〜楽興の時〜
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葵、祐介、そして桐生家の3兄弟が光安に呼ばれたのは、夏休みが終わって数日経った、金曜日の部活のあとのことだった。 光安はまず、祐介と3兄弟に向かって言葉をかけた。 「伊藤治樹(いとう・はるき)を覚えているか?」 一瞬の間の後、悟・昇・守、そして祐介は顔を見合わせ、もちろんです…と言いたげに頷く。 「リサイタルの招待状が来ている」 そう告げると、4人は嬉しそうに声を上げた。 「帰ってこられたんですね」 そう言ったのは悟。 「うわー、すごい」 リサイタルのチラシをみて歓声を上げたのは昇。 「なんと、男前になって」 茶化したのは守。 「伊藤先輩って、こんな顔でしたっけ?」 ボケているのは祐介。 いくら同じパートだったとは言え、なにしろ自分が中1の時の管弦楽部長で、しかも首席奏者だった高3の先輩のこと。 雲上人の顔など、そうそう見つめていたわけではないのだから、あまり覚えがなくても責められはしないだろう。 「呼ばれなくても冷やかしに行ってやるつもりだったんだが、電話をよこしてきてな。桐生家の3兄弟に会いたいんだそうだ。それと…」 光安は言葉を切って、葵の方を見る。 葵はキョトンと目を見開く。 「今のフルートパートのワン・ツーペアを連れて来いとさ」 つまり、首席と次席の奏者を連れてこいと言うことなのだ。 「というわけで、来週の金曜日、部活が終わり次第行くからな。そのつもりで」 校舎からの帰り道、葵は『伊藤治樹』なるフルーティストの情報を祐介から仕入れていた。 『伊藤治樹』は21歳。中学3年でフルートパートの首席になり、そのままその位置を高校卒業までキープ。高校3年の時は管弦楽部長をつとめた切れ者で、卒業後フランスの音楽院へ留学した。 今回は海外で学ぶ若手アーティストに、選抜でリサイタルのチャンスを与えようという企画に招待されての一時帰国ということのようだ。 そして、1週間後。 リサイタルの会場は、最新の音響工学に基づいて作られた800人規模の音楽専用ホール。 ソロ・リサイタルにはもってこいの器である。 定刻に聴衆の前に現れたフルーティストは、中肉中背、まだティーンの色の方が強い、どちらかというと可愛らしい顔つきの青年だった。 その夜のプログラムは、バッハに始まり、ヘンデル、モーツァルト、フランク、と、フルート・ソナタの名曲を取り揃えるという、気合いの入ったもので、アンコールは聴衆に対するサービスなのか、あまりにも有名な「ビゼー作曲:アルルの女より"メヌエット"」。 途中、休憩をはさんで2時間弱の、若さに満ち溢れた精力的なステージは成功に終わり、聴衆が心地よい余韻に身を委ねながら家路につく中を、葵たちは光安に連れられて楽屋へ向かっていた。 「よっ、お疲れ」 数年ぶりの再会とは思えないほどぞんざいな口調で光安が声をかける。 その声に、若きフルーティストはステージの疲れを僅かに滲ませた顔を輝かせた。 「先生!」 「がんばってるじゃないか」 教え子の活躍する姿…それは教職に身を置くものにとって、何よりの喜びだ。 一回りも二回りも成長して帰ってきた治樹を見て、光安は素直に喜しいと感じられる。 「ぜんっぜん、変わってませんね、先生」 『変わってなくて、嬉しい』と、治樹の表情は正直に告げている。 「バカ。お前が卒業してまだ3年足らずだ。こっちは大人なんだぞ。そうそう変わってたまるか」 そう、まだ、たったの3年足らず。 しかし、光安と治樹が出会った日から数えると、もう8年の時が流れたのだ…。 |
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『すべて任せる』 『すべて…ですね』 『ああ』 『では、今後私のやり方には一切口を出さないでいただきます。それでもいいんですね』 『…かまわん』 私立聖陵学院の看板であったはずの管弦楽部は、その時、創部以来の危機に直面していた。 前任であったベテラン教師の突然の病。 その後赴任してきた教師の指導力不足。 『聖陵学院・管弦楽部』の力量にあった教師を得られないままに過ぎた1年あまり。 指導者のいない管弦楽部は、恐ろしいほどの勢いでその実力を落とし、生徒たちの意気も消沈していく一方であった。 