〜後編〜





 慌てて廊下へ出た4人が見たもの…。

 それは、抱えていた荷物を取り落とし、呆然と階段を見上げる葵の姿だった。

「葵っ? どうしたっ?」

 悟が背後から葵の肩を掴んだ。

 しかし、一点を見据えたまま、まったく視線を動かさない葵の様子を見て取り、改めて父や兄たちも視線をあげる。


 天窓から踊り場へと射し込む光の向こう。
 凛とした表情で彼方を見つめる少年の姿…。

 漆黒の髪、黄金の冠、錦の装束。




 葵が一歩を踏み出した。

 微かに『トンッ』と音を立て、また一歩。

 肩を掴んでいた悟の両手からスルッと抜けていく。

 また一歩、そしてもう一歩。

 やがて葵は天窓からの光の中に立った。

 足音もなくなり、誰も言葉を発さない静寂の中、葵が少年に向かって手を伸ばす。

 そして、呟く。

「見つけたよ…母さん……」






「葵をモデルに?」
「はいっ、ぜひお願いしたいんですっ」

 そう言って、美大を出て数年の、若き日本画家は畳に擦りつけんばかりに頭を下げた。

「どうしても葵くんで描かせてもらいたいんですっ」
「……そやかて、祇園さんの稚児装束はそう簡単に着ることできしまへんやろ」   

 雪洞に灯りが入り始める時刻。
 綾乃はすでに身支度を整え、『綾菊』の顔を見せている。

 祇園で一番の売れっ妓、芸妓の綾菊は滅多に困惑した顔や狼狽した声を出すことなどない。
 どんなときでも冷静に、万事にそつなく対応できなければ、この世界でナンバー1などやってはいられないのだ。

 だが、事が命よりも大切な我が子のこととなると違ってくる。


「その件はご心配に及びません。保存会からも、葵くんやったら…て、了解もろてますっ」

 それを聞いて、綾乃はまた一つ、母親の顔でため息をついた。

「それで…絵をご注文になったのは…」
「長野社長ですっ。新社屋にどうしても稚児絵が欲しい。それも、綾菊ねえさんとこの葵くんの稚児絵でないとあかん…っておっしゃるんです。僕かて、一本立ちできるかどうかていうこの大事な仕事、どうしても葵くんでやりたいんですっ」


 長野社長まで絡んでは…とまたしても綾乃はため息をついた。

 地元の企業のトップはたいがい祇園の常連だ。
 中でも繊維業界で幅を利かせている長野は日頃からなにかと綾菊や葵に心を砕いてくれている。

「長野社長のご注文やったら…お断りはできしまへんなぁ…」

 ポツッと呟き、綾乃はまたしても深いため息をついた。
 




 京都最大の祭りであり、日本三大祭りの一つでもある『祇園祭』は、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、「これは祇園牛頭天王の祟りである」として、当時の国の数…66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祭り、厄除を祈ったことにはじまる。

 祇園祭は、7月1日の「吉符入り」にはじまり、31日の「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられるのだが、中でも祭りのハイライトは17日に行われる『山鉾巡行』で、長刀鉾を先頭に多くの鉾や山が祭列を連ねる壮麗なものだ。

 そしてその巡行の先頭である『長刀鉾(なぎなたぼこ)』は嘉吉元年(1441)頃の創建とも、それ以前ともいわれ、鉾頭に大長刀を付けるのでこの名で呼ばれている。この長刀の正面が八坂神社や御所に向かないよう、南向きに取り付けられているということは意外と知られていない。

 また現在では、生稚児(いきちご)が二人の禿(かむろ)と共に乗るのも、この長刀鉾だけである。(他の鉾には人形が乗せられている)

 稚児には毎年市内に住む10歳前後の少年が選ばれ、13日には立烏帽子水干姿で従者を従え八坂神社に詣で(稚児社参)、神事により、10万石の大名と同じ『五位少将』の位を授かる。

 以後稚児は、17日の巡行まで精進潔斎し、巡行時は長刀鉾正面に乗り、太平の舞を舞うのである。







「それで、OKしたんか?」

 深夜、やっとすべての座敷を勤めて上がってきた綾乃に、この家の住人ではないのにいつも此処にいる重紀が声をかける。

「うん…。しゃあないやん…」

 ペタッと座り込んだ綾乃に、重紀は熱いお茶を一杯差し出す。

「あ、おおきに」
「葵はなんて?」
「葵にはまだ言うてへんの。でも、そう言う意味で葵の事はあんまり心配してへん。 あの子やったらちゃんとできるやろうと思うし…」

 綾乃はそこで言葉を切り、僅かに視線を泳がせる。

「……ただ…」
「ただ?」

 問われて綾乃は、小さな湯飲みをそっと置いた。

「長野社長に、絵のモデルが葵やていうことを公表してもらわんように…て、お願いに上がろうと思てる」
「…そう言うことか…」

 ジッと見つめてくる重紀に、綾乃も真っ直ぐな視線を返す。

「昨日もな…やられたそうや」
「…また、あの子か?」
「うん…、またあの名家のボンや。昨日は漢字の書き取りノートが全部破られてしもたらしいわ。葵はなんにも言わへんのやけど、由紀ちゃんが教えてくれてな」

