君の愛を奏でて


『管弦楽部員はかく語りき?』




 その質問を、クラスメートから突然突きつけられたのは、卒業までわずかとなった、ある寒い昼休みのことだった。

「なあなあ、悟〜」

「何だ?」

「オケの中でさ、音楽ってどんな風に聞こえてるわけ?」


 質問者は化学部の元部長。

 本命の国立大学の合格通知を無事に手にして、将来の目標は『当然ノーベル賞』と豪語して憚らない秀才だが、そのいかにもお堅そうな外見に反して、飄々とした性格なので友人も多く、悟とも気の置けない間柄である。

 そんな彼は、最近クラシックに目覚めたとのことで、悟も尋ねられていくつかのCDを勧めたりもしていたのだが。


「オケの中で…って?」

「いやさあ、中で演奏してる人間ってさ、俺たちが客席で聞いてるのと同じように聞こえてるのかなあ…って思ったもんだから」

「…ああ、なるほどね」

 そう言う疑問はもっともだ…と悟は頷いた。


「演奏してるやつは、やっぱり自分の音が一番よく聞こえるんだろ?」

「いや、そうでもないよ」

「え? マジで?」

「ああ、かなりホールに左右されるんだ」

「ホールって、ホールの音響ってことか?」

「そう。ホールの造りや音響によっては、自分の音が一番聞こえないってこともあるんだ。でも、自分に聞こえてないだけて、そう言う場合はたいてい「遠鳴り」してることが多い。つまり、遠くにはちゃんと聞こえてるんだ。ホールの一番後ろとかまでね」


 先月行った演奏旅行先のホールがそうだった。

 特に管楽器が遠鳴りをしていて、自分の音が聞こえない…と半ばパニックになりかかっていたメンバーたちに、葵が『一番後ろまでちゃんと届いてるから、吹きすぎないように注意して』と言っていたのを思い出す。