そして迎えた2学期。 光安直人はやって来た。 私立の有名音楽高校からの引き抜きであった。 条件はただ一つ。 『すべてを任せること』 9月2日。二学期初日の放課後の音楽室。 光安は一つ深呼吸をして、分厚い防音ドアを開けた。 院長が『生徒たちに紹介しよう』と言ったのも断り、単身乗り込む。 溢れ出る洪水のような雑音…。それは酷い有様だった。 好き勝手に鳴らす楽器の吐き出すものは、音楽どころか、これではとても『音』とは呼べない。 「自覚のない音は出さないでもらおう」 若い教師のその声は、雑音の中、はっきりと聞こえた。 一瞬のうちに静まり返る音楽室。 生徒たちの前に立つのは、今朝、始業式で紹介されたばかりの新任教師。 上級生、特に高校生たちの失望の色は濃かった。 憧れて入った、管弦楽部。 なのに、顧問が倒れてから1年半、代わりをつとめた若い教師はなんの役にも立たなかった。 頼りになる新しい教師を切望し続け、そうしてやって来たのはまたしても若い教師。 しかも、この尊大な態度。 「今朝始業式で眠っていなかった諸君には今さらだが、私は今日から君たちの顧問をつとめることになった光安直人だ。大学時代の専攻はピアノ。質問があれば聞く。なければ練習だ」 相変わらず静けさが支配する音楽室。 生徒たちをグルッと見渡すと、光安は再び口を開いた。 「質問はないようだな。ではこれからパート毎に楽譜を配る。譜読み時間は15分だ」 光安は各パートのパートリーダーを呼びつけ、楽譜を渡した。 「その後、各パート序列順に一人ずつ演奏してもらう。その結果で序列を入れ替える。いいな」 そう言ってさっさと音楽室をあとにした。 防音ドアを閉める直前、背中を押したのは、生徒たちのどよめき。 そのほとんどが、有無を言わさぬ横柄な態度に対する不満の声だったが、その中に僅かばかり混じっているのは…『この人ならやってくれるかもしれない』という淡い期待…。 光安のやり方は、文字通りの『ワンマン』そのものだった。 一人で序列を変え、曲を決め、練習スケジュールを組み……。 10月に入り、部長を始めとする役員が3年生から2年生に交代しても、彼らの意向はまるっきり無視されて、光安は一人で突っ走った。 鉄仮面のごとく、無表情に生徒を追い上げ、追い込み、絞り上げる。 当然上がる生徒たちの不満。 しかし、それも程なく下火となっていった。 それは…管弦楽部が見る間に蘇り始めたからである。 そして迎えた12月24日。 新生・管弦楽部を強烈にアピールし、光安がその指導力を見せつけた、年に一度の定期演奏会が終わった夜のこと…。 「おい、伊藤」 光安が声をかけたのは、中学1年生の伊藤治樹。 未だ小学生の面影を残している治樹は、小学校のブラスバンドで吹いていたというトランペットを、今、管弦楽部でも吹いている。 序列は8人いる奏者の中で一番下。 これからもその序列が上がることは望めそうもない。 「はい…」 治樹は小さく返事をして、光安の元にやって来た。 「ちょっと来い」 光安は治樹の腕を掴み、自分の私室へと連れ込んだ。 初めて入る顧問の部屋に緊張したのか、治樹は所在なさげにドアの前に佇む。 「これ、吹いてみろ」 そんな治樹の目の前に、光安がいきなりつきだしたのは、銀色の管。 20cmほどの細い管の左端には、楕円の穴があいている。 「これ…」 小学校でブラスバンドに所属していた治樹にはもちろん見覚えがある。 しかし、これは…。 「先生これ、フルートの…」 「そうだ。頭部管だ」 指で押さえるべき『キー』のついている胴部管と足部管が組み立てられていない、まさに『笛』の部分だけのフルート。 「鳴らしてみろ」 言われて治樹はおずおずと唇をつける。 もちろん吹いたことなど一度もない。 けれど、この威圧感たっぷりの大人に向かって『嫌だ』とは死んでも言えない。 意を決し、やり方もわからないままに、とりあえず息を吹き込む。 トランペットよりも抵抗が少なそうだから、その分より多くの息を…。 とたんに笛が音色を発した。 「あ…」 それはそれは、柔らかくて暖かい音だった。 「ふん…やっぱりな…」 呟くと、光安は治樹の手から笛を取り上げ、残り二つのパーツを合体させて、今度は完全なフルートにした。 