とある音楽教諭の、尋常でない午後


後編




「どうぞ」

 直人が葵の保護者である良昭を案内してきたのは、第1校舎内にある、音楽室に隣接した私室だ。
 誰に見とがめられるかわからない中、まさか『進路指導室』などには案内できない。


「どうかなさいましたか?」

 入るなり、きょろきょろとあたりを見渡す良昭の様子を見て、直人は不審に思い声をかける。

「いや、すみません。古い話で恐縮ですが、以前この部屋に来たときは高校生だったものですから、どうしても顧問から『呼び出しをくらった』という感覚がありまして」

 照れくさそうに告白する良昭に、直人は目を丸くする。

「呼び出し…ですか?」

 いかにも優等生然としたこの巨匠が?

「ははっ、私は結構問題児だったものですから。 特待生だったので練習こそさぼりませんでしたが、合奏中に目を開けて眠ってるなんてことは日常茶飯事でして…」

「……」


『コンコン』

 意外な告白にどうリアクションしたものかと思った瞬間にノックがあった。

『奈月です』
「ああ、入りなさい」

 遠慮がちにコソッと入ってきた葵は、腕に楽器ケースと楽譜を抱えていた。
 ホールから直接来たのだろう。


「葵」

 良昭が父親の顔になって破顔する。

「あ、あのっ。今日は遠いところ、すみませんっ」

 遠いもなにも、飛行機で12時間だ。

「葵に会えるのだと思ったら、何でもないよ。それにどうせ春からはこちらへ戻って来るんだから」

 だからこそ、余計に『こんなこと』に時間をとらせたくないのに…といった様子がありありと伺える葵を、直人は可愛いな…と思いながら、手招きする。

「座りなさい」
「あ、はい」

 遠慮がちに良昭の隣に腰をかける葵。
 しかし少し離れて座った距離も、良昭がズズッと寄って、埋めてしまう。

「あっあのっ」

 狼狽える葵などものの数ではない。

「先生、お願いします」
「は、はい」


 どうも気圧されてしまう。

 現在担任している生徒の中には大物政治家の息子もいて、当然そんな人物相手に『○○くんは、もう少し頑張ってもらわないと国立は狙えませんよ』…なんてことも平然と言い渡しているのだが…。

 直人は自分を落ち着かせるように、こっそりと深呼吸をして、おもむろに資料を開ける。

「奈月くんは…。ご存じだと思いますが、入学以来、すべての科目でトップです。学業は現在のところ申し分ありません」 
「え…?」

 良昭は目を丸くした。

「葵…一番なのか?」

 どうやら知らなかったようだ。

「えと…まあ、なんとか」 
「そうかっ! 偉いな、葵は!」
「わっ」

 いきなり抱きしめられて、葵がもがく。
 溺愛とはまさしくこのことだろう。

「あの…」
 続けていいでしょうか…と小さく言ってみる。

「あ、すみません、すっかり取り乱してしまいました」

 言葉ではそう言うものの、顔中に幸せが溢れている。

「生活態度も、健康状態も問題ありませんし、進路に関する不安もありません」
「そうですかっ!」

 大満足と言ったところか。

「以上ですが」
「は?」
「いえ、ですから奈月くんには何の問題もないということで」

 …だから来なくていいって言ったのに…。

 内心で呟いてみても始まらないが。
 だが、良昭は心底嬉しそうに言った。

「安心しました。葵の事だから、きっといい子でいるだろうとは思っていたんですが」

 照れくさそうに頭を掻く姿は、そこらに転がっているただの父親だ。
 運動会などあろうものなら、ビデオを片手に最前列に陣取るタイプだろう。

 それで場が和んだか、父親と会うのは正月以来という葵も緊張を解いて、しばらく雑談が続いた。



 そして、ふと会話が途切れたとき、良昭はまた照れくさそうに言った。

「あの…。ついで…といっては怒られると思うんですが、上の3人はどうなんでしょうか?」
「は?」

 上の3人というと…。

「…ああ、悟くんたちですか?」
「はい。気にはなっていたんですが…」

 気にはなっていたものの、まさか香奈子に尋ねるわけにもいかず…といったところだろうか。
 たとえ親権がなくとも、父親には違いないのだから、これはまっとうな反応と言えるだろう。

