50万Hits感謝祭

昇きゅんの
『コンサートマスターはつらいよ』





「ん…っ」

 背中から突き抜ける痺れに、僕は思わず鼻にかかった甘い声を出してしまう。
 すると、それに応えるように、僕の背中や肩、腕、腰のあたりを彷徨っているたくさんの手のひらが、また熱心に動き出す。

「あ…、あぁっ…そこ、もっと…」

 さらに強い刺激を求めて、僕が煽るように声を上げると…。

『ごくっ』

 ………誰だ。今、生唾飲み込んだヤツは……。

「やっ、いた…っ」
「あっ、すみませんっ、きつかったですかっ? つい…」

 つい…、なんだよ。

「ばかっ、先輩の肌、柔らかくて白いんだから、跡つけんじゃねーぞっ」

 そうだね。
 変な跡でもつけようものなら、『顧問の先生』がうるさいからね。

 だいたい、この『聖陵学院管弦楽部的伝統行事』ですら、『顧問の先生』はいい顔をしない。
 こと、僕だけに関しては。 



 僕は桐生昇。高校2年生。
 ついでに言うと、全員血液型の違う4人兄弟の上から二番目。

 音楽家の両親の元に生まれてしまった上から3人の兄弟は、みんな3つの時からピアノとヴァイオリンをたたき込まれてきた。

 けれど、3ヶ月上の兄・悟は5歳ですでにヴァイオリンに見切りをつけて、それ以来ピアノ一筋。

 3ヶ月下の弟・守は5歳でピアノに見切りをつけ、8歳でヴァイオリンをチェロに持ち替えてからはチェロ一筋。ちなみにチェロを選んだ理由は『やってる友達が誰もいなかったから』だそうだ。

 そして、僕は3つの時からずっとヴァイオリンをやってる。 
 ピアノは別に嫌いじゃないけれど、悟が弾いてるのを聴く方が好き…かな。



「んんっ…あ、そこ…っ」

 一番キモチのいいツボを誰かの指がヒットした。

「昇先輩はここがいいんだよ」

 ん? 今の声は…。

 大きなソファーにうつぶせた状態から、少し頭を捩って振り返ってみれば、そこには一番下の弟、葵の姿が…。

 事情があって、この可愛い弟は、世間的には僕ら兄弟の中にカウントされていないんだけど、僕らにとってはかけがえのない大事な弟なんだ。


「へ〜、葵、よく知ってるな」
「この前、昇先輩に教えてもらったからね」

 言いながらも、葵は僕のツボを押していく。

 華奢に見えるけど、葵は結構力が強い。
 …ううん、力が強いんじゃなくて、きっと押さえどころを知っているんだろう。
 だから、本人は『何時間マッサージしてあげても僕は全然疲れないよ』っていつも言うんだ。


「え? いつの間にそんなこと教えてもらったんだよっ」
「怪しいぞ、葵っ」

 アヤシイも何も、冬休みには兄弟で肩の揉みっこしてたもんね。

 俯せた僕に葵が馬乗りになって『昇、ここどう?』『あ、そこ…いいっ』…な〜んて言う、ここにいる連中が見たら鼻血を吹きそうなシチュエーションも毎晩だったし。
 あ、反対のパターンもあったんだよ。もちろん、悟の目を盗んで…ね。

 ま、ここでそれをやると本当に大騒ぎになっちゃうから、葵も心得ていて『後輩』として遠慮がちに横から僕の肩をマッサージしてくれてるんだ。 
 






 音楽ホールにある『生徒準備室』の大きなソファー。

 ここは、普段は誰でも座っていいんだけど、合奏練習直後は僕の専用になる。

 そう、僕はここで、後輩たちからマッサージしてもらってるんだ。
 もちろん当番は交代制。
 そうでもしないと、誰が僕に触るかで喧嘩になっちゃうから。

 え? 悟も守もこんな美味しい目にあってるのかって?
 ううん。これは、今は僕だけの特権。

 僕が管弦楽部のコンサートマスター(略してコンマス)になるまでは、先代のコンマスの特権だった。

 何故かって?

 そりゃあ、コンマスっていう立場がそれほど過酷だってことさ。
 だから『聖陵学院管弦楽部的伝統行事』にもなってるってわけで…。

 …ってことで、ここからが今日の本題。

 オーケストラのコンサートマスターってのはいったい何をする人か?

 僕が合奏中にどんなことを考えて、どんな風に行動しているか、読んでみてね。

 題して『コンサートマスターはつらいよ』 

 はじまりはじまり〜!!



☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



「昇先輩! 集合完了です!」

 チューニング予定時間5分前。
 ま…こんなものかな?