「今度はこれだ」 治樹の手を取り、それを構えさせる。 慣れない楽器に、治樹の手は思うように管体を支えられないが、それでも光安はお構いなしに作業を進める。 「よし、このままでもう一度鳴らしてみろ」 言われるまま、操り人形状態で治樹は再び息を吹き込む。 やはり、暖かい音が出る。 二つ三つ鳴らしたところで、楽器は取り上げられた。 「思った通りだ」 光安はそういうと、治樹の頬に手を添えた。 そして、親指でそっとその小さな唇の形をなぞる。 「せんせ…い」 目を見開く治樹に、光安は微笑んだ。 「お前は明日からフルート奏者だ。この楽器を貸してやるからしっかり練習しろ」 「え…?」 「お前の唇は、トランペットよりフルートの方が向いてるんじゃないかと思っていたんだ。 基礎練習や楽器のことは首席の長野が教えてくれる。真面目にやれば、高校へ行く頃には首席になれるからな。………おい、伊藤、聞いてるのか」 聞いてはいた。が、治樹の頭はパニックだった。 突然のパート変更。しかも教えてくれるのは高校3年の先輩。 その上、光安は『首席になれる』と言い切ったのだ。 そして…何よりも治樹をパニックに陥れたのは、光安の微笑みだった。 光安が赴任して来て4ヶ月。 一度も見たことのない顔。 (先生…笑うんだ…) 冬休みが明けて、パニックから立ち直った治樹は、今度は何故か光安にじゃれつきまくった。 誰に聞いても『見たことがない』という、光安の微笑みを見てしまったことが無性に嬉しかったのだ。 そして、その治樹の犬っころぶりは他の部員にも少なからず影響を与え始めていた。 じゃれつかれる光安がじゃれまくる治樹に向ける、照れくさそうな顔、面倒くさそうな顔、不機嫌そうな顔…そして、時々見せる嬉しそうな顔。 ともかく無表情でいる時間が少なくなった。 …となると、もとより麗しき校風の私立聖陵学院。 指導力抜群の若い教師、しかも長身男前とあっては人気の出ないはずがない。 「どういうことだっ、これはっ!」 2月14日。机に山積みのチョコレート。 ここはれっきとした男子校。しかも、有名進学校だ。 光安の中では、この学校は『質実剛健・清廉潔白・品行方正・成績優秀』の名門校のはずだったのに…。 正直、机に山積みのチョコレート…というシチュエーションには慣れている。 去年も一昨年もそうだったのだから。 しかし! 去年も一昨年も『共学校』いたのだ。 それも全校生徒の8割が女子という、私立の音楽高校。ノリはほとんど女子校だ。 当然机を埋め尽くすのは女生徒からのチョコレート。 光安はもちろん女生徒には優しかったのだが…。 (まてよ…。学食のおばちゃん…ということもある) そう思い直し、チョコを一つ一つ確かめる。 確かに、学食のおばちゃんからのもあった…が。 管弦楽部の生徒たち…それに、まるっきり見知らぬ生徒のものもある。 今年度は、年度途中での赴任ということもあり、光安は担任を持っていない。 教科担当と管弦楽部のみだ。 なのに、この数はいったい…。 呆然とする光安に、ノックの音が聞こえた。 「せんせ〜」 やって来たのは、犬っころの治樹だ。 「うわ〜、すごい。やっぱり先生が一番だ〜」 治樹は嬉々として机のチョコを眺めている。 「おい、他の先生方もこんなことになってるのか?」 「うん。…はい、これ」 頷いた治樹は、光安の言葉の意味を考えるでもなく、小さな箱をとりだした。 「先生、いつもありがとうございます」 お行儀よくお辞儀をしてその箱を捧げ出す。 「お前…おかしいと思わんか?」 「へ?」 「ここは男子校だぞっ」 光安が声を荒げるが治樹はキョトンとしている。 「どーしてですか? 僕は先生が好きだから、チョコを持ってきただけです〜」 「す…き…?」 光安直人、目が点。 「はいっ、みんなも先生が好きだから、こ〜んなにチョコが」 「好き…って…」 治樹は困惑する光安を見て、『よくわかんない』と思う。 何が先生を困らせているんだろうと。 『好き』って言葉が嫌いなのかな…と。 けれど、そんな人がいるとは思えない。 『好き』って言われたら誰でも嬉しい。 (先生…変だな、今日…) 頭を抱え込む光安を見て、治樹は、ま、いいか…とため息をついて部屋を出た。 こうして光安は、本人にとって極めて不可解な人気を博しつつ、聖陵に来て始めての卒業生を送り出したのだった。 