君の愛を奏でて〜外伝

2007年夏企画 


【後編】






 そして深夜。

 普段なら、すでに灯りが落とされているはずの庭園露天風呂に、蝋燭の光にも似た暖かいオレンジの照明が少し暗めに灯っている。

 しかも、今夜は特別に、赤い和蝋燭のおまけ付きという大サービスだ。



「綺麗だね…」

 湯の流れる僅かな音しか聞こえない静寂の中で、篤人が声を潜めて言った。

 こういうシチュエーションで、良く通る張りのある声を上げるのは無粋と言うものだ。


『うちの自慢のお風呂なの。ぜひ入ってね』

 そうにっこり笑って、2人の『姉』は、篤人と翼をこの庭園露天風呂に放り込んだ。

 その様子は、とても『若女将争い』のまっただ中だと言う様子には見えず、むしろ仲良く――つまりは何かに結託しているように――見えたのだが。


「だろ? 俺も、前は帰省するたびに入れてもらってたんだ。10時頃で予約は終わりだから」

 ほう…っと大きく息をついて、翼が心底気持ちよさそうに伸びをする。

 その手をとって、篤人は翼を引き寄せた。

「翼……」

 見つめてくる視線が熱い。

「…篤人……」

 和蝋燭の静かな灯りが湯気に映えて、なんだか気分まで幻想的になってしまう。

 翼はすっかりリラックスした様子で、抱き寄せてくる篤人の腕の中に素直に納まってきた。

 ごくごく当たり前のように、2人の唇は近づいて、そっと触れ合い、ほんの少しだがその甘さを堪能して、ふわりと解けた。

 その瞬間、篤人がちらりと後方に視線を走らせたことに、当然翼は気付いてはいなかったが。




「…ちょー綺麗…」

「ちょっと、いい年して『ちょー』とか言わないでよ。この場合、『激綺麗』がぴったりよ」

「それも日本語としてどうかと思うけど」


 清掃用の出入り口からちゃっかり覗いている人影が約2名。

 普通はドアを開けなければ見ることはできないのだが、何と2人はビール瓶のプラ箱を重ねて、その上に乗って垣根の上から覗いているのだ。

 着物の裾を絡げて帯に挟んだ姿など、女将が見たら卒倒してしまいそうだが、そんなこと、この際知ったこっちゃない。

 少し遠くて会話は聞こえないし、湯気に煙っている上にあたりは薄暗く、しかも庭園の植木でかろうじて胸から上あたりが見える程度だったが、それで十分だった。

 まるで映画のワンシーンのように、そこだけ切り取って飾って置けそうなキスシーンを拝めたのだから。


「…やっぱりね」

「思った通りだったわ…」

 よっこいしょ…と、2人して落っこちないように協力しあいながら重ねたビール箱から降り、着物の裾を直しながら、さて…と、思案顔になる。


「…で、どうする気? 女将に告げ口でもする?」

「まさか!」

「…よねぇ」

「「うふふ」」

 これは秘密だ。2人の。楽しい。


「でも、あの翼がねー」

 小学生の頃まで、2人で手を繋いで歩いていると姉妹に間違われるほど可愛かった翼。

 中学から6年間、もっとも危なそうな時期を男子寮で過ごした後でもそんな様子は見えなかったと言うのに、よりによって、教師生活も随分経ってからまさか生徒に転ぶとは、努々思わなかった。


「わかる気はするわ。翼ちゃん、可愛いもの。いくつになっても」

「去年、文化祭で『赤ずきんちゃん』やらされたらしいわよ?」

「ほんとに? いやん、見たかった〜」

 そう。2人にとって自慢の可愛い弟は、いい年をして未だにキュートなのだ。
 中身はあれで教師が務まっているのかと不安になるくらい『ぽややん』だし。


「それにしても篤人くんって、男っぽくて凛々しいわね」

 とてもじゃないが未成年には見えない落ち着きと、現役東大生という事実が証明している頭脳の明晰さは、それでも彼の生真面目な質に包まれているせいか、ちっとも嫌みでなく、むしろ好ましい。

