愛の嵐? 兄弟編

「ピアノレッスン〜葵、墓穴を掘る…の巻」





 ――あ、またこの曲だ。

 僕は、防音の重い扉に耳をぴったりとつけて、振動として微かに伝わってくる音を拾い、中で演奏されている曲を知る。

 ここは『練習室1』。
 管弦楽部員なら誰もが知っている、『悟のお城』だ。

 だから当然中でピアノを弾いているのは悟で、その長くて綺麗な指が奏でているのは、ベートーヴェン作曲のピアノソナタ第17番ニ短調作品31-2。

 副題を言った方がわかりやすいだろう。あの有名な『テンペスト』だ。

 正直言ってこの曲、テクニック的に至難な部分はほとんどないのに――って、ピアノ初心者の僕がいうのもおこがましいけど――悟は何故かこの曲をよく弾いている。

 僕も練習の息抜きに好きな曲を吹いてみたりはするけれど、悟のこれは、息抜きって感じでもない。結構真剣に弾いてる気がするんだ。

 まあ、悟はいつも真剣に弾いてるけど、でも所謂『名曲』ってのを僕に聞かせてくれてる時なんかは、もっとリラックスした感じで弾いてるから、だからこれはちょっと違うな…って思ったわけで。


 防音扉に開けられた小さな窓をそっと覗き込む。

 ふと顔を上げた悟と視線がぶつかった。その瞬間、これ以上なく優しく微笑んでくれた悟は、演奏を止めて立ち上がり、僕を出迎えてくれる。

 もうすっかり馴染んだ『練習室1』の、小窓からは直接見えない位置にある予備のピアノ椅子に腰かけると、悟は僕の手を引いて、いつものように横抱きにして膝に乗せた。

 これにもまあ、いい加減慣れたけど、でもまだちょっぴり恥ずかしかったりもするし、だいたい重くないのかなあなんて心配にもなるけれど。


「どうかした? なんだかもの言いたげな顔をしてるけど?」

 悟は僕の鼻をキュッとつまんで小さく笑う。
 そんな笑顔に見とれるのも相変わらずのことで…。

「ね、悟」
「なに? 葵」
「『テンペスト』、好き?」

 ストレートに尋ねた僕に返してくれた微笑みに、何故だかちょっぴり『苦笑』のようなものが見えたような気がしたんだけど、すぐにそれは隠れてしまった。

「まあね。もちろんいい曲だから嫌いではないけれど」

 む。なんだか微妙な言い回し。
 それに、こんなにしょっちゅう弾いてるのに『嫌いではない』ってのも変な気がする。

 そんな疑問が僕の顔に現れたのか、悟は僕を軽く抱きしめ直すと、ちょっと言い訳めいた口調で言った。

「ちょっとした指ならし。エチュード(練習曲)のようなものだよ」

 ニッコリと微笑む悟からは、何にも読みとれない。

 まあ、悟がそう言うのなら、そうなのかも…と、その時は半ば無理矢理決着を計ったのだけど。



                   ☆ .。.:*・゜



 あれから数日。今日も今日とて覗き見をしている僕。

 悟の練習の邪魔にならないように、タイミングを計ってノックしようと思ってるから…という理由はいつものこととして、またしても悟が『テンペスト』を弾いているので、思わずじっと見つめちゃったりして。

 もちろんその表情から色々が読みとれるわけでもないんだけれど…。


「お。相変わらずだな」

 いきなり背後から、僕を抱きしめるがっしりとした腕。
 一瞬ドキッとしたけれど、それは僕を安心させてくれる暖かさを持った腕で…。

「守」

 抱きしめられたまま首だけで振り返ると、守もまた、小窓から悟の様子を覗いている。

「悟のヤツ、まだこれ弾いてるんだ」

 ククッと笑って、僕の頬にちゅ…なんてしてくるのはいつものことなんだけど、大胆だね、守。悟に見つかったら大変だよ?

 でも、守もやっぱり気がついてるんだ。

「あ、やっぱり? しょっちゅう弾いてるよね、これ。練習の合間にも」
「だろ?」

 その時、守が張り付いているのと反対側の耳元で、ふふっ…と忍び笑いが聞こえた。

「執念深いのか、はたまた純粋に好きなのか」

 台詞の主は、昇。

「執念深いって?」

 聞き捨てならないその言葉に反応した僕に、昇はにやっと笑って見せた。

「僕たち兄弟の、因縁の曲なんだよね、守」
「あはは、因縁ってのはかなりオーバーだけどな。でも悟にしてみれば、そうかも知れないな」
「ねえ、何なに? なんのこと?」

 やっぱり悟がこの曲を何度も繰り返し弾くにはわけがあったんだ!