 小さく頭が俯くと、銀の簪が光を反射して華やかな色を振りまく。
 しかし、それは今の綾乃の苦悩とはあまりにも裏腹で…。

「小さい神社の月例祭でお稚児さんやっただけで、この嫌がらせや。 これで祇園さんの稚児装束着て、絵のモデルになったなんて知れてしもたら…」

 そこまで言って、綾乃は小さく身体を震わせた。

「あそこのうちは、お兄ちゃんが祇園のお稚児さんやってるからな。弟にもやらせようと思てはるんやろ。 そうなったら同い年の葵は最大のライバルやからな」

 重紀の言葉に、綾乃はゆっくりと頭を振った。

「まさか…。花街の子に…まして、父親のいてへん子に、そんな大役回って来やへん。そこのところ、向こうさんもようわかってはるはずやと思うんやけど…」

 俯いた肩は、やはり震えているようだった。
   



 そしてその年の夏もまた、メディアは『祇園祭・稚児社参』と、華やかにそのニュースを取り上げた。


 綾乃は葵の寝顔にそっと頬を寄せ、その静かな寝息を確かめると、ゆっくりと髪を梳く。

 あり得ないことだが…もしも葵が稚児に選ばれていたら、こうして母親が手を触れることなど許されない。

 精進潔斎の5日間、稚児は女人禁制の中で過ごさねばならないのだ。
 身につけるものはもちろん、口にするものも一切、女性――当然それには母親も含まれていて――が手を触れることは禁じられている。

 それを思いだし、綾乃はなんだか妙に可笑しくなって忍び笑いを漏らした。

「『女は汚れてるから』やって、誰が言いだしたんやろう…。みぃんな、女から生まれてくるのになぁ…」

「う…ん」

 小さく身を捩って、葵が寝返りを打つ。
 その小さく白い頬に、月明かりが落ちた。
 綾乃はまた小さく笑う。

「…五位少将の位なんて、葵にはいらへんなぁ。そんなもんのうても、葵はいつか、自分の力で輝ける人間になってなぁ…」






「で、どうしてその絵がここに…?」

 絵の前に佇んだまま、悟が聞いた。

「これは、お前たちのお祖父様からの贈り物なんだ」
「お祖父様からの?」

 昇が良昭を見上げて訊ねる。
 虐待の経験から、未だに『お祖母様』という単語を口にすることのできない昇だが、いつも優しく接してくれた血の繋がらない祖父のことは大好きだった。

「この絵と初めてあったのは、学長室でね。その時、僕はこの絵から目が離せなくなったんだ」

 涙が流れてしまったことは、この際言わないでおく。

「そして、この別荘を譲って下さったとき、この絵が此処にあった。…大事にしなさい…とおっしゃったよ」

 そう言いながら、良昭は葵の肩を抱いた。

「でもさ、どうしてお祖父様がこれを…?」

 もう一度守が疑問を口にする。
 だが、良昭はその問いに対する答えを持ち合わせてはいない。

 ほんの少しの沈黙の後…。

「この絵はね…。行方不明になったんだ…」

 葵がポツッと呟いた。

「行方不明?」

 誰もが同じ言葉を投げ返す。 

「この絵を注文した人の会社、半年後くらいに破産したんだ」
「破産…」
「3代目のボンボンだった社長さんは、うまい話に騙されてしまって…。それで、母さんはすぐにこの絵を買い取ろうとしたんだけど、一足違いで持って行かれた後だった。その後も探し続けたんだけど、結局見つからなかった」

 葵はまたそっと手を伸ばす。

「ここで…大事にしてもらっていたんだね…」

 たった数年前のことなのに、絵の中の自分はとても幼いような気がする。

「…恐らく学長は、葵と知って手に入れたのだろうね」

 ポツッと漏らす良昭の言葉に、4人がジッと聞き入る。

「どうして手に入れたのかは、もう、今となってはわからないけれど、葵と知って手に入れて、そして、僕に託してくれた…。『大事にしなさい』ってね…」 

 そう、それはきっと、どこかで静かに生きているはずの、存在を知らされていない我が子の『人型代(ひとかたしろ)』*注

 そして、見おろしてくる瞳の優しさに、葵は小さく頷いてみせる。

「母さんも、きっと安心してると思います…」

 肩を包む大きな掌の温もり。
 葵はその温もりにそっと寄りかかってみる。




 黒髪に金の冠、錦の装束。

 絵の中の少年の瞳は、真っ直ぐに、ただ未来を見つめている。



 その意志の強さを今、本物の瞳の中に見出して、良昭は心の中で呟いた。


『葵…。生まれてきてくれて、ありがとう…』



END

30万Hits記念にUPしたお話です。


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*『人型代(ひとかたしろ)』
 古くは板などを切り取って人形を模したもの。現代では紙製のものが一般的。
 人の『穢れや厄』をこれに移して『払い』をする、『まじない』的要素の強いもの。
 小説内では若干曲解して『身代わり』の部分を強調しています。

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