君の愛を奏でて

「Will you marry me?」

【後編】



「オケ?」

「そう。ちょうど夏休みの真ん中くらいで、司も京都に帰ってる頃に大阪公演があるんだ」

 ヨーロッパの有名オーケストラがアジアツアー中で、その大阪公演に一緒に行こうと言われて、司はそう言えば…と首を傾げた。

 これまでアニーと一緒にコンサートに行ったことはなかった。

 毎日アニーの演奏を聞いていることがもう、コンサートだったから、それで満足しきっていた気がする。

 それにしても、今更どうして、しかもわざわざ帰省中に大阪へと言うのは何故だろうかと――東京では比べものにならないほどたくさんのコンサートがあるのに――考えたところでアニーが種明かしをしてくれた。


「オケのヴァイオリン奏者に音楽院の友達がいるんだ。こっちへ来てから一度も会ってないし、久しぶりに話ができたらなあ…なんて」

 にこやかに告げるアニーに司もまた笑顔で応えた。

「そっか、友達来るんだ。そりゃ行かないとね」
「だろ?」

 ね…と微笑むアニーに、司も笑顔を返したのだが…。

「って…もしかしてそのオケ、ジュリアン・アイルがソリストで一緒に来てるオケかなあ」

 二十歳そこそこで当時の国際コンクールのタイトルを総なめにした気鋭のヴァイオリニストの初来日は、いつもなら管弦楽部でも話題になるところなのだが、東京公演がちょうど軽井沢合宿の最中なので、『残念だね』『でもどうせまた来るよ』『そうだね』…で終わっていたのだ。

 もしそうなら、聞きたかっただけに嬉しい話ではあるのだが。

「あれ? 知ってるんだ。なら話は早いな。そいつが友達だから」

 アニーの言葉に司が目を見開いた。

「ジュリアン…アイルが?」

 てっきりオケの奏者に友人がいるものと思い込んでいたから、まさか『ソリスト』だとは…と、司は驚きもマックスだ。

 しかも、『そいつ』呼ばわりときている。

「うん。まあそこそこ有名人だから、ヴァイオリン弾きなら知ってるかもだけど」

「そこそこ…って、めっちゃ有名人じゃん!」

「あ、そうなんだ」

 あはは…と笑うアニーに司は『そうだった…』と、脱力する。

 普段の学校生活ではお茶目な級友で、2人きりになれば甘やかしてくれるばかりの優しい恋人だからすっかり忘れていたが、アニーもまた世界的奏者なのだ。

 友人が大物でも当たり前で、聖陵へ来る足掛かりをつけたのは『あの』赤坂良昭なのだから。


「で、でもさ、年、ちょっと上じゃないの?」

 確か二十代後半のはずだ。
 アニーも聖陵入学時にすでに18だったから、すでにハタチを過ぎているが、普段は年の違いをまったく感じさせない。

 ただ、恋人としての包容力はそれ以上だけれど。

「ああ、年なんて関係ないよ。特に音楽業界はね。気が合えば、親子以上違っても親友になれるさ」

 そんなもんなんだ…と、まだ『学校』という枠から出たことのない司には今ひとつピンと来ないが、こんなところもまた、アニーと自分の『住むべき世界』の違いを感じさせてしまうところで、司は気取られないようにコッソリと息を吐く。