 そして、2人のブレザーの裾を引っ張って尋ねる僕に、昇と守は聞かせてくれたんだ。その、わけを。


                     ☆★☆


 彼らが小学校4年生の頃。

 たまたまTVドラマで挿入歌に流れたこの曲を、昇が『これくらいなら僕にだって弾ける』と言いだしたのが発端で、『そんなの俺だって』『僕だって』…と、盛り上がった生意気盛りの3人は、『じゃあ、誰が一番に仕上げられるか競争しよう』ってことになったんだそうだ。

 当時の3人と言えば、すでにそれぞれの楽器――ピアノ・ヴァイオリン・チェロ――に専念し始めていたんだけれど、それでもピアノは必須だから、ちゃんとレッスンは続けていて、3歳の時から香奈子先生にたたき込まれていたテクニックのおかげで、『テンペスト』程度なら手の伸ばせる曲だったそうだ。

 小学校4年生で『テンペスト』ってのが、そもそも僕にはオドロキだけど。

 で、競争の結果はどうだったかっていうと、守が一番。
 タッチの差で昇が先生から及第点をもらい、結局悟が最後だったんだそうだ。

 守と昇が言うのには、悟はその事を根に持っていて、未だにカタキのように『テンペスト』を弾き続けているんだとか。

 うーん。悟が最後っていうのもオドロキだよね…って、思ったんだけど。


「でもな、実際俺たちの方が先に及第点がもらえたのには、それなりのわけがあるんだ」

 あ、やっぱりそれにもちゃんとわけがあるんだ。

「わけ?」
「そうそう。僕と守は言われたとおり、楽譜通り、素直に忠実に弾いたからね」
「そうだな。確実に『消化しただけ』って感じだよな。その点、悟はあの頃からもう、こだわりみたいなのを持っててな。自分なりに『テンペスト』をモノにしようとしたんで時間がかかったってわけだ。ただ上手に弾くだけ…では納得できなかったんだろうな」

 …なるほど。悟ならありそうだけど、でもまだ小学校4年だよね。凄いって言うか…。

『練習室1』に視線を戻すと、そこには真剣にピアノに向かう悟の姿。


「で、その時の結果がトラウマになったのか、時間があればああやって『テンペスト』を弾いてるってわけ。母さんなんて『悟のテンペストはもうレコーディングしてもいいくらい完成度が高いのにね』って、半分呆れてるし」

 言いながら、昇が僕の肩を抱く。

「それでも、未だに悟にとって『テンペスト』は越え損ねている峠…みたいなもんなんだろうな。もっと厳しい難曲もいくつも乗り越えてきてはいても…な」

 ニッと笑いながら守もまた、反対から僕の肩を抱いてきて…。

 越え損ねている峠…か。

 悟が未だに執着しているそのメロディを頭に浮かべて、昇と守の温もりに身体を預けながら僕はついうっかりと…そう、本当にうっかりと口をすべらせてしまったんだ。

「僕も、弾いてみたいな…」

 …って、なんでそんな大胆不敵なことを言ってしまったのか、言った自分が唖然としているところへ、守が『テンペストか?』って聞き返してきた。

 そりゃ聞き返すよね。

 で、当然その言葉に僕は慌てて首を振る。

「あ、も、もちろん無茶なのはわかってるんだけど、ほらっ、超えられない目標なんてのもかっこいいかな〜とかっ」

 高校からピアノを始めた僕にとって、『テンペスト』はあまりにも高くて遠い曲。
 もしかしたら――いや、もしかしなくても一生弾けない曲かも知れないくらいの、壮大かつ有り得ない、もはや妄想の領域って感じで。


「や、無茶ってこともないんじゃない?」
「昇〜」

 真顔でいう昇に呆れるしかない僕。

「どうせなら、入試の曲、これにしたら?」
「お、それいいじゃん」
「ね」
「ちょっと待って〜! そんな無責任なこと言わないでよ〜」


 一発勝負の入試に、そんな危険な賭ができるわけないじゃん!

 音大の入試にピアノの試験は必須だ。どんな楽器を専攻しようとも。

 専攻する楽器の実技試験には、もちろん芸術性や技術力が重要な要素となるわけだけれど、副科としてのピアノの試験の場合に重要視されるのは、楽譜通りに『忠実』かつ『正確』に弾くことであって、そこに『妙な色づけ』は必要ないんだ。

 大学によっては、試験結果を点数ではなくて『可』『不可』の二つにしか分けないところもあるくらいで、つまり『可』の領域に入れる程度に弾ければOKってことだ。
 当然『不可』になったら、専攻の成績がどんなに良くても落ちるわけで…。

 で、今の僕にとって重要なのは、この『可』の領域に入ることであって、よもやピアノが『不可』だったので落ちました…なんて恥ずかしいことにはなりたくないってことなんだ。

 そういうわけで、僕の場合、ピアノの試験は『できるだけ安全な曲』を選ぶのが当たり前のこと。
 無茶に冒険して失敗したら、元も子もない。

 つまり。
『易しい曲を完璧に弾く』

 これこそが、僕が『可』の領域に入るための最大のポイントってわけだ。

 なのに、昇も守も酷いんだから〜!

