君の愛を奏でて

小悪魔の霍乱?





「浅井です。はい、本人は大丈夫だと言い張るんですが、38度を超えたので…。わかりました、お願いします」

 黄金週間新入生歓迎合宿が終わって少し経った頃。

 深夜、非常灯だけが灯る寮の廊下で、受話器を置いた祐介がほうっと一つ、息を吐く。

 幸い気温は程良く、パジャマだけでウロウロしていても寒くもなんともないから助かるが、それにしても、こんな良い気候の中で、どうしていきなり風邪をひくのか。

 しかも――あくまでも本人の申告だが――『風邪気味になったことはあるけれど、ちゃんとした風邪なんかひいたことない』と偉そうに言っていたくせに。


 部屋へ戻ると、ベッドの中から『ごめん…』と小さな声がした。

「何言ってんだよ。冬場は僕の方が世話になるじゃないか」

 こう見えて、実は祐介は結構風邪をひきやすく、長引きはしないのだが、冬場は2〜3回熱を出して寝込む。

 その度に葵は、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。

 夜中でも、額の冷却シートを張り替えてくれたり、ミネラルウォーターやポカリを用意してくれたり。

 乾き始めた冷却シートを剥がし、額に手を当てるとやはりまだかなり熱い。

「もうすぐ先生来てくれるから」

 と、言ったところで小さなノックの音がした。

「入るぞ」

 言葉と当時に音もなく入ってきたのは寮長で保健体育教師の斉藤だ。ちなみにちゃんと看護師資格も持っている。

「奈月が風邪とは珍しいな」

 もっと重い事態は何度かあったけれど、そう言えば『風邪』なんてものは初めてだと、斉藤は思う。

「すみません、夜中に…」

 声は小さいが掠れてもなく、喉は大丈夫そうだ。

「気にするな。寮長はこれがお仕事だからな」

 小さく笑って見せて、熱や脈を診る。

「吐き気は?」

「ないです」

「頭は痛くないか?」

「平気です」

「咳は?」

「出ません」

 どうやら熱だけの様だと判断し、校医を呼ぶのは朝にしようと決めて、とりあえずあと数時間――朝までの解熱剤だけを渡し、水分の補給などを祐介に指示して斉藤は123号室を後にした。

 ところが、葵の熱は朝、校医に診てもらってからも下がらず、結局その日の授業は休むことになり、寮から保健室に移されて、午後になって漸くぐっすりと眠り始めたのだが…。



                    ☆ .。.:*・゜



「奈月の具合、どう?」

 放課後の音楽ホール。
 クラスは違うが、葵が休んだというのはすでに周知の事実になっていて、副部長の茅野は心配げに祐介に尋ねてきた。

「ああ、今日中には熱も下がるだろうって、先生が」

「やっぱ、風邪?」

「そう、ただの風邪だってさ」

「そっか。それなら良かったけど。…ってさ、悟先輩、大丈夫か?」

 すでに卒業して2ヶ月余りが経とうというのに、相変わらず桐生家の三兄弟の存在感は圧倒的で、何かというと名前が挙がるのも、すでに『いつものパターン』だ。

「ああ、大丈夫。今日は来られないって連絡あったから」

 指導教授の新譜録音につき合わなくてはいけなくなったそうで、本来なら、管弦楽部の指導に来てくれるはずの日だったが、キャンセルになっていたのだ。

 連絡を受けた顧問によると、電話の向こうで悟は随分がっくりきていたらしいのだが。

「そりゃよかった。奈月が熱だして寝てるなんて悟先輩が知ったらさ、絶対『熱が下がるまで付き添う』だとか、『家に連れて帰る』とか言い出して大騒ぎになるぞ〜」

 ニヤニヤと嬉しそうに言うのは、悟の度を超した『ブラコン』振りが、すでに管弦楽部の後輩たちの――いや、実のところ全校規模だろう――すべてに知れ渡っている『格好のネタ』になっているからだ。

「しかし、スゴイよなあ。昇先輩も守先輩もきっぱりはっきり超ブラコンだけど、悟先輩のはちょっとレベルが違うもんなあ」

「まあな。可愛くて可愛くて仕方がないんだろう」

 本当は、みんなが思うところの『可愛い』とまた違うベクトルで『可愛いくて仕方がない』のだが、それを知る人間は少ない。

「だよな〜。俺だって、あんな可愛い弟だったら家に連れて帰って閉じこめちまうかも〜」

 さらりと危険な発言を繰り出す副部長に、部長がちらりと視線をくれる。

「おい。そんなこと言っていいのか? 羽野はどうしたんだよ」

「あ? 羽野は恋人じゃん。で、奈月は弟。それとこれとは別ってこった」

 その『恋人』羽野クンは、実のところこれっぽっちも茅野クンを『恋人』だとは思ってくれていないようなのだが、祐介ですら、そんなこととはつゆ知らず、『茅野×羽野』のカップルはすでに完璧に出来上がっていると信じている。