 その点で、きっと翼は見る目があるのだ。


「やっぱり翼が『下』かしら」

「…生々しいこと言うわね…」

「だって気になるじゃない」

「気になるったって、そもそも『その反対』って考えられないし…っていうか、イヤ。絶対」

 拳を握って否定する依子に、茜がほうっとため息をつく。

「…それもそうよね。やっぱ『年齢』じゃないわよねえ」

「そういうこと」

 今度はきっぱりと肯定した依子に、茜がキラキラと輝いた目を向ける。

「ね。こうなったら、いきさつとか知りたくない?」

「知りた〜い! いかにして、一回りも離れた教師と教え子が恋仲に!」

 お姉さまたち、すでに週刊誌の記者気分だ。

「でも翼が話すはずないわね」

「ってことは、篤人くんよね」

「やるわよっ」

「OK!」



                    ☆ .。.:*・゜



 翌日。
 依子と茜は、チェックアウトからチェックインまでの時間を利用して、特別室に篤人を訪ねて入り込んでいた。

 翼はいない。

『経理のプログラムがおかしくなって父さんが困ってるからちょっと見てあげて』…と、事務室に追い払ったのだ。

 実は夜中の間に依子がパソコンに細工をしていたのだが。



「ねえ、篤人くん」

「はい」

 ツヤツヤに磨かれた漆の座卓を挟み、2人の和服美人と硬質男前が向き合う。

「私たちは、味方よ?」

「だからね、素直に話して欲しいの」

 直球だ。
 篤人相手に、下手な言い回しや小細工は効かないと踏み、依子と茜は正面から挑んできた。

 そして、篤人はと言えば、一応ちょっとだけ目なんて見開いてみて、驚いた風を装ってみる。


 やはり昨夜、見られていたのだ。

 いや、見られていた…のではなく、『見せた』のだが。

 あの時、背後の気配に気付いていた篤人は、わざと翼を引き寄せた。

 だいたいその前から、依子と茜の目が、妙に『カマボコ型』をしているような気がしていたのだ。

『こういうこと』を敏感に察知する女性というのは結構いるものだが、敏感な女性は大概拒否反応を示さない。
 むしろ、『気がつかなかった』という人が、気がついたときに驚き、拒否反応を起こすことが多いと篤人は感じている。

 だから。

「俺と…先生のこと、ですか?」

 ほんのちょっと、自信なさげにしおらしく、こんな時だけ未成年を演出して言ってみたりなんかして。

 案の定、依子と茜は慌てた様子で腰を浮かした。

「心配しなくても大丈夫!」

「そうそう、誰も反対したり、引き離したりしようなんて思ってないのよ? ただ、味方になってあげるには、いきさつも知っていないといけないな…と思ったのよ」


 好奇心が先立っていることがバレバレだ。

 だが、これは篤人にとってもありがたい。

『味方になってあげる』と言われるのは嬉しいが、あまり深刻に受けとめられても困るのだ。

 自分と翼はすでに思いが通じ合って幸せなのだから、ある程度興味本位で見守ってもらう方が気楽でいい。

 つまり、一か八かでわざと仕掛けた昨夜のキスは大当たりだったということで、篤人は内心ほくそ笑んだ。


「いきさつ…ですか?」

 けれど、そんな内心をおくびにも見せず、相変わらず一途で真面目な好青年の外面のまま、ほんの少し視線を上げてみれば、目の前の美人はこれでもかというくらいに目を輝かせて次の言葉を待っている。


 ――仕方ないな。

 そんな風に心中で小さく笑い、篤人は翼にも話していない『出会い』と、それからの2人を語った。

 多分、自分もこの2人の『姉』を気に入っているのだ。
 翼によく似て――1人は血縁ではないけれど――天真爛漫で真っ直ぐで、裏表のなさそうな、お日様の温もりのような人柄を。


 そうして3人は共犯者になった。

 面白いから翼には暫く黙っておこうという茜に、依子は嬉々として、篤人はちょっと可哀相だなと思いながらも同意したのだが、もしばれてしまっても、翼はちょっと拗ねるくらいで本気で怒ったりはしないだろうと思う。