 直人は納得して口を開いた。

「悟くんは…悟くんも万年一番です」

 確かめたわけではないのだが…。
 だからつい…。

「な、この前も一番だったよな」

 あろうことか、葵に同意を求めてくる。

 聞かれた葵は『なんで僕に…』と眉をちょっぴり寄せて直人を見返す。
 しかし、直人はそんな葵の視線など、どこ吹く風…だ。

「生活態度も非常に良好で、教師からも生徒たちからも信頼されているよい子ですよ」

 …よい子…。

 葵は内心で吹き出した。
 悟が聞いたら、憤慨しそうだな…などと思うと、笑いをこらえるのが精一杯だ。


「守くんは…確か前回の試験では10番台の半ばだったかと思います。普段は一桁順位を保っていたはずですが、今回試験中に風邪を引いて熱がでたようで、少し順位を下げたと聞いています。まあ、学業に関しては心配ないでしょう。 問題があるとすれば、消灯点呼時に行方不明…ということが多い点でしょうか」

「え。」

 なんてことだ、と良昭は思う。

 面立ちも、兄弟の中ではもっとも自分に似ている守だが、アルコールに弱いだとか、消灯点呼にいないだとか、どうでもいいことまで似ないで欲しい。

「まあ、本人にも注意はしていますし、香奈子先生にも連絡はしていますので」
「すみません」

 その言葉を最後に、座が静かになった。

 直人が黙ってしまったのだ。





「あの」
「…はい」
「昇は…?」

 今更ながらに、沈黙の不自然さに気づくのだが、本当に『今更』だ。

 そしてその瞬間に直人は、一日中自分につきまとっていた『緊張』の正体を、はっきりと知った。

 そう、目の前の人は、世界的指揮者であり、担任する生徒の父親だ。
 しかし、大切なことを忘れていた。

 この人は…『恋人の父親』なのだ…と。

 どうして今まで失念していられたのだろうかと思う。

 昨年は、葵の入院、定期演奏会…と続いて、プライベートな事にまで頭が回らなかった。

 つい先月の正月には、栗山家で宴会もしたのだが、あの時は側に『すべて』を知っている、親権者の香奈子がいた。

 だから、後回しにしていいものには蓋をしてきた…ということなのだろうか。

 そして、その『恋人の母親』からは内諾を得ているが、父親となると…。
 


 ――ぶっ飛ばされるかもしれないな…。



 いや、自分はたとえぶっ飛ばされようが踏みつけられようが、昇を手放す気などさらさらないのだが、自分の所為で、管弦楽部そのものの評価に障ると生徒たちに迷惑がかかる。

 少し青ざめたであろう表情は、ばっちりと葵に見られていたようで、意味深な笑みを浮かべている葵の視線が痛い。

 しかし、直人も百戦錬磨のベテラン教師だ。
 こんなところで下手に隠し立てしてぼろを出すくらいなら…と覚悟を決めた。

 顧問として、生徒の状態を把握していることは『当たり前』なのだから。


 直人はほんのちょっぴり深呼吸をして…、

「昇くんは、今回頑張って成績を伸ばしてきました。1学期は22番、2学期は19番だったんですが、学年末は16番まで上がっています。どちらかというと理数系に弱くて、今回も地学が平均点ぎりぎりで、全体の足を引っ張った格好になっています。ですが、それ以外…特に現代文と日本史は常にトップクラスですし、全体的にみても音大受験には全く問題ない成績です。管弦楽部でもコンサートマスターとして部員から信頼も厚く、明るい性格で友人も大勢います。健康状態も良好です。守くんと同じ時期に風邪をひいたのですが、熱も37度が3日間続いただけで授業を休むことなく全快しました。この1年で身長はかなり伸びましたが体重の方は平均より軽いです。食も若干細いのでもう少し食べた方がいいと注意はしています。消灯点呼などもきちんと厳守していますので生活態度にも問題はありません」