そして春。新しい生徒を迎える季節がやって来た。 管弦楽部は元通り以上の実力をつけ、活気を取り戻していた。 そして、一年間の序列を決めるオーディション。 治樹はフルートを手にして僅か4ヶ月足らずで、ナンバー2、つまり次席の座に着いた。 「せんせい〜」 治樹の犬っころぶりは相変わらずだ。 2年生になってもなかなか幼さが抜けない。 「僕、がんばったよ」 「そうだな」 頭をくちゃっと撫でてやると、本当に子犬が耳を垂れたときのような表情になる。 「たくさん、いろんな曲を吹いてみたいな〜」 年に一度のオーディション。 誰もが一つでも上の席を目指して緊張した演奏を聴かせる中で、治樹だけは色合いの違う演奏を聞かせていた。 まるで、楽器を操ることそのものが嬉しいと言わんばかりに。 事実、治樹はトランペットでは思うように音が出せなかった。 やってみたいことはたくさんあるのに、思うように操れない楽器…。 それが光安のたった一言で、こんなにも楽しい毎日がやって来た。 「せんせ〜、大好き〜」 思わずしがみついて顔をすりすりしてしまう。 「お…おいっこらっ、治樹っ」 慌てて引き剥がそうとするが、これでなかなか治樹はしぶとい。 「えへへ〜」 見上げた治樹がニコッと笑う。 そんな表情を思わず『結構可愛いかも…』と思ってしまい、光安は慌てて頭を振る。 聖陵へ来て8ヶ月。 今や、流されまいと必死になる光安であった。 こうしてトランペット少年は、見事にフルート少年へと変身を遂げ、穏やかに、伸びやかに、いくつかの季節を渡っていった。 |
* フルートという楽器の簡単なご紹介 フルートは3つに分解出来ます。 しまうときは3つに分けてケースに入れます。 頭の部分(口を付けるところがある物)を頭部管(とうぶかん)いい、 一番長い、真ん中の部分を胴部管(どうぶかん)、 最後の部分が一番短く(13cmくらい)、足部管(そくぶかん)と 言います。 材質は主に『銀』で、他には初級モデルとして『洋白銀』、上級用として『金(純度はいろいろ)』、高級品として『プラチナ』などがあります。 また、最近人気なのが『木製』フルートです。(もともとフルートは木製だったので、今でも『木管楽器』に分類されています。) 『木製』の材質はクラリネットと同じ、『グラナディラ』であることが多いです。 |
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「な、治樹、最近光安先生が毎日自宅に帰ってるって知ってたか?」 それは昼休みに唐突に聞かされた話だった。 「自宅って…駅前のマンションのことか?」 ここは完成したばかりの管弦楽部専用の音楽ホール。 屋上は今や、部員のたまり場だ。 秋の乾いた風が気持ちよく吹き抜けていく。 治樹は手にした缶コーヒーを一気に飲み干すと、駅のある方向を見た。 周りに高い建物が少ないために、駅の方角はよく見える。 特に駅前のマンションは飛び抜けて高層だから視界の内だ。 ここからの距離は徒歩でだいたい15分。 「先生、マンションなんて荷物置き場だって言ってたけど…」 光安は舎監でもなんでもないのだが、教職員専用のフロアの中に部屋を2つ続きで持っている。 学院内で管弦楽部員の数は多い。 しかもそのほとんどが寮生だ。 そのためなのか、光安はほとんど舎監のノリで、自宅へ帰ることなく、学院内で生活をしている。 それが、毎日自宅帰りとは…。 「何か…あったのかな…?」 呟いた治樹に、情報をもたらした同級生は腕組みで答えた。 「治樹が知らないとなると、誰に聞いても無駄か」 光安が赴任して丸3年。 高校生になっても相変わらず治樹は光安の側に張り付いていて、管弦楽部員の間でも、『顧問のことは治樹に聞け』と言われるほどだ。 「俺、聞いてくるっ」 たまらず、治樹は駈けだした。 自分が知らないことなど、あっては困る。 何が困ると聞かれても困るのだが、困るものは困るのだ。 「先生っ」 ノックの返事も待たずに、部屋に飛び込むのはいつものことだ。 それで怒られたことなど一度もない。 「なんだ? お前はいつも、コーヒータイムになると現れるな」 光安は大きな書斎机で、コーヒーカップを片手に楽譜をめくっていた。 「飲みたきゃ勝手に入れろ」 そう言って、視線を楽譜に落としたままでコーヒーメーカーの方を示す。 