 きっと、篤人の立場を思って、『よかったな』と言ってくれるはずだ。

 ただ、拗ねた翼のご機嫌を取るのは結構大変なのだが。



「篤人くん。年下で、まだ未成年の貴方にこんなことをいうのはいけないのかもしれないけど、翼のこと、よろしくお願いします」

 きちんと座り直し、手をついて茜が言う。

「もちろんです。一生かけて、大切にします」

 もちろん篤人もきちんと頭を下げる。

 そして、その言葉に、依子も茜も破顔した。
 やはり篤人は見た目の通り、頼もしい…と。


「何か困ったこととかあったら、ここへおいでね? 私たちはいつでも貴方の味方だから」

 どんなに2人の絆が強くても、きっとこの先、壁にぶち当たることもあるだろうと案じ、依子が優しく声を掛ける。

 年の差だの同性だの、ハンデは人一倍あるのだから。


「ありがとうございます。依子さんと茜さんにそう言っていただけると、本当に心強いです」

 身内に許された幸せは、多分当人でないとわからないだろう。
 常は冷静沈着な篤人も、この時ばかりは心底安堵して、翼と、そしてこの暖かい姉たちに出会えたことを感謝していた。


「やーねー。お姉さんって呼んで〜」

「あら、それはまだちょっとまずいわよ」

「あ、そうか。当分は私たち3人の秘密だもんね。じゃあなんて呼んでもらうの?」

『秘密』という言葉にワクワクして、姉たちはまた、身を乗り出してはしゃぎ始めた。

「若女将…じゃ、ヘンよね」

「ちょっと待って。若女将は私よ」

「あら、何言って…」


 始まった。
 そもそもこれこそが、篤人がここへやってくる原因だったのだ。
 これがなければ、翼が呼び戻されることもなく、2人は今頃北海道で大自然を堪能していたはずなのだ。


「お二人とも、俺の大切なお義姉さんですよ」

 ニッコリ笑うと美人2人がポッと頬を赤らめた。

 古田篤人、どうやら『お姉さまキラー』の素質まであるらしい。

「まv」

「嬉しいこと言ってくれるわねv」

「…この際『若女将』なんて、あとからでもいいか」

「そうよね。いつか篤人くんにお義姉さん…って呼んでもらえる時が来るなら、ね」

 2人、手を握り合って納得し合う姿は、そもそも2人が心底嫌い合っていたわけではないことを物語っているのだが。


「あの…」

「なあに?」

「その、俺はこの世界のことはさっぱりなのでわからないんですが、『若女将』というのは一つの旅館に一人しかいてはいけないのですか?」

 篤人の素朴な疑問に、依子と茜が顔を見合わせた。

「ええっと…。どうなんだろ」

「決まり事ってあるんだっけ?」

「そんなの知らないけど、少なくとも組合で『1人だけ』って決められてるわけではないと思うわ」


 そんなこと、考えたこともなかった…というのが実際のところだろうか。

「じゃあ、お二人が仲良く『若女将』でもいいのではないですか? 『2人の美人若女将』なんて、受けると思うんですが」

 知的男前に『美人』と言われて悪い気のする女性はいないだろう。


「やだー。篤人くんってばお上手なんだからー」

「でも、女将は一人よね?」

「あ、そうか。社長が一人しかいないのと一緒よね。そうなると『二人若女将』ってのは、将来困るわね」

 またしても疑問にぶち当たり、首を捻った2人に、篤人が一つの提案をした。

「それなら、お一人が社長でお一人が女将になられたらいいのでは?」

 まさに目から鱗。
 依子と茜はまたしても顔を見合わせ、目を見開く。

 そして、茜がパンッと手を打った。

「そうか、その手があったわ!」

「ちょっと待って、そうなったらうちのダンナは? 昴は一応長男なんだけど」

「あら、兄さんはずっと『専務』のままでいてもらえばいいのよ。父さんに何かあったらどっちかが社長になって、母さんに何かあったらどっちかが女将になる。これで円満じゃない?」

