君の愛を奏でて
SS〜恋の始まり
このお話はイラストがメインです(笑)
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身も心も傷ついて、 触れるといつも身を固くしていた子猫は、 いつの間にか、この懐で安らぐようになった…。 |
「ほら、昇、起きて」 耳元で囁いて、柔らかいパジャマに覆われた小さな肩をそっと揺すってやると、昇は鼻にかかった小さな声を上げて、ころんと寝返りを打つ。 開け放した窓から差し込む柔らかい朝日が、シーツの上にこぼれ落ちる金色の髪に光を投げる。 これから成長していくであろうその身体はまだ、そっと触れてやらないと折れそうに細く、瑞々しい肌がそのすべてを覆っている。 そして、閉じられた瞼の中には、見る人を魅了してやまない碧の宝石。 「こら、起きないと布団をひっぺがすぞ」 そんな風に脅しをかけてみたところで効果は期待できないだろう。 なぜなら、直人の声はこれ以上ないほどに甘いのだから。 何としてでも守ってやりたいと思う、小さな命。 だが中学に入ればもう、今までのように抱きしめて眠ることも叶わない。 距離を置いて、見つめるだけ……。 「昇、守はもうレッスンを終えて遊びに行ったぞ」 そう言うと、昇はやっと――それでもうっすらと――目を開けた。 僅かに覗いただけでも、その瞳の色は直人を捉えて離さない。 「さ、顔を洗ってご飯を食べたらレッスンだぞ」 まだ眠そうに目を擦る昇を、軽々と抱き上げる。 「…レッスン、するの?」 眠くても気になるのか、小さな声で尋ねてきた昇に、直人は苦笑しながら優しく背を撫で『先週、さぼってしまっただろう?』と柔らかく諭す。 二人を預かってから、ピアノのレッスンは直人の役目になった。 それまでレッスンをしてきた、母親である香奈子と離れて暮らさねばならなくなったから。 マンションの一室。 防音が施され、分厚い二重ガラスになっている窓からも、春の明るい日差しは差し込んでくる。 直人が見守る横で、昇の細くて白い指が奏でるのはモーツァルトのソナタ。 ピアニストを目指してのレッスンではないのだから、難易度的にも問題はない。 今までの母親の教育の賜物だろう、申し分のない指の形で丁寧に音楽を辿っている。 あとはそう、本人が『こう弾きたい』と思う気持ち。それが必要か。 だが残念ながら、昇と守はピアノにはそう熱心ではない。 やはり、弦楽器の方が性に合っているようだ。 ヴァイオリンやチェロの練習のためならば、派手な兄弟喧嘩も辞さない構えで防音室を取り合う二人だが、ピアノのレッスンとなると、お互いに譲り合いの精神を発揮して、自分を後回しにしようとしたりする。 いくつかの注意のあと、もう一度最初から曲を通して昇はピアノから手を離し、直人をジッと見つめた。 「中学生になっても先生が教えてくれるの?」 「いや、個人レッスンは他の先生が見てくれるよ」 「…そうなんだ…。つまんないの…」 直人だから…。だからピアノも苦ではなくなっていたのに。 うつむき加減の昇の表情は、そんな声を隠すことなく正直に伝える。 そんな表情の一つ一つが堪らなく愛おしい。 じきに春休みは終わる。 そして彼らは『私立聖陵学院』の教師と生徒になる。 本当はそんな関係になどなりたくない。 このまま、ただの…。 ただの…、何だろう…。 今はただ、この天使は『恩師の子』でしかない。 そして、間もなく『教え子』になり、その先には…。 その先が果たしてあるのだろうか。 「ね、先生、ヴァイオリン弾いてもいい?」 ちょっと意識を離した隙に、昇はピアノの楽譜を閉じて、椅子から降りようとしている。 「…ああ、いいぞ。今習っている曲を聞かせてくれるか?」 「うん!」 綺麗なフォームで弓を返す右腕。 確かな動きで弦を押さえる見かけよりずっと強靱な左の指先。 そして何より、曲に魅入られたように音の中を漂うその面差し。 この才能を誰より高く開かせるため、そのすべてを、直人はこれからも見守り、そして育てていく。 たとえ、この先に『教師と教え子』という関係しか存在しなくても。 昇の、ために。 「ね、先生…」 弾き終えて、楽器をケースにしまった昇は、自然な仕草で直人の腕の中に収まってくる。 「ん? どうした?」 「あのね、今度のお休みの日にね…」 信頼しきった表情で背中を預けてくる天使を、そっと抱きしめる。 今だけは、自分だけの天使……を。 |
END |