 まさに、知らぬは本人ばかりなり…といったところか。


「便利な使い分けだな」

 だが普通は、『閉じこめておきたい』のは恋人の方であって、弟ではないと思うのだが。

「おうよ。可愛い子は全部自分のものにしときたいじゃん。これこそ男のロマンってもんだ」

 かなり身勝手な『ロマン』だが、祐介もそれは何となくわかるような気がした。

 葵にも側にいて欲しいし、……お気に入りの小さな後輩、彰久も側にいてくれたら嬉しい。

 用途はちょっと違うのだが…なんて、本人たちに聞かれたらぶっ飛ばされそうだなと、口に出したわけでもないのに辺りを憚ってしまったりして。


「ともかく、悟先輩が来られなくなったのは不幸中の幸い…ってやつかな。葵がこの状態だったら、来てもらったところで指導にならないだろうし」

「だよなー。速攻で奈月の看病に決まってるしな。それに、悟先輩の精神衛生上、絶対よかったぜ。先輩、熱だして寝てる奈月を残して帰るなんて、マジで出来そうにないもんな」

 腕を組み、大げさに頷く茅野だが、それにも祐介はあっさり同意…だ。

 泊まり込むとか連れて帰るとか…本当に言いだしそうだから。


「ともかく、葵にしたってちょっとした風邪くらいで悟先輩を心配させたくないだろうしな」

「そうそう。それも言えてる」

 とにもかくにも、本日悟が来られなくなってしまったのは何よりだ…と、そこにいた全員が納得して、管楽器リーダーである葵がいない部活が始まったのだが。





「…あっ、悟先輩っ」

 アニーが小さな…しかし焦った声で呟いた。

「え?!」

 それを拾った茅野が視線を上げてみれば、そこには来ないはずの悟の姿が確かに遠くに見て取れて、ホールにいた管弦楽部員は、巣に水を流し込まれたアリンコのようなパニック状態になった。

「さ、悟先輩っ。お、お疲れさまですっ」

 遅れたことを詫びる悟に、部員たちは口々に挨拶をするのだが。

「あれ? 葵は?」

 恐れていた一言が、いきなり出た。

「ミーティングでも?」

 そう言えば祐介の姿もないな…と悟は辺りを見回した。

「あ、あのですね」

 葵を探す視線を遮るように、茅野が前へ進み出た。

「あ、ええと、奈月は、山へ洗濯に!」

「…山?」

「ば、ばかっ、川へ芝刈りにだってば!」

 焦ってさらなる墓穴を掘るのはもちろん羽野っち。

「…川?」

 ちなみに「川で洗濯」「山で芝刈り」が正解で、洗濯していたのはおばあさんで、芝刈りに行ったのはおじいさんだ。
 そして、そこへ大きな桃がどんぶらこ…と流れてきたのは言うまでもないことだが。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 ともかく、後輩たちの奇妙な慌て振りに、前部長の視線が鋭くなった。

「何かあったのか?」

「………え…」

 全員が固まったところへ、救いの神が現れた!