「司のことを紹介したいからね。一緒に行こう?」
「紹介?」

 さらりと言われたが、司は青くなった。

「ちょ、ちょっと待った!しょ、紹介って、ままま、まさかっ」

 その『まさか』をアニーはまたさらりと肯定してくれた。

「そりゃもちろん、僕の最愛の人って紹介するよ」

 当たり前でしょ…と付け加えるアニーの腕を掴んで、司はプルプルと首を振った。

「だ、ダメだってば、そんなこと!」

「え?どうして?」

「だって、僕たち男同士だよっ」

『ここ』でないところで大っぴらに出来ないことくらいよくわかっているつもりだ。

 けれどアニーはケラケラっと笑い飛ばした。

「ああ、なんだ、そんなこと?」
「ソンナコト〜?」

 そんなこと…と言う言葉は日本語のはずだが、今アニーが発したのはまるで外国語…いや地球外の言葉だ。

「心配しなくても大丈夫。音楽業界で同性カップルは珍しくもなんともないし、彼がどうかは知らないけれど、彼のカルテットの仲間にも、女性同士で結婚してる人いるからね」

 だからそんなことはどうでもいいんだよ…と、微笑まれて司は返す言葉をすっかり無くしてしまった。

 今日は脱力してばかり…だ。
 でも、やっぱり『はいそうですか』と言う訳にはいかない。 

「あ、あのさ、アニー」

「ん?」

「アニーの周辺環境はわかったけど、僕には僕の周辺環境ってのがあって…!」

 必死で言い募る様子の司に、アニーは一度目を見開いてから、ほんの少し寂しそうに笑った。

「…それはそうだね。わかったよ」

 少し無理のある笑顔に、司のどこかがチクリと痛む。

 そしてまた、想いは暗闇の方へ転がった。

 卒業まで9ヶ月ほど。
 それが過ぎれば…。

 ――僕たちは恋人同士『だった』ってことになるのかな…。

 そう、こんなに好きなのに、『なかったこと』になるのだ。きっと。
 自分の意気地の無さで。



                    ☆ .。.:*・゜



『Wow!』

 アニーの友達、ヴァイオリニストのジュリアンは楽屋で司を見るなり歓声を上げて抱きしめてきた。

『なんて可愛いんだ』…と言っていたのだが、いきなり抱きしめられて目を白黒させている司の耳には入らなかった。

 アニーは楽団員たちに取り囲まれて離して貰えない状態の中、言葉もわからないのに――英語で話してくれているのだから、そこそこはわかるはずなのだが――司はジュリアンと2人きりになってしまった。


『アニーのオケのコンマスなんだって?』

 落ち着いて聞いてみればそう言っているようだ。

『あ、はい』

 アニーが今どういう環境で音楽活動をしているのか、どうもちゃんとは理解していない風ではあるのだけれど、司はとりあえず『Yes』と答えるのが精一杯だ。

『ちょっと弾いてみせてよ』

 ずいっと彼の楽器が司に向かって突き出されて、にっこり微笑まれたのだけれど司は勝手に『今のは聞き間違えだ』と、決めつけた。

 が、彼はやっぱり言うのだ。

『君の演奏聞きたいな』…と、ご丁寧にも平易な英語で。 


「ぼ、僕が弾くんですか?」

 答える司はもちろん母国語だ。

 それくらいの英語は話せるけれど、この状況で咄嗟にでるほど慣れてはいない。
 聖陵の英語教育はかなり実践的なはずだけれど。

 けれど、自分を指差して言った司の言葉を、わからない言葉でも理解してくれたのだろう。

 彼は『Yes』とご機嫌で返してくれて、しかも楽器を肩に押し当てて弓も握らせてくれちゃったりなんかして。


「で、でも何を…」

 弾けと言われても何の準備もなくいきなり弾けはしない…と言うわけでは、実のところ、ない。

 レパートリーはそれなりにあるし、すぐに対応もできるはずではあるのだけれど、この状況下で頭も指もさっぱり動かない。


『じゃあ、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトのカデンツァとかどう?』

 残念なことに作曲家名も曲名もどの部分かもはっきりわかってしまった。

「え〜…」

 確かに弾けるが…。

 躊躇う司にジュリアンはまたニコッと笑ってみせる。

『今回連れてきたこの弓の作者はAnnieと僕の友達なんだけど、確か君が持ってる弓も彼の作品のはずだ。同じ作者の弓でも楽器との相性で音が変わるのが実感できると思うよ』

 殊更ゆっくり話してくれたおかげでほとんど理解できた。

 そう、司の弓はアニーからクリスマスプレゼントに貰った弓だ。
 友達が修業していた工房から独り立ちするに当たっての『卒業制作』のようなものだと聞かされている。

 同じ作者の違う弓…と言うのは司の興味を引いた。


「あ、えと、それなら…」

 そう言う理由ならちょっと嬉しいかも…と、司は『でも指慣らし無しでカデンツァはキツいなあ』と思いつつも、楽器を構え、一度だけ深呼吸すると弓を滑らせた。


 ――うわ、弾きやすい!