 聞こえていないのではないかと焦って吹きすぎると、音も荒れるし、体力も持たなくなるからだ。


「ふうん…。それって、大変じゃねえ? 自分の音が聞こえてないってさ」

「ああ、あんまり嬉しい現象ではないだろうな」


 実際、葵が遠鳴りに気がついた時には、それは不安そうな面持ちで、悟のところへ尋ねてきたのだ。

『自分の音が聞こえないんだけど、もしかして遠鳴りしてる?』…と。


「そう言う時ってさ、周囲の音はどうなんだ? 聞こえてねえのは自分の音だけ?」

「ああ、そうだよ。周囲の音はちゃんと聞こえているから、余計やりにくいだろうな」

「そうか〜。じゃあ、バランスとるの大変だよなあ」

「そうだな。自分がどれくらいの音を出せば周囲とバランスを取れるのか、一人で考えても解決できないだろうな」


 先月の演奏会でも、その点ではアニーがみんなをよくまとめていてくれたと思う。

 何しろ彼は、10代になった頃から世界中のホールを体験しているのだから、現場に応じた対応は、自分たちの誰も、敵わない。


「うーん。オケやるのも大変だなあ…」

 腕組みをして唸るクラスメートを前に、悟は穏やかに笑ってみせる。

「いや、そう言うホールは特殊だからね。ここのホールはオーケストラ専用に設計されてるから、そう言うストレスは無いと思うよ」

 けれど、その分甘やかされてしまっているかもしれないな…と思った時。


「おーい、悟。可愛い可愛い弟ちゃんのご訪問だぜ〜」

「あ、あのっ、そうじゃなくて、委員長の先輩にこれを…」

 廊下の方から小さく聞こえてきた葵の声に、慌てて振り向いてみれば、誰よりも愛おしい姿が困ったようにこちらを見ていた。


「葵!」

 当然、飛んでいく悟だが、有象無象もわらわらと周りを囲み始めて、悟にしてみれば鬱陶しいことこの上ない。

 ここのところ、こういうことがよくある。

 みんな、何かと葵を、悟や昇・守のクラスへ行かせようとする。

 今日もまた、誰が持って行っても良さそうな――というよりは、本来葵のクラスの委員長、篤人が持ってくるのが筋なのだが――書類を3年のクラスに運ばせている。

 理由は簡単。

 葵に、3人の兄たちをなんとか『お兄ちゃん』と呼ばせようとして、接触の機会を総出でお膳立てしているというわけだ。

 もちろん、これは歴とした生徒会主催のトトカルチョで、何しろ有効期限があと少しに迫っているものだから、周囲も手段を選ばなくなりつつあるのだ。

 しかし、悟にとってはそれもこれもどうでもいいことで、かえってしょっちゅう葵の顔を見ることができて非常に喜ばしい。

 葵はと言えば、これ以上ないほど迷惑そうだが。


「葵」

 その名を呼ぶだけでも、悟はとろけそうに優しい顔をして見せて、一部クラスメートたちは頬を染めて見つめる始末。

 そんな様子も、葵しか目に入っていない悟には何らお構いなしなのだが、ただし、この機会に葵と接触を図ろうとする胡乱な輩は当然排除すべし…ではある。


「お、ちょうどいい。奈月ってオケのど真ん中に座ってるよなあ?」

「あ、はい、そうですが」

「ちょっと話聞かせてくれよ」

 と、件の化学部元部長は、葵の持ってきた書類をさっさと取り上げて、ほらよ…と委員長に渡してしまった。

 渡された委員長としては、せっかくの葵との接触の機会を邪魔されて面白くないことこの上ない。


「あの、えっと」

 どうしよう…と言った面持ちで見上げられ、悟は安心させるように微笑んだ。

 というか、可愛い葵の顔を見るだけで勝手に表情がゆるむのだが。

「実はさっきから、オケについていろいろと質問を受けてるんだ。葵も急がないならちょっと相手をしてくれないか?」

「そうなんだ。ぜひ頼む」

 ここ、座って…と、椅子を示され、葵はやっと緊張を解いて笑った。

 その笑顔に周囲の野郎どもが色めき立ったのだが、悟ががっちりとその視界をガードしたので、葵の目には入らなかった。

 そして。

「あ、じゃあ、それなら…」

 と、座ろうとしたその瞬間、悟の腕が伸びてきて、葵の腰をさっと掴んだ。
 が、葵がその手をペシっと叩いた。

 何のことはない、悟は葵を自分の膝の上に乗せようとしたのだ。

 だが、『めっ』という言葉と同時にじろっと睨まれた上に、さっさと隣の椅子に腰掛けられてしまい、『一番上のお兄ちゃん』は形無しだ。


「おまえら、ほんとに呆れるくらい仲良いなあ」

 兄弟にしては過剰なスキンシップだが、彼らが『普通の』兄弟でないことはもちろん周知の事実なので、それらはかえって好意的に受け止められている。

『15年間父親を知らずに育った弟への、兄たちの精一杯の愛情なのだ』…と。

 もちろん、それを最大限に利用させてもらっている。特に悟は。

 とりあえず、膝に乗せられなかったことは残念だが、ぴったり隣に座っているので、ここは我慢するとして。


「さて、奈月に質問なんだが」

「はい」

「ぶっちゃけ、あの場所にいて合奏してて、トランペットとかうるさくねえ?」

 金管の、あの華やかな音の威力は、一目瞭然…ならぬ、一聴瞭然だ。

「え? 全然平気ですよ? うちのトランペット上手ですから、音質がすごく良いんです。だから、音量が大きくなっても、耳あたりが良いので全然うるさくないです」

「…なるほど、音量じゃなくて、音質ってわけか」

 葵は大きく頷いた。

「はい。多分、音が大きくなくても、割れ鐘みたいな音で吹かれたら、うるさいし耳障りだと思います。でも、うちのトランペットは気持ちいいですよ。うっとりするくらい」

 葵の最上級のほめ言葉に、『羽野が聞いたらうれし泣きしそうだな』…と、悟は小さく笑いを漏らす。

 能力は高いのに、何故か妙に自信の無かったトランペッターは、最近やっと開眼してくれたのか、音大を目指すとはっきり進路を定めたようで、説得にあたった者としては嬉しい限りだ。


「じゃあ、バランスは? 客席と同じように聞こえてるわけ?」

「いえ、物理的にもそれはないです。僕の席だと、管楽器は後ろと横から聞こえてきますし、弦楽器は前で鳴ってますし」

「だよなあ」

「どっちが聞こえにくいってことはないんですけど、ただあの場所だと、背後の管楽器の出だしがちょっと早く聞こえることがあります」

「出だし? ちょっと待ってくれよ。出だしは揃えなきゃ、ばらばらに聞こえるじゃん」

 音程とリズムを揃えるのは、合奏の基本中の基本のはずだ。

「いや、タイムラグがあるんだ」

 悟が口を挟んだ。

「タイムラグ?」

「ああ、例えばホルンなんかは音の立ち上がりの遅い楽器だから、オンタイムで吹くと客席には遅れて聞こえるんだよ」

「ええっ、そうなのか?」

「珠生……えっと、ホルンの首席の宮階くんは、いつも、コンマ数秒早く吹き始めてます」

「はあっ? そんな芸当できるのか?」

「もちろん誰でもできるって訳じゃないです。でも、プロはたいていやってるって、宮階くんは言ってました。なので、僕のところではちょっと飛び出し気味に聞こえても、もう少し前へ行くと、ぴったりになってくるわけなんです」

