『Mallet & Bow』

番外編

『なんてこったいBrother』

 


 晴れて大学生になった里山貴宏は浮かれていた。

 この春は、入学準備があるからと帰省もせず、寮から一人暮らしのワンルームへ直接引っ越して、念願叶って春休み中は凪と初めての『長期休暇』を楽しんだ。

 3週間『しか』ない休みだったが、ほとんどの日を凪と過ごした。

 その点では、凪の両親が多忙を極める医師であることが幸いした。

 普段自宅の留守を護るのは凪を可愛がっている祖父母で、常から凪にはとても甘くて、外泊こそ叶わなかったが、毎日外出する事に関しては文句も言わないどころかいちいち小遣いまで与える始末で。

 ちなみに凪の5歳上の姉は医大生で、その点も幸いだったのだろう。

 凪は両親から『医学部へ行け』と言われたことは一度もないらしいから。

 凪の成績なら行けないこともないのだが、性格的に向かないだろうことは本人も両親も承知のことで、『厳しい両親だけれど、個性は尊重してくれた』と凪も話していた。

 ただ、厳しさも少々『過ぎる』感がある両親だったから、祖父母がその都度逃げ道になってくれたらしい。

 4年生からチェロを習っていたこともあって、中学から聖陵へ行くことを勧めてくれたのも祖父だったそうだ。

 祖母は手元から手放すことには抵抗があったらしいが。


 そうして凪は聖陵へ入学したのだが、本人曰わく、『都内に全寮制の学校がある。しかもチェロが弾ける部活がある…っていう、管弦楽部が後付けの状況で、実態を知らない無知な状態で入っちゃったから、入ってからが大変だったけど』…ということらしい。

 凪が言うように、管弦楽部は入部にすらハードルがある場所なのは確かだ。

 その点について貴宏は一度顧問に聞いてみたことがあるのだが、顧問は凪が6年生の頃には彼の師匠から推薦を受けていて、入試が突破出来れば入部は全く問題ない状態…どころか、最初から期待をしていたらしい。

 ただ、凪の性格の所為で若干遅咲きになった感は無きにしもあらずだが。

 ともかく凪は、高校生になって渉や七生に出会ったことも幸いして急速に力を伸ばし始め、貴宏が卒業したあと――高2のオーディションでは第三奏者まで席次を上げた。

 首席と次席が音楽推薦であることを思えばまさに『飛躍』と言っていいだろう。

 貴宏も、この事で凪がさらに自信を持ってくれれば…と願っている。


 こうして、凪は高2になり、貴宏は音大生として新たな生活が始まったわけだが…。



 進学した貴宏は、毎日を忙しく過ごしていた。

 音大は1年目から専門カリキュラムが詰め込まれていて、1年目に単位を落とすと2年目の登録ができない科目があり、それは4年目まで必修科目なので、つまり1年目で単位がとれないとその時点で留年確定という恐ろしいことになる――とりあえず救済措置はあるけれど――のだ。

 だから、他の大学へ行った同級生たちに比べると、『大学生活を謳歌している』と言った状態からは程遠いのだが、けれど『望んだ道』だから充実感はこれでもかと言うくらいに感じていて、まさに順風満帆と言ったところだ。

 そんな忙しい中を、それでも貴宏は指導OBとして、聖陵にせっせと通っていた。

 もちろん打楽器軍団の指導の為なのだが、当然凪に会うのはもっと大切な用件だ。

 それは『恋人に会いたい』という極めて単純で純粋な気持ちではあるのだが、それだけではなく、できるだけ凪の力になってやりたいと思っている。

 弦楽器の凪に、貴宏が技術的に指導できることは何もないが、音楽的なことなら相談にのってやれると自負しているから。

 だが、新学年になるに当たり、ひとつ不安の芽があった。

 春休み中に顧問と理玖から聞いたのだ。
 渉がチェロから抜けると。

 彼が生徒指揮者になるのであろうことは想像に難くなかったし、むしろ喜ばしいことなのだが、凪があれだけ頼りにしているのだから、心配なのは『凪の今後』だったのだ。

 同じパートに同級生にがいるというのは凪にとってはとても心強いことだったに違いない。

 高3のパートリーダーも『良いヤツ』だし、第4奏者なので凪とは同じプルトのコンビだから、その点では安心しているのだが、問題は、今年の首席次席が『正真正銘』で、凪にとっては未知の人間と言うことだ。

