葵と悟〜ピアノ練習風景





 それは何回目くらいだったか、葵がやっと悟のピアノレッスンに慣れ始めた頃のこと…。

 葵がレッスン時間に練習室にやって来ると、悟の姿はなく、代わりにメモが一つ、ピアノの上に置いてあった。



『葵へ 化学の実験に時間がかかるので、少し遅れる。
悪いけど、練習を始めていて。 悟』



 丁寧な字で書かれたそれを、葵は綺麗にたたんでそっと制服のポケットに入れた。

 もしかしたら、悟の直筆を見たのは初めてかもしれない。
 そう思うと、用件のみのメモでも愛しくて、ついついお持ち帰りまでしてしまう。

 ふふ…と一人密かに笑いを漏らし、葵はピアノの蓋を開け、教則本を広げた。
 さて、悟が来るまでにもっともっと弾いておこう。
 そう思い、鍵盤を叩く…が。



「え? うわっ? やだ!」

 葵の白くて細い指が、それより少し白い鍵盤の上で器用にもつれる。

「どして? あれ? うそ!」

 一生懸命に練習してきたはずなのに、なぜか指がいうことを聞かない。

 おかしい。あんなに練習したのに。
 そりゃあまだ全然上手くは弾けないけど、悟に呆れられない程度にはなっていたのに…。

 葵は内心で冷や汗をかく。

 これはヤバイ。
 しかし、焦れば焦るほどおもしろいように指はもつれていく。

「なんや、これっ!」

 思わず口をついて出る言葉は関西風味。



『クスクス』



(今…後ろで笑い声…?)

 恐ろしくて振り向けない。


「葵はフルートのレッスンの時もそんなに賑やかなのかな?」 

 いつの間にか、悟が来ていた。

(う…そぉ…)


「ん?」

 後ろから影が近づいて、ふわりと葵の肩を覆った。

 ようやく慣れてきたレッスンなのに、また心臓がバクバク言い出してしまう。

「フ、フルートのレッスンは…」
「レッスンは?」
「口を使ってるから…」
「なるほど、口を使ってるから声は出せないわけだ…」

 悟はそう言いながら葵の顎を持ち上げ、上を向かせると覗き込むようにして深く口づけてきた。

「ん…」

 かなり長い間くっついて、漸く悟が唇を離したとき、すでに葵の眼は潤んでしまっていた。

「も…う…」

 そんな葵に、優しい笑みを見せて、悟は背後から葵を抱くようにして、鍵盤の上にある葵の手に触れた。

「ここの部分で左がもつれるのは、小指の位置を変えてしまうからなんだ」

「小指の位置?」

「そう、小指から親指に移動して、またすぐに小指に戻るだろ? だから小指は最初の鍵盤の上に乗せたままにしておくんだ」


 そう言って、見本を弾いてみせる。同じ楽器とは思えないほど、鮮やかな音がでる。


「葵は親指に移動したときに、小指がついてきてしまうんだ。だから素早く戻ろうとしたときに、間に合わなくなる」

「手は…広げたまま…なんだね」

「そう」

 言われたとおりにやってみる。

「わ…できる」

 嬉しそうに何度も繰り返す葵を、悟は愛おしそうに見つめていた。



千鶴さまからいただきましたリクエストです

バックで戻って下さいねvv