幸せな夢

君の愛を奏でて〜最終話




 それは、確定診断が下された翌日の事だった。

「僕、大学やめようかと思うんだ」

 明るい陽の差すキャンパスで、アイスティーの入った紙コップに視線を落としたまま、ぽつりと葵が言った。

「…葵…」

 理由はもちろんすぐにわかった。

 悟先輩は、まだ正式デビュー前にもかかわらず、教授や有名ソリストの伴奏を受けていて、学業とステージの両方を精力的にこなしていたのだけれど、先日からすべてのステージやレコーディングをキャンセルして、入院している。

 珍しく風邪気味…と聞いていた少し後、急激に手足の麻痺が起こり、神経細胞周辺に障害をもたらす難病だと、昨日わかった。

 幸いだったのは、呼吸器に障害が出なかったこと。
 自発呼吸が保てるかどうかは、この難病の大きなポイントらしい。

 ただ、歩行は支持があっても困難で、24時間介助が必要な状況になっている。


「本人の頑張り次第…って前置きはあるんだけど、治療法はあるし、薬も今は良いのがあるから、症状は多分これ以上は進まないし、リハビリ頑張れば1年以内には通常の生活には戻れるだろうってことなんだ」

 なのに、どうして葵が大学を辞める必要があるんだ?

 …って、もしかして。

「通常の生活?」

「うん。普通に生活する分には…ってこと」

「普通…じゃないって…」

 僕にはもうわかっていたけれど、口にしてしまった。

「ただ弾くだけならともかく、職業としてのピアニストに戻るのは、かなり厳しいって話だった…」

 やっぱりそうか…。

「…先輩…なんて?」

「…そうですか…って、それだけ」

 その一言に、悟先輩のどれだけの悔しさが込められているのか、想像することすら恐ろしくて、僕は言葉を無くす。

 行き交う学生の、話す声や笑い声が通り過ぎる中、時々葵の姿を見つけて『悟先輩どう?』って聞いてくるヤツがいて、葵はそれに『うん、もう少しかかると思うけど、良くなってくると思うよ。心配掛けてごめんね』…と、愛想良く応えている。


 そしてまた、少しの沈黙…の、後。

「悟がいない音楽の世界で生きて行く意味って、あんまりないんだ…僕としては」

 そう言うだろうと思った。
 でも。

「…止めはしない」

「…うん。祐介ならそう言うと思った」

「ただ、絶対ひとりで決めるな。それだけは言っとくよ」

「そう、だね」

「あと、悟先輩の状況が落ち着くまで、それ、僕の前以外で口にするなよ」

 そう言うと、葵は黙ったまま深く頷いた。

「話せる状況になったら、とことんまで話し合って、それから決めろ」

「うん、そうする」


 そうは言っても、葵はもう決めているんだろう。

 でも、それをさせる悟先輩ではないことも、僕はわかっている。

 どんな言葉が葵を繋ぎ留めるのか、それは僕にはわからないけれど、でも、僕は悟先輩を信じている。

 葵は、これからもずっと、音楽の世界で生きて行く。


                    ☆★☆


 容態が落ち着いた頃、僕は悟先輩を見舞いに行った。

 そこで言われたのは、思っていたとおりの言葉だった。


「暫くの間、葵のこと、頼むな」

 本格的なリハビリが始まる前で、悟先輩はまだ寝たきりの状態だったけれど、その表情は意外なほど穏やかだった。

「はい。先輩が帰ってこられるまで、しっかり守っておきますから」

 だから、早く帰って来て下さい…と、安易に口にできる状況ではなかったのだけれど。

 でも、悟先輩はすでに、覚悟を決めていた。

「葵にはまだ言ってないんだけどな。僕は、何が何でも音楽の世界に戻ろうと思ってる」

「先輩…」

「葵を道連れにする気は、ないんだ」

 …ああ、やっぱり、悟先輩にはわかっていたんだ。
 自分が諦めてしまったら、葵も諦めてしまうだろうと。


「葵のために、必ず戻るから」

 静かだけれど力強い言葉に、僕は嬉しくなる。

「先輩が口にされて実行出来なかったことって、今までひとつもありませんでしたから、今回も期待してますよ」

 そう言うと、悟先輩は小さく笑った。

「そうだな。期待に応えるよ、必ず」

 先輩が、指揮科に転科して復学したのは、次の春のことだった。



 それからいくつもの季節が過ぎ、葵と先輩たち兄弟は、クラシックの世界で今や知らぬ者のない存在となり、僕は母校へ戻り、管弦楽部を引き継いだ。



 



