君の愛を奏でて

『春の陽の…。』

『月の夜、君が招きし…』続編
〜紫雲院、その後〜





 僕がここ――紫雲院を訪れたのは、2年と半年ぶりのことだ。

 ちょうどこの時期、桜は満開まであと一息…といったところで、僕の故郷――自称国際観光都市の京都は大勢の観光客で賑わっている。

 東京からの新幹線も、始発に近い時間だったにも関わらず満席だった。降り立った京都駅の駅ビルも芋の子を洗うような混みっぷり。

 活気があるのはいいけれど、道幅が狭い上に普段から路上駐車が多い京都の街中はかなり酷い渋滞で、移動は一苦労。

 空いている時なら駅から車で10分ほどの僕の実家――元は栗山先生の家だけど――まで、なんと40分もかかるという有様。

 乗ったタクシーの運転手さんは、時間が掛かってしまったことをしきりに詫びてくれたけれど、そんなの運転手さんのせいじゃないからねえ。



 生まれたときから15の歳までここで育った僕は、京都が渋滞の多い街だってことは十分承知しているし、悟も初めて来た高校2年の夏以来、最低でも年に2回は僕と一緒にここへ来るようになったから、そんなことももうよく知っていて。

 だから僕たちは、少し走っては止まってしまう車窓から、『あのお店、この前来たときはなかったよね』とか、『あれ? あのお店どこいっちゃったんだろう』とか、めまぐるしく変わる目抜き通りの様子を楽しんだ。


 京都という街はおかしなところで、町衆の手や法律で護られている区域以外の開発はしっちゃかめっちゃかだ。
 景観保護とか言ってせっかく設けられている建築制限も、なんだかんだと理由を付けては特例扱いにしちゃって無いも同然。はっきり言って無法地帯。周囲に配慮のないビルやマンションが次々と建つ。

 これだけの歴史と文化遺産を有しながら、街全体を護ろうとしないところは、同じように文化遺産を抱える諸外国の歴史都市に大きく遅れをとっているところだ。

 栗山先生も言ってたっけ。
 ちょっとはウィーンやフィレンツェを見習えばいいのにな…って。



 僕と悟が大学の春休みを利用して京都へ帰ってきたのは、一つは母さんのお墓参りに来たかったから。
 今年は年明けに演奏会が詰まっていて、祥月命日に帰れなかったからどうしても春休みには…って思ってた。

 もう一つの理由は、悟の仕事絡み。

 関西の音大生を選抜したオケが京都にあって、その演奏会が2ヶ月後に迫っているんだ。

 元々は悟の師匠である指揮科の先生が振る予定だったんだけど、先生が急病になっちゃって、『代振り』が悟に回ってきたというわけ。

 先生の復帰が遅れるようだったら、本番も悟が振ることになるそうで、これから2ヶ月間は頻繁にこっちへ来なくちゃいけなくなりそう。

 僕は僕で関東周辺での演奏会予定がかなり詰まってるから、すれ違い生活になっちゃうかも…って、ちょっとブルーになってるところ。

 悟は僕よりあからさまに文句言ってるけどね。

 ま、僕も悟もほんの少しの4年次必修科目を除いて卒業単位はすでにクリアしていて、週に1〜2回大学へ行くだけでOKだから、その点は楽だけど。

 そう言えば、祐介も――彼も僕と同じ状況だから――大学へ行く時間が減るはず………ないか。
 だってついに大学に入学して来るんだもんね。あの子が。



 というわけで、着いてすぐに僕たちは母さんのお墓参りをして、それから悟はうち合わせに出かけていった。

 僕は京都にいる間は完全オフ。だから幼なじみたちとの約束はいっぱいあって、今夜は中学の同級生が集まって大宴会の予定なんだけど、それまでの時間に僕はどうしても行きたいところがあって、一人で出かけたんだ。



