君の愛を奏でて 2
番外編

『佐伯先輩はご機嫌ななめ』





 夏のコンサートを目前に控えた頃。

 練習も最終段階に入り、管弦楽部のメンバーは心地よい疲労感と、気分を高揚させるような緊張感の中にいる。若干の例外を除いて…は。

『例外その1』は、コンサートでソリストをつとめる桐生昇。

 普通の高校生の神経ならば、緊張感も最高潮のはず…なのだが、誰から受け継いだ質なのか、舞台に対する度胸は強烈に据わっている。
 
 もちろんそれは、誰からも有無を言わせない練習量に裏打ちされた確かな自信ではあるのだが。


 そして、その反対の意味での『例外その2』は、昇の代理でコンサートマスターをつとめることになった佐倉司。

 新学年のオーディションで2番手に付けてしまったのが運の尽き。本人のまったく与り知らぬところで話は進み、気がつけばコンサートマスターの席に座らされていた。

 合奏経験が皆無だということを全面に押し出して、とてもとても熱心に――ある時は『お姫様』とも呼ばれるその容姿をも武器にして――先輩や顧問に『僕には無理です』と訴え続けたのだが、結局その席を外すことは許されず、あと数日に迫った本番に、夜も眠れないほど緊張している。



 さらに『例外その3』がここにいる。

 最高学年にして、舞台から身を引き、裏方に徹すると宣言した副部長――佐伯隼人である。

 もちろん、舞台に乗らない隼人には、『音を出す』と言うことに対する緊張感は皆無だ。

 気にすることがあるとすれば、そう、当日の段取りだとか招待客の誘導だとか…。
 しかし、そもそも彼は『そう言う能力』に長けている人間なので、いちいち『そんなこと』に動揺などしないはず…なのだが。





「…ったく、前日のゲネを生徒に公開なんて、今までになかったことさせないで欲しいよなっ」

 ここは音楽ホールの1階、生徒準備室だ。

 部員は現在「ヴァイオリンコンチェルト」の合奏中で、この部屋には部長・副部長以外の人影はない。

 メインメンバーでない生徒たちは客席で練習を見守っている。

 だから、ここには『もっとも自分を取り繕わなくていい相手――悟と二人きり』…というわけで、隼人は先ほどから言いたい放題に荒れている。

 そんな隼人をチラッと見て、悟は軽く肩を竦めてみせた。

「仕方ないさ。今年は例年になくOBの観覧希望が多くて、在校生の席が確保できなかったんだからな。そもそも在校生の参加希望も過去最高。当日だけで対応しきれない場合のゲネ公開はオケとしては常套手段だ」


 ちなみに「ゲネ」とは「ゲネプロ(ゲネラル・プローぺの略)」の事で、直訳すると「総練習」。
 照明・音響・タイムスケジュールなどを本番通りに行う、いわば『本番前哨戦』だ。

 普通は非公開であることが多いのだが、欧米のプロ楽団などは、そのゲネプロを低価格で公開することもあって、音楽家を志す苦学生などにはありがたい勉強の場ともなっている。



「…んなことは、わかってるけどさ…っ」

 だが、悟の落ちついた声も、今の隼人には通用しないようで…。

 そんな隼人を、少し不思議そうな目で悟が見つめ…、やがてふと口元を綻ばせた。

 あの葵にすら、平然とちょっかいを掛けることのできる隼人が、現在のところ唯一、軽い冗談すらふっかけられずにいる相手が、ここのところソロの最終調整のために練習室に籠もりきりなのだ。





 数日後に迫った夏のコンサート。

 そのステージでソロを吹くホルン奏者、宮階珠生は1年生。

 入学当初から、とても高校生には見えない可愛らしさでかなりの注目を集めている珠生だが、本人はそんなことどこ吹く風。

 ソロの伴奏と個人指導を請け負った悟に一途な恋をして、果敢にアタックして玉砕した後は、まさに『ホルンが恋人!』状態で、相変わらず周りから送られてくる秋波になどまったく気がついていない。

 だからそれなりに危ない場面にも遭遇しているのだが、ゴールデンウィークの合宿中に柔道部のデカイ連中にちょっかいを掛けられて以来、珠生曰く『オトナで紳士な佐伯先輩』が、珠生に見えないところでガンを飛ばして周囲を牽制しているので大事には至っていない。

 もちろん、そんな事実を珠生が知る由もなく、珠生は相変わらず『佐伯先輩って、ほんとにオトナで紳士な先輩だよね』と公言して憚らず、周囲はそんな珠生に『ほんと、そうだよね』などと、これっぽっちも思ってもいない言葉を返してはその小振りの頭を『イイコ、イイコ』と撫でているのだ。

