君の愛を奏でて2

『初めての、ひと。』
〜後編〜




「お前、今日、階段で陽子女史と話し込んでただろう」

 部活終了後の第1練習室。

「…見てたのか」

「運悪くね」


 悟の専用室と言ってもいいこの部屋を、ノックもなしに訪れるのは彼の弟たちしかいない。

「それにしても、ある意味お前ってばラッキーだったよな」

「どういう意味だ?」

 質問の意味を計りかねて悟が問う言葉に、守は少し肩を竦めて答える。

「過去の唯一の過ちが陽子女史でよかったなってことさ」

 だがその言葉を聞いても、悟は楽譜をめくる手を休めることなく言い返す。

「彼女はどう思ってたか知らないけれど、少なくとも僕は遊びでつき合った訳じゃない。だから過ちだとは思ってないけど」

「またまた〜、強がっちゃって。 葵の手前はそうじゃないだろうが」

「…そのことは…」

 去年の夏、葵自身が『初めてではない』ことを気に病んでいた様子が思い出されて胸が痛む。


「言葉に詰まってんじゃねえよ」

 言葉と一緒に手も止まった悟を、守が軽く小突く。

「……それより何のことだ。ラッキーってのは」

 だが憮然と問い直す悟にも、守の表情は変わらない。

「陽子女史は出来た女性だからさ、お前とのことを言いふらしたりしないじゃんか」

「…普通は女性から言いふらしたりはしないだろう?」

「はっ、甘いね〜。お前、自分の立場がわかってないだろ」

「僕の立場?」

「そうさ。お前の立場だ。聖陵の桐生悟と寝た…なんて、女どもにはステイタスにすらなるんだからな」

「ステイタスだって?」

 珍しくも悟が目を丸くする。

「へえ〜、ほんとにまったくの無自覚だったってわけか。意外に純情なんだな、お前ってば」

「意外ってのは余計だ」

 それに、面と向かって純情と言われても、嬉しくも何ともない。

「それならお前はどうなんだよ、守。そこら中で恋人作ってるお前の立場は?」

 人のことが言えるのかと反撃してみれば、やっぱり守は守だった。

「オレさまはいいんだよ。こんなにステイタスになる男なんてそうは転がってないからな。いくらでも勲章になってやるさ」

「…たいした自信だな」

 兄弟ながら呆れるばかりだ。

「おかげさまでね」

「その言葉、麻生に伝えておいてやるよ」

「えっ?! …ちょ、待てよっ、悟!」

 漸く反撃のパンチがまともに効いたようで、悟は慌てる守に僅かながら溜飲を下げる。


「ラッキーと言えば、彼女が葵のことを僕たちの弟としか認識してないのは確かにラッキーだけどな」

「おい。隆也に余計なこと言うなよ」

「はいはい」

 もとより人の恋路に口を挟むつもりなど毛頭ない。

 悟はチラッと腕時計をみると、ピアノの前から立った。

「…さてと、そろそろ葵のレッスンが終わる時間だな。ちょっと様子を見てくる」

「いいのか? 鉢合わせだぞ」

「こうなったら、お前たちと同じように『兄』で通すしかないだろう? それなら知らん顔をしてる方が不自然だ。 『兄らしく』しないとな」

 その言葉に守が口を開きかけたのだが、悟はそれを遮るかのように軽く手を挙げて練習室を後にした。


 ――まいったな。悟のヤツ、マジで気がついてないってか。

 残された守が心中で呟く。

 ――それにしても、陽子女史も演技派だよな。

 小さく肩を竦め、練習室の電気を消す。


 せっかく『あの時、葵も聞いてたぞ』…と教えてやろうかなと思ったけれど、日本には『知らぬが仏』というまったくツボを突いた諺もあることだし、とりあえずこのままにしておくか…いや待てよ、悟はともかく、葵にはちゃんとフォローしておいてやらないとな…と一人納得して、守もまた、練習室を後にした。



                    ☆ .。.:*・゜



「どうしたの? 葵くん。何か心配事でも?」 

 あまりにミスが多い僕の指使いに、陽子先生がそう声を掛け、ピアノを弾く僕の手を止めさせた。

「あ、いいえ、すみません…」

 集中しているつもりなんだけど、実際僕は、数時間前に遭遇した出来事に心を捕らわれていて、心ここにあらずと言った状態で…。

 どうにも言い訳ができなくて、思わず俯いてしまった僕に、陽子先生は思いがけないことを言った。

「葵くん、今日、私と悟くんが話してたの、聞いてたでしょう?」

 …えっ?!