 渡されたジュリアンの楽器はきっと名のある物なのだろう、弓が弦に吸着くように動き、ネックも寄り添うように司の左手に収まっている。

 自分の楽器も弾きやすいけれど、これはもうレベルが違う。


『Vravo!』

 カデンツァを弾ききった司に、ジュリアンは歓声を上げて派手に手を叩く。

『素晴らしいよ、ツカサ! Annieが認めてるのだから腕は確かだろうと思っていたけれど、これほどまでとは思わなかった! 君は可愛い上に才能まであるんだね。どうだい? 僕と一緒にヨーロッパへ渡らないか?』


 まだ手の中の楽器と弓に意識を取られている司は、一気にまくし立てられた言葉をロクに聞いていなくて、『ほえ?』…と、半ば惚けた顔を上げてしまったのだが。

 その表情に、ジュリアンが生唾を飲み込んだ事にも当然気づかない。

 ジュリアンは司の手から楽器を取り、そのまま楽器ごと司を抱き込んだ。

「え、あ、ちょっと」

 ここへ来て漸く、何やら抜き差しならぬ状態に陥っていることに気づき、司はもがいたのだけれど、相手はアニーと変わらないほどデカい異人さんで、しかも『友達』でおまけに『有名人』なのだから足を踏みつけて逃げるわけにもいかず、司は身を堅くした。


