幕間 「羽化、するとき」

【1】





 渉が倒れたという情報は、すぐに祐介の元に届いた。

 急を要するものでは無いと言うことだったので、幾ばくかの安堵はあったものの、心配には違いない。

 1・2時間目は授業があったので動けなかったが、次は空きだったので駆けつけてみるとすでに渉は眠っていた。

 少し、苦しそうに。


 斎藤の説明によると、貧血で、食事が十分に摂れていないのが原因だろうとのことだった。

 気に掛けていたことが、形になって現れてしまってはもう、自分が動くしかないか…と、思案を巡らせはじめたところで、和真がやってきた。

「浅井先生」

 走ってきたのだろう、弾む息を整えながらも、しっかりと話す。

「1日だけ、間に合わなかったですけど、もう、大丈夫だと思います」

 間に合わなかったとは、渉の様子のことだろう。
 和真もまた、この状況に心を痛めているのは容易に見て取れる。


「それは、問題が解決したってことか?」

「はい。もしかしたら数日は複雑な顔してるかも知れませんが、すぐに元の渉に戻ると思います」

 複雑な顔…と言うのが解せないが、それでも解決したのなら、言うことはない。


「あ、ちなみに英も承知してます」

「なるほどな。さすがだな安藤。押さえるところはきちっと押さえてるな」

「ええ、渉に関しては、英を外すと後々面倒なことになるので」

 和真の言葉に祐介が吹き出した。隣で斎藤も笑いを堪えている。

「凄いな、安藤。英に会ってまだ1ヶ月も経ってないだろう?」

 なのに、ここまで英の急所を押さえているとは。

「だって先生、英はめちゃくちゃ分かり易いですよ」

「まあな。物心ついた頃から『お兄ちゃんラブ』だったからな」

「やっぱり」


 確かあれは渉たちが一家でドイツへ移る直前だったか。

 遊びに行った桐生家で、渉が祐介の膝の上に乗ったまま動こうとせず、隣で英がものすごく不機嫌な顔をしているものだから、てっきり英も膝に乗りたいのかと思えば、そうではなくて、『渉を取られた』と不機嫌になっているのだ。

 まるで『チビ悟』が『チビ葵』に執着しているみたいで、笑いを堪えるのが大変だった。

 そんな英も、渉の次に好きなのがやはり葵のようで、葵が『英、おいで』というと、それでも渋々の様子で渉を諦めて、葵の膝の上に収まっていた覚えがある。

 今やその英も自分と同じ視線にまで育ってしまったが。


「それと、斎藤先生」

 和真が向き直る。

「なんだ?」

「すみませんが、昼休みにNKコンビが来ます。渉、眠ってても良いので、会わせてやって下さい」

「それは、必要なことなんだな」

「そうです」

「わかった」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 次の授業に遅れないように、慌てて走り去る和真の後ろ姿を見送って、斎藤が小さく笑った。