 僕が悟の変化に気づいたのは、渉が高校2年に進級し、英が入学した頃のことだ。

 ついでに言うと、渉も英も日本に行ってしまったと奏が大暴れで、僕たちはドイツへ行くたびに奏のご機嫌をとるのに必死だった頃…なんだけど。


 ちなみに、奏は7歳にもなって未だに守や悟や祐介にはすぐ『抱っこ』って言うんだ。

 でも僕には言わないから『何で?』って聞いたら、『葵ちゃんはちっちゃくて、抱っこは可哀相だから』…だって。

 かなり悔しいんだけど。

 あ、昇はお膝抱っこって決まってるみたい。

 僕はと言えば、添い寝当番…。



 で、悟の様子がどう違っていたかというと。

 普段、悟は僕のリハーサルや本番を聴いても、こちらが求めない限り、アドバイスはして来ない。

 悟が振って、僕がソリストという立場でコンチェルトをやる時でも、よほど解釈にギャップがない限り、僕の自由にさせてくれる。

 もちろん、お互いに普段の譜読みや練習は不干渉で、ひとりで自分の部屋にこもってやるのが常だ。

 僕たち兄弟の中で、最後に悟がデビューしてから十年以上が過ぎたけれど、最初の頃からそんなスタイルで何となくやってきた。

 何となく…と言うのは、こうしよう…って決めてこうなったわけではないから。


 そんな悟がある日言ったんだ。
『練習、聴いててもいい?』って。


 僕が2年ぶりになるソロリサイタルの国内ツアーの練習を始めた時だ。

 伴奏はピアノなんだけど、今回はお母さんとスケジュールが合わなかったので、花城岳志さんって言う、守のデビュー以来ずっと家族ぐるみでお付き合いさせてもらってて、僕たち兄弟にとってもお兄さんみたいな存在であるピアニストにお願いしてる。

 花城さんもスケジュール混んでるから厳しいかなと思ったんだけど、『葵くんとやるの、久しぶりだな。嬉しいよ』って、引受けてもらえたんだ。

 かなり無理させたようで、申し訳ないんだけど。

 もちろん、花城さんと悟も仲良くて、悟の指揮で花城さんはもう、3つもコンチェルトのCDをリリースしてるくらい。

 だから今回、花城さんに伴奏を引き受けてもらえて、悟も喜んでたんだ。


 で、もちろん悟は僕のツアー中は自分の本番をまったく入れてなくて、この時期にその他の仕事――作曲や執筆――をやっつけながら、僕のサポートをしてくれるつもりのようなんだけど…。

 それにしても、伴奏が入らない練習段階から悟がずっと側で聴いてるって言うのは、何だか不思議な感じで…。

 でも、悟は何を言うでもなく、僕の練習をじっと聴いていた。何日も。



                    ☆★☆



 夏の終わり頃から初秋にかけて、国内12カ所でのコンサートを無事に終えて、僕は自宅に戻った。

 3日後には悟がオペラを振るために渡米するから、僕もついていく。

 2週間の予定なんだけど、その間に僕は現地の音楽院でマスタークラスの公開レッスンを引き受けている。

 受講生の中に、僕の卒業と入れ替わりに入学した聖陵の後輩がいるから、楽しみにしてるんだ。


 で、休みの初日、お母さんと佳代子さんと、ケーキ談義で盛り上がりながら過ごしていた夕方のことだった。


「ちょっと、練習付き合ってくれる?」

 悟がこんなことを言うのは、結構珍しい。

「あ、うん。もちろん」

 指揮者って言うのは、かなり孤独な立場で、『練習』に『誰か』や『何か』が必要ってことはまずない。

 それだけに僕は、何に付き合うんだろう…って不思議に思いながら悟に手を引かれて…。



 入ったのは、何故かお母さんの練習室。

 ここのピアノはフルコンサートと言う一番大きなグランドピアノで、世界の名だたるホールが保有しているのと同じタイプで、当然調律は常に完璧。

 お母さんが使ってない時には僕らも自由に使っていいんだけど、僕はもちろんピアノを弾くわけでないから、僕が使わせてもらうのは、本番ピアニストとの伴奏合わせの時くらい。