「なるほどね! 私たちで社長と女将をやるわけね? これでもう、万事解決よ〜!」

 きゃいきゃいとはしゃぐ2人に、篤人は自分の発言が思った以上に効いてしまったことを悟り、内心『俺、知らないから〜』と半分逃げ腰になっていたのだが…。


 いや、ともかく『仲良きことは、美しきこと』…なのである。



                    ☆ .。.:*・゜



「ほんと、ドキドキしたわね」

「久しぶりにときめいちゃったわよ〜」


 一日の仕事を終え、2人の美人はすっかりくつろいだジーンズ姿になって、自宅の縁側で涼んでいる。


「入試で一目惚れとはねえ」

「しかもそれが、ハンデをもつ受験生に優しく接しているところ見て…なんて、なんだか嬉しいわね」

「翼はそう言う点ではほんと、教師に向いているのかもね」

 缶ビールのプルを引き、小さく『乾杯』をして一口呷る。

「でも、長い間相手にされなくて、押して押して押しまくった…って言うのも凄いわね」

「篤人くん、頑張ったって言うか……あの翼でも、一応抵抗したんだ」

「そりゃあ、翼ちゃんだって、流されるわけにはいかなかったんじゃない? 何と言っても、教師と生徒だったんだから」

「…そうよね」

 きっと、悩んだこともあるのだろう。人に言えないことを、一杯抱えて。


「ここを、2人が安心して休める場所にしてあげたいわね」

「ほんとね。いつでも帰ってこられるところにしてあげようね」

「うん。そうしよう」


 露天風呂のある日本庭園からやって来たのであろう、小さなホタルの光を見上げ、依子と茜は満足そうに息を吐いた。


 そして、そんな2人を遠巻きに、襖の隙間から見守る3つの影が…。


「…おい、依子さんと茜はいったいどうしたってんだ?」

「…さっき、明日の着物の色合わせを2人でしてたわよ? いったいどういう風の吹き回しなの? 昴」

「し、知らないよ。いつの間にあんなに仲良くなったのかなんて…」


 そこでハタと思いつく。
 そう言えば、翼が帰ってきてから、2人はあんな風だ。

 翼だけなく、一緒に来てくれたあの真面目そうで知的な『元教え子』を巻き込んで、随分楽しげに話しているのを見かけたことがある。

 とりあえず、依子と茜の愚痴の相手を暫くしなくていいということに、ホッとしてたのだが。

「翼を呼んで、正解だったってことかな」

 いったいどういう事の成り行きで歳の離れた教師と元教え子があんなに仲良くなったのか、昴には想像もつかなかったが、とりあえず、それほどまでに気の合う2人なのだから、きっとうちのお転婆どもに、いい影響を与えてくれたのだろう。

 …な〜んて、その引き替えに、よもや自分の身の上が一生『専務』に据えられてしまったことなど思いもよらず、お気楽に結末をつけちゃうところが、さすが翼の兄!…と、言うしかないのだが。


 ともかく。

 そんなこんなで、翼の実家的には今回の帰省は大成功。
 思わぬ嬉しい結果を残してくれて、昴も両親もホクホクだ。

 謎は残るが、いずれにしてもいい結果には違いなく、その間何があったかなんて、もうどうでもいい。

 と言うか、この際触らぬが吉…だろう。


 こうして翼と篤人は、『いつでも大歓迎するから、今度はそんなに時間をあけずに帰っておいで』と、家族全員から激しく念を押され、とりあえず、冬の休暇にも顔を見せることを約束させられて、故郷を後にした。



 そして、ここに、やはり不思議に思っている人間が約1名。

 あれだけ張り合って、いがみ合っていた姉たちが仲良くなって、しかも総出で篤人を歓迎してくれた今回の帰省は翼にとってももちろん大成功で、篤人もまた、翼の家庭に受け入れてもらえたことを喜んでくれたので言うことはない。

 とてもとても幸せな休暇だった。

 のだが。


「篤人、お前、なんか裏技使ったんじゃないだろうな…」

 もしかして、何かあったのではないだろうかと、気にはなる。

「滅相もない。愛し合ってる2人は、誰にも引き裂けない…ってだけのことだよ。翼セ・ン・セ」

 いつかは教えて上げるけど…と、内心だけで小さく笑い、その可愛い鼻先をちょんちょんとつつくと、翼は唇を尖らせる。

「先生って呼ぶなって言っただろっ」


『教師と生徒』だった頃には、そう呼べと言われ続けていたことを、今は綺麗に否定して、翼は卒業後の『新しい関係』を自然に受け入れてくれた。


 その『特別』感に、篤人は胸を熱くして、翼をしっかりと抱きしめた。



お・わ・り

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