羽野くんの管弦楽部観察日記 8
〜葵が入院しているときのお話です〜
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その1 |
つまらん…。 なんだか毎日の部活に張り合いがない。 それはどうやら俺だけではないようで、管弦楽部全体がどんよりと沈んでいる感じがする。 こうなると原因は一つ。 そう、奈月がいないからだ。 奈月が入院してからずいぶん経った。 倒れた現場を目の当たりにした上に、意識が戻らないと聞かされていた間は、本当に俺たちもどうにかなっちまいそうだったけど、今はかなり元気になっているらしく、ベッドでヒマを持て余しているらしい。 「おい、羽野…」 午後9時、ホールで練習していた俺がそろそろ寮へ戻ろうかなと思ったとき、茅野が袋をぶら下げてやって来た。 「なに」 「これ、やる。一緒に食おうぜ」 袋の中からでてきたのは、一瞬何物なのか判別できないくらい、ガリガリに痩せたリンゴだ。 どうやら丸ごと皮を剥こうとしてこんな悲惨なことになったようなんだけど…。 「うげ。なんだよ、これ。まさかお前が剥いたとか」 「ばか、ちげーよ」 そう言って、茅野は俺に無惨な姿を晒すリンゴを押しつけた。 そりゃ、俺だってリンゴは好きだけど。 「な、羽野」 茅野は急に声を潜めた。 「なんだよ」 「明日、奈月の見舞いにいかねーか?」 「え?」 『奈月の見舞い』 それはとてつもなく魅力的な誘いだ。 俺も、奈月に会いたくってたまんなかったし。 けれど。 「そりゃ行きたいけど、ダメじゃん」 そう、奈月のところへ行くのは禁止されてるんだ。 生徒で見舞いに行くことが許可されてるのは、管弦楽部の新部長である悟先輩と、412号室の3人だけだ。 ま、悔しいけどその対応は間違ってないと思う。 だって、そうでもしなきゃ、奈月の病室はとんでもないことになるだろうし。 ところが…。 「もちろん、掟破りは承知の上だ」 茅野が妙に偉そうに言う。ま、お前はそう言うヤツだよな。 「けど、俺たち病院がどこか知らされてないぞ」 そう、学校の対応は万全なのだ。 病院を知らなければ行きようがない。 だけど、茅野は不敵に笑った。 「麻生が知ってると見た」 「え、なんで…」 あ、確か麻生のじーさんはこの学校のエライさんだっけか。 俺が納得して頷くと、茅野も頷いた。 「けど、麻生のヤツ、教えてくれるかな?」 「教えてもらう必要はない。後ろをついて行くまでだ。あいつは明日、病院へ行くに違いないからな」 どーいう根拠があるのしらないけど、自信満々の茅野。 「何でそんなことわかるんだよ」 「このリンゴだ」 「リンゴぉ?」 俺の手には、元々痩せていたけど、俺に食われて更に細くなったリンゴが…。 「これ、麻生が剥いたんだ」 「え? ええっ?!」 あのお姫様がリンゴ剥きぃ? 「『たくさん剥いたからあげる』ってくれたんだよ」 「それがどうして……。あ、もしかして」 「そう、麻生は明日、リンゴを持って病院に行くと見た」 なるほど〜。麻生は奈月にベッタリだからな。 しかし、健気なヤツ。皮むきの練習をしてまで…。 「と言うわけで、明日、決行だ。いいな、羽野」 う、そりゃあ、俺だって奈月に会いたいし…。 俺は、決心を固めて小さく頷いた。 |
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その2 |