「本当に、あいつはちびっ子のくせに大物だな」

「松山先生と似てないようで似てますよね」

「ああ、やっぱりそう思うか? 翼もぽややんとしているようで、妙なところで大物だからな」

 だからこそ、若くして副院長にまでなったのだが。

 ただ、当初、任ではないと固辞をしたため、前院長の泣き落としという、翼にとって最大の弱みを突かれた形に持ち込まれた結果ではあるが。


「それにしても、渉も罪作りだな」

 眠る渉の点滴を確認し、首に触れて体温を確認しながら、斎藤が呟くように言った。

「何かありましたか?」

「この前、高3の子が落ち込んでたんだ。猛烈にアピールしたのに、渉が顔も名前も覚えてくれてないってな」

 そりゃ残念だったな、と、形ばかりの慰めはしてやったのだが、相手が悪かったとは言わないでおいた。

「あー、渉にその手のアプローチは…」

「まったく通じない…だろ?」

 顔を見合わせて、苦笑が漏れる。
 そう、渉は自分の意識が向いていない方向に関しては、清々しいほど無反応だ。


「まあ、見たところ、渉の大物振りも相当だと思うな。奈月もかなりだったが、もしかしてその上を行くんじゃないか?」

「先生、さすがですね」

「まあな。こうやって毎年毎年個性豊かな生徒が次々とやってきてくれるおかげで、退屈知らずの教員生活だ。しかもこうして教師として戻ってきてくれるヤツも多いからな」

 祐介の肩をポンッと叩いて嬉しそうに笑ったが、ふと押し黙り『不思議なもんだな』と呟いた。

「先生?」

 何のことだろうかと、祐介が訝しめば、小さく息をついて、斎藤は渉を見つめた。

「いや、守と麻生の子供たちが、ここでまた出会ったのが、不思議な縁だと思ってな」

 あの一件は、子供たちの傷はもちろん深かったが、教師たちにも大きな傷を残した。

 大人の都合に巻き込まれただけの、大切な『子供』を守り切ってやれなかった悔しさは、麻生隆也に関わったことのある教師全員の共通の痛みでもあった。

 斎藤の言葉に、祐介は黙って頷いた。

「ま、あれがあの若さで代議士センセイになったのはもっと驚きだがな」

「それ、言えてます」

 同級生と会えば、必ずその話がでる。
 まさか隆也が政治の世界に身を置くとは思いもよらなかったから。

 葵によると、前職の県議からして本人の意志ではなかったようなのだが。


「あの時のな…」

 ふいに斎藤が声を潜めた。

「ほら、当時の麻生理事が横領した額を、院長がチャラにしたろ?」

「はい」

 ずさんな監査で横領を見抜けなかった理事会の不手際を院長が糾弾して、返還を求めないことになったのだ。

 麻生家にはもう何も残されていなかったから。

「あれ、すでに麻生が弁済してるのは知ってるよな?」
「はい」

 直也が入学する時に見た、部外秘の書類に記載されていた記憶がある。

「あの金額を麻生が弁済したの、大学4年間のことらしい」

「…え」

 初めて聞いた話だった。

「あいつ、学生結婚してるだろ。 嫁さんと2人して、大学へ行きながら子育てして働いて、卒業時には全額返したって話だ。そもそもあの時の法的整理で、麻生本人に返済義務はなくなってたのにな」