 現管弦楽部長の登場だ。

「あっ、悟先輩…」

 この瞬間、祐介の頭の中を駆けめぐった『えらいこっちゃ』…と言う単語は、葵と過ごした日々で覚えた関西弁だ。

「どうなさったんですか? 今日はレコーディングのお手伝いで来られないって聞いてたんですけど」

「ああ、教授が風邪をこじらせて、急遽延期になったんだ」

「…風邪、ですか」

「そう。まだそんな歳でもないのに、この良い季節に風邪ひくなんて、かなりの変人だろう?」

「…ええと、あ、はい、そうですね」

 ここで、あなたの『恋人』兼『弟』も、同じく相当珍獣…じゃなくて変人ですが、なんて言えたら大したものだが。


「で、葵は? どこにいるんだ?」

 すでにその声に疑いの色を感じ、祐介は慎重に言葉を選び…。

「あのですね。落ち着いて聞いて下さいね」

 それだけで悟の顔色が変わった。いや、祐介の物言いもまずかったのだが。

「やっぱり何かあったのか?!」

「いや、そうではなくて…じゃなくて、たいしたことはないんですが…」

「何があった?!」

 胸ぐらを掴まれそうな勢いに、祐介は思わず半歩下がった。

「ええと、葵は…」

 そして、気圧されて、つい口走ってしまった。

「…竜宮城へ鬼退治に…」

「は?」

 ………。

「あ…と、すみません、つい…」

 悟のあまりの迫力に、思わず現実逃避をしてしまったではないか。

「竜宮城に鬼はいなかったですね」

 いや、そうではなくて。

「ええと、実は風邪をひきまして」

「…風邪?」

「はい。昨夜ちょっと熱が高かったものですから、今日は休んで保健室送りになっています」

 その言葉に悟は目を見開き、瞬きもせずに言った。

「浅井。悪いが…」

「あ、はい、わかってます。こちらのことは構いませんので…」

 しかし、皆まで言わせず、悟はくるりと踵を返した。

『すまない』と一応は言っていたが、言ったときにはすでに走り出した後だったりするので、管弦楽部員たちは、『やっぱり超ド級のブラコンだよなあ』と、呆然と見送るしかなかったのであった。



                    ☆ .。.:*・゜



 ほんとに心配性なんだから〜。

 授業が終わる頃には熱も36度台になって、もともと頭痛も吐き気もなかったから気分はすっかり爽快で。

 でも担任のクマ先生からも寮長の斉藤先生からも、『熱が下がっても、今日は部活は休むこと』と釘を刺されたので、僕は部活終了時間まで、この寝心地のいい保健室のベッドで惰眠を貪っていようと決め込んでいた。

 そこへ、悟が現れたんだ。

 そう言えば、今日は悟が来る日だった。昨日の午後から熱でぼんやりしてたからすっかり忘れてしまってたんだ。

 覚えてたらこんなところで悠長に寝てないって。
 だって…。

「あおい…」

 ぐーすか眠りすぎて、さすがにそろそろ目も覚めてきた頃の僕に、それはそれは不安そうな声を掛けたのは、悟。

 目を開けた僕の視界には、声以上に不安そうな顔をした悟がいて、その背後で斉藤先生が笑いをかみ殺してたりして。


「大丈夫か…?」

「さとる……」

「心配したよ。熱だして寝込んでるっていうから…」

 あー、うん。
 心配してくれたのは、声と顔でイヤって言うほどわかったけど。

「うん、もう大丈夫。心配かけてごめん」

「ほんとに?」

 まだ不安そうに、そっと僕の額に手を触れてくる悟に、斉藤先生がやっぱり笑いながら、もう熱は下がってるってこととか、ただの風邪だからもう大丈夫だとかきっちり説明してくれて、漸く悟も納得してくれた…みたいなんだけど。

 でも、退校時間ぎりぎりまで僕についてるって言い張って、斉藤先生も『好きにさせてやれば?』なんて、やっぱり笑いながら言う始末で、結局悟はホールへ戻らずに僕につきっきりだった。

 僕も…ええと、管弦楽部のみんなには悪いなあと思いつつ、嬉しかったりして…。

 そんなわけで、久しぶりに悟とゆっくり話をしたんだけど、それもあっと言う間。

 部外者がすべて退校しなくてはいけない時間がやってきて、悟は何度も何度も、暖かくして寝るんだよとか、少しでもおかしいと思ったら我慢しないように…とか、覚えきれないくらいの注意を言い残して、渋々帰っていった。