 舞台上にメインメンバーが揃ったことを告げに来た後輩に、僕は頷いておもむろに立ち上がる。

 僕はコンサートマスター。
 つまり第1ヴァイオリンの首席奏者だ。

 客席から見ると、指揮者の向かって左側。最前列の手前が僕の定位置だ。

 オケによって弦楽器や管楽器の配置は若干違ったりすることもあるんだけど、世界中何処のオケでも第1ヴァイオリンとコンサートマスターの位置だけは変わらない。

 そして、コンマスは奏者の中の最高責任者だから、合奏中だけは3年の先輩方よりも、部長よりも僕の方が『絶対』なんだ。
 場合によっては指揮者よりも『絶対』な存在になるときすらあるくらいだから。
 


 僕が舞台に上がると、それぞれバラバラにかき鳴らされていた『ウォーミングアップ』の音がぴたっと止まる。

 僕は自分の場所にたち、楽器を構えて、フルートの首席である葵と並んで、管楽器の最前列のど真ん中にいるオーボエの首席奏者にチューニングを促す。

 チューニングって言うのは、全員が同じ音を鳴らして、音程――厳密に言ってしまうと『周波数』――を『442Hz』にあわせる作業のことだ。コンマスにとって重要な役目の一つといっていいだろう。

 これがきちんと出来ていないと、どれだけ楽譜通りに演奏しても美しいハーモニーは望めないから、ここは迅速かつ正確さが要求されるところだ。

 チューニングの基本になる音は、『ラ』の音だ。楽器によって、オクターブは様々だけど、みんな『ラ』に合わせるんだ。

 そうそう、ここで雑学を一つ。

 日本の学校教育では普通教えないようだけど、音楽の世界では『ドレミ』を使わずに『CDE』っていう風にローマ字を使う。

 ちなみに読み方は『C(ツェー)D(デー)E(エー)』。
 英語読みじゃなくてドイツ語の発音なんだ。

 間違えやすいのは『ミ』に当たる『E(エー)』と『ラ』に当たる『A(アー)』。

『エー(ミ)』といわれてとっさに『A(ラ)』を思い浮かべてしまうのは、入部したての中1がよくやることだ。ま、すぐになれるけどね。


 あっと、寄り道しちゃったね。

 オーボエが正確な『A』を鳴らしてくれるのを受けて(どうして最初に『A』を鳴らすのがオーボエなのか…は、実は諸説あって定かなものはない。今となっては『習慣』かな?)、僕は自分のヴァイオリンの『A』を合わせる。


 僕が音を合わせ終わると、オーボエは吹くのをやめる。

 そして、今度は僕がステージ上の奏者全員に向かって『A』を鳴らし、みんながそれを受け取るんだ。
 このやり方も楽団によってさまざまなんだけれど、うちでは管弦一斉にチューニングする。

 僕はここでも神経を集中させる。

 少しでも合ってない音を見つけると、その奏者に向かって合図を送ったりすることもある。
 弓の先で示すんだ。『高いから少し下げて』とか『低いから少しあげて』とかね。

 もっとも、聖陵学院管弦楽部でメインメンバーになれるようなヤツにはその必要はほとんどないんだけど。
 みんな、耳も訓練されているからね。

 そして、この時僕がもう一つ注意するのは、舞台に並ぶ全員の様子…だ。
 学年も終わりに近いと、メインメンバー同士も気心が知れてくるし、1年間をやり通してきた自信からか、不要な緊張もみられなくなってくる。 
 
 けれど、学年初めなんて酷いものなんだ。
 前年度から引き続きメインメンバーをやっていても、隣に座る人間が卒業や序列の入れ替えで交代したら、それだけで辺りの雰囲気はがらっと変わる。
 
 まして、初めてメインメンバーに入ったヤツなんかは、緊張でがっちがちになってて、そりゃあみてても可哀相なくらいなんだ。

 そんなヤツの緊張をほぐすのも、自分の役目だと僕は思ってる。
 え? どうするかって?
 
 そんなの、ウィンク一発でOKだよ。
 パチンと片目をつぶってニコッと笑えばたいがいのヤツは力が抜けちゃうからね。
 
 もっとも、この方法、顧問の先生からはあんまり歓迎されてないけど。






 さて、チューニングが終わると僕も席について、指揮者の登場を待つ。
 今日は直人…顧問の光安先生だ。

 指揮者とコンマスは絶対の信頼関係で結ばれてる事が望ましい。
 コンマスの主な役目の一つは、『指揮者を助けること』だからだ。

 あ、直人が来た。

 指揮者が指揮台にあがると、全員起立してきちんと挨拶するのがうちの決まりだ。
 全員で元気よく『よろしくお願いします!』って言うんだけど、これは相手が先生であろうと悟であろうと同じだ。

