君の愛を奏でて2

「ストロベリータイム2」

【3】





『英彦さえ、合致していれば…』

 襖越しに漏れ聞こえてきた、恨むような母さんの涙声が今でも忘れられない。

 3歳上の兄、弓彦が体の不調を訴えたのは、中学1年になってすぐ。僕が4年生になった時だ。

 幼い頃から弓彦は華奢で小さくて可愛くて、反対に僕は大きくてがっしりしていて年相応に見えないふてぶてしさがあったためか、いつ誰が見ても僕の方が兄に見える――それでもいつも一緒にいて、仲良しの――二人きりの兄弟だった。

 二人して、楽しみにしていた近所のフルート教室に通い始めたのもその年の春。

 フルートって言う楽器の特性上、あまり小さな子供のレッスンはどこでもやっていなくて、『4年生になったらいらっしゃいね』と言われた僕に弓彦はつき合って、僕が4年生になるまで待っていてくれていたのだった。


『先に習い初めていいよ』

 そう言ったんだけど、弓彦は『英彦と一緒がいいから』って言ってくれていたんだ。

 そうして、お揃いのフルートを買ってもらい、二人一緒にレッスンに通い初めて僅か1ヶ月後のこと…。

 その年の春は暖かくて、風邪を引き込むような気候ではなかったというのに、何故か風邪のような症状が収まらず熱が続いた弓彦は、大きな病院へ検査に行き、そのまま入院した。

 2年生の頃、骨折して入院した経験のある僕は、弓彦もきっと賑やかな小児病棟にいるんだろうと思いこんでいたのだけれど、母さんに連れられていったそこは、僕の予想とは大きく違う場所だった。





 ナースセンターのすぐ隣にある個室。

 中に入るためには身体を消毒して、うがいをして、服まで着替えなくてはいけなくて…。

 看護婦さんは『お兄ちゃんは今とても身体が弱っているの。だから、外から入ってくるばい菌にもとても気を付けなくてはいけないの。わかるわね』って、優しく説明してくれた。

 本当は、弓彦が疲れてしまうから、面会にもあまり頻繁にいってはいけなかったんだけど、僕が行くととても弓彦が元気になるからって、先生も、僕が来ることは特別に許してくれたんだ。

 そして僕は、フルート教室に通えなくなってしまった弓彦のために、病室で一緒にフルートを練習するようになった。

 弓彦の音は、それは綺麗で繊細で…。
 元気になったら、また一緒に教室に通おうね…って約束して…。




 弓彦が入院して半年ほどあとのこと、何故か僕も血液検査を受けることになった。

 その時は、何も理由は聞かされなかった。ただ、『お兄ちゃんのためにね』って、ほんの少し、血を抜いただけで。

 それから10日ほどのあと、夜中に目を覚ました僕は、襖の向こうで泣いている母さんと、それを一生懸命宥めている父さんの声を聞いてしまった。



『英彦さえ、合致していれば…』



 その時は、何のことか全然わからなくて、ただ、母さんが、今まで聞いたことのないような悔しそうな声で僕の名前を呼んでいたって事だけが、僕の身体の奥の方に残った。

 そして、その言葉の意味を僕が知ったのは、弓彦が僕の前から永遠にいなくなってしまったすぐ後の事。


 弓彦の治療に最も有効だったはずの『骨髄移植』。

 同じ型を持った骨髄を移植すれば、弓彦は助かったらしい。

 その型の合致率が最も高いのは、同じ父母から生まれた兄弟で…。

 そして、誰よりも大切だった弓彦を失い、両親ともまともに会話を交わせなくなってしまった僕に残ったのは、『弓彦を助けることが出来なかった』という事実と、彼の残した銀のフルートだけ…だった。