 悟は、ここのピアノは使わない。 

 スコアを勉強するのにピアノは使うんだけど、ピアノを『弾く』訳ではないからって、いつも自分の部屋の、もう少しサイズの小さいグランドピアノを使ってるんだ。 

 それほど、悟はピアノに触れてこなかった。
 理由はもちろん、『思うように弾けないから』…だ。

 その悟が、この部屋で何をしようと言うのか、僕にはまったくわからなくて、悟がピアノの屋根と蓋を開けた時には、不安を覚えて手のひらに汗が滲むくらいで。


「この前のリサイタルツアーで、花城さんに弾いてもらってた曲なんだけど」

 その言葉に一瞬、『あれ?ダメ出しかな?』と思った。

 珍しいなと思ったんだけど、悟のアドバイスは僕にとって、とても大切なものだからちょっと嬉しかったりしたんだけど。

 悟が鍵盤に触れて、『A』を鳴らす。
 チューニングしろってことだ。

 僕は抱えていたケースからフルートを出して組み立て、息を入れる。

 ピアノのために、温度も湿度も保たれているこの部屋では、楽器の温度管理も楽で、さほどの準備もいらずに音を出すことができる。


 もう一度悟が鳴らした『A』に僕の 『A』を合わせたところで、悟が楽譜を開いてピアノの前に座った。

 高低自在イスはもう、悟の高さに合わせてあるみたいで、悟は前置きもなく――曲名を僕に告げもしないで――前奏を弾き始めた。

 もちろん僕は、最初の音だけで何の曲かわかるし、暗譜してあるからすぐにも吹ける。

 けれど。

 弾き始めた悟の姿を、僕は呆然と見るしかない。

 だって、悟は今、弾いてるんだ。
 花城さんですら手こずったと言う、かなり難度の高い曲を。

 こんな音と光景を、この前見て、聴いたのは一体いつのことだっただろう。

 それは、記憶を辿らないと思い出せないくらい、ずっと前の…僕がデビューするより前だったはずで。


「さ、悟…?」

 どうしていいのかわからなくて、僕はフルートを構えもしないで、突っ立っているばかり。

 そんな僕を見ることもなく、悟は手を止めると鍵盤に向かったまま、言った。

「練習に付き合ってって、言ったろ?」

 いつもと少し違う悟の物言いに、僕は気がついた。

 悟は緊張しているんだと。

 そして、もうひとつ気づく。

 これは、弾けなくなったピアノじゃない。

 悟は弾けた頃の音を、取り戻しているんじゃないかと。


 いつの間にこんなに…。

 ともかく僕は、急いでフルートを構えた。

 それをちらっと見て、悟がまた弾き始めた。


 まだ僕が十代だった頃、悟の伴奏で吹いていた頃の感覚があっという間に蘇ってくる。

 まるで、あの頃のままに、何も考えなくても、気持ちが自然に寄り添った、フルートとピアノ…。



 3楽章通してすべて吹き終えて、僕は悟を見つめる。

 悟は僕に視線を合わせないまま、いつもより静かに言った。

「あの頃から、母さんと花城さんにレッスンしてもらってたんだ」

 あの頃っていうのは多分、悟が僕の練習をジッと聞いていた、あの時に違いない。

「実は、3年くらい前から少しずつ弾き始めてはいたんだ。けれど、勇気がなかった。確かに指は動くのに、気持ちはいつまでも後ろ向きだった。今更無理してピアノに触れる必要があるのかと、何度も自分で打ち消しては弾く、その繰り返しだった」

