「埋み火」
~氷解~
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雪こそ降らなかったものの、今朝の冷え込みは尋常ではなかった。 京都の冬の怖いところである。 穏やかに晴れ渡っているのに、空気は凍てつき、氷の薄膜を張った石の階段は、慣れない者の足取りを阻む。 正月3日。 赤坂良昭は、初めて体験する京都の冬を、ドイツに似ているなと感じながらゆっくりと階段を上っていく。 良昭が知っている京都は、この地が最も美しい5月から6月にかけての2ヶ月だけ。 しかし、許されるのなら、あの人と、桜咲く春も、うだるような夏も、紅葉美しい秋も、そして底冷えする冬も一緒に渡っていきたかった。 今、良昭が吐く息は当然白く、耳は引きちぎられそうに痛む。 だが、心の中は高揚していた。 この階段の先には、綾乃が、いる。 探し続けた人。忘れられなかった人。 あと1年早くわかっていれば…。何度もそう思った。 しかし、綾乃は喜ばなかっただろう。 何もかも承知で身を引いたのだ。 二度と会わない。そう決めて。 最後の数段を登り切ると、視界が広がった。 澄み切った空気を覆うように木々が茂り、それに守られるようにして多くの墓標が肩を寄せ合っている。 良昭はコートのポケットから紙切れを出した。 簡単に引かれた線が、道を示す。 簡単ではあるが、とてもわかりやすく書かれたそれをジッと見つめ、あたりを見渡すと、もう、道が見えてきた。 良昭は改めて地図を書いてくれたあの人に感謝し、また歩を進めていく。 朝早いことも手伝っているのだろう、杜を一つ隔てた神社の正月の賑わいもここまでは届かず、墓標の群はひっそりと息を潜めている。 目的の場所が近づくと、鼻孔をくすぐる僅かな煙が漂ってきた。 不思議と心を落ち着ける、柔らかい線香の香り…。 目的の場所には、先客がいた。 彼女は跪いて、静かに手を合わせている。 墓石の前には、真新しい真っ白な菊と百合の花。 微かに、良昭が踏んだ砂利の音を耳にして、彼女は顔を挙げる。 「良昭…」 「香奈子…」 お互いに、逢うはずのない場所で思わぬ顔を見て、困惑の色を隠せない。 「どうして…? いつ、ドイツから」 「きみこそ、どうして京都に」 しばし顔を見合わせてから、どちらからともなく小さな笑いを漏らす。 「僕は、昨夜帰ってきた。ニューイヤーコンサートも終わったから、無理やり1週間のオフをもぎ取ってきたよ…」 いいながら、墓石に近づくと、香奈子は立ち上がって場所を譲った。 「私は、年末から来ているのよ。葵と悟、守も一緒。午後には昇と直人くんも来るわ」 「じゃあ、栗山さんのところに…?」 「そうよ」 良昭は墓前に跪く。 「良昭も、初めて来たのね…」 「ああ…。栗山さんに教えてもらったんだ」 そう言って、ジッと墓石を見つめる。 「私、お先に失礼するわね…」 しかし、踵を返そうとした香奈子を良昭が止めた。 「ここに…いてくれないか…」 それはあまりにも意外な言葉だったため、香奈子は返す言葉に詰まり、そして立ち尽くす。 「僕は、しばらく活動拠点を日本に移すことにした」 その言葉は、香奈子に向けて言ったものか、それとも…。 「子供たちが、見えるところにいたいんだ…」 「良昭…」 「彼らからは見えなくていいんだ。あの子たちには君がいるから…。けれど、せめて見守っていたい…。何も出来ない、ダメな親だけれど…」 そう言って、良昭は静かに手を合わせた。 静寂に包まれる二人と、そして先に…逝ってしまった者。 「綾乃は…僕を許してくれるだろうか…」 ポツンと落ちた呟きに、香奈子はゆっくりと頭を振った。 「許されないのは私の方よ…」 「香奈子…っ」 良昭は驚いて立ち上がる。 傷つけたのは自分。そう、綾乃も、香奈子も…。 しかし、香奈子は良昭に構わず続けた。 「心から愛した人と、他人の手で引き裂かれて…。そして…あんなに可愛い子を残して逝かなくちゃならないなんて…っ」 「香奈子っ、それは、君のせいじゃない。悪いのは僕だ。何もかもっ」 けれど、香奈子は大粒の涙を落とした。 「でも、私は生きてる。子供たちに囲まれて生きてるのっ。でも、でも、綾乃さんは…っ」 訴える香奈子の肩を掴んで、良昭が何かを言おうとしたとき、フワッと風が抜けた。 動きを見せない空気の中に、そこだけ温かく。 そして、それは墓前に供えられた百合の香りを運んで…。 二人はそれを感じ取り、墓石に目を向けた。 小さく菊の花が揺れる。 香奈子は再び、墓前に跪いた。 「綾乃さん…。葵くんは、私が必ず守って見せます…。だから…」 そうして再び両の手のひらで顔を覆う。 「だから…」 良昭もまた、香奈子の隣に跪き、綾乃に語りかける。 「安心して…綾乃…」 杜の木々の間から、冬の柔らかい日差しが差し込んできた。 凍てついた空気が緩む。 「綾乃…また来るよ…」 そう良昭が声を掛けると、香奈子は静かに頭を下げた。 そして、良昭も香奈子も、一度だけ振り返って、そして墓所を後にした。 僅かに温もり始めた空気の中、小鳥がやっと小さな声で鳴き始める。 東山の山懐の墓所からは、京都の町が見渡せる。 それを目にしながら、良昭と香奈子は、何も言わずに並んで歩く。 そして、二人でゆっくり降りる階段の遥か下に、小さな人影が立った。 こちらをジッと見上げる瞳が、柔らかく微笑んでいる。 それはあの日、風薫る加茂街道で、良昭を捉えた瞳と同じ優しさを、静かに湛えていた。 『おおきに。これ、よかったらどうぞ』 皐月の風に、差し出された緑濃い葵の葉が、揺れて……。 葵がこの世に生を受けて16度目の京都の冬。 背負ってきた物のすべてが、ゆっくりと氷解していく。 そして、新しく生まれた絆に、大きな虹を掛けて…。 かあさん、僕は元気だよ。 そして…とっても幸せだよ。 |
完