「つまり、指揮者のところで、音量やタイミングがぴったりになるように調整してるわけか」

「ま、そんなとこかな」

「じゃ、指揮者は奏者のミスも、すぐわかる?」

「当然」

「奈月も、他のやつのミスってわかる?」

「ええと、管楽器ならだいたい」

「あ、やっぱり弦楽器はわかんねえ?」

「えと、弦楽器は同じ楽譜を何人もで弾いてますから、一人くらいミスっても、僕のところにまでは聞こえてきません。でも、管楽器は基本的に一人で一つの楽譜を担当してるので、ミスったら、誰なのかはすぐわかっちゃいます」

「うへえ〜、因果な楽器だな、管楽器って」

「打楽器もバレバレですけど」

 クスクス笑いながら言うのは、いつの間にか葵の後ろに、悟のクラスメートでもある打楽器の首席奏者が張り付いていることに気がついているからだ。

「ってことは、この前のもバレバレ?」

「いいえ、全然。3楽章の110小節目の2拍目を忘れてたなんて、これっぽっちも気がつきませんでした」

 後ろからの馴染みの声に、葵は振り向いて笑いながら答える。

「く〜。奈月ってば、優しいのか残酷なのかわかんねえなあ〜」

「ってか、お前はいじめられて嬉しいクチだろうが。今、めっちゃ嬉しそうだぞ」

 化学部元部長に小突かれて、パーカッショニストは首を竦めた。

「仕方ないじゃん。打楽器奏者は基本、マゾでナルシストなんだよ〜ん」

「それ、中等部の面々が聞いたら怒るぞ」

 もちろん、悟も笑いながら言うのだが。

「ああ、あいつらはサドでナルシストだから」

「なんだ、結局ナルシストには違いないんだ」

「そりゃそうさ。音楽やってるやつなんて、多かれ少なかれナルシストだぜ、なあ、悟」

「さあな。あ、でも、少なくとも、昇と守はそうだな。な、葵?」

「まあ、ね。弦楽器だから、二人とも」

「お〜! 弦楽器奏者がナルシストってのは、なんだかわかるような気がするけどな」

 無責任に喜んで見せてから、化学部元部長はふと真顔になった。

「そういや悟ってさ、ピアニストじゃん?」

「あ、うん」

「オケの中で演奏したことねえよなあ」

「あるよ。協奏曲やってるし」

「ああ、あれは指揮者と同じ場所じゃん。俺が言ってるのは、弦楽器のまっただ中とか、管楽器のど真ん中とか、そう言うこと」

「それは、無理だな」

 3歳の頃にはヴァイオリンも持たされてはいたが、わずか数年で手放して、以来それっきりだ。

 管楽器に至っては、吹いたことすらない。

 一度葵にフルートを持たされたことがあるのだが、メカの繊細さに、壊してしまいそうで、すぐ返したことがある。


「じゃあ、一度入ってみれば?」

 にこっと笑って葵が言った。

「入ってみる?」

「そう。悟、今、中等部Aチームの面倒みてるじゃない? 合奏中に、中に入ってみればいいんだよ」

「指揮の途中で?」

「うん。理由はいくらでもつけられるって。…たとえば…指揮が無くても、コンマスの動きや指示でアンサンブルができるようにする訓練…とか」

 ぺろっと舌を出したその様子はいたずらっこそのもので。

「オケのど真ん中で音を聞けるって、結構贅沢な体験だよ?」

「確かにそうだな。客席での演奏は誰でも聴けるけど、オケのど真ん中で演奏聴けるなんて、誰にでもできることじゃないからな」

 葵と打楽器首席奏者は顔を見合わせて頷き合う。

「おもしろそうじゃん。実践したら、絶対俺にレポートしてくれな」

 バンバンと悟の背を叩いて、化学部元部長はにんまりと笑った。



                   ☆ .。.:*・゜



「ひゃ〜、悟先輩、マジでやってる」

 祐介が、葵の隣で小さく言った。

 音楽ホールの舞台袖。

 あと10分足らずで中等部Aチームの練習が終わり、メインメンバーと交代することになっているため、部長の祐介と管楽器リーダーの葵が他のメンバーより一足先にやってきていた。

