第4幕 「星月夜」

【1】


 


 僕がここへ来て、1年ちょっと経った。

 色々あったけど、どうにか落ち着いて、今年は何事もなく穏便に過ごしたいなあ…なんて、控えめな目標を持ってる。

 僕は、東京生まれで6歳になる直前まで育っているから、根っから日本人には違いないんだけど、でも、10年もドイツに住んでたわりには、たった1年ですっかり日本の生活に慣れちゃって、とりあえず言葉だけは忘れないようにと、時々桂にドイツ語で相手してもらってる。

 僕の学校は第一言語が英語だったんだけど、桂はウィーン生まれでドイツ語の学校に通ってて、ドイツ語力は圧倒的に桂の方が上だから。

 そうそう、去年から少しずつ、桂と2人で直也と和真にドイツ語を教えてるんだけど、2人とも上達が早くてびっくり。

 特に和真は、卒業後にアニーの元へ行く可能性アリだから、かなり力が入ってるみたいで。

 直也はドイツ語に限らず語学全般に興味があるみたいなんだけど、未だに直也の夢は聞けていない。

 なんかいつも聞きそびれてしまって。



 そういえば、去年の僕が戸惑っていたことを、英も経験してて、なんだかおもしろい。

 例えば、値札。

 金銭感覚が『ユーロ』だったもんだから、『円』を見てもわけわかんなくて、しばらくは物の価値をちゃんと把握できなくて困った。

 100円って書いてあっても、ユーロに換算しないとわからないんだ。

『100円っていくらだっけ?』って聞いて、『100円は100円だよ』って和真に笑われちゃったりして。

 ただ、英はなんでも僕より早くこなすから、もう『円』と『ユーロ』でごちゃごちゃになることもなくなってきたみたい。

 当然ここに馴染むの早くて、まるで中学からいるような存在感だって、沢渡くんが言ってた。

 ま、英って、なにかにつけて、えらそーだし。

 でも、管弦楽部だけでなく、クラスメイトとも仲良くやってるみたいで、やっぱり僕が心配するまでもなかったなあって思ってる。


 直也と桂とのことも、特にあれこれ口を挟んでこない。
 てっきりもっとうるさいかと思ってただけに、意外な感じ。

 でも、相変わらず一緒にいる時間は長くて、さりげなく直也と桂を監視してるような気がしないでもない。

 和真は、『スーパーブラコンがここまで譲ってるんだから、大したもんじゃないの?』なんて言ってるけど。


 それから、去年みたいに体調を崩すこともなく黄金週間強化合宿を終えて、去年は見学してた球技大会にも一応参加して、ちょっとは体力ついたかなあ…なんて思ってる。

 でも、まだまだダメなんだ。

 指揮者は体力勝負。
 楽器演奏の比じゃないくらい体力を使うから、ちょっとやそっとでへばってられない。

 少しずつでも、もっと体力つけないと…。


                    ☆★☆


 球技大会の夜、僕は直也と桂から、散歩に行こうって誘われた。

 4月の終わり頃に2人が僕を受け止めてくれたあの日以降、去年のように…ううん、去年以上に僕に優しい2人だけど、こんな風に夜の散歩に誘われたのは初めて。

 和真は『ま、密室よりいいか』なんて言ったんだけど、どういう意味だろ。

 どうでもいい話から、真面目な話まで、コロコロと変わる話題をわいわいと話しながら、僕たちがたどり着いたのは、去年、僕が闇雲に走ってたどり着いた小さな岩場。

 みんなの前で『ゆうちゃん』って呼んでしまったあの一件はいまだにネタにされてるんだけど、とりあえず英の耳には入ってないみたいでホッとしてる。

 それにしても、直也も桂も、よくこの場所覚えてたなあ。
 僕、全然道覚えてないし。

 で、僕を挟んで両側に直也と桂が座るのはいつものこと。
 だいたい、右が桂で左が直也。


「気持ちいいね」

 流れてくる風が乾いていて、サラサラと髪の間を流れていく。

「渉、疲れてない?」

 直也が風に乱れた前髪を直しながら聞いてくれる。

「うん、大丈夫」
「今日、がんばったもんな」

 桂は肩をもんでくれちゃったり。

「あれは、想定外だったよ…」
「なにが?」
「和真と僕だったら、絶対1回戦で負けるから、その後は楽できると思ってたのに、なんかみんな手加減してくれちゃって…」

 ほんと、みんなして何考えてるんだか。

「でもさ、カワイコちゃんが2人してちまちま頑張ってる姿がツボだって、ギャラリー凄かったじゃん」

 ちまちまって…。なにそれ、失礼なんだから。

「そういう2人こそ、最後までがんばったじゃない。サッカーだろうって聞いてたのに卓球だったからちょっとびっくりしたけど」