                    ☆ .。.:*・゜



「でも、だからといって両親が僕を疎んじていたわけではないんです」

 静かに流れていた涙も涸れた頃、初瀬くんはまた、ポツンと零した。

「兄が亡くなった後、両親はその分も僕を可愛がろうとがんばってくれていました」


 …でも、君は自分が許せなかった。決して君のせいではないのに。


「君は、お兄さんと一緒にここへ来たんだね」

 彼がいつも大切そうに抱えているフルートケースを見て、僕は言う。

「先輩…」
「初瀬くんが抱えてるフルートは、お兄さんのだろ?」

 何の確証もなかったけれど、そう言って僕が微笑んでみせると、初瀬くんも釣られて笑った。

 そしてまた、フルートケースを愛おしそうに抱え込む。

「はい。これは兄が使っていた方のフルートです。僕のは、家に置いてきました」

 他にかける言葉なんて、僕にはなかった。

 だた、これだけは確かだと思ったから、そう言った。

「お兄さん、きっと喜んでいるね」

 その言葉に、初瀬くんはもう一度「はい」と返事をして、まるで恋人を抱きしめるかのように、また、抱きしめた。フルートを…ううん、お兄さんを…。


「誰かに聞いてもらうっていうことが、こんなにも楽になるものだとは思ってませんでした」

 大きな一仕事を終えた後のように、深く息をついて初瀬くんが言う。

「そうだよね。一人で抱え込むって、ほんとに辛いから」


 僕だって、聞いてくれる人はたくさんいたのに、一人で抱え込んで、そしてみんなに迷惑をかけて…。




「藤原先輩は一人っ子だって聞きました」

 フルートを抱きしめたまま、初瀬くんが言う。

 けれどそこにはもう、さっきまでの痛いほどの眼差しはなくて、代わりに――これがきっと彼の本当の姿に近いんだろう――柔らかい光が宿る瞳があった。

 うーん。これはこれで、とっても良い傾向なんだけれど…。


「うん、そうだね。彼は一人っ子だね」

「先輩だから、失礼があってはいけないとは思うんですけど…」

 初瀬くんは、今までには見せなかった、とっても『きりっと』した表情――はっきり言って、かなりかっこいい――で僕を見た。


「僕、精一杯がんばって、藤原先輩のお役に立ちたいなって思います」

 …祐介の親友としては、ぜひ『お役に立つ』だけでとどめて置いてくれるとありがたいな…とか思っちゃう訳だけど。


「…うん、そうだね。藤原くんも、君のこと、信頼してると思うから」

 そう言うと、初瀬くんはそれは嬉しそうに微笑んで、『はい』と応えた。

「あ、でも先輩の重荷になってはいけないので、今日の話は…」

「うん、わかってるよ。ナイショ…だね」

「…はいっ」






 ホールを出ると、あたりはもう暗くなり始めていた。

 そして、今までになく色々な話をしつつ、僕と初瀬くんはゆっくりと寮への坂道を上がっていく。

「奈月先輩はご兄弟はいらっしゃるんですか?」

 それは、誰だって、ほんの少し親しくなっただけで、気軽に聞きあう情報。

 2年になって、新しいクラスメートにも何度か聞かれたんだけれど、僕の答えはいつも一つ。

『僕は一人っ子なんだ』

 少なくとも、卒業までは誰にも知られずこのままでいたいと願う、僕の秘密。

 けれど今、初瀬くんにはどうしても、嘘はつけない…。つきたくない…。だから…。


「戸籍上は一人っ子なんだけどね」

 そんないい方をしてしまうと、初瀬くんにも『秘密を守ること』を強要することになってしまうんだけれど…。

「…あ、あの…っ」

 見かけの落ち着き通り、賢い初瀬くんにはピンときたんだろう。
 聞いてはいけないことを聞いてしまったんだと。


「もし…その、初瀬くんさえ嫌でなければ聞いてくれる? 僕の話も」

 ニコッと笑ってそう言った僕に、初瀬くんは、それはそれは遠慮がちに『僕なんかにいいんですか?』と言って不安そうな顔を見せる。

 僕はもう一度、安心させるように微笑んでから、言った。

「僕にはね、兄が3人いるんだ。しかもこの学校にね」

 その言葉に初瀬くんは、いつも大人びた光を湛えている切れ長の目を、見たこともないくらいに見開いた。 

 こうして僕たちは、秘密の交換をしたのだった。


                    ☆ .。.:*・゜


 それからのフルートパートは以前にも増して笑い声が絶えない、やたらと明るいパートになった。

 もちろん初瀬くんは相変わらず大人びていて、大きな声で笑ったりはしないけれど、いつも優しい笑顔で藤原くんにはもちろん、周囲にも接している。

 で、上級生たち曰く…『落ち着きぶりといい、穏やかさ加減といい、悟に似たものがあるよな』ってことだ。

 早くも『未来の管弦楽部長候補』なんて声まで上がっていて、ちょっと笑っちゃったけどね。





「…なんだか初瀬のヤツ、変わったな」
「そう?」

 二人きりでの練習の合間、祐介がポツッと漏らした言葉に僕は、内心で大きく頷きながらも、なんてことない振りで返事をする。

「憑き物が落ちたってみたいって言うか…」
「何それ」

 吹き出した僕に、それでも祐介は真剣に反論をしてくる。

「あ、これって結構真面目に考えてるんだぞ。パートリーダーとしてはだな、パート内の雰囲気が良くなってこれ以上嬉しいことはないし、それに……」


 でもね、祐介。

 初瀬くんが、その背負っているものを少し降ろしたってことは、もしかしたら、今度は純粋に藤原くんにアタックしてくるかも…ってキケンを孕んでいるんだよ?

 わかってるのかな、そこのところ。
 ぼやぼやしてると、ほんとに取られちゃうよ。

 ま、僕がさりげなくお節介を焼いちゃうけどね。




 …ってなわけで。

 その後、この『ギクシャクトライアングル』がどうなったかって言うと…。


『以前より雰囲気が柔らかくなった初瀬くんが今度は熱い眼差しで藤原くんを見る→それを見て「パートリーダー」は、パートにとっては良い傾向だと喜びつつも、「浅井祐介」の部分ではさらに無自覚な悶々を募らせる→周囲にとけ込み始めて、自分には更に懐いてくれるようになった大きな後輩と、以前ほど不機嫌ではない大好きな先輩に囲まれて、単純にホッとしているお子さまな藤原くん』

 …という、一見解決したかのように見えて、実は更に複雑化した事態となり、『ギクシャクトライアングル』は『ギクシャク』が取れて、ただの『トライアングル』――つまりモロに『三角関係』の様相を呈することになってしまったのだった。


 僕たちは卒業まで2年。
 藤原くんと初瀬くんは、あと5年も一緒にいられる。

 どっちが有利か…。

 賢い祐介にはもちろんわかってるよね。
 がんばれ、祐介。



 あ、そういえば、アニーのこと忘れてた…。
 ひえ〜、もしかして『四角関係』?
 大変だね〜、祐介。

 
END

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