 そこは僕の実家から歩いて20分ほど。
 街中とは思えない豊かな自然に抱かれた、東山の山懐にある小さな寺院。そう紫雲院だ。


 僕は周囲の様子を眺めながらゆっくりと――20分の道のりを倍くらい掛けて――紫雲院を目指す。

 紫雲院へ上る道は、途中で急に狭くなって、車では入れない。

 車が立ち入れない辺りになると、見事な桜の樹が何本か現れた。

 2年半前、コンサートのためにここを訪れたときは9月だったから、こんなに立派な桜の樹があることに気がつかなかった。

 けれど、今は9分通り花開いていて、この季節限定の艶やかさをいっぱいに湛えて咲き誇っている。

 人影は、ない。

 これほど見事な桜を、みんな知らないんだ。
 紫雲院へ来る僅かな人しか通らない、小さな小さなこの道に咲く、桜だから。

 僕は暫し立ち止まって桜を見上げ、そしてまた歩き出す。

 ここから道は枝分かれしていて、右へ行くと紫雲院。
 左へ行くと…何処へ行くのか知らない。

 右が紫雲院だと示す道しるべはない。だから知らない人はたどり着けない。それでこそ、隠れ寺…なのかもしれない。

 そして、僕はすでに気がついていた。
 2年半前と、何かが違うってことに。

 あの時は秋。今は春。
 けれど、その季節の違いだけでは説明のつかない何かを僕は感じている。

 そうだ。胸を締め付けられるような、あの切ない空気が何処にもないんだ…。



 やがて小さな門が現れた。

 …えっと、どうしよう。呼び鈴…とか、ないのかな?

 僕が踏む砂利の僅かな音すら響き渡るような静けさの中だから、大きな声で呼べば聞こえるかもしれないけれど、この静謐な空間でそんな無粋な事はしたくないし…。

 と、僕が思案し始めたほんの僅か後、ぎぃぃぃ…と古めかしい音を立てて門が開いた。

 そして、そこには隆幻さんの姿が。

 相変わらずかっこいい。本職は大学の先生だ。つい先頃、教授になったそうだけど。

 春休み中とはいえ、お忙しくされてるだろうと思ったんだけど、尋ねてもいいですか…と、電話した僕を隆幻さんは快く迎えてくれたんだ。


「やあ、葵くん、いらっしゃい」

「こんにちは、隆幻さん。お久しぶりです」

「合うのはあれ以来…2年半ぶり…だね。忙しくしてるようだけれど、元気そうで何より。しかも相変わらず可愛いし」

 隆幻さんはそのストイックな外見に似合わず、かなりのフェミニストだ。

 しかもそれが『可愛い男の子限定』なんだと、企画会社の海塚さん――あれ以来お世話になってる――に聞いたときには唖然としちゃったけど。

 守は『そんな感じしたぜ』って言ってたっけ。
 どうしてわかったの?…って聞いたら、同類の感だ…なんて言って、悟を呆れさせてたけど。



「さあ、どうぞ」

 柔らかに招き入れられて、僕は懐かしい紫雲院に一歩踏み込む。

「お邪魔します」


 それにしても、どうして僕の到着がわかったんだろう。

 そう言えば、前回ここを訪れたときも、僕たちが着いた途端にタイミング良く門が開いたっけ。でもあの時は、僕たち兄弟4人に、由紀の賑やかな声がしていたから…。

 今日は僕一人。どうしてだろう。

 まさか、隆幻さんは忍者のように、気配を感じ取る…とか。

 そう思って門を振り返ってキョロキョロした僕に気がつき、隆幻さんが『どうしたの?』と足を止める。

 そこで僕が疑問を素直に口にすると、隆幻さんは『ああ、それね』と納得いったように頷いた。


「ここへ来る途中、分かれ道があったでしょう?」

「はい。桜の木があるところですよね」

「そう、そこ。実はあそこから右へ少し入ったところにセンサーとカメラが取り付けてあるんだよ」

「ほんとですか?」

 センサーにカメラとは…。

 その、あまりにこの辺りの、まるで息を潜めて時が過ぎるのを静かにやり過ごしているような雰囲気からはちょっと想像できないような物体の存在に、僕は目を丸くしてしまう。

 でもそれを言うなら、隆幻さんは世界でも最先端の電子工学の研究者で、その事実と『紫雲院の住職』というギャップも似たようなものだけど。


「ええ。右の道はここが行き止まりで、紫雲院しかないでしょう? 夜は暗いし、人通りもまったく絶えてしまうから防犯上必要なんだよ」

 確かにそうかもしれない。

 山の中腹とはいえ、5〜6分も下れば幹線道路に出るから、何かのはずみで迷い込んでくる人はいるだろうし、それに…特別に意図を持って侵入してくる輩も無いとは言えないだろう。

 なんてったって、ここは紫雲院、伝説の隠れ寺。

 隆幻さんや海塚さん曰く、『知られていないお宝がザクザクあるに違いない…っていう誤解が未だにある』そうだから。


「でも、センサーは感度が良すぎて狸にまで反応してくれるからね。なかなか大変」

「え、そうなんですか?」

 思わず笑っちゃった。
 でも、狸の方がよほどこの辺りの雰囲気には合ってるような気がする。

「あとね」

 隆幻さんが真剣味を帯びた瞳をスッと眇める。

「センサーは確かに反応してるのに、カメラには何も写らない…とかね」

「…え゛…」

 ちょっと待って。それって…。

 思わず青ざめた僕に、隆幻さんはプッと吹きだした。

「あはは。冗談冗談」

「隆幻さ〜ん」


 もう〜。
 僕は生きてきた年数の割には「不思議な体験」が多くて、周囲からは『きっとそう言う体質に違いない』って決め付けられて、ちょっと困ってるのに。

 そう、2年半前に、ここで邂逅したあの不思議なできごとも……。



                 