『Julian!』

 かなり焦った声が楽屋に響き渡る。

『何やってんだっ』

 駆け寄り、その腕の中から司の身体を力一杯引っ剥がす。

『何って…。今ちょうど口説いていたところだよ。僕と一緒にヨーロッパに渡って勉強を続けながら僕と暮らそうって』

 いや、同棲まではまだ持ちかけていなかったはずだが、ジュリアン的にはもう、ここは押して押して押しまくる場面らしい。

『なんだって?!』

『君の言うとおりだ、Annie。ツカサは才能に溢れている。まだまだ荒削りだけれどね。可愛くて才能溢れるなんて、まさに理想の恋人だ』

 そんなことは言われなくてもわかっている。

『ツカサを連れて行くよ』
『何をバカなことを!』

 いつも穏やかなアニーの、聞いたことがない怒鳴り声と焦った様子に、司は思わず身を竦めた。

 そのことに気づいたアニーは、慌てて司の肩を抱いて、宥めるようにさすったが司は訳のわからないままで、ますます身を固くした。

『何をそんなに焦って怒ることがあるんだ? 友達なんだろう? Annieとツカサは』

 そう言われて一瞬言葉に詰まったアニーは、ちらっと司を見やってから仕方無さそうに頷いた。

『…ああ』

 その会話はドイツ語だったから、司にはチンプンカンプンで、自分が言い募ったせいでアニーに嘘をつかせてしまったことには気づかないままでいた。


『君に恋してしまったよ、ツカサ』

 今度はゆっくりと英語で告げられて、司は目を見張った。

「へっ? ラブ?!」

『そう! 僕と一緒に行こう!』

「な、なんでやねんっ」

 葵同様、切羽詰まった時に口をついてでるのはやはり、関西弁だ。

『Annie、今、ツカサは何て?』

 尋ねられ、アニーは肩をすくめながら通訳した。

『僕はあなたのことは何とも思ってないし、Annieについて行くつもりだから、キッパリお断りします…ってさ』

『え〜! そんなあ〜』

『残念だったな、Julian。そんなわけで、今日は会えて嬉しかったよ。ツアーの残り、せいぜい頑張ってくれ』

 少々強めにジュリアンの肩をボンッと叩き、その手で優しく司の肩を抱くと、アニーはことさら優しい声で『帰ろうね』と司を促した。

 ちなみに、司の発した一言と、アニーから訳された内容量が随分違うことにジュリアンが気づいたのは、2人が帰った後だった。




「ごめんね、司」

 京都へ帰る道すがら、何度も謝ってくるアニーに、司は少しばかり疲れた顔で笑って見せる。

「…いいって…。僕に自信つけてくれようとしたんだろ?」

 真意は確かに伝わったようなのだけれど、結果はと言えば、必ずしも良い方向ではなく、むしろ悪い方へ傾いたかもしれないと、アニーは表情を曇らせる。

 まさか、ジュリアンが司に一目惚れしてしまうとは思わなかった。

 けれど、明らかに自分のミスだとアニーは唇を噛んだ。
 とにかく司のことになると、ここのところ焦りの所為で冷静さを欠いてしまう。

 純粋に、司の能力を正しく評価してくれるであろうことを期待してジュリアンに会わせたのだが、これはもう完全に裏目に出てしまったと言っていいだろう。

 最初から釘を刺しておくべきだったのかも知れないが、そうすればまた、別の色眼鏡を掛けることにもなりかねないから、それは避けたかったのだ。アニーとしては。

 それに、司にも『絶対ダメ』と言われてしまったから。


「でもさ…」

 言いかけた言葉を切って、司は重苦しいため息を落とした。

「…僕がこんな見かけじゃなかったら…」
「司?!」

 慌てて司を抱きしめたけれど、司の心は遠いままだった。



                   ☆ .。.:*・゜



 それからの夏休みはと言うと、最後の一年なのに司はぎこちないままで、アニーの焦りも最高潮になりつつあった。

 しかし絶対に同じ轍を踏むわけには行かないから、打つ手も選ばざるを得ない。

 最悪、だまし討ちにしてでも攫ってしまおうか…などと、不穏な考えまで過ぎる始末で。

 しかも、学校にいる間なら、ほんの少しすきま風が吹いても身体で強引に誤魔化してしまうことができたのだけれど、珠生の家でも司の家でも、とりあえず帰省先では司は絶対に誘いには乗ってこないから、ここのところちょっとしたキスですらお預け状態で、アニーのモヤモヤはピークに達しつつあった。

 そして、漸く夏休みが終わり、前期授業が再開された時、暴発寸前だったアニーに救いの手が現れた。

 春に理事会入りしていた良昭がやってくることになったのだ。オーケストラ・クリニックを兼ねて。


 
「大丈夫、ほら、深呼吸して」
「あ、うん」

 言われるままに、吸って吐いてを繰り返し、ついでに肩を回して解してみる。

 世界的指揮者のレッスンをコンサートマスターとして受けるなんて、考えもしなかったことで、葵もたびたび指導OBとして来てくれては『大丈夫、優しい人だから』…とは言ってくれたのだけれど、でも、司にとっての赤坂良昭は『幼なじみの父親』ではなくて、やはり『世界的マエストロ』だから、この緊張感はどうしようもない。