「いいです。今、飲んだばっかりだから…。それより先生っ」 「ん?」 「毎日マンションに帰ってるってホントですか?」 その言葉で、ようやく光安は顔を上げた。 「目ざといな」 「や、別に俺が見つけた訳じゃないですけど…」 あっさりと認められてしまって、治樹は続きの言葉に詰まる。 「心配するな。お前たちに迷惑はかけん」 そんなことが聞きたいのではない。 「いえ、そうじゃなくって…」 らしくもなく言い淀む治樹に、光安は出来るだけ柔らかい声を作って言った。 「プライベートでちょっとあってな…。しばらく…といっても恐らく来年の春までだろうが、この状態が続くと思う」 プライベート…。 その言葉は治樹の胸を突いた。 自分の知らない光安直人がそこには、いる。 すべてを知っているような気になっていた。 それは…錯覚…? 「治樹?」 立ち尽くす治樹に光安が声をかけた。 返事をしようと口を開いたとき、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。 それからの光安は、少なくとも治樹が見る限りはいつもとまったく変わりがなかった。 光安が正門を出る姿を実際に見かけたのも一度だけ。 だから、不安な気持ちはとりあえず、胸にしまい込んだ。 先生は、春まで…と言ったのだから、と自分に言い聞かせて。 年末に定期演奏会を終えた管弦楽部の年明けは結構ヒマだ。 土日の練習がないことも多い。 治樹も同級生たちに誘われて遊びに行くことが多かった。 そして、その週末も友人の自宅へ泊まりに行き、散々TVゲームを楽しんだのだが…。 「あれ、光安先生じゃねーか?」 日曜の午後、帰ってきた治樹たちが駅前で見たのは、光安と…一人の少年。 「おい、金髪だぜ…」 少し茶色がかったその色は、正確にはブロンドとは言わないのだろうが、日本人の目には、これは立派な金髪である。 小学校の半ばくらいだろうか、まるで宗教画から抜け出たような容姿だ。 その少年はまるで子猫のように光安にじゃれついている。 そして、光安は…。 「う、そ…」 誰かが呟いた。 が、誰もがそう思った。 手を繋ぎ、時に長身をかがめて少年の目線に降り、髪を撫で、耳に何かを囁く。 そして何よりも…慈愛に満ちた笑顔…。 光安が柔らかく笑うようになったのはもうずいぶんと前のことだ。 生徒たちとの信頼関係が出来上がってからは、最初のような無表情を向けてくることはなかった。 しかし、今見せた表情は誰も知らない。 誰もあんな風に笑う光安を見たことはない。 「誰なんだ…あれ」 誰かが治樹の脇腹をつついた。 「し…らな…い…」 あれが誰なのかは知らないが、紛れもなく、あれが、光安の『プライベート』だったのだ。 「おいっ、治樹っ」 治樹はたまらずに駈けだしていた。何かから逃げるように。 それからしばらくの間、管弦楽部は光安の『プライベート』の話題で持ちきりだった。 しかし、そう言う場合、いつもなら誰かが聞くのだ。 『せんせー、あれって誰ですかー?』と。 今回誰もがそれを躊躇したのは、少年が金髪だったからだ。 明らかに日本人ではない。 何か事情がある。 そう察しながら、興味本位で聞くことなど出来なかったのだ。 だが、人間は勝手なもので、好奇心はムクムクと起こり、興味は尽きない。 さまざまな憶測が飛び交った挙げ句、『隠し子説』がもっとも有力視されたのだが、今度は『人の噂も七十五日』。 やはり人間とは勝手なもので、やがて生徒たちはこの話題を忘れていった。 ただ一人、治樹を除いて。 しかし、やがて生徒たちはその金髪の少年の正体を知ることになる。 また巡ってきた春に、少年はやって来た。 聖陵学院中学校の制服に身を包んで…。 少年の名は桐生昇。 フランスとのハーフで、両親共に著名な音楽家。 異母弟の守と共に管弦楽部に入り、オーディションでいきなりファーストヴァイオリンの次席を勝ち取った。 一見して、か弱そうな美少年。そのラズベリー色の唇から紡ぎ出されるのはフランス語か英語か…、はたまた、片言の日本語か…。 ところが…。 「え? 僕、日本語しか喋れないよ。…お母さんとどうやって話してるかって? 僕のお母さん、日本人だもん。桐生香奈子って言うの。