 そして、悟もその一人。

 もちろん、わざわざ今までの佐伯隼人の悪行の数々を珠生に語って聞かせるつもりはない。

 何といっても、隼人自身が珠生の『幻想』を訂正しようとしないのだから。



「…なあ、お前が苛々してるのって、もしかして珠生のこと…か?」

 100%確信はあるけれど、聞いてみた。
 そして、隼人は否定するかと思いきや…。 


「ふんっ、悪かったね」

 あっさり認めた隼人に、悟は内心で降参のポーズをとる。

「いや、悪くはないけれど…」

 ――これは本気だ…。
 直感でそう思った。


 聖陵屈指の『遊び人』が6年目にしてついに年貢の納め時か。

 ほとんどの生徒が6年という長い時間を過ごすこの学舎で、『最後の一年間』がもたらせる変化は少なくない。

 それは、過ぎていこうとする『怖いもの知らずな青春時代』への、惜別の想いがなせる業なのか。


『かなり誠実な遊び人』であった守に対して、『結構不誠実な遊び人』であった隼人が、この後に及んで冗談もふっかけられないほど思い詰めてしまうとは…。


「だいたい、お前が『珠生』って呼ぶのも気にくわないんだよな、ホントは」

 そして、そんな隼人の一言一句が堪らなく新鮮に響いてくる。

「…ぷっ」

「あっ、おいっ、なんだよっ」

「いや、嫉妬に身を焼く『佐伯隼人』なんて初めてみたからさ」

 悟の笑いは止まらない。

 そんな悟の様子に、隼人はツンっと横を向いて見せ、それからふと、目を伏せた。


「あーあ。こんなことなら、最初に聞き分けのいい先輩ぶるんじゃなかった…」

「珠生はお前のこと、『紳士』だって思いこんでるからな」

「おい。失礼なこと言うなよ。思いこみじゃあない。俺は珠生の前では常に完璧な紳士なんだからな」

「…で、自分の首を絞めてる…と」

「…だからそれを言うなって…」

 こんな風に弱った顔など、未だかつて見たことがない。

「遊び人」としては多少不誠実であるが、音楽と管弦楽部に対してはとてもとても誠実だった隼人。

 だからこそ、5年を越える歳月を一緒にがんばってこられたのだ。
 だからこそ、この恋の成就を願わずにいられない…。


 悟はそう思い、隼人に真正面から向き合った。
 隼人の視線は外されているが。


「珠生はお前が思うほど子供じゃないと思うけどな」


『僕を先輩の恋人にして下さい』 


 そう告白されたときのあの瞳の熱さ。

 あんなにも情熱的な瞳を持っているのだ。
 うちに秘めたものはきっと想像以上に激しいに違いない。


「…ふーん。マンツーマン教育の賜物ってわけか?」

「だからそこで絡むなって」

 悟が思っている以上に、隼人の心の底には『珠生が一途な恋をした相手は悟だった』という事実が滞っているようだ。


『葵との事を信じてるから、今夜珠生をお前に預けるんだからな』


 合宿中の、あの事件の時にそう言った隼人の言葉に嘘はないだろう。
 だが、若干の強がりがあったであろうこともまた容易に想像できて…。

「お前が心配することなんて何もないさ。僕と珠生には以前も今もこれからも、お前が気に病まなくてはいけないようなことは起こらない。それに…」


 自分の口から言う羽目になろうとは思っていなかったが、隼人を安心させるためには仕方ないだろうと、悟は敢えてその言葉を口にする。

「僕には葵がいるからな」

 その一言で、隼人は漸く悟の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。


「あのさ、いつか聞いてやろうと思ってたんだけどさ」

「なんだ?」

 妙に真剣な隼人の表情に、何事かと悟は内心で少し身構える。

 しかし…。

「お前と葵って、いくとこまでいってるのか?」

「はあ?」

 表情が作っている真剣さとはあまりにも似つかわしくない質問に、思わず間抜けな声が出てしまう。

「いくとこって?」

「おい、今さらボケるな。誰もが桐生悟は『聖人君子』だと勝手に思いこんでるだろうがな、生憎と俺の目にはそんな誤魔化しは効かないんだ。お前の中身が、外見同様立派に『オトコ』だってこと、ちゃんとわかってるんだからな」