 それでも、実力以上のことは絶対にできないのだから、せめて実力いっぱいまでは出し切ろうとどうにか切り替えて、司はコンマスの席についた。

 練習が始まる時には、指揮者はコンマスに握手を求める。

 マエストロは司の目を見て微笑んでくれて、『よろしくね』と優しく言ってくれた。

 それからはもう、マエストロのペースだった。


                    ☆ .。.:*・゜


「お疲れさま。頑張ったね、司」

 満面に笑みをたたえるアニーからそう言われ、司は今日ばかりは素直に『うん』と頷いた。

 まだまだだとは思ったけれど、積み上げて来たことは精一杯出せたつもりだ。

 緊張もしたけれど、それよりも気持ちの高揚が上回っていて、今の気分はとても良い。


「で、マエストロがコンマスと話がしたいって」

 アニーからそう告げられ、肩を抱いて歩き出されてしまえばついて行くしかない。

 それもやっぱり緊張だけれど、でも、もしかして少しでも葵の父親の顔を見せてくれたら嬉しいなと思える程度には、リラックスも出来ていた。


 
「お疲れ様。とても良い出来だったよ」

 まだ指揮者の顔で、マエストロは言った。

「ありがとうございます。とても貴重な体験をさせていただきました。勉強させていただいたこと、大切にしていきたいと思います」

 真摯にそう言う司に、良昭は優しげに身を細めて見つめ、今度は父親の顔になった。

「司くんは、幼い頃からずっと葵を支えてくれていたんだよね」

「あ、いえ、そんな大層なものじゃありません。僕が、葵ちゃんが大好きで、チビの頃からつきまとっていただけです」

 そう、葵が誘拐された時にも側にいてあげられなかった。

 自分では守っていたつもりだったけれど、少し大人になって省みれば、葵から一方的に幸せをもらっていただけのような気がしている。今となっては。

 そんな司の様子に良昭は少し笑みを漏らし、また言葉を継いだ。

「葵から何度も聞いているんだ。葵が辛い時にいつも側にいてくれて、どれだけ助けてもらったか知れないって。本当にありがとう」

 そして、現在大学へ通う葵とは、頻繁に会えて幸せな日々だと語る良昭に、司は嬉しくなる。


 が。

「で、司くんは葵たちと同じ大学へ進学する予定だと聞いたのだけれど」

「あ、はい。どこまで通用するのか不安でいっぱいなんですが、取りあえず好きな道で精一杯やってみようと考えています」

 その言葉に笑顔で頷き、良昭は言った。

「留学する気はない?」

 そう聞かれた瞬間、アニーが自分をここへ連れてきたのは、これが目的だと悟った。

「留学は、選択肢にありません」

 いつになくきっぱりと言い切った司に、アニーは思わず表情を固くする。

 だが、良昭は柔らかい表情と口調のままに言う。

「それは残念な事だと思うよ。君の能力はとても高い。もちろんこれからまだまだやらなくてはいけないことは多いけれど、目指すなら、最初から世界を見据えた方が良い」

 その言葉に司は一瞬目を見開き、そして、伏せた。

「赤坂先生…」

「ん?」

「お言葉は嬉しいのですが、僕には、そんな能力はありません」

 積み重ねられた、ある意味で『疑心暗鬼』とも言える感情は、ちょっとやそっとでは拭えない。

 俯いてしまった司に、良昭はやはり穏やかに言葉を継いだ。

「もしかして司くんは、私が葵の事で君に配慮をしていると思っている?」

 心の内をそのまま晒されて、司は言葉を飲み込んだ。

 その通りだが、そうですと言葉にするのも憚られ、司にはもう言葉がない。

「君がそう思う気持ちも理解できないわけではないけれど、でもね、それとこれとは別だ」

 柔らかい口調だけれど、きっぱり告げられて、司は思わず顔を上げ、良昭を凝視した。 

「私は子ども達にもダメ出しはハッキリとするよ。是は是、非は非…だ。親としては完全に落第だけれど、音楽家として、彼らに恥じない先輩でいたいと願っているし、彼らを正しく導く存在であろうと決めている」