次の日、案の定、麻生はリンゴを抱えて学校を出た。 もちろん俺たちはその後ろをコソコソとついていく。 病院まではかなり遠くて1時間ほどかかった。 けど、無事ついて…。 でも、ここからが大変だった。 柱の影から、俺たちは奈月の病室を伺っていたんだけど、なんだか大勢いるみたいで、 次々と人が出てくるんだ。 まず、綺麗な女の人。 あの人、どこかで見たことが…。 「あ、ピアニストの桐生香奈子だ…」 茅野が呟いた。 そうだ。悟先輩のお母さんだ。 けど、なんで悟先輩のお母さんが…? そのあとから栗山先生と日本髪に着物姿のめっちゃ可愛い女の子が出てきた。 「あれって、舞妓さんじゃんか」 化粧はしてないし、普通の着物だけど、確かにそうかも知れない。 だって、正月でもないのにあんなカッコしてる子いないし。 「もしかして、奈月の姉さんとかいう人かな?」 俺が呟くと、茅野は首を振って言った。 「んにゃ、京都妻だな、ありゃあ」 ななな、なんだ、その『京都妻』って。 「なんだよ、それ」 「京都に置いてきた彼女じゃねーの。くそぉ、いいなぁ」 鼻息も荒く茅野が拳を握りしめる。 うっそぉ…。 俺たちが、つい興味津々で身を乗り出してしまった時、その可愛い舞妓さんの目がこっちを見た。 うわぁ。 慌てる俺たちに、彼女はニコッと笑ってお辞儀をしてくれて…栗山先生の腕を引っ張った。 まずいっ、今見つかるわけには…っ。 柱の影にもう一度身を隠すと、柔らかい声が近くで聞こえた。 「あれぇ? どこへ行かはったんやろ。葵とおんなじ制服の人やったんやけどなぁ」 うわぁ、ネイティブ京都弁だぁ。 栗山先生も何かいったようなんだけど、それは聞こえなかった。 そして、またそろっと顔を覗かせた俺たちは、今度こそ信じられないものを見た。 病室のドアが開いて、あの『赤坂良昭』が出てきたのだ! これにはさすがの茅野も目を丸くした。 「な、何で、マエストロ(巨匠)がいるわけ?」 「さ、さあ」 「聖陵祭で奈月を見つけて気に入ったとか」 「はぁ?」 「でも、マエストロってノーマルだよな。子供が3人もいるくらいだし…」 そ、それは何か? マエストロが奈月狙いってこと? おたおたしている俺たちの前を、今度こそ人がいなくなったとおぼしき病室に、ある人物がスキップでもしそうな勢いでやって来た。 麻生だ。 「おいっ、行くぞ、羽野っ」 麻生についていく気だな。よしっ。 けれど、俺たちが一歩踏み出した途端に…。 |
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その3 |
「きゃ〜。また新しい子よ〜」 なんだか黄色い声が…。 振り返るとそこには『白衣の天使』が数名…。 「ね、ね、君たち聖陵の生徒よね?」 俺たちは、顔を見合わせてから頷く。 ん? もしかして、制服のまま来たのはまずかったかっ? と思った瞬間…。 「かわいい〜」 俺と茅野は白衣の天使たちに抱きしめられていた…。 ちょ、ちょっと…。消毒臭いんですけど…。 「ね、私たち、もう交代の時間なの、だからちょっとお茶つき合ってよ、ねっ」 ねっ…って…。 「え、ええと、俺たち…」 「わかってるって、奈月くんのお見舞いでしょ?」 「聖陵の子、毎日たくさん来るものね〜」 「そうそう、平日で20人くらい?」 「土日なんて50人くいらいくるよね〜」 はぁぁぁぁ? 面会禁止じゃなかったのかよ〜! 横を見ると、茅野も呆気にとられた顔をしている。 そして、俺たちはそのままナースステーション横の休憩室のようなところに連れ込まれてしまった。 「奈月くんって人気者ね〜」 「そりゃ、あれだけ可愛くて優しかったら無理ないわよね」 やっぱり奈月はここでも人気者のようだ。 「そういえば、あなた、奈月くんの意識が戻らない頃、担当してたじゃない?」 ちょっと茶髪の天使が言うと、かなり金髪の天使が答えた。 「そうなの〜。でも〜、役得だと思ったんだけど全然〜」 「なんでよ」 「奈月くんの身体とか拭いてあげようかなっ、とか思ったら『僕やります』って、横取りされちゃったの」 「あ、あの超美形3兄弟の長男くんでしょ〜」 な? なななななな、なにっ? 悟先輩が、奈月の…、かっ、かっ、かっ、身体をっっっ! 