 指揮者は指揮者。これからの練習の『絶対的存在』だから。

 そして、もし、指揮者が外部からの客演だったら、ここでコンマスに握手を求める人がほとんどだ。
 演奏会じゃなくても握手するんだよ。
『今日の練習、よろしく』って意味でね。


 
 今日も元気よく挨拶して練習に入る。
 今やってる曲はブラームスの交響曲第1番。
 ベートーヴェンの最後の交響曲、『第9』の後を継いだ最初の交響曲っていわれるくらいの名曲だ。
 ちなみにこの曲の2楽章にはコンマス…つまり僕のソロがある。弾いていてすっごく気持ちいい曲だから、僕は大好き。





「今日は2楽章から」

 そう告げてタクトを構える直人。僕は内心『やったね』って喜ぶ。

 ゆっくりと振りおろされる3拍子に乗って、まずは弦楽器とファゴットが旋律を奏でる。

 直人は僕っていうコンマスを信頼してくれているから、かなり僕の自由に弾かせてくれる。

 そんな僕の弓や身体の動きにも注意して、他の弦楽器奏者は弾くんだ。
 だから、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの首席奏者は、場合によっては指揮者よりも僕を見ていることの方が多いって事もある位なんだ。

 つまり僕は、弦楽器のまとめ役でもあるということだ。

 特にピチカート(弦を指で弾く奏法)の時は、指揮者のタクトよりも僕のタイミングが優先されるから、全員が僕の動きに注目している。
 
 だから、僕はそう言う場面では特にわかりやすく身体全体でタイミングを伝えるんだ。

 そうそう、特にチェロの首席奏者は真っ正面に座ってるってこともあり、低弦を束ねる重要な役どころだからよく目で合図を送り合う。

 ちなみにチェロの首席奏者は守だ。

 兄弟だからってこともあるのかな?
 ほんとに目が合った瞬間に守の考えが流れて来るんだ。
 ここはもっとオーバーに! …とか、ここはもっと慎ましやかに…とか。

 それで演奏がピタッと決まったときの満足感って、ほんとに何ものにも代え難い大切な宝物だ。

 


 曲が進み、オーボエとクラリネットのソロが入る。
 そうなると僕たち弦楽器は伴奏役に徹して、ソロを引き立てる。

 やがて管楽器のアンサンブルでテンポが揺れるところになると、直人は管楽器の方へ向けてテンポを送る。

 そんなときも僕の役目は大きい。

 だって直人ったら『私が管楽器に掛かりきりの時は、弦楽器は任せるからな』なんて言うんだもん。

 そこまでコンマスに頼ってもいいの?  って言いたいけど、これも信頼してくれてるからだよね…ってちょっぴり嬉しかったりして。




 あ、絶妙のタイミングでフルートが入った。
 今のところなんか、一年前だったら何度も練習を重ねないと上手くいかないところだったと思う。
 去年卒業した先輩も上手かったけど、葵の比じゃないから。
 
 葵が入ってからというもの、指揮者も僕も木管楽器についてはかなり楽させてもらっている。
 だって、弦楽器が僕に任せられているように、木管楽器も葵に任せられるから。

 もうすぐ卒業するオーボエの坂口先輩もむちゃくちゃ上手い人だけど、統率力という点で葵には負けてると思うし。


 そう、葵も時によっては僕と同じように、楽器と身体を揺らして木管楽器全員に合図を送ることがある。

 たとえば、弦楽器が普通の8分音符を弾いている上に、木管が3連符を重ねる…なんて言う、かみ合わないリズムのときなんかがそれだ。
(注:同じ1拍の中で、弦楽器が均等に2つ音を鳴らし、管楽器が均等に音を3つ鳴らすってこと。2:3だから当然かみ合わないよね)

 指揮者はどちらかのリズムしか振らない。

 もし、指揮者が8分音符のリズムを振ったとしたら、それに合わせて3連符のリズムを作るのは葵の役目になるというわけだ。

 反対に指揮者が3連符のリズムを振ったなら、8分音符のリズムを作るのは僕の役目になるってことだ。

 もちろん他の奏者も全員、自力で正しいリズムは取れるんだ。けど、正確なだけのリズムじゃおもしろくないだろ?

 リズムに気持ちがこもったとき、どうしても揺れ動くそれぞれの個性をまとめ上げるのが首席の役目…ってことだ。


 ほら、今も葵は、僕と指揮者を見ながら身体と楽器の揺れで後ろへ合図を送り、他の木管奏者はその葵を見てタイミングをとっている。

 ここもやはり、葵とその他の奏者の信頼関係で成り立ってるんだ。
 そう思うと、管楽器における葵のカリスマ性ってのは、父さん譲りなのかな…なんて思ったりして。




 こうして、やがて第2楽章は終結部へ入っていく。

 僕のソロが始まり、伴奏に回った全員が僕の動きに注目して慎重に音を紡ぐ。

 こういう場面では、指揮者ですら僕に合わせる。
 だから僕はすごく気持ちがい………ん?