 一気に言い切った。 

 ちなみに『消灯点呼』は自分が『守らせている』のだが。


 そして、案の定、いきなり『立て板に水』になった直人に、良昭は目を丸くした。
 何故か葵は口をひき結んでいる。どうやら笑いを堪えているようだ。


 しばしの沈黙の後、巨匠が口を開いた…。


「…お詳しいですね」


 …瞬間、背筋が…凍った。

 視界の端では、葵が肩をふるわせている。
 凍った背筋を冷や汗が流れて…。



「あの、赤坂先生」

 救ったのは、目の端に笑い涙を溜めた葵だった。

「お帰りになるまでにお時間いただけたら、少しお話がしたいのですが」

 その可愛らしい笑みに、良昭はデレッと相好を崩す。

「時間なんていくらでもあるよ」

 嘘だ。飛行機の時間は決まっている。
 しかし、そんなことどうでもいい。飛行機は明日も飛ぶが、葵が話をしようと言ってくれたのは『今』だ!


「それでは光安先生、お忙しいところを無理を言いまして申し訳ありませんでした」
「と、とんでもないです、こちらこそ、ありがとうございました」
「春には戻ってくるつもりでおりますので、またお目にかかります」
「はい、お待ちしています」

 そう言って握手を交わす時には、直人の心臓も少しは落ち着いて…。

「息子たちのこと、よろしくお願いします」
「は、はいっ」

 しかし、『息子たち』と言われただけで、心臓がまた、跳ねて飛び出しそうだ。

「では、失礼します」
「お気をつけてっ」

 先に良昭がでたあと、葵がドアを閉めながら、不必要に張り切った声を出してしまった直人を見てパチンとウィンクをした。

『え?』

 教師にウィンクとはなんたることだ! …と、常にはない『お堅い』考えが頭をよぎったものの…。

 今のウィンクはなんだか遠くに投げていなかったか?

 そう、自分のまだ…後ろ……。

 おそるおそる振り返った直人に目に入ったのは…。


「あっっははっ、直人ったら〜」
「昇!!」

 いつの間にいたのか。
 いや、いつからここにいたのか。

 金髪の天使は、いたずらっ子の笑みを浮かべて直人のデスクに腰掛けていた。

「お前、いつからここに?」

 態度は怒っているように見せても口調は優しい。いや、優しいと言うよりは、呆れているのか。

 問われて天使は、ぴょんとデスクから飛び降りた。

「えっと、直人が戻ってくる5分くらい前…かな? ずっと机の下にいたよ」

 やはり呆れざるをえない。そんなところでいったい何をしていたというのか。

 どうやって入った…などとは、もちろん聞かない。
 この部屋の合い鍵を渡したのは自分なのだから。


「どうしてまた…。葵の面談だっていうのは知っていただろう?」
「もちろん。だから潜んでたんじゃないか。いくら何でも他のヤツの面談をのぞき見する趣味はないって」
「なら、葵は知って…」