 少し熱を帯びた口調には、この世界で長く積んできた経験と努力に裏打ちされた強い想いが垣間見える。

「私はね、音楽で嘘はつかない。今までもこれからも、絶対にね。これは私の音楽家としての矜持だ」

 その言葉は、閉ざされていた司の心をそっと叩いた。

「先生…」

「アニーについて行きなさい。彼ならきっと、司くんを豊かに育ててくれるから」

 目が熱くなってきた。

「…ありがとう…ございます」

 感謝の言葉が零れ落ちる。

「またいつか…そうだな、次にはレッスンではなくて共演出来るのを、楽しみにしているよ」

 この、世界的マエストロと共演出来る日が、何時かといえども来るとは到底信じられないけれど、今は素直に答えたかった。

「はい。頑張ります」

 しっかりとその心を掴んで引っ張り上げてくれた事への感謝を込めてそう言うと、マエストロは満足そうに頷いてくれた。


                    ☆ .。.:*・゜


「マエストロ、助かりました 。感謝します」

「いや、お役に立てて幸いだよ。私としても、あの才能には是非とも大きく開花して欲しいからね」

 言われてアニーは嬉しそうに笑み、そしてホッと息をついた。

「客観的に意見をもらえれば、司も納得するだろうと思って色々と画策してきたんですが、なかなか上手く行かなくて、本当に焦りましたよ」

 珍しく弱音を吐いたアニーに、良昭は声を上げて笑う。

「アニーのこんな姿を見る日がくるとは思わなかったな。そう言えば、この前ジュリアンから延々と愚痴を聞かされたよ。絶対アニーはウソついてるって。せっかく良い子に会えたのに、見せるだけで取り上げるなんてあんまりだと、かなり暴れていたからな。今度会うときには気をつけた方がいいぞ」

 わざと恐ろしげな声を作って脅してくる良昭に、アニーはまたしても本音の弱音を吐いた。

「あれはもう大失敗でしたよ。まさかジュリアンがいきなり司を連れて帰るとか言い出すなんて、有り得ないにもほどがある上に、あれで司は心を閉ざしてしまいましたから…」

 ローティーンの頃から年齢を感じさせないほどに見た目も中身も大人びていたアニーが、ここへ来て年齢相応の悩みや想いを積み上げていることに、良昭は嬉しくなるが、わざわざそれを口にする事はない。

 今日のように助けを求められればいくらでも手は貸すが、アニーはすでに、精神的にも自立した大人だとわかっているから。

 だから、見守るだけで良い。


「まあ、これで万事OKです。司のご両親は留学には理解がありますし、連れてっちゃえばもうこっちのものだし、あとはうちの両親に、司をパートナーにすることを早めに認めてもらおうと思ってますが…」