…ああ、産んでくれた人のこと? …いつもお母さんが通訳してくれるから、別に困らないよ」 と、やんちゃな口調で、こう言ってのけたのだ。 そしてその口で光安との関係もあっさりと白状した。 母と光安の姉が親友であることと、家庭の事情で守と二人、預けられていたことを。 家庭の事情と言われてそれ以上突っ込む者は誰もいなかった。 桐生家の事情が複雑なのは、音楽界では有名な話だったからだ。 こうしてこの一件は今度こそ本当に、生徒たちの記憶から消えていった。 しかし…やはり一人だけ、そうはいかなかった。 いつも光安の視線を追っていた生徒、治樹だけは。 きっと誰も気がつかないだろう…。 先生があの子の姿を追っていることに。 誰にもわからないように…密かに、静かに追っていることに。 そして、金髪の天使もまた……。 それに気づいた日から、治樹は必要以上に光安の部屋へ行かなくなった。 そして同時に、自分の想いを自覚してしまったのだった。 |
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「どうした、治樹」 少し肌寒い風が抜ける音楽ホールの屋上で、柵にもたれかかって、治樹はぼんやりと駅の方角を見ていた。 背後から声をかけたのは光安直人。 「みんなが待ってるぞ。元部長がいないと始まらないってさ」 学校内はあちらこちらで送別会の真っ最中だ。 管弦楽部でもホール内で準備をしているはず。 ほんの数時間前に卒業証書を受け取った治樹は、明日には退寮して6年間の聖陵生活に別れを告げる。 「あっと言う間だったな」 年度途中からではあったが、6年つき合った初めての学年だ。 聖陵に赴任した頃は『中高6年の一貫教育』を御大層なことだとバカにしていた。 が、こうして6年つき合ってみると、これも悪くないと思う。 あんなに幼かった治樹が、数ヶ月後には一人でフランスへ渡るのだ。 人間の一生の中で、もっとも成長の著しい、この6年の月日。 それを見守ることが出来るのは、この仕事の大きな喜びなのかもしれない。 「先生は…」 やっと治樹が口を開いたとき、一陣の風が吹き抜けた。 風にブレザーの裾が翻り、ネクタイが肩にかかる。 今夜脱いだら、もう二度と着ることのない、この制服。 「俺のこと、忘れないでいてくれるよね」 違う…。言いたいことはこんな事じゃないはずだ。 「当たり前だ。たとえお前が忘れても、私は忘れないぞ」 心外だな…という表情を見せて光安が答える。 「約束…だよ…」 「約束などするまでもない」 「うん…。先生…ありがと…」 そう言って俯いた治樹の表情に、一瞬幼かった頃の面影が宿った。 「……ばか。そう言うセリフはフランスへ行って、一人前になってから聞かせろ。まだ早い」 頭をクシャリと一撫でする。 「さ、行くぞ」 背中を向けた光安に、治樹はそっと呟いた。 『先生……大好き……だった…よ』 |
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「それにしても…」 治樹が大きく息をついた。 「桐生家の三兄弟は、また揃いも揃っていい男になったもんだな」 葵が後ろでニコニコと聞いている。 「悟、棒振ってるんだって?」 「はい」 「大学は指揮科か?」 そう聞かれて悟は少し言葉に迷う。 「まだ、決めてないんですが…」 「焦って決めることはないさ。まだ1年あるんだし」 「そうですね」 悟の答えは相変わらず優等生だな、と思いながら治樹は次に、守に声をかけた。 「守は……もてるだろう」 「もちろんです」 不敵に笑ってそう答える。 「ただし、現在は片思い中です」 「片思い?! お前が?」 不可解なこともあるもんだと治樹は首をかしげる。 そして、昇は…と見ると、光安と話をしている。 その姿が妙にしっくりとしていて、何だか気分がいい。 そこから視線を逸らすと、祐介の瞳に行き当たった。 「しかし、びっくりしたなー。浅井が次席になってるとはねー」 「…いけませんか…?」 恨めしげに祐介が見おろす。 「あはは、ごめんごめん。そう言う意味じゃなくてさ。なんか浅井って中1のくせにクールでさぁ、大人びた可愛げのないガキだったから…」 当時まだチビだった、そのガキの視線は、もう自分より上にある。 