 いたのか…と聞こうとして、直人は口をつぐんだ。  

 先ほどの葵のウィンクは、やはり確信犯のウィンクだったのだ。
 当然ウィンクの相手は自分ではなく、その後ろにいた昇で…。

 直人は一度、深く息をつき、昇を見る。
 すると昇は少し控えめに肩をすくめる。
 その仕草はまるで『今更それを聞く?』とでも言いたげだ。


「心配なら聞いてれば…って言ったのは葵なんだもん」 
「心配っていったい何の…」

 そこまで言って、直人はまた口をつぐむ羽目に陥った。
 そう、先ほどの『背筋も凍る恐怖の瞬間』を思い出したのだ。

「まさか、昇…お前…」

 こうなることを予想していたとでも言うのだろうか?
 万事に周到な光安直人ですら、失念していたというのに。

「だって、直人ってば朝から緊張してるし…」
「え?」

 朝から…とはどう言うことだ。今日は部活の時間まで一度も会っていなかったはずなのに。

「葵が心配してたんだ。先生、様子が変だ…って。 朝礼の時もぼんやりしてるし、授業の時も書き間違いするし、終礼の時もぼんやりしてるし…」

 おいおい、終礼の時は葵も寝かかっていたじゃないか…と、直人は内心で突っ込む。

 第一、『ぼんやり』していただけで『緊張してる』などといわれる所以はない。


「確かにちょっとぼんやりしたかもしれん。だがな、それは睡眠不足のせいだ。それで『緊張してる』なんて言われる覚えはないぞ」

 一気に言い切ると、昇は『あれっ』とばかりに目を見開き、小首を傾げた。

「直人、前に言ったじゃん。『先生は緊張すると眠くなっちゃうんだ』ってさ」
「なんだそれは」

 覚えがない。まあ、百戦錬磨のベテラン教師に『緊張の場』はそう多くはないというのも事実だが。
 
「やだ、ホントに覚えてないや。 ほら、僕と守が直人のところに預けられてた頃、どこだったかのでっっっかい観覧車に3人で乗ったじゃん」

 3人で乗ったというよりは、嫌がる大人を子供二人が無邪気な泣き落としで連れ込んだ…と言った方が正しいのだが…。

「か、観覧車?」

 はっきり言って直人にとっては、それは聞くだにおぞましい言葉である。

「最初は蒼い顔してたのに、直人ってばそのうち瞼が塞がってきちゃって…」

 クスッと笑うその顔は、天使が見せる悪魔的微笑み…といったところか。


 …思い出した。

 あの時、大人の余裕で意識を保てたのはほんの最初だけ。
 高度がグングン上がるに連れ、直人の意識は現実逃避するかのように眠りに向かったのだ。


「あの時いったよ。『先生は緊張すると眠く…」
「わ、わかった! わかったからもうその話はナシっ!」

 イヤなことを思い出させないで欲しい。
 今でも観覧車と聞くだけで膝が笑いそうになるのだ。

「じゃ、認めるね。緊張してたってこと」

 こうなってはいたしかたない。

「…仕方ない。そう言うことにしておいてやろう」

 コホンと一つ咳払いをして、昇に向き直る。

「だが、それとお前がここに隠れてるのはなんの因果関係があるわけだ。ん?」

 わざと余裕を見せて問うと、意外にも昇はクスンと鼻を鳴らして俯いた。

「だって、もし父さんに僕たちのこと…」
「昇…」
「僕はまだ高校生で、直人の教え子で…」

 言いながらギュッとしがみついてきた細い身体がわずかに震えているのを感じ、直人もまたきつく抱き返す。

 感じていた緊張は、一人だけのものではなく、二人のもの。
 いや、きっと自分が抱えていたものよりももっと大きな緊張を抱えていたのだろう。


「心配いらないさ。たとえ引き離されそうになっても私は絶対にお前を離さないから」
「でも…っ」

 何かを言い募ろうと見上げてきた潤んだ蒼い瞳。その瞼に一つ、小さくキスを落とす。 

 すると、安心したように昇は息をついた。そして直人の肩に頭を預ける。
 直人はいつものように、その金色の糸に長い指を絡め…。

「その時が来たら、僕、ちゃんと父さんに言うよ。直人とずっと一緒にいたいって」

 決意を滲ませた声は、いつもより数段艶やかで…。   

「お前は何も心配しなくていい。大丈夫。けじめをつけるのは私の役目だから…。それに…」

 光る糸に顔を埋めれば、ふわっと甘い匂いが立ち上る。

「きっとお父さんはそんな『わからず屋』じゃない」
「直人…」
「彼も、昇のことを愛しているから、きっと…」

 この匂いに、このまま酔ってしまいたい…。

「きっと、許してくれる…」

 その言葉に、小さく頷く天使がたまらなく愛しくて…。

 そっと触れあわせるだけのキス。
 そしてまた、触れたときと同じようにそっと離す。
 これ以上深く触れあうと、きっと戻れなくなるから。


 そう…ここは…。


『コンコン』


 学校だ!!


「失礼します」

 固まる教師と生徒。

 そして、その光景を目の当たりにしても取り乱さず、スッと目を眇めたのは…。


「先生、コンサートマスター。差し出がましいようですが、そう言うことは鍵を掛けてからにして下さい」


 扉を開けたのが管弦楽部長でよかったと、心底思った二人であった。



 
END

50万Hits感謝祭にてUPしたものです。


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