 去年もそれで気を揉んだ。
 未知の新入生と同室になったから。

 だが貴宏の『今年の不安』も、程なくして杞憂に終わった。

 次席の水野真尋は凪と変わらない背格好の美人タイプで、あまり物怖じしない性格らしく、凪にも最初から懐きまくって貴宏を安心させたし、首席の英はなんと言っても渉の弟なのだから。 
 
 しかし。

 今度は違う意味でのモヤモヤが貴宏を待っていた。

 去年は、同室になった七生が凪によからぬ思いでも持ったら…なんてヤキモキした貴宏も、今年はそんな心配も要らないなと高をくくっていたのだが、今度はあろうことか凪が英に懐きまくってしまったのだ。


 渉の弟が来るらしいと言うのは、少し早い段階で聞いていた。 
 
 けれど、『あの渉』の弟なのだからと極めて勝手な想像で、渉のようなタイプ(あくまでも『見た目』だが)を『予定』していたのに、実際の彼はと言えば、指揮者の伯父にそっくりの美丈夫で、ついでに言うなら背格好も貴宏と変わらないくらいに長身でかっちりとした体格で。

 しかも、大人びて落ち着いた性格らしく、色んな方面から流れてくる噂話のすべてが『英の方が圧倒的に兄貴に見える』と言った内容だ。

 そんな英は凪のことも大切にしてくれている様子で、それは喜ばしいことなのだが、凪にしてみれば英の存在は『下級生』とか『新入生』とか言うよりも『親友の弟』と言った位置付けなので、最初から気負いもなくあっさりと打ち解けてあっという間に『必要以上に親密』になってしまったのだ。