 二人が見つめる舞台には、いるはずの指揮者がいない。

 そう。悟は合奏中の中学生たちの中にいたのだ。

 しばらく1st.ヴァイオリンと2nd.ヴァイオリンの間にいたかと思うと、今度はチェロとコンバスの間に座り、そのうち金管の間を行き来して、打楽器経由で木管楽器に入り込む。

 そのたびに、何かを深く考え込んでいるようで、確かに今回のこの企みが、悟にとって何か新しい発見をもたらしたかのようではあるのだが。


「確か、指揮者なしでもアンサンブルできる訓練…とか言ってたよな」

「あ、うん」

 確かにそう嗾けたのは自分なので、葵は仕方なく頷く。

「けどあれじゃあ練習になんないよな〜」

「……う、ん」

 中学生たちは、真横や真後ろにやってくる悟に、気もそぞろといった感じだ。

 頬を染めて、明らかに『通常の緊張』とは違う種類のドキドキ状態――この場合は『ときめき』…だろう――が、ありありとわかる。

 ふと、悟がクラリネット奏者の楽譜を覗き込んだ。
 そして、肩を抱き寄せて、耳元に何かを囁いた。 

 譜面を指さしていたから、おそらく何らかのアドバイスをしたのだろう。
 当然、音楽上の。

 合奏中だから、耳元で言わないと聞こえないに決まってる。

 それはわかっちゃいるけれど。


「葵」

「…なに?」

「ちょっとむかついてるだろ」

 嬉しそうに言われ、葵はちらりと剣呑な視線を祐介に流す。

「なんでだよ」

「またまた無理しちゃって。ま、言い出しっぺだから文句も言えないよな−」

「…ふん。」

 視線を戻せば、案の定、中3のクラリネット奏者はぽややんと夢見心地な顔を悟に晒している。

 そんな後輩の肩を、悟はぽんぽんと叩いて、またしても耳元に何かを囁いた。

 それが、舞台袖から見ると、まるで頬にキスをしているようにも見えて……。


「おおー」

「……何が『おおー』だよ」

「いや、やっぱ悟先輩って、何をさせても様になるなあ〜…って思っただけ。耳元に囁くだけでも決まっちゃってるし」

「…仕方ないだろ。何から何までかっこいいんだから」

「おー。言うねえ、葵くん」

「悔しかったら祐介も、ビシッと決めてみたら?」

 今、舞台で演奏中の、小さくて可愛いフルーティストの心一つままならないくせに…と、ちょっとばかり意地悪な気分で言ってみれば。

「え? いいんだ?」

「なにが?」

「じゃ、遠慮無く、ビシッと決めさせてもらおう」

 言うなり祐介は葵の肩を抱き寄せて、耳元で『ちゅっ』と小さな音を立てた。

「…な…っ」

 何するんだよっ…と、慌てて耳を押さえて言おうとした葵の視線の先には…。


「…う、わ…っ」

「…あっちゃー。まずったな…」

 祐介がつぶやいた。

 そう。

 二人とも、指揮台に戻っていた悟の視線がまっすぐこちらへ向いていたとは、つゆ知らず……。



 その夜、第1練習室の電気が消えていたにも関わらず、悟と葵が消灯点呼ぎりぎりまで帰ってこなかった理由は、神のみぞ知る……?


END


☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆.。.:*・゜♪゜・*:.。.☆

久々の音楽ネタでしたが、
M・Hさまからいただきました、
いくつかのオケに関するご質問をネタにさせていただきましたv

M・Hさま、謎は解けましたでしょうか?
裏話的にお楽しみいただけましたら幸いです〜(*^m^*)


ちなみに。
オケの中でミスったら。

たいがいは指揮者にはバレています。
バレないのはといえば、
大音量で全員が音を鳴らしてるときに、
管楽器のセカンドやサードはもしかしたらごまかせるかもしれません(笑)

あ、そうそう。
マゾでもサドでもナルシストでもない打楽器奏者の方がいらしたら、お詫び申し上げます(笑)
何しろ私の周囲には、一人を除いて(笑)マゾかサドかナルシストな打楽器奏者ばっかりなもんで(^^ゞ


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