「ゆ…祐介…可愛げのないガキだったんだ…」 誰にも聞こえないように葵が呟いたが、それはしっかりと祐介の耳に入った。 眉がぴくりと動く。 「なんか表情豊かになったよな。猫被るのやめたのか?」 「猫被ってる場合じゃなくなったんだよな」 間髪入れずに教師が突っ込む。 「先生っ」 焦る祐介の様子に、治樹が満足そうに笑う。そして…。 「で、君が首席の…」 「はいっ。奈月葵です。初めまして」 100%いい子ぶりっこ、『必殺年上落とし』の笑顔が自然に出てしまう。 「……………」 黙ってしまった治樹に、全員が不審そうに目を向けた。 「奈月くん…」 思い詰めた声。 「はい?」 怯える葵。 「お茶しにいこうっ」 いきなり葵の腕をとった治樹の前に、悟と祐介が慌てて割り込む。 「先輩っ」 「いきなりナンパしてどうするんですかっ」 強引に引き剥がされて、治樹が口を尖らせた。 「なんだ、どっちかの売約済みか? つまんないの」 「ば…売約…」 (やっぱりこの人も立派な聖陵のOBだ〜) 葵がこめかみを押さえていることなど、誰も気にもとめていない。 『遅くなるかもしれないから』 そう言って、葵たちを先に帰した後、光安と治樹は数年ぶりに二人きりで話をする機会を持った。 「奈月くん…って、彼、本当に首席ですか?」 二人きりになった楽屋で、主催者が差し入れてくれたコーヒーを飲みながら、治樹がほんの少し呆れたような声で訊く。 「ニコッと笑って『素敵でした』って言ったけど」 「素敵だったんだろ?」 光安がニヤッと笑う。 「なんだかやけに冷静でねー。もしかして、いまいち聴く耳を持ってないとか…」 有名プレーヤーを数多く排出している管弦楽部OBの中でも、自分はかなりいい線を行っているはずだ。 今夜の出来も悪くなかった。なのに、あの反応とは…。 治樹は『解せない』と言った顔を正直に見せる。 そんな治樹の顔に、表情を隠せないところは変わっていないな…と思いつつ、光安は言葉を返してやる。 「ま、それは仕方がないだろう」 「は? どういうことですか」 仕方ないとはどういう意味か。 「奈月の基準は栗山重紀のフルートだからな」 突然湧いてでた『栗山重紀』と言う名に、治樹は目を見開いた。 「あの子は栗山の秘蔵っ子だ。もしくは息子といってもいい」 「な…なに? それっ」 この春、ほぼ10年ぶりに復帰した天才フルーティストの名は当然知っているし、リリースされたばかりのCDも持っている。 「今、化粧品のCMで流行ってるフルートの曲知ってるか?」 「あ、栗山氏のオリジナルの?」 それもCDに収録されていた。 確かあの曲はデュエットのはずだったが。 「そう。あのデュエットを栗山と一緒に吹いてるのが、奈月だ」 治樹の目が『ウソだろー』と悲鳴を上げる。 「…じょーだん…。あれ、栗山氏の二重録音じゃなかったんですか? …先生、そういうことは先に言ってよ〜」 「奈月が嫌がる」 「嫌がるって…」 そこで治樹はハタと思い至る。 「もしかしてあのCM…」 「みなまで言うな。あれは奈月にとって生涯最大の汚点だそうだからな」 「先生〜、恨むよ〜。先に教えてくれてたら、強引にお茶に誘って、サインもらって、一緒に写真とったのに〜」 「……お前…どういう発想してるんだ…」 さっきまで『聴く耳がどうのこうの』と言っていたのはなんだったのだと突っ込みたくなる。 しかし治樹はそんなことはすっかり忘れているようだ。 「う〜ん、なるほど〜。すごい生徒ってことか…。『あの』悟と『あの』浅井が夢中になってるようだし………けど、それにしても…」 治樹はニヤッと笑う。 「相変わらず聖陵の麗しき校風は健在のようですね」 「なんだ、お前、卒業して精神的社会復帰を遂げたとでも言いたいのか」 ならば、さっきの態度はなんだ、と、これまた突っ込んでやりたくなる。 「そう言いたいところなんですけどね〜。向こうの女性は強くって…。マジ、男の子の方が可愛いですよ」 恩師としては、冗談で言ったつもりだったのだが…。 「……そんなことになってるのか」 「……ものの例えですってば。それより先生はどうなんですか」 突然話を振られて、光安は眉間に皺を寄せる。 「私がなんだ」 「金髪の天使ですよ。…少し大人になって、さらにグレードアップしてるようだし。…可愛いばっかりじゃなくて、そろそろ魔性の部分も見えて来たんじゃないですか?」 