 少なからず言い当てられて、悟はちょっぴり開き直る。

 隼人がそうまで言うのなら、こっちにも聞きたいことはあるのだ。

「じゃあ、こっちからも聞くけど、お前、いつどうして気がついたんだ? 僕と葵のこと」

 そう、確かに隼人は言ったのだ。

『葵のためにも…』と。

 あの一言は、二人の関係に気がついていないと出ない言葉のはずだ。

 あれだけ気を付けていたのにも関わらず、いったいいつ、気がつかれてしまったのか。
 これは今後の対策のためにもぜひ、聞いておかねばならない。

 そんな悟から鋭い視線で見据えられ、隼人は「ふんっ」と鼻を鳴らしてみせた。

「あんなにエッチくさい目で葵の事を見つめてたらバレバレだぜ」

「…エッチくさいってねえ…」

 あまりの言われように思わず頭を抱えてしまう。

 だが、ここで怯むわけにはいかない。

「で、本当のところはどうなんだ?」

「それだけさ」

「はあっ?」

「だから、最初はお前の片想いかと思ってた。 浅井の存在もあったしな。 でも、葵の視線もお前を追ってるって気がついたから、ちょっとカマをかけてみたわけだ」

 その『カマ』にまんまとひっかかったのか。

 悟は思わず天を仰ぐ。

 いくら精神的に不安定な時期だったとはいえ、あっさりと認めてしまった自分が情けない。


「…くっそう…」

「いいねえ。桐生悟が悪態をついて悔しがる姿。管弦楽部の連中に見せてやりたいぜ」

 ほんの少しでも悟にリベンジ出来た気分になったのか、はしゃいだ様子で隼人が笑う。

「さて、こっちは正直に話したんだからな。俺の質問にもちゃんと答えろ。葵とはどこまで進行してるんだ?」

 これを正直とは言わないだろう…?と、思うのだが、それを言うのすら何だか悔しい。

 恨めしそうな視線を解き、仕方ないな…とばかりに悟は肩を竦めた。
 こうなってはもう、白状してしまう方がよさそうだ。

 もちろん「他言無用」などという野暮は隼人には言わない。

 そう言うことに関しては、とても信用がおけるヤツなのはよくわかっているから。


「まあ、お察しの通り…ってとこかな」

「いつから?」

 間髪入れずに重ねて問われる。

「去年の夏休み」

「マジ? …っちゃー。気がつかなかったぜ。1年近くも騙されてたってわけか。ほんと、お前たちってストイックに見せてるよな」

 隼人の目が妙に生き生きとしてきた。

「で、どうだった?」

「何が?」

 やっぱり悔しい。

「葵だよ」

「葵がどうした」

「んっとに、この期に及んでまだしらばっくれるかねー」

 往生際が悪いぜ、部長!…と、こんな時だけしっかり『部長』と呼んでくれて、隼人はニヤッと笑った。

「葵のことだからなー。さぞかしベッドの中でも可愛いだろうなー」

 そんなこと、言わずもがな…だが、そんなことを言ってやる必要もない。

「ノーコメント」

「ってことは、ご想像にお任せします…ってことか」

「想像禁止」

「お。言ってくれるね」

「そんなことより、珠生だろ?」

 悔し紛れに言ってみたのだが、意外に隼人のツボを突いてしまったようだ。

 目の前でグッと言葉に詰まられて、悟は僅かながら溜飲を下げる。


「まあ、このまま紳士らしく優しく見守ってやるだけ…ってのもありだとは思うけど。 あの通り、珠生はまだまだお子さまだからな」

 そんな悟の言葉に、隼人は『嘘つけ』と呟く。

「さっき、珠生は思ってるほど子供じゃないって言ったじゃねーか」

「言ったっけ?」

 これ見よがしにすっとぼけられて、隼人が盛大に口を尖らせる。

「悟っ、お前なあっ、ちょっと自分が幸せだからって…」

 だが、隼人の抗議はここで遮られた。


「悟先輩〜!」

 ノック不要。管弦楽部員なら誰でも自由に出入り出来る生徒準備室のドアがいきなり開き、ちょっと舌足らずの可愛い声が悟を呼んだのだ。

「コンチェルトの練習、終わりました! 伴奏お願いします〜!」

 小さな身体に大きなホルンを抱え、頬を紅潮させた噂の子供――珠生がそこにいた。


「あ! 佐伯先輩、こんにちはぁー!」

 ちょこちょこっと走り寄り、黒目がちの大きな瞳をキラキラさせながら珠生が隼人を見上げてくる。

「あ、ああ。元気そうだな、珠生」

「はい! 元気です〜!」

 すぐ目の前で、柔らかそうな髪の毛がふわふわと踊る。

 ――ちょっと頭でも撫でてみようかな…。

 そう思って、隼人が利き手を伸ばそうとした…その時。


「さ、珠生。練習室に行こうか」

「はい〜!」

 …あっさりとさらわれてしまった。

 しかもちゃっかり肩まで抱いてたりなんかして。


 ――おい…悟、どういうつもりだ…。

 怒りのオーラを立ち上らせる隼人の視線も何のその。

 悟は優しげに珠生に話しかけながら部屋を後にしようとする。

 そして…。

 チラッと振り返った悟が、意味深にウィンクを投げて寄越した。

 その目が『ぼやぼやしてるんじゃないぞ』と如実に語っているのがまたムカツク。


「くっそう〜、悟のヤツ、覚えてろよ〜」




 というわけで、紳士な佐伯隼人センパイは、本日もご機嫌ナナメなのでありました。

おしまい

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