「見えちゃったのよ、あなたが練習室に駆けていく後ろ姿。で、ああ、これは聞かれちゃったかなあ…って」

「…先生」

「ごめんね。 葵くんと悟くんたちが兄弟だってこと、香奈子先生から伺ってたんだけど、わざわざ話題にすることもないからと思って黙ってたの」

「あ、いいえ、そのことは別に…」

 …なんて言ってしまって、僕は墓穴を掘ったことに気付く。
 そう、気にしているはそんな事じゃなくて…。

 けれど、陽子先生は僕が飲み込んだ言葉を拾い上げてくれた。


「私とお兄ちゃんとのこと、気になる?」


 そう問われて、僕はほんの少しだけ躊躇ったんだけれど、結局素直に頷いた。
 だって、本当に気になって気になって、仕方がないから。

 それに、陽子先生にとって悟と僕は『兄弟』以外の何ものでもないから。
 それなら『聞きたい』って言っても大丈夫かな…って。



「悟くんと初めてあったのは、私が高2で彼が中3の時だったわ」

 頷いた僕に優しく微笑んで、陽子先生は、悟とのいろいろを話して聞かせてくれた。

 当時悟は中等部の生徒会長で、先生は聖陵とも交流の深いY女学院の生徒会副会長だったんだそうだ。

 出会ったのは聖陵祭の時。

 高等部生徒会を訪問した先生たちY女学院の生徒会は、そこで中等部生徒会の面々を紹介された。


「あの当時、高等部の生徒会長ですら、悟くんに一目置いていたわねえ」

 端から見ていると、どっちが主導権を握っているのかわからないくらいだったらしい。

 で、その時陽子先生はすでに香奈子先生の弟子だったんだけど、悟はそのことを知らなかったらしい。
 陽子先生は当然わかってたそうなんだけど。

 そんな二人が盛り上がった話題と言えば、当然ピアノ。

 話題の新譜や過去に聞いたアーティストの話をしているうちに、自然に『じゃあ、今度一緒にコンサートに行こう』ってことになったんだそうだ。

 その気持ちはよくわかる。
 僕たちだって、フルートパートの中でそういう話が始まると、みんな止まらなくて、盛り上がりまくっちゃうから。


 そして、二人のつき合いは始まったんだそうだけど、実のところ『それらしい』期間っていうのは1ヶ月くらいしかなくて、『なんとなく』始まったのと同じように、『なんとなく』連絡が間遠くなり、『なんとなく』終わっていたんだそうだ。


「どうもね、色恋っていう甘〜い感じがしなくてね」

 そう言って、陽子先生はケラケラっと笑った。

「でもね、聖陵学院の桐生悟と言えば、このあたりの女子学生にはめちゃくちゃ有名人でね。 そんな彼とデートみたいなことして私も舞い上がってたのよね。 とっとと自分のモノにしちゃえ…って誘ってみたら、これが意外と簡単に釣れちゃったのよ〜。あはは」

 つ、釣れちゃったって…。 しかも簡単に…って。 あはは…って。

 でも…もしかして、これって…。
 やっぱり悟の「初めての人」は陽子先生…ってことで…。


「まあ、あとから冷静に考えてみれば、悟くん、初めてだったみたいだから、彼にとってはただの『好奇心』だったのかなって思うんだけど…」

「そんなことないです!」

 言葉は考える間もなく飛び出した。

「…葵くん…?」

「ええと、その、悟は『好奇心』なんかで女の人をどうこうするような、そんなんじゃないですっ」

 どう言えばちゃんと伝わるのか、そんなこと全然わかんなかったけど、でも、悟が『いい加減な気持ち』でそう言うことをするような人じゃないってことはどうしても伝えたかった。

 ただ…。

「だから、きっとその時は、ちゃんと陽子先生のこと…っ」

 それに続くはずの言葉はどうしても僕の口から出てはくれなかった。


『好きだったに違いないんです』





「葵くん…」

 陽子先生は目を見開いて絶句した。

 でも、そんな僕の支離滅裂な言葉をちゃんと拾い上げてくれたようだった。


「あなた、ほんと、いい子ね」

 ちょっと涙声でそう言って、僕をぎゅっと抱きしめてくれたから。





 どれくらいそうしてただろう。

 抱きしめていた腕をそっと放した時には、陽子先生はもう、いつもと同じ陽子先生で。


「それにしても悟くんって変わったわよね」

 ねえ? …と、念押しされて、僕は『はあ…』と曖昧に頷く。

「あんな風に思ってることが顔に出る子じゃなかったから、つい面白くてしつこく絡んじゃったのよね〜」

 いや〜、ほんとに面白かったわ〜…と、腕組みして唸っている陽子先生は、確かに本気で楽しそうで。


「ところでねえ、葵くんはお兄ちゃんの現在の恋人ってどんな人か知ってるわよね?」

 うわ、きたよ…。

「あ。ええと、はい、まあ…」

「ねえねえ、どんな子?」

「あの、その、ええと…」

「いくつ? 年下?」

「はあ、多分」

「やっぱり音楽関係?」

「ええと、多分」

「可愛い子?」

「や、それは個人の主観によるので…」

 そう言うと、陽子先生は大笑いを始めた。

 …まさか、バレたわけ…じゃない、よね?