「で、今回の里帰りは母上のお墓参り?」

 小さなご本尊を安置する御堂に通されて、美味しいお茶とお菓子をいただいてホッと一息ついたところで、隆幻さんがまた穏やかに話を始めた。

「はい、そうなんです」

「ひとりで?」

「いえ、悟と来ているんですが、あっちは仕事があって、明日の初合わせに備えて打ち合わせに行ってるんです」

「そうですか。いや、しかし悟くんもお元気になられたようでよかった」

 その言葉に僕は心底驚いた。

「…ご存じだったんですか? 悟のこと」

「ええ、由紀さん経由でチラッとね。で、昇くんと守くんも元気で? 彼らはもう卒業したんだよね」

 隆幻さんは驚きに目を丸くした僕にニッコリ微笑むと、それ以上詮索するつもりはないよ…とばかりに話を昇と守の事へと振った。

 だから僕もその優しい気遣いに感謝して話を受け継ぐ。

「はい。守は相変わらず飛び回ってますし、昇は5月にデビューを控えているのでかなり忙しくしています」

「そうか、昇くんもいよいよデビューなんだね」

「はい。それで、ええと…」

 僕は愛用のリュック――京都ブランドなんだ――からごそごそと、昇から預かってきた封筒を差し出した。

「これを昇から預かってきました」

 デビューリサイタルの招待状だ。
 中には『お時間いただければ幸いです』とか何とか書いてあるはず。

「やあ、これは嬉しいね」

 隆幻さんはそう言って、本当に嬉しそうに笑ってくれた。

 そう。守の時も、僕の時も、隆幻さんは忙しい中をやりくりして東京まで聞きに来て下さったんだ。

 そのままアメリカでの学会に飛んで行かれたりしたから、会うことはできなかったんだけど。
 でも、スーツの隆幻さんも見たかったな。きっとかっこいいだろうなあ。


 で、この時期なら大丈夫だから是非伺わせていただきます…とお返事を下さった。

 きっと、昇も喜ぶ。よかった。



「それにしても、今日は突然すみません」

 近況報告がすんだ所で改めてそう言うと、隆幻さんはふと表情を引き締めた。

「いや、電話をもらって嬉しかったよ。私もね、君に是非来て欲しいと思っていたんだ」

「え?」

 隆幻さんのその言葉には少し驚いたけれど、でも考えてみたら、僕も…。


「僕も、どうしても来たいと思ったんです」

 そう、ここへ、この場所へ、どうしても。

 そう言うと、隆幻さんは穏やかな顔で頷いた。そして僕に、『どう?』って聞いたんだ。

 目的語は、ない。
 けれど僕にはわかった。

 ここへ至る道ですでに感じていたことを、門の中に入って、そして御堂に座ってはっきりと確信したんだ。

 この辺りを抱き込んでいた、あの哀しみに満ちた空気が綺麗に消えているということを。

 だから、きっと……。


「二人は…会えたんですね」


 僕の、たったそれだけの言葉で、隆幻さんは柔らかく微笑んだ。

 そうか、二人はやっと会えたんだ。生まれ変わってしまった兄と、探し、彷徨い続けた弟。

 どれほど長い歳月だったろう。
『逢いたい』…それだけを胸に、待ち続けた日々は…。

 けれど、願いは叶ったんだ…。




 それから隆幻さんは昨年行われた奥の院での調査結果や、その前後に起こった不思議な出来事を語って聞かせてくれた。


「隆幻さん」

「はい」

「僕、彼らとまた会えそうな気がするんです。今度はこの前のようなあんな出会いじゃなくて、今僕たちが生きている、この、同じ時間の中で」

 そう言った僕に、隆幻さんは晴れやかに笑った。

「それは、とても嬉しいことだね」

 きっと隆幻さんも、もう一度彼らに会いたいと願っているに違いない。

「ならば、それを願って、私はここで静かに祈るとしよう」

 …ほらね。




 この年の秋から、僕は毎年必ず紫雲院でコンサートをさせてもらうようになった。

 そして、何年か後、僕の言葉はとても幸せな形で実現するのだった。



END

「斉昭(なりあき)」と「忠昭(ただあき)」の物語は、短編集にございますv
『水鏡〜紅葉の記憶』というお話ですvv

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