 って、僕がさらに抗議の声を挙げようとしたとき、防音室の重い扉が開いた。


「こら、さっきから3人で何をごそごそやってるんだ」

 現れたのは当然、悟で。

「いつになったら入ってくるのかと思えば、いつまで経っても3人でじゃれてるし」

 言いながら、僕の腕を取った。
 そして僕はそのまま『練習室1』に連れ込まれたんだけど、当然守と昇も入ってきた。

「はいはい、いちいち妬かないの」
「ほんと、長男のクセに心が狭いんだから」

 茶化す2人に悟はジロリと冷たい視線を投げて…。

「で、何をじゃれてたわけ?」

 2人の前だっていうのに、当たり前のように僕を膝に乗せるし…って、昇も守も全然気にして無いみたいだけど…。

「実は、僕たちの可愛い弟の将来に関わる重要な話を一つ」
「昇〜!」

 まさか悟に言うつもりじゃないだろうね!…と、僕は昇を目で牽制したんだけど。

「そう。葵の大学入試についての一考察だ」
「守っ!」

 目を泳がせて僕の視線をしれっと避けた昇の後を、ご丁寧にも守が引き継いでくれちゃったりして。

「葵の入試?」

 あああああ。もうダメかも〜。悟が眉間にしわ寄せちゃったよ〜!

 …や、でも。

 そうだ。悟が笑い飛ばしてくれたらそれで一件落着じゃん。
 なにしろ悟は僕の先生なんだから、先生が許可しないと始まらないもんね〜だ。へへっ。


「葵、『テンペスト』がお気に入りなんだって」

 うん、そう。『悟が弾くテンペスト』が…だけどね。

 昇の言葉に、悟が僕をじっと見る。

「で、入試に『テンペスト』はどうか…って話」

 ちょっと待った、守っ。話飛ばし過ぎっ。
 だいたい、『いつかは弾いてみたい』ってのがどうして『入試の曲』になるわけっ?
 入試まで2年しかないんだよ!

「『テンペスト』を?」

 あ、ほら、悟が呆れた。目がまん丸じゃん。
 はいはい、どーぞ、このまま笑い飛ばしてちょーだい。


「…そうだな」

 ……へ?

「副科試験の課題曲は大概『任意のソナタの第1・もしくは第3楽章』だからな」

 ちょ、ちょっと待った。
 さささ、悟までマジになってもらっちゃ困…。

「いいかもな、『テンペスト』」

 うぎゃ〜!

「葵なら、そうだな、1よりは3楽章の方がいいかもしれない」
「さ、悟…」
「なに? 葵。強張った顔して」
「じょ、冗談はよしこさんっ」

 だああああああああああああ! 
 こんなさぶいギャグ言うてる場合と違うっ!


「あ、あの、あのね、悟」
「ん?」
「ぼ、僕、まだベートーヴェンって一曲もやってないしっ」

 いきなり『テンペスト』はハードル高すぎっ。

「ああ、そうか、そういえばベートーヴェンはまだ一曲もしてないな」

 そうそうそう!

「でも、最初の曲が『テンペスト』ではいけないって法はない。それにあと2年もあるわけだから、それまでにいくつかベートーヴェンをやってみるのもいいし」

 手始めに何かの緩徐楽章でもいいな…だとか、やっぱり『掴み』は『月光』かなあ…だとか、悟はすっかり先生モードの顔になっちゃって…。


「悟ってば、リベンジモードだね、こりゃ」

 昇が守にボソッと呟いた。

「なるほど。葵を通して…ってわけか」

 ちょっと、そこの諸悪の根元のお2人。何をのんびり腕なんか組んで…。


「「ま、がんばって」」

 ちょっと〜! 無責任すぎっ。入試に落ちたら昇と守の所為だからねっ。

 ええいっ、こうなったらもう、甘えモードで悟にお願いするしかない!

「ね、ね、悟」
「ん?」
「僕、悟の弾く『テンペスト』大好きだよ」

 ね、ね、ね、だから思いとどまって、ね。

「本当に?」
「うん!」
「そっか。嬉しい」

 本当に、本当に嬉しそうに顔を綻ばせた悟に、僕はホッとして、『だから…』と続けようとしたんだけれど。

「じゃ、一層頑張らないとな」

 ……ええっと。もしかしてこれって…墓穴?


 本日の教訓。口は災いの元。


 ちなみに。
 僕のピアノの先生は、2年になって諸事情から香奈子先生のお弟子さんに代わった。

 悟もよく知っている優しい人で、その点ではなんの心配もなかったんだけど、何故かしっかり、『受験曲はテンペストの3楽章で』ってのは悟から申し送りされていて、僕を愕然とさせたのだった……。



END


2007.3.4 同人誌掲載
2013.11.17 サイトUP


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