「…言ってろ…」 心底嫌そうに返事をする。 だが治樹は相変わらずどこ吹く風…だ。 「ぼやぼやしてると、誰かに盗られてしまいますよ」 「お前、やっぱり気づいてたのか」 「当然でしょう? 『顧問のことは治樹に聞け』ってね」 治樹は嬉しそうにウィンクまでしてみせる。 光安は観念したように呟いた。 「あいつはまだ、高校生だ…」 「らしくないですね」 容赦ない治樹に、光安は大きくため息をつくが、こんな話ができるのも、大人の階段を確実に登っていく教え子の成長を実感できる、一つの喜びではあるのだろう。 しかし、そんなことを手放しで喜んでみせるのは、まだまだ先のことだ。 「治樹〜、お前…食えない男になって帰って来たなぁ…」 「先生に言われたくありませんね」 そう言った治樹の表情は、それは嬉しげなものであった。 「時間があれば、学校にも顔を出してくれ」 ひとしきり話し込んだ後、そう言いながら光安が楽屋のドアを開けると…。 「昇…。悟たちと帰ったんじゃなかったのか」 昇は俯いたまま、チラッと視線を上げた。 「ごめんなさい…。一緒に帰りたかったから…」 そう言った昇を見る光安の表情は、もう、慈愛の表情ばかりではない。 「そうか…じゃあ、もう少しだけ待っていてくれ。主催者に挨拶してくるから」 廊下の先へ消えていく光安を見送ると、治樹は昇の肩を抱き、再び楽屋へ入った。 卒業するときにはあれほどあった身長差も、今ではあまり感じない。 たった3年足らず。 金髪の天使も確かに大人になり始めている。 昇が入学してから治樹が卒業するまで、時を共有したのはほんの2年間だったが、お互いに、悟や守ほど親しくはなれなかった。 それは、きっと誰よりもお互いの気持ちを知っていたから。 「昇…」 そう、治樹は知っていた。昇の視線の先を。 「先輩…」 そして、昇も知っていた。治樹の視線の先を。 「おっきくなったな…」 ただ、あの時、光安直人の視線の先に誰がいるのか、気づいていたのは治樹だけだったが…。 何も言わずに微笑んだ昇に、今日こそは本音で言える。 「幸せになれよ」 開いているドアの向こうで小さく交わされる会話に、光安は柔らかい笑みを浮かべた。 この二人に出会う前の自分はどうだったろうかと考える。 聖陵に入る前は、愛だの恋だの、そんなものは二の次だと思いこんでいた。 生きていくのに不可欠な要素では決してないと。 感情は、自分でコントロールしてこそ意味があるのだと。 そんな頑なな心の扉をノックしたのは治樹だった。 そして、鍵を開けたのは、昇…。 少年に恋をする自分など、どうして想像できたろうか…。 「帰ろうか、昇」 光安直人はまた一歩、踏み出す。 そして、治樹はその背中にそっと呟く。 『先生…俺、まだ一人前じゃないけど…。でも…ありがとう…』 |
「楽興の時」 END |
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* 後日談* フランスへ戻る前日、伊藤治樹は母校を訪れた。 管弦楽部の練習に顔を出し、そして…。 祐介:あれ、葵、知りませんか? 昇:さっき、伊藤先輩が連れてった。 祐介:えっ? 昇:チョコパ食べに行くって。 祐介:葵のヤツ〜、またチョコパにひっかっかって〜。 |
30000GET:りかさまからいただいたリクエスト作品です。 りかさまからは 『光安先生の今の恋愛関係のお話がいいな、と思ったのですが、何だかもうエピソードがあるようなことが…。でも、彼も謎が多いですから、その謎が1つでも解明されるとうれしいのですけれど……。というように、かなり漠然としたものですが、光安先生の恋のお話(現在進行形でなくても、過去のお話でも)はいかがでしょうか?』 …という、リクエストをいただきました。 (注:このお話のUP当時はまだ「約束〜この腕の中の小さな宝石」はUPされていませんでした) そこで、りかさまと御相談させていただいた結果、 『聖陵に新任教師として入ってきた頃(25歳くらい)のエピソード』ということに落ち着きました。 もともと硬派(?)だった彼が、どのあたりから今のような大人になってしまったのか(笑)、を書くことが出来れば…と思ったのですが、いかがでしたでしょうか? りかさま、リクエストありがとうございました(*^_^*) |