 言葉を切って、アニーがニコッと良昭を見た。

「うちのパパとママは、マエストロのこと、とっても尊敬してるんですよ」

 その、何やら含みのある言葉に良昭は、もしかしてアニーの両親の説得にも荷担しなくてはいけないのだろうかと、少しばかり青くなった。


                    ☆ .。.:*・゜


 その夜。

 シャワーを浴びてさっぱりし、課題も全部片付けてから、アニーは司を抱き上げてベッドに腰を下ろした。

 ここの所、アニーとの接触を避けるような仕草を見せていた司だが、今夜は大人しくされるがままになって、膝の上に横抱きされている。

「司…」

 頬をつけて優しく名を呼ぶと、司もまた、『アニー』…と、呼び返してくれる。

「今日は…ありがと」

「どういたしまして…と言いたいところだけれど、僕は何にもしてないよ」

 アニーらしい返答に司は小さく笑んで、その小ぶりの頭をアニーの広い肩にもたせかけてきた。

「それと…今までごめん。僕は、どこかでアニーのこと、信じてなかったのかも知れない…」

 疑ったことは多分、あまりないのだけれど、ちゃんと信じていたとはとても言い難い。

 アニーはそんな司の様子が嬉しくて仕方がない。 

 司の嘘はすぐわかる。それと同じくらい、本音も見分けがつきやすい。 

 そう言うと司はきっと、『どうせ単純ですよ〜だ』…なんて拗ねてしまいそうだけれど。


「司…」
「ん…?」

 細い顎をそっと掬って、柔らかく触れるだけのキスを贈り、アニーはついに口にした。

「Will you marry me?」

「アニー…」

 言葉の意味が解らないことなんて、もちろんない。

 自分が諦めていたことを、アニーは辛抱強く待ち、努力してくれていたのだと理解した今、その気持ちは素直に嬉しい。

「司、僕と一緒にドイツへ行こう」
「…でも」

「何も心配はいらない。僕のうちから音楽院へ通えばいいんだから」
「……でも」

「そして2人で日々を重ねて行こう。ずっと、愛し合いながら」

 優しいけれど、力強いその言葉に、司の胸が詰まる。

 どのみち『でも』に続く言葉はこれと言って無く、それは未知の世界への、ただの漠然とした不安に過ぎないから。

「司、返事は? Yes? それとも…」

 Yesしか聞かないけれどね…と、内心だけで呟いて、アニーは司の返事を待った。

「…僕も、少しでもアニーの役に立てるように、頑張る」

「…司!」

「…Yes。アニー、ずっと側にいさせて」

 華奢な身体を全身で強く包み込み、アニーはうっとりと言った。

「大丈夫。司が嫌だと言っても離さないから」


 自然に重なった唇はそのまま深く結びつき、ベッドへと倒れ込む。

 お互いに毟るようにパジャマを脱がせあったら、もう後は何も考えられない。

 しばらく些細な接触さえなかった2人の身体に火がつくのはあっという間だった。

 今まで柔らかく包み込むように抱いてくれていたアニーの、どこにこんな火傷しそうな熱があったのかと思うほどに、アニーは貪るように司を抱いた。

「ずっと一緒にいよう…」

 その熱の固まりを、司の中に叩きつけるように放った時、アニーはそう言った。

「……う、ん」

 息を継ぐのがやっとの状況の中、つかさはそれだけを漸く言葉にした。

 そして、意識の遠くで思った。
 あんまり我慢させちゃうと、壊されちゃうかも……なんて。



     ☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆



 その年の暮れ。
 栗山がウィーンから帰省してきた。

 司が卒業後に、帰国するアニーにくっついて留学するという話はすでに当のアニーから報告を受けていて、司の決断に『いつの間にかお前もしっかりしたもんだ』と笑いながら、昔のように優しく頭を撫でてもらった。 

「そうや、司。料理は身につけとけ。お前の母さん、料理上手かったやろ? ちゃんと教えてもらっておけよ」

「え、なんで?」

「京都の人間に、毎日ドイツ料理ってのは厳しいからなぁ…」

 薄味出汁文化の京都人には、ヨーロッパ――特にドイツ周辺の塩味中心文化は実のところかなり厳しい。

 食生活に馴染めずにホームシックになる留学生は多いのだ。

「あ、あの…」

「ん? なんや?」

「アニーが、和食をマスターしてしもて」

「は?」

「最初のお正月に家に来て以来、休みになったら京都に来て、うちの母さんに…」

「なんや、お前やなくて、アニーが習ってたんか」

「えへ。これがまた上手で」

 アニーは相変わらず佐倉家のVIPゲストで、そのアニーが全面協力で留学をサポートしてくれると聞いて、両親――特にクラシック好きの父親は舞い上がっている。

 未知の世界へ踏み出すのはやっぱり少し怖いけれど、いつの日もアニーを信じて頑張ればきっと大丈夫だと、やっと思えるようになった。


「司〜、味見して〜!」

 奥からアニーの声がする。
 今日は司の母とおせちの仕込みをやっている。 

「センセも味見して? 絶対びっくりするから」

「ほな、来年からは京都の味が恋しくなったら、お前たちのところへ行くことにするか」

「何言うてんの。これでもかって言うくらいバリバリの京都人のお嫁さんをもろたばっかりくせに」

「そやかて、料理の腕前知ってるやろ…?」

「…あー、アニーの方が上手い…かな?」

「な?」


 大笑いになった後、少し、これからの生活が見えた気がして、司はほんのり微笑んだ。



END

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