帰ってきたんだから、こっちにしがみついてくれよ」

 幸せそうにそう言って、敬一郎は雪哉を抱きしめた。


                    ☆★☆


*うっしーの愛情


 それはちょうど、雪哉が報われない片想いに前向きに立ち向かおうとしていて、敬一郎が煮詰まり具合もマックスになろうとしていた頃のこと。


「キャプテン、お疲れ様でした」

 バンクーバーから帰着して、デブリーフィングの後、チーフパーサーの顔で挨拶をする信隆に、機長の牛島聡が答えた。

「ああ、お疲れ」

 いつになく固い表情は乗務中には見られなかったもので、信隆は首を傾げた。

 何かあったのだろうかと。

「なあ、都築。この後予定アリか?」

 2人とも、明日から2日間の公休だ。

「いえ、いつものように大人しく帰宅する予定ですが?」

 オフも華麗な生活をエンジョイしているように思われがちな信隆だが、実は『遊び』には興味がない。

 仲間内で飲みにいくのはあくまでも『交流を深め』『情報を共有する』ためで、仕事の一部だ。

 それ以外でふらふらと遊びに出る趣味は全くなく、日々の全てが仕事に向けられていると言っていい。

『大人しく』…と、少し茶化してみたけれど、いつもノリの良い牛島機長にしては珍しく、固い表情のままで言った。

「じゃあ、疲れているところを悪いが、ちょっと付き合ってくれないか?」 

 これは、深刻な話だと直感した。

「何か問題でも発生しましたか?」
「いや、問題じゃないんだ…」

 それきり口を噤んだ牛島機長は、静かな店の片隅に落ち着くまで、ずっと難しい顔をしていた。

 見たことのない、思い詰めた表情に不安が募った。

                   ☆ .。.:*・゜

「バンクーバーに飛ぶ一つ前のインターで、雪哉とホノルルへ飛んだんだ。…その復路のフライトで…」

 漸く話し始めた牛島機長だったが、それきりまた言葉をとめた。

 信隆は『雪哉』の名が出たことで、『もしかして』と思いつつも、ほぼ確信していた。

「雪哉の…プライベートですか?」

「…やっぱり都築は知ってたか…」

「雪哉は知りませんけどね。私が知っていると言うことを」

「どう言うことだ?」

 驚く機長に信隆は、高校の同窓だというところから始まるいきさつを、ざっと説明して、話を続ける。

「で、雪哉はどこまで話しました?」

「両親がいないと…」

「それだけですか?」

 この様子ではそうではないだろうとは想像がついたが、敢えて尋ねた。

「生後すぐに両親をなくして、顔も知らないと言っていた。身寄りがひとりもいないから、生まれた時からずっとひとりなんです…ってな。それを、明るい顔と声で言うんだ」

 深刻な話をまるで世間話のように話す雪哉に、陰は全くなかった。
 それが余計に『重さ』を知らしめる。

「正直な、俺はいい歳をしてショックを受けてるんだ。雪哉は一体どれほどのものを背負って生きてきたんだろうってな…」

 誰からも愛される、人懐こくて優しい雪哉は、きっと両親の愛に育まれて幸せに育って来たのだろうと勝手に思っていた。

 それが、よもや…と。

 だが、信隆は微笑んでみせた。

「明るい顔と声で話せたのはきっと、牛島キャプテンだから…ですよ」

「…俺?」

「そうです。私は事情を知っていて、しかもそれを雪哉に伝えていませんから、雪哉にその手の話を振ったことがありません。だから、実際どういう反応をするのかわかりませんが、他のクルーに家族のことを聞かれた時には適当にお茶を濁しているようですから、話した…ということは、キャプテンがそれだけ雪哉を温かく包み込んで下さってる…と言う事だと思いますよ」

「…そうなんだろうか」

 親を亡くす悲しみはよく解っている。
 けれど、親を知らないと言う悲しみや痛みはまるで知らないし、想像もつかない。

 牛島機長は、養成所の訓練生時代に父親を亡くし、病弱な母親とまだ中高生の3人の弟妹が残された。
 弟妹を全員大学へ入れ、卒業させるために、8年もの間、結婚出来ずにいた。

 そんな事情を知る数少ない『仲間』のひとり、大橋機長は、『牛島は苦労してるからな。華ちゃんもよく支えてやってるよ』と、信隆に語った事がある。

 実際、事情を知らない『部外者』からは、華との恋愛を8年もひた隠しにした挙げ句に『結婚退職』させてしまい、その退職理由が『早く子供が欲しいから』…で、その8年間を『牛島が待たせていたらしい』と言う話に至り、一時期風当たりがそれなりにキツくなったものを、大橋機長がネタにする事で防波堤になり、浦沢機長が睨みを聞かせることで封じ込めたという経緯がある。