 必要以上…というのは、あくまでも貴宏目線だが。


 さらに。

『英みたいなお兄ちゃんがいたら良かったな〜なんて』

 テヘッと笑って見せた凪は、これでもかと言うくらいに可愛いかったのだが、内容はまったくいただけない。

 おいおい、英は『弟』だぞ…なんて突っ込んでいる場合ではない。

 自分だって聖陵にいた間は『頼りになるお兄様タイプ』と言われてきたし、その通りだとも思っている。

 もちろん凪の兄貴になるつもりはさらさらないし、凪から『お兄ちゃん』とも思われたくはない。

 なんと言っても自分たちは恋人同士なのだから。

 けれど、同じ『兄貴タイプ』の自分を前にして、英のことを『こんなお兄ちゃんがいたら良かったな〜』なんて嬉しそうに言われてしまうのも悔しいではないか。

 それに、こうなってくると不安になるのが、懐かれた英がうっかり凪に『よからぬ想い』を抱いてしまわないか…と言うことだ。

 なにしろ本当の意味で両想いになって、その想いを遂げてからまだ数ヶ月。

 しかもその後すぐに凪を残して卒業してしまった身としては、どんな小さな芽でも不安で仕方がない。

 自分でも若干壊れ気味だなという自覚はあるが、修正する気もさらさら無い。

 なので、英のことは『不安の芽』どころか『台風の目』レベルの脅威になってしまったのだが。



                     ☆★☆



「…なんだあれは…」

 指導OBとして足繁く母校へ通っている貴宏の目に、ある日、その光景は映った。

 部活が終わった直後、指導していた打楽器部屋から早々に退出して凪を探しに行こうとチェロパートのたまり場近くまで来たとき、渉と英の姿が目に入った。

 何度見ても絵になる兄弟だが、あろうことか、英が軽々と渉をお姫様抱っこをしているではないか。


「英っ、降ろせってば!」

 渉は本気で暴れているようだが、英はまったくお構いなしだ。

「暴れるなって。ちょっとの間だから辛抱しろってば」

「だから大丈夫だって言ってるだろっ」

「そんなこと言って、あとから何かあったらどうするんだ。いいから大人しくしてろ」

 それでもぎゃあぎゃあと騒ぐ渉をものともせず、英はホールから出て行こうとしている。渉を抱いたまま。

 兄弟のお姫様抱っこなんて、いくら聖陵でもそうそう見られるものではないが、やっぱり『あの2人』だとあんまり違和感がないなあなんて、渉が聞いたらまた大暴れしそうな感想を独りごちた貴宏に、掛かる声があった。

「あ、先輩、こんにちは」

 いつの間にか隣に来ていたのは、相変わらず美少女な和真だった。

「な、安藤」

「はい」

「あれ、なんだ?」

 運ばれていく渉を指さして尋ねてみれば、和真はさして珍しくもなさそうに、肩をすくめてみせる。

「渉が階段踏み外したんですよ」

「え?! 大丈夫なのか?」

「ええ、最後の一段をちょっと踏み外しただけですし、本人もびっくりしただけで多分怪我もないと思うんですが、あっという間に英が抱え上げて保健室へ連行です」

 これっぽっちも慌てた感はなく、和真冷静に状況を分析している。
 もしかするとこれは、日常茶飯事なのか。

 それにしても…。

「…随分と過保護だな」

「過保護どころの騒ぎじゃありませんよ。毎日授業が終わったら2年の教室まで迎えに来るくらいですから」

「誰が?」

「英です」

「誰を?」

「目の中に入れても痛くないほど可愛いお兄ちゃんを…です」

 貴宏が目を見開いた。

「…あいつら、本当の兄弟だよな?」

「そうですね。お父さんもお母さんも同じ兄弟だって聞いてます」

「こういうのを何とか言ったよな」

「ブラコン…ですか?」

「そう、それだ」

「いや、もうブラコンっていうよりは、『お兄ちゃん命』ですからね、英は」

「それってちょっと方向性ヤバくないか?」

「ええ、かなり」

 しかし、やはりどうやらこの状況はすでに『当たり前』の様子で、和真はこれっぽっちも表情を変えていない。

「里山先輩も色々と思われることろはあるとお察ししますが、少なくとも英はあの通り『安全パイ』ですからご心配なく」

「…みたいだな」

 凪には安全パイだが、渉には危険人物な気がしてきた。兄弟なのに。

「それより先輩」

「なんだ?」

「凪が待ってますけど」

「えっ?!」 

 振り向けば、目に入れても痛くないほど可愛い恋人が相変わらず少し恥ずかしそうに立っていた。

「退校時間まであと1時間しかないですよ」

「うわっ、もうそんな時間なのか?!」

 慌てて凪に駆け寄る貴宏の後ろ姿を、和真は肩を竦めて見送った。



 そして後日。

「なあ、凪」

「はい?」

「渉は結局大丈夫だったのか?」

「はい、全然なんともなかったんですけど、あんまり英がうるさいからって、とりあえず湿布1枚貼っておいたって、斎藤先生が笑ってました」

 やはり英の『ブラコン』はとんでもなく突き抜けているようだ。


「渉に、『いいなあ、英みたいなお兄ちゃんがいて』ってうっかり言っちゃったら、渉が『僕がお兄ちゃん!』ってむくれちゃって、それがまた可愛くて英が構い倒すっていう、渉的には悪循環が発生してて、桂と直也が『渉を取られた』って、またぶすくれちゃって…」

 可笑しそうに言う凪の肩を抱いて、取りあえず、凪がいつまでも自分だけを見ていてくれますように…と、柄にもなく、何処へともなく祈ってしまった貴宏であった。


END

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