「そうそう! 悟くんよ。ずっとつきっきりで奈月くんの世話してるの」 えーーーーーーーーーーーっ! 俺は思わず茅野の顔を見た。 茅野は『不○議の国のア○ス』に出てくる、えぐい縞模様のネコみたいな笑い顔をして座っている。 「奈月くんも、ニコッと笑って『悟』…なんて呼んでるし〜」 え? ええええええええええっ! ななな、奈月が、せせせ、先輩のことを呼び捨てにっ! 茅野も今度ばかりはちょっと驚いた顔をした。 なんてったって、『悟先輩は奈月が好きなんじゃないか』って言う噂はあっても、『奈月が悟先輩を好き』っていう噂は今のところ流れてない! まさか、まさか…。 奈月〜、お前もノーマルのはずだよなぁぁぁぁ…。 白衣の天使たちが、きゃいきゃい盛り上がっている中で、俺は一人、『ムンクの叫び』状態になっていたんだけど…。 「あれ? 羽野くん、茅野くん」 聞き慣れた可愛い声が…。 「奈月!」 会いたかったよ〜。 元気そうだ。顔色もいいし…。 奈月はニコニコしながら休憩室に入ってきた。 当然お姉さま方は大騒ぎ。 みんな、自分の隣に座らせようとやっきになってる。 「ちょうど看護婦さんたちの交代時間だと思って、遊びに来たんだ」 奈月が俺たちにそう言って、可愛く笑うと、天使たちは我先に奈月の頭をなで回す。 「や〜ん、もう、可愛い〜。私たちに会いに来てくれたのね」 「はい☆」 その一言で休憩室は興奮の坩堝になった。 ひょっとして、奈月って『お姉さまキラー』? ってことは、や、やっぱりノーマルだよな、うんっ。 それからは、奈月を囲んで盛り上がって、かなり楽しい時間になった。 で、どれくらい時間が過ぎた頃か、奈月がふと時計を見ていった。 「あ、そろそろ帰らないと、門限あぶないよ」 え? もうそんな時間? やっぱ、奈月といると時間が早く過ぎるような気がする…。 「そう言えば、麻生のヤツは?」 茅野が思いだしたように言うと、なぜだか奈月は急に顔を赤くした。 「ぼ、僕がここに来る前に、帰ったよ」 ちょっと待て、奈月。どうして言葉に詰まる? 俺がその疑問を出せずにいると、お姉さまの一人が口を開いた。 「ねぇねぇ、奈月くんの恋人って、悟くん? それとも麻生くん?」 げ。なんてことを。 「そんなぁ。尊敬する先輩と、仲の良い友達ですよ」 う〜ん、なんてそつのない答えなんだ。 「奈月くん、博愛主義なんだ〜」 それは当たってるかも知れないけど…。 俺が半ば呆然とやり取りを見守っていると、奈月がこっちを向いてちょこんと首をかしげた。 「羽野くん、茅野くん、遠いのにありがと。気をつけて帰ってね」 う〜、やっぱり可愛いや…。 「うん、奈月も早く帰って来いよ。待ってるからな」 「うん!」 笑った奈月は、これでもかというくらいに愛らしくて…。 俺たちは、ひとしきり奈月と別れを惜しんで、休憩室をあとにした。 茅野と並んで少し歩き出すと、後ろからお姉さま方の声がする。 「ねぇねぇ、奈月くん。あの子たちって恋人同士よね」 ………………。 「さぁ、どうかわかんないですけど、いつも仲良く一緒にいるから…」 奈月っ、バカッ、否定しろっ! 俺が踵を返そうとすると、いきなり茅野が肩を抱いてきた。 「ここはご期待に添わなきゃな、羽野」 茅野が声色を変えて俺の耳元で囁くと、後ろから黄色い悲鳴が上がった。 くっっそう〜。 「この変態っ」 俺は茅野の足を思い切り踏んづけた。 「いって〜」 俺は、ノーマルだと言ってるだろーがっっっ! |
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「桃の国日記」にて不定期連載したものをまとめました。
若干の加筆修正が入っています。
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