「あはは、ほんと、葵くんも『あの兄弟』の一員よね。一筋縄ではいかないわ〜」

 …って、そんな、可笑しそうに言わなくたって。

 それにちょっと不本意だよ。 
 だって、確かに悟も昇も守も一筋縄ではいかないけれど、僕はごく普通の高校生だもんね。


「悟くんに聞いたって素直に吐きそうにないし、いっそのこと香奈子先生に聞いちゃおうかなあ」

「ええっ!?」

「あら、もしかして先生には内緒なの?」

「あ、いえ、そうじゃないんですけど…」

 そうじゃなくて、香奈子先生だったらあっさり白状しちゃいそうでヤバイんだけど〜。

 慌てる僕をニッコリと見返して、陽子先生はどうしてだか『大丈夫よ』と言った。

「葵くんもなんにも心配することはないからね。 だって私、悟くんを見ても、もうドキドキしないもの」

「ドキドキ…ですか?」

「そう、ワクワクはするけど、ドキドキはしないのよね」

 ワクワクとドキドキの違いって、いったい…。


「それに、悟くんが『この人』って決めた子なら、きっと彼を幸せにできるんだろうなあって、なんだかすごく嬉しくなっちゃったわ」

 陽子先生は『はあ〜』っと息を吐いて、ちょっと遠い目になった。

 先生、きっと本当に悟のこと、好きだったんだな…。

 でも陽子先生。 僕、悟のこと、誰にも渡せないんです。

 それを、ちゃんと言葉にして伝えられなくて、ごめんなさい。

 僕は、心の中でそっと先生に謝った。



 悟の、初めての、ひと。

 でも、それがこの人でよかった…。
 そう思ったのは紛れもない僕の本心だった。



                   ☆ .。.:*・゜



 葵くんのことは、彼に会う以前から香奈子先生にだいたいのことを聞いて知っていたわ。

 赤坂先生の4番目の子供で、お母さんはもうなくなってしまってるってこと。 事情があって、認知が遅れてしまったということ。

 葵くんが高校を卒業したら、香奈子先生はご自分の籍に葵くんを入れようと思ってらっしゃるってことも。

 で、その時ふと漏らされたのよね。

『でも悟がうるさそうなのよね』って。


 その言葉に、最初は、悟くんはもしかして葵くんを歓迎してないのかしら…って思ったわ。

 でも、私が知っている彼はそんな子じゃない。
 
 どこか超然としていて読めないところはあるんだけれど、それでもいつも他の人が見ていないところにまでしっかりと目を行き届かせていて、そしてさりげなく気を遣ってくれるような優しい子だったから。

 それに、香奈子先生があれだけ可愛がってらっしゃるんだもの、悟くんが葵くんを疎ましく感じるはずなんてないって。


 その思いは葵くんに会ってから確信に変わった。
 だって、葵くんはあんなに素直で可愛い子なんだもの。

 それに、昇くんも守くんも、すごく葵くんのこと可愛がってるの。

 私が初めて聖陵にいった日に、『葵のこと、よろしくお願いします』って、わざわざ講師レッスン室まで挨拶に来たくらいなんだもの。

 まあ、それもこれも私が香奈子先生の弟子で、彼らの事情を知っているからではあるんだけれど、それでも彼ら兄弟の仲の良さは周囲もよく知るところ。

 だから、どうして悟くんが、葵くんの入籍に口を挟むのか…って、わからなかったのね。

 でも、この前、守くんと話していてわかっちゃった。

 悟くんにとって、葵くんはただの『弟』じゃないってこと。

 あれ? …と思ったから誘導尋問に掛けたのね。
 そしたらあっさり吐いちゃって〜。ほんと、男の子って単純なんだから。

 で、悟くんってば、葵くんを香奈子先生の籍じゃなくて、自分の籍に入れようとしてるのよね。

 ということはつまり、二人の仲は香奈子先生も公認ってことで…。

 でも二人の間柄は、腹違いと言え本物の『兄弟』。
 これはどうあっても動かし難い事実。

 だから二人は『最愛の人』のことをおおっぴらに語れないというわけ。

 それって、可哀相よね…。



                       ♪



 7月、第4月曜日。
 今日で1学期のレッスンは終わり、私が次に葵くんに会うのは9月。

 他の生徒はその間お休みになるわけだけれど、葵くんの帰省先には香奈子先生がいらして、そして何より悟くんが24時間張り付いているらしいから、葵くんのレッスンについてはまったく心配なし…ってことで、私は1ヶ月分の課題を渡して1学期のレッスンを締めくくった。

