家族の風景
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そろそろ桜の便りも聞こえてくるかという頃。 ここ、午後の桐生家のリビングは、薔薇園の眺められる大きな窓が開け放たれて、肌触りのいい乾いた空気が流れ込んでいる。 奥行きのある庭を探すと、香奈子先生の姿が見え隠れしている。 次々と芽吹く新芽の世話に余念がないんだ。 守は煉瓦を敷き詰めたテラスの上に新聞紙を広げて、プラモデルの部品に色付けをしている。 守にこんな趣味があったなんて、全然知らなかったんだけど、確かに守の部屋は飛行機のプラモデルがたくさんある。 何でも、小さい頃の夢は『パイロット』だったらしくて、確かにパイロットの制服なんて似合うだろうなぁって思う。 守はよく言うんだ。 『チェロを機内に持ち込むのに座席一つ分を余分に買わなきゃいけないなんて理不尽だよな。コントラバスは貨物預けになるのにさ』って。 『俺がパイロットだったら、副操縦士席にチェロを座らせてやる』なんてこともいってるし。 昇はヘッドフォンをつけて、かなり集中した様子で音楽を聴いている。 多分、チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトだろう。 だって、手にしているスコアがそうだから。 昇も光安先生も、まだなんにも言わないけれど、夏のコンサートは昇がコンチェルトをやるんじゃないかと思う。 これは僕としてもかなり確信しているんだ。 そして、多分、秋の聖陵祭コンサートは守のチェロコンチェルト。 冬の定期演奏会は…悟のピアノコンチェルト…。 僕の大切な『お兄ちゃん』たちはもうすぐ高校3年生。 6年に及ぶ聖陵生活最後の年に、彼らはきっと大きなものを残していくはずなんだ。 そして卒業して、僕もまた、高校3年生になって…。 「葵? どうした。わからないとこある?」 リビングの広いローテーブルの上に、僕はノートパソコンを広げている。 隣にくっついて教えてくれているのはもちろん、悟。 いつの間にか指の止まってしまった僕に、悟がそっと聞いてくる。 「あ、ううん。大丈夫」 僕は春休みになってからこうして悟にパソコンを教えてもらってる。 もちろん聖陵には立派なパソコンルームがあるんだけど、僕は選択授業でそういうのを取らなかったから、全然縁がなかったんだ。 中学時代も友達の家でゲームをやったことがあるくらいで…。 ただ聖陵は、中学の3年間できっちりパソコンの基礎を教えてもらえるらしく、悟たちも、祐介も、高校では授業を選択してないにもかかわらず、僕から見ると完璧にパソコンを使いこなしているんだ。 そして、今僕がこれに向かって何をしているかというと…。 メールを書いてるんだ。 相手はウィーンにいる栗山先生。 京都のうちにはパソコンなんてなかったから全然知らなかったんだけど、教師というのは『そう言うもの』も出来ないといけなかったらしく、先生もちゃんと『そう言うこと』ができるんだ。 それにしても、メールって便利。 相手が遠い空の下でもすぐにつくし、時間も気にしなくていい。 国際電話だととんでもない値段になるのに、メールだと接続料だけ。 それも、学校からだと心配いらないし、ここ桐生家では香奈子先生が世界中の音楽家仲間と連絡を取るために『常時接続』になってるから。 そして、僕は日本に帰ってきている赤坂先生――照れくさくて、なかなか『お父さん』とは呼べない――にもメールを書いている。 やっぱりメールは便利だ。 だって、面と向かったり、電話ではなかなか話せないこともこうやって言葉に出来るから…。 僕の指がまた動き出したのを見て、悟はそっとソファーに身体を戻し、本を読み始めた。 ぴったりひっついて教えてくれてはいるんだけど、メールなんかを書いているときは、画面を見ようとはしない。 見ていいよ、って言うんだけど『たとえ恋人同士でも、手紙や日記は見ちゃいけないだろう?』って言うんだ、悟は。 ほんとは見たくて仕方がないクセにね。 でも、そんな悟に感謝して、僕はまた先生にメールを書く。 昨日あったこと、今日聞いた音楽の話、そして、ウィーンでの生活を細かく報告してくれる先生への返事を…。 僕の手はまたふと止まる。 薔薇園を行き来する香奈子先生の姿、細い筆で細かい部品に色を付けている守、真剣な表情でヴァイオリンコンチェルトを聴いている昇、そして、穏やかな顔で僕の横にいる悟…。 この優しい時間はいつまで僕の側にあるんだろう。 僕はいつも、勝手に信じてきた。 『今、この幸せな時は永遠だ』って。 子供の頃、母さんがいて、栗山先生がいて、由紀がいて、置屋のお母さんやお姉さんたちがいて、僕はとても幸せだった。 子供心に、この幸せな時間は永遠に僕のものだと思いこんでいた。 けれど、時間は過ぎ、あの事件をきっかけに、僕は母さんと栗山先生の3人家族になった。 それでも僕の幸せは変わらなかった。 ほんの少し、目に見える状況が変わっただけで、やっぱり僕は、この幸せな風景は永遠に僕のものだと思いこんでいた。 でも、僕は、母さんを亡くしたときにはっきりと知った。 この幸せな一瞬を、切り取っておくことはできないんだ…と。 京都で大切な人を亡くし、友達と別れて、僕は聖陵へやって来た。 そして、ここでまた、たくさんの大切な人と出会った。 僕はいつも願ってしまう。 今、この瞬間が永遠に僕のものでありますように、と。 だけど、それでも、時は経ち、人は去っていく。 そう、この優しい時間も、やがては僕の前から姿を消し…。 そう思った時、僕の手に熱い雫が落ちた。 「あおい…?」 悟の温かい掌が僕の肩に掛かる。 「どうした? …葵」 戸惑った悟の声。 「あ、悟っ、何泣かせてんだよっ」 悟の声に反応して、守が手にしていたものを放り出してやって来た。 「どうしたのっ? 葵っ」 今度は香奈子先生が守の声に反応して飛んできた。 バタバタと目の前を過ぎる二つの人影に、昇がびっくりして顔をあげ、ヘッドフォンを引き剥がす。 「悟っ、苛めたなっ」 「ちが…っ」 身に覚えのない責めを受けて、悟は慌てて僕を抱きすくめる。 「葵、何されたんだ? 言ってみろ」 守が僕の頭を優しく撫でる。 「悟、悪さしたんじゃないでしょうね」 「してないってばっ」 「ホント? あやしいな…」 「あやしくないってっ」 悟には悪いけれど、そんな家族のやり取りですら、僕にはとても温かくて愛おしくて…。 今はただ…この時が1分でも1秒でも長く続きますようにと…。 |
END |
だから、凝ったことはしてませんってば(笑)