 大橋機長は、『そんな大層なもんじゃなくて、俺は面白いからネタにしてるだけだぞ』と笑い飛ばすが。

 そして、もちろん、信隆も敬一郎も事情をよく知っていたから、その後、その話を誰かが蒸し返そうとした時には、必ず釘をさしたものだ。

 けれど、それもいつの間にか人の口に上らなくなったのは、牛島機長の人徳によるところが大きいのだと仲間たちはわかっている。


 そんな牛島機長だが、実のところ、その8年間苦労だと思ったことはなかった。
 それは、『家族のため』だったからだ。

 幸いパイロットは副操縦士でも収入が高い。だからこそ、弟も妹も大学まで入れてやれたし、その後母を看取ることもできた。

 申し訳なかったのはただ一点。華を8年も待たせてしまったことだけだ。

 それでも彼女は、『やりたい仕事に就いてるんだから気にしないで』と言って、せっせと結婚資金を貯めていてくれた。

 自分は貯めている余裕がなかったから。

 それでも、いつか家族になるんだという夢が2人を支えていたから、辛いことは何一つなかった。

 けれど雪哉には、その『家族』がひとりもいなかったのだと知って、眠れない程に哀しくて、華と2人で真剣に考えたのだ。

 雪哉を養子に迎えるのはどうだろうかと。

 幸い一人娘も『雪ちゃんみたいなお姉さんが欲しい』と言っていることだから。 
 もちろん、『お姉さん』ではなくて『お兄さん』だと、訂正は必要だが。


 そして、そんな話をどう進めたらいいだろうかとバンクーバーでのステイ中に考えていたところで、信隆に相談することを思いついたというわけだ。


「雪哉を養子に…ですか?」

 頷く牛島機長に、信隆は嬉しそうに笑んだ。

「雪哉が聞いたら喜ぶでしょうね。そんな風に思ってもらえてるなんて」

「それなら、進めてもいいんだろうか? 華ちゃんも是非にと言っていることだし」

 けれど、穏やかに笑んだまま信隆はその話に待ったを掛けた。

「キャプテン、そのお話し、少し待って頂けませんか?」

「…何故、だ?」

 今し方、喜ぶだろうと言ったばかりなのにと、機長が眉を寄せる。

 そんな彼に、信隆が口にしたのはあまりにも意外な言葉だった。

「雪哉は今、恋愛中なんですよ」

 その言葉に、機長は飛び上がった。

「ゆ、雪哉が?!」
「そんなに可笑しいですか?」

 あまりのリアクションに、信隆が笑い出す。

「…いや、まあ、見た目はオコサマだか、雪哉も歴とした成人男子だからな…」

 ドサッと腰を落とし、はあっ…と、大きな溜め息をつき、今度は身を乗り出してきた。

「で、相手は誰だ? キャビンクルーか? 両想いか? まだ片想いか?」

 矢継ぎ早に尋ねられ、信隆は『まあまあ、落ち着いて下さい』と、笑いながら制す。

「クルーであることは確かです。ただ、両想いなのに、まだお互いの気持ちを知りません。特に『相手』は完全に片想いだと思い込んでいますね」

 信隆の言葉に牛島機長は目を見開いた。

「なんだそりゃ。それなら教えてやれば良い事じゃないか。…ってか…」

 言って、不意に機長は言葉を噤んだ。

「キャプテン?」

 どうかしたのだろうかと首を傾げてみれば、言い難そうな言葉がポツポツと紡がれた。

「…いや、その、ある人物を…だな、思い出して、しまって…」

「ある人物…ですか?」

「…ああ。俺の目には、そいつはかなり雪哉に参ってるように見える。煮詰まってると言っていいくらいにはな。ただ、雪哉の気持ちがヤツに向いているかどうかは…」

 雪哉は『特定の感情』を表に見せない。
 ゆっきーはいつも『みんな大好き』…なのだ。

 しかも、『そいつ』と雪哉は『上司と部下』で『同性』だ。

 確かに世間的には受け入れられ難い関係だろうけれど、でも、本気ならば応援してやろうと思っていたのだ。

 あいつが『本気』なら、それはきっと『永遠』に違いないから。


「ってことは、あいつは失恋確定なわけ…か?」

 ついに恋を覚えたかと喜んでいたのだけれど、それがすでに失恋確定とはあまりに残酷で、雪哉が幸せになるのは嬉しいが、そちらの落胆を考えるとやはり気持ちは塞ぐ。

「いえ、その人とこそが両想いですよ。確実に」

 確信に満ちた声で言われ、牛島機長は目を丸くした。

「…都築、お前って…」

「はい?」

「今の俺の話で誰のことかわかったってのか?」

「ええ、もちろんです。見合い話が持ち上がっているバツイチのイケメンキャプテンのことでしょう?」

「…さすがだな…」

 お前には敵わんよ…と、呟き、見合いをする気はさらさらなさそうだぞ?…と、追加情報を牛島機長はくれた。

「ええ、もし見合いをするなんて言いだしたら、ぶっ飛ばしてやろうと思ってたところです。まあ、万が一にもそんな気にはならないだろうとは確信してましたけど」

 あの頭の中は、『飛ぶ』ことに使う以外の部分は、雪哉の事で覆い尽くされているはずだから。

「ただ、2人とも、最初から諦めてしまっているんですよ。色々とハードルが在るものですから」

 そう、確かにハードルが多いことは理解ができる。だが…。

「それはわかるが、何とかならんのか? 俺もできる限りの手を貸すぞ」

 養子にまでしようと言うくらいなのだから、何でもできると胸を張ってみせる。

「キャプテンに手助けいただければ百人力ですが、ここはやはり、本人に頑張ってもらうのが最良かと思いますし、実は…」

 信隆が極上の笑顔を見せた。

「明日の約束を取り付けています。ここで一気に押し込んで、必ずなんとかしてみせますよ。私にとっても、どちらも大切な人ですから」

 そう言われて牛島機長はやっと笑顔を見せた。

「お前がそう言うなら、俺は幸せな報告を待つことにするよ」

 雪哉が幸せを掴む日はもうすぐなのだと信じ、そして、その先もずっと2人の良き理解者で在ろうと心に誓って。



 それからしばらくの後、敬一郎が牛島家を訪れた。

『雪哉と家族になろうと思います』

 そう告げた敬一郎に、華が『良かった』と泣き出した。 


おしまい。

☆ .。.:*・゜

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