 そしてレッスン室をざっと片づけてから、葵くんと連れだって部屋を出る。

 私は身長163cm。
 でもヒールの高い靴を履いているから葵くんよりちょっと高くなるのよね。だからさりげなく肩なんか抱けちゃったりして。

 ほんと、ワクワクしちゃうのよ。
 だってほら、今日も廊下へ出てみると…。


「宮下先生、お疲れさまでした」

 ほら、いた。
 葵くんの前では彼、私のことを『先生』って呼ぶのよね。

「悟くんもお疲れさま。いつも見やすく整理されていて助かるわ」

 そう、悟くんったらね、あの日以来、講師レッスン室前に設置してある『校内レッスン専用掲示板』のメンテナンスをしているの。

 何故かいつも、この時間に。


「いえ、これも部長の仕事のうちですから」

 なーんて冷静を装いがらも、視線は葵くんの肩に釘付けだったりして。
 あ、もちろん私の手が乗ってる方の肩ね。

 ほんっと、分かり易くてワクワクしちゃう。

 数年前のあの時に、こんな悟くんを知っていたら、私も素直にサヨナラできたかどうかわからないんだけど。
 
 でも、彼をこんな風に変えたのは、きっと葵くんなのよね。


「じゃあ、葵くん、また9月にね」

「はい、2学期もよろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げる姿が愛らしくて、ほっぺに思わずキスしちゃったわ。

「あぁっ!」

 この声は当然悟くん。

「なに? 悟くん、なんか文句でも?」

「……宮下先生、をたぶらかさないで下さい」 

 おや、『弟』ってとこに妙に力入ってるわよ。

「いやだわ〜。これくらい外国では挨拶の範囲じゃないの〜。あなたの家だって外国のお客さまは多いでしょう?」

「ですが、葵はそう言うことに慣れていませんから」

 悟くんの言葉に、私は大げさに肩を竦めて見せる。

「葵くん、あなたのお兄さんって大らかそうに見えて意外と心が狭いのね〜」

 あらま、悟くんの顔が引きつったわ。面白い…。

「や、あの、そんなことは…」

 葵くんは青ざめてるし。



「葵、こっちへおいで」

 悟くんが手招きをする。ほんとは強引に引っ張りたいところなんだろうけど。

 そして葵くんがまた私にちょこんと頭を下げて、パタパタと悟くんの隣へ行くと、大胆にも悟くんはその肩をがっちり抱き寄せちゃったりして。

 うーん…なるほど。 そう言う意味では『兄弟』ってのは案外いいカモフラージュになるのかも。

 こうしてみていると、『美形兄弟』って言葉で語って全然不思議じゃないもの。ちっとも似てないのにね。

 それにしてもほんと、絵になるわね、この二人。ちょっと悔しいくらい。


 さて、いつまで見てても飽きないけど、お腹空いちゃったから早く帰ろう〜っと。

「じゃあ、またね」

 そう言ってくるりと背を向けると、後ろから『ありがとうございました。お気をつけて』って、悟くんの優等生らしい声が掛かった。





「陽子女史」
「あら、守くん」

 ホールのエントランスで、ばったり守くんに出くわした。

「悟と葵、白状しました?」

「まさか」

「やっぱりね」

「でもね、守くん。彼らには何にも言わなくていいわよ」

「また、どうして」

「だって今のままの方が面白いもの〜」

「うわ、女ってコワイ」

「やだ、失礼ね。 これでも心底応援してるのよ。『良き理解者』と言ってちょうだい」

 私の言葉に、守くんはニッと笑って見せた。





 男同士でしかも血が繋がっていて…。

 二人の関係は、世間的には相当にキビシイのかも知れないけど、でも大丈夫よ。

 あなたたちにはたくさん理解者がいるから。

 もちろん私もその一人。
 お・わ・す・れ・な・く。
 


END

君愛1の連載中からずっと書きたいと思っていた『初めての、ひと。』
漸く書くことができました。
ちなみに陽子先生の初出はなんと2001年の8月。
ミラ番リクエストの『私が落とした美少年』で、守くんと対談しています。
こちらはお遊び要素満載ですので、実際の設定とは若干ずれがあるのですが、
葵のことが守の口からばれた経緯というのはだいたいこんな感じです(^^ゞ

実はNET作家もやってるらしい陽子先生(『私が落とした美少年』参照)、大好きです(笑)

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めっちゃおばかなおまけですぅ。読んでみたい方、ピアノを弾いてみてね。