「…知りませんでした。社会人になってからのことだと思っていたので」

「ああ、俺だって、直也が入学した後から知った話だからな」

 ということは、ほんのここ数年で知り得た情報だと言うことだ。

「中学の頃には甘えたで、すぐ癇癪起こしてた我が儘坊やだったんだが、本当に綺麗な大人になってくれたなあって、嬉しかったさ」

 斎藤の言葉の端からにじみ出る、『子供たち』を思う気持ちに、祐介は改めて、この職についた喜びと責任を強く胸の内に抱いた。 



                    ☆★☆



 夕方。
 部活を終えてすぐ、祐介は渉の元へ向かった。

 そろそろ目が醒めているはずだ。

 静かにドアをスライドさせると、掛け布団から大きな瞳だけが覗いていた。

 顔が半分隠れていると、やはり昇にも似ていて、遺伝というのはつくづく不思議だと思う。


「起きたか。気分はどうだ?」

「…ごめんなさい…」

「ん? 何がだ?」

「心配、かけて…」

 思っていたとおりの落ち込み振りに、渉の頭をわざと乱暴にかき混ぜて、笑ってみせる。

「渉は気にしすぎだな」

 無意識のように、ほんの小さく首を振って否定を示すのが可哀相で、今度はその髪を出来るだけ優しく梳いてやる。

「ゆうちゃん…僕…」

「どうした?」

 きっと頭の中では色々な考えを巡らせているのだろう。
 それも、ネガティブな方向に。

 しかもそれを口にすることが出来ない質が、渉を更に追い詰める。


「…辛かったな、渉。あと少しの辛抱らしいから、な」

 詳細は聞いていない。
 だから『らしい』としか言えないが、和真があそこまでいうのなら正しいのだろうと判断して、口にした。

 少しでも早く、ほんのわずかでもいいから、楽にしてやりたいから。

 渉は不思議そうな顔をして祐介を見つめている。


「なあ、渉。僕も含めてみんな、渉のことが大好きだ。どうしてだかわかるか?」

 慌てて首を振る渉の反応は、同じ年頃だった当時の恋人のそれに似ていて、ふと既視感に囚われた。

 愛されていることに自信が持てず、不安定に揺れていたあの頃。

 思い返してみれば、渉と似ているところは多い。
 渉も彰久も素直で…。


「お前は素直で優しい。それがどんなに大切なことなのか、お前自身が気づいてないだけなんだ。大人になるにつれて、素直で優しいばかりではいられなくなってくるかも知れないけれど、でも、できる限り、渉は渉らしく、今のまま、素直で優しくあって欲しいんだ。それが、みんなの慰めになるんだから」

 自分がずっと、彰久の素直で優しい心に慰め続けられているように。

「…ゆうちゃん…」

「それと、もし恋をする日が来たら」

 渉が目を見開いた。

「相手の言葉を、深く心に留めて信じること。迷ったら、必ず言葉に出して、確かめること。心から出た言葉は、必ず通じるから 諦めずに伝える努力をすること」

 渉の瞳が潤みはじめる。

「わかった?」
「うん」

 真っ直ぐに目を見て頷く渉に、祐介は自分の言葉が正しく渉に伝わったことを感じ、17歳になってなお、柔らかな心根を持ち続けている甥っ子を愛おしく思う。


「僕、迷ってばっかりだった。自分のことも、そうでないことも…」

 可愛らしく告白する渉の涙を拭いながら、小さく笑って見せる。

「僕だって、渉の歳の頃には散々悩んだり迷ったりしたよ」

 そう、もうこれ以上辛いことはないと思いつめたりするほどには、必死でもがいていた。

「ゆうちゃん…が?」

「そりゃそうさ。もう二度と恋なんて出来ないって思うくらいの失恋をしたのは高1の時だったし」

「う、そ…」

「嘘じゃないって」

「ゆうちゃんを振る人なんて、いるのっ?」

 その言葉を『振ったヤツ』と同じ顔に言われるのは、なんだか可笑しい。

「いたんだよ、それが」

「…信じられない…」

「だろ?」 

 ただ、あの経験が自分にとって大きな糧となったことは間違いない。

 葵への想いが、それまでの自分になかった様々な感情を呼び起こしてくれた。
 あれがなければ、多分今の自分はない。


「ゆうちゃん、あーちゃんのことは?」

「ああ、だから、あきのことは随分遠回りになったよ。僕は、ちょっと臆病にもなってたからな。けれど、あきが辛抱強くいてくれたことと、僕を振ったヤツが一肌脱いでくれたおかげでなんとかなったな」

 誰よりも愛しい存在をこの腕に抱くことが出来たのも、葵のおかげだ。

 今はそれぞれの道を歩いていて会うことも多くはないが、時間や回数なんかに縛られない絆を感じている。
 お互いに。そう、言葉なんかなくてもわかり合えるくらいに。


「…そうだったんだ」

「元気、でたか?」

「うん。ありがとう、ゆうちゃん」

「どういたしまして」

 葵に生き写しの渉。
 だがその中身は驚くほどに違う。

 人見知りで引っ込み思案の渉と、快活で物怖じしない葵。

 おそらく渉は、それを負担に感じた時もあっただろう。
 中身も葵のようであればよかったのに…と。

 だが、まだまだ無垢で幼い渉には、自分の魅力は理解できないのだろう。
 もしかすると、永遠に自覚しないままかもしれない。 

 けれどそれで良いと思っている。
 大切なのは、渉が渉らしくあること…だから。


「消灯点呼が終わったら、帰ろうな」
「うん」

 今回のことは、直也と桂が渉に向けたであろう『恋愛感情』に起因していたはずだ。

 子供たちが自分たちで解決の方向を見定めたのなら、それ以上望むことはない。

 どうなったのかを聞き出すつもりもない。
 見ていればわかることだから。

 ――だが、お前はどっちに恋をしたんだ…?

 愛しい甥っ子の想い人が誰なのか。
 
 気にならないはずはなく、やっぱり親バカならぬ、叔父バカだな…と、心の中だけで小さく笑った。


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