 そんなこと、僕はちっとも気づかなくて…。

「でも、そんな僕の意気地のない気持ちを、渉が押したんだ」
「…渉、が?」

 悟は立ち上がり、僕をそっと抱き寄せる。

「そう。あの希有な才能が後を追ってきていると知った時、自分はまだやるべき事をやっていないと気づいた」

「やるべき、こと?」

 悟はすでに、指揮者として不動の地位を築いている。
 ステージも録音も精力的にこなしていて、この上やるべきことって…。


「何かを掴もうと懸命になる渉の姿を見て、僕は一番大切なものを置き去りにしていたことを思い出したんだ」

 腕の中の僕を少し離して、悟は僕に向き合い、そしてしっかりと視線を捉えて言った。

「僕はまだ、夢を叶えていない」
「悟の…夢?」

 それは不思議な既視感だった。




『ピアニストとしての夢はなに? …って聞いてくれないの?』

『では、ピアニスト・桐生悟さんの夢は何ですか?』 

『僕の夢は、愛するフルーティスト、奈月葵さんの専属ピアニストとして認められること、です』




 そうだ。あれは高校1年の冬…。
 定演で、栗山先生の曲を悟の指揮でやった時のことだ。

 それは、ピアニストを目指すと決めた悟が、僕に告げた『決意』だった。




「ごめん…悟」

 僕の言葉に悟がわずかに目を見開く。

「葵?」

「…気づかなかった…。悟がそんな風に…」

 言葉が、続かない。

 悟の深い想いと葛藤に、僕は気づかないままでいた。

「それは、葵が気に病むことじゃない。これは、僕の夢だ」

 そう言って、僕を抱きしめる悟の腕は、熱くて力強い。

「けれど、葵の協力無しには、僕の夢は叶わない」

「…悟」

「僕の、夢の中へおいで…葵」


 身体も心も想いも、何もかもを丸ごと包んでくれる悟の腕の中で、僕はうっとりと目を閉じる。

「うん。どこまでも、ついて行くよ…」

 すべてを、ゆだねて。



                    ☆★☆



 そして、6月の聖陵学院でのステージと、その秋の単発のソロリサイタルで、僕たちはプロとして初めて、2人だけのステージに立った。

 オーケストラを背負った指揮者とソリストではなく、広いステージに、フルートをもつ僕と、ピアノの前に座る悟の、2人だけ。

 待ち望んだ、幸せな夢の中へ、僕たちは踏み出す。




 終演後、花城さんが贈ってくれた大きな花束には、こんな手紙がついていた。


『悟くん、復帰おめでとう。
 これからの君の活躍に期待しつつも、強大なライバルの再登場に、僕を含めて多くのピアニストが戦々恐々だよ。 
 葵くんの伴奏が回ってこなくなるのも、苦情を述べたいところだな。
 できれば時々は可愛い弟くんを貸してくれよ。 
 ともかく君は一歩踏み出した。 この先の道は必ず光に溢れている。 
 僕が保証するよ。自信を持って、歩んでいってくれ』


 悟と同じように、一度は弾けなくなってこの世界から離れていた花城さんの言葉は、暖かさに溢れた重みをもって、悟を包む。


『葵のピアニストになりたい』


 そう言ってくれたあの日から、20年以上の月日が過ぎたけれど、その時間もすべて僕たちの糧となってこの日がある。

 時間は少し遠回りになったけど、心の距離はいつも寄り添っていたから。




 数日後、僕たちのステージは新聞紙面で評論されていた。

 見出しは『桐生家の兄弟、魂の共演』。

 僕たちの夢が、あの時間を共有したお客さんたちにも幸せな時間をもたらせたのなら、こんなに嬉しい事はない。



                   ☆ .。.:*・゜ 



 開演のベルが止み、客席が暗くなる。

「行こうか、葵」
「うん!」

 今日も僕たちは、光に満ちたステージに立つ。

 どれだけ想いを込めたところで、この音が永遠に続くわけではないことを僕はもう知っているけれど、でも僕は、僕のすべてを込めて、奏で続けて行く。

 渉に、英に、奏に、そして、生まれてくる新しい命に少しでも伝わるようにと願いながら。


 僕に残されている時間は恐らく、そう長くはない。

 あとどれくらいなのか、まだわからないけれど、悟が漸く捕まえた幸せな夢の中で、僕たちはこれからもずっと、寄り添い続ける。

 きっと、魂になった後も。



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