 今度会えるのは、来週か再来週。

 でもそれだって、はっきり決まってるわけじゃない。

 たった今、帰っていったばかりの悟に、僕はまた会いたくてたまらなくなっていて、こんな調子で本当に卒業まで持つのかなあ…なんて情けない気分になった。

 まだ、新しい一年は始まったばかりだって言うのに。



                    ☆ .。.:*・゜



「あ、悟先輩」

 部活を終え、保健室へ向かっていた祐介は、校舎の入り口で悟と出くわした。

「お帰りですか?」

 その、『お帰りですか?』の前に『まさか』と言いそうになったのだが、そこはグッと飲み込んだ。

「ああ、退校時間だから仕方ない」

 本当に仕方なさそうに言う悟がなんだか妙に可愛くて、祐介は、思わず緩みそうになった顔をグッと引き締める。

「練習、見てやれなくて悪かった」

 だが、やはり悟は悟らしく、ちゃんと自分の義務も忘れてはいない。

 悟にしても、今日は中2の基礎練習にみっちりつき合うつもりで来たので、残念なことには違いないのだ。

 ただ、葵に何かあったとなれば、すべてが吹っ飛んでしまうのも致し方ないことで。

「いえ、そこはみんな了解していますから」

 笑いを含んだ声で言われ、悟は『やっぱり兄弟だと打ち明けておいてよかったな』と思う。

 こんな風に執着を見せても、『ずっと離れていた兄弟だから…』と、理解を示してもらえるから。

 それに、こうして何もかもを知ってくれている祐介が、葵の側にいてくれるのは何よりもありがたい。

 おまけに――これも先ほど葵と話していて仕入れた話だが――どうやら祐介にも本当の春の訪れが見えてきたらしいので、これほど喜ばしいことはない。

 安全パイな上に頼りになるだなんて、なんて良い後輩なんだろう…と、まさに『祐介様々』だ。

 けれど。

「さっき斉藤先生から連絡があって、寮へ帰ってもいいと言うことなので、迎えに行ってきます」

 正門まで悟を見送りに来てくれた祐介は、そう言った。

 今夜…いや、今夜だけでなく、葵と祐介は毎日ずっと一緒なのだ。

 朝も昼も夜も。

 …やっぱり悔しいし、何よりも……羨ましい。

 新学年は始まったばかりだというのに、今からこんなことで1年が持つのだろうかと、我ながら不安になってしまう。

 と、こんな風に落ち込んだときは、『来年の今頃は…』と、自分を慰めることにしているのだが…そうだ、大事なことを忘れていた。

「浅井…」

「はい」

「さっきの『変人』発言、オフレコで頼む」

 今時風邪をひくなんて変人だと言い切ってしまった。

『誰にオフレコ』…なのかは言うまでもないことだろう。

 これが葵に知れたら…。

 考えただけでオソロシイ。

 ああ見えて葵は、一度拗ねると結構ご機嫌を取るのが大変なのだ。

 まあ、そんな葵も可愛くて仕方がないのだから、まったく付ける薬はない。

 そして、そんな、お目にかかったことのない、悟のちょっと怯えた様子が妙におかしくて、でも笑うわけにもいかなくて、祐介はグッと奥歯を噛みしめる。

「了解です」

 おどけた振りで敬礼してみせると、悟がやっと表情を緩めた。

「頼りにしてるよ」

「お任せ下さい」

 一年なんて、過ぎてしまえばあっと言う間なのだけれど、それがわかっているからこそ、一日一日を大切に過ごしていきたいと今は素直に思える自分もやはり、悟同様、葵に出会って変わったのだろうなと、小さく笑ってしまう。

「じゃあ、また」

「はい。お待ちしています。気をつけて帰って下さいね」

「ああ、ありがとう」

 軽く手を上げて、聖域と下界を分ける門を、悟が抜けていく。

 その後ろ姿を見送って、祐介は葵を迎えに行くべく、踵を返した。


                   ☆ .。.:*・゜


「お前さ、風邪ひきの原因、悟先輩に話してないだろ」

 123号室に戻るなり、そう祐介に指摘された葵は、『当たり前じゃん』と可愛い唇を尖らせた。

「いくらたくさん差し入れがあったからってさ、抹茶アイス5個は食い過ぎだよなあ」

 呆れたように言われ、葵は祐介に食ってかかる。

「だってさ、冷凍庫ないんだから、食べなきゃ溶けるじゃん。もったいない」

 確かにそうなのだが。

「それにしてもさ、普通は風邪をひくんじゃなくて、腹壊すよなあ」

「僕はお腹も丈夫だから、へーきなの」

 ストレスで胃に穴を開けた人間の台詞とは思えないが、そう言うときっと葵は、『胃と腸は別!』と、言い返してくるだろう。

 頭脳も明晰だが、お口はそれ以上に達者なのだから。

「とにかく!」

 葵が偉そうにふんぞり返る。

「祐介には迷惑かけちゃったけど、今回のことは言ってみれば『鬼の霍乱』なんだからね。もう心配掛けるようなコトしないから安心して」


 ――『鬼の霍乱』ねえ…。『鬼』って言うよりは、『小悪魔』だよなあ…。


「なに?」

「…いや、なにも」

 葵の背後に、先の尖った黒いシッポが見えたような気がした祐介であった。



END

というわけで、風邪ネタが無性に書きたくなって、5月頃に書き始めたんですが、
完成が今頃になりました(汗)
季節はずれもいいところですが、抹茶アイスは食べたいです(笑)

 そうそう。『鬼の霍乱』は、本来丈夫な人が珍しく病気になることのたとえですが、
そもそも『霍乱』というのは暑気あたりのことらしいです。

暦の上では夏は終わっていますが、これから夏の疲れがドッと来る頃ですね。
皆様もお体お気をつけ下さいませ〜☆

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