 おい、こら…ホルンっ!! リズムがずれてるじゃないかっ!
 僕が一番難しいところを弾いてるのに、邪魔するんじゃなーい!!!

 …ったく…。

 うちの金管は、ちょっと押さえが利かないところがあるんだよな。
 今のところ、木管における葵の様な存在がいないからだ。

 けど、僕はトランペットの羽野あたりがいい線いくんじゃないか思ってるんだ。
 中学の時は目立たない子だったけど、高校に入ってから驚くほど伸びたし、確かにかなりいいものを持ってるようなんだ。それは悟も認めてる。

 ただ、羽野本人が『意欲』はあるんだけど『TOPに立ってやる』って野望がまったくないってことがちょっとネックかな?
 なにしろ高3と高2のトランペッターが羽野のこと溺愛してるからなぁ。

 …って、ちらっとトランペットの方を見ると……。

 2楽章は出番がないからって寝てんじゃないっ!





 …とかなんとかやってるうちに、演奏時間9分弱の第2楽章は終わった……。

 たった9分なのに、ぐるぐる考えながら弾いてたらめっちゃ疲れた…。
 第4楽章は15分もあるのに…。

 あ、もしかして直人、最後に全楽章通すとか言わないだろうな…。

『ブラームス作曲:交響曲第1番 ハ短調 作品68』

 ……全楽章通して約45分間、コンサートマスターに気を抜ける瞬間は……ない。







 やっと3時間の部活が終わった。

 今日はさらに念入りにマッサージしてもらっちゃおうと思いながらステージを降りた僕を、悟がスコア(総譜)を片手にちょいちょいと手招きをする。

 う。イヤな予感が……。
 そう言えば悟のヤツ、今日は中学生の練習に行かずに、ずっと客席の後ろで聴いてたからな……。

 オケの中で怖いものなしのコンサートマスター。

 でも、実は、僕が一番怖かったりするのは、悟の『ダメ出し』だったりして…。



END

(2002.7.4)


 桜はるかさまからいただいたご質問で思いついたSSですv
  
 『コンサートマスター』という謎の存在(笑)について、できるだけわかりやすく、面白く(?)お話にしてみました。
 もちろん割愛していることも、わざと掘り下げていないところも多々ありますので、詳しいことをさらに知りたいとおっしゃる方は、管理人までメールを下さいませ(*^_^*)
 
 はるかさま、ご協力ありがとうございましたvv


『コンサートマスターは辛いよ』 UP後に寄せられたご質問に昇がお答えしますv
*どうしてチューニングの「ラ」は442Hzなんですか?
 昇:実は、『今』が442Hzなだけなんです。しかも、最近の傾向では443Hzになりつつあります(笑) これは昔から徐々に上がってきてるんです。 ちなみに約200年前の「ラ」は415Hzくらいだったんですよ。 そうそう、世界中のオケがすべて442Hzでチューニングしてるわけでもないんですよ。 もっとも多いと思われるのが現在は442Hzってことなだけです。

*最初に音を鳴らすオーボエの人はどうやって正確なAを出すんでしょう。
 昇:絶対音感のある人なら、頭の中に浮かんだ「A」を出すんだと思いますよ。 でも、プロでもチューニングメーターか音叉(コンって叩くと「ラ」の音がでる金属棒)を使ってる人多いと思います。 それと、本番ステージでは、たいがいの奏者は舞台袖でそれぞれメーターなどで各自チューニングを済ませていることが多いです。 本番の舞台上でのチューニングは儀式的な要素が強いです。

*羽野くん、出番がないからって寝ちゃってたようですが(笑) 実際にもそういうことってあるんですか?
 昇:お答えから言うと、『あります』(笑) でも、これは出番がないから寝てるのではなくて、音の洪水の中で、やることなく座ってると次第に激しい睡魔に襲われて…ということなんです。
 僕ら弦楽器奏者は弾きっぱなしなので考えられませんが、葵でも『長い休みがあると眠くなるときがある』っていいますよ。 あ、でもラベルの『ボレロ』をやった時は、最初からずっとヴァイオリンは休みだから眠くなったっけ(笑) もも♪さんは?
 もも:私、この前『ブラームスのピアノ協奏曲第1番』の練習中に爆睡かましちゃったv 
 昇:爆睡〜?
 もも:だって、出番少ないんだもん。2小節吹いたら30小節休みとか、そんなんだもん〜。
 昇:…羨ましい…。僕ら弾きっぱなしなのに…。

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