 そう言うと、2人はまあね…なんて言葉を濁したんだけど。

 ふと目が合った桂が、優しく微笑んだ。

「渉、キスしていい?」
「えっ」
「ぷっ」

 隣で直也が吹き出した。

「あ、ごめん」

 思わず謝っちゃった…。

「もちろん、渉が嫌でなければ…なんだけど」

 桂の言葉は穏やかで柔らかいけれど、僕の肩に触れた手は、なんだか凄く熱い。

 急に恥ずかしくなって、思わず直也を見てしまったら、直也も柔らかく微笑んでいて、僕は目の遣り場をなくす。

 直也は、いいのかな…。
 桂が先、でも。

 この前みたいにじゃんけんでもした……って、あ、もしかして。

「ね、今日の卓球、桂が勝ったよね」

 言うと、桂がにまっと笑う。

「ふふっ、渉にしては鋭いじゃん」

 って、失礼なことを言うのは直也。

「いい、の?」
「もちろん」

 直也は僕の問いの意味を正しく受け取ってくれたようで、ほんとうに何でもないように笑ってくれて…。

 だからって、恥ずかしいのがなくなるわけではなくて。

「で、渉の返事は?」

 桂は相変わらずニコニコしてるけど。

 多分、色々と我慢させてるんだろうなあ…って、申し訳なくなってきた。
 ただでさえ、僕の我が儘を受け入れてくれたのに。


「えっと、うん」

 ううっ、なんか気のない返事になっちゃった。
 でも桂は満開の笑顔になった。

「ありがと、渉」

 そんな、ありがとなんて…とか、どうしたらいいんだろ…とか、頭の中がごちゃごちゃになり始めたんだけど…。

「目、閉じて」

 耳元で言われたら、なんだか呪文を唱えられたみたいに、僕の目は勝手に閉じる。

 温かい息がふわりとかかって、すぐに柔らかい感触がくちびるに、触れた。

 勝手にビクッと動いた肩が、キュッと抱きしめられて、僕は少しだけ力を抜くことができて…。

 温かい感触は、少しだけ、押しつけられて、少しだけ、動いて、そっと離れていく。

『ちゅっ』なんて、どうしようもなく恥ずかしい音を残して。

「渉…かわいい…」

 心臓が喉から飛び出して来そうなくらいバクバクしてるのに、そんなに甘い声で囁かないで欲しい。

 恥ずかしくって、目が開けられない……って、余韻に浸るまもなく、グイッと反対側に抱き寄せられた。

 びっくりして目を開けた僕のすぐ側に、直也の少し真剣な瞳が。

「じゃ、今度は僕の番」

 でも、すぐにふふっ、と笑いを漏らして、長い腕で僕をやんわりと囲い込む。

 やっぱり緊張しないわけがなくて、ちょっと引き結んでしまったくちびるを、直也がそっとつついた。

「渉…すこ〜し口開けて。ほら、笛吹く時みたいに」

 なんで?…と思ったけど、

「そう、そのまま力抜いててね」

 桂と同じように、そっと触れてきたそれは、でも桂よりずっときつく押し当てられて…。

 えっ…?
 し、舌、舐めてるっ?

 慌てて引っ込めようとしたんだけれど、キュッと吸われて、僕はもうどうしようもなくて、抱きしめられたまま身動きすら…。

 なんか…食べられてるみたいで……頭、真っ白に…。

 息も苦しくて、もうダメ…って思った時、『ペシッ』って音が上から聞こえた。

「こらっ、直也。いい加減にしろって。渉が目回してるじゃん」
「あは、ごめん、吹っ飛んだ」
「渉、大丈夫か?」

 背中を撫でられて、僕の喉から出たのは、『…ほへ』…なんて間抜けな息。

「び…びっくり…した」

 こんなキスがあるってことくらい、知ってはいるけれど、まさか自分が体験するとは思わなくて、どんな顔していいのかわからない。

「ほんと、ごめんな。でも、すっごい幸せ」

 そんな風に言われると、凄く恥ずかしくて、凄く嬉しい。

 でも僕はまだ、戸惑いの方が多くて、手放しで幸せって言っていいのかわからない。

 一方的に、与えてもらうばかりだから。
 凄く嬉しいけれど、そればかりじゃダメだと思うから。 




「星が出てきた」

 日はとっくに落ちていたけど、黄昏時を越えて、辺りは闇の方が多くなってきた。

 道を見失わないように、裏山のあちらこちらに外灯はたくさんあるけれど、この辺りの灯りは腰から下くらいの位置に設置されているから、見上げれば目に灯りは入らない。

「都内にしては、多いよな、星の数」
「うん」

 空気が乾いている所為か、空が高い気がする。

「ずっと、3人で同じ空を見ていたいな」
「大人になっても…その先…も」

 静かな声だけれど、直也も桂も、『そうありたい』と強く願っているのがにじみ出ている。

 だから、僕も心の中で願う。

 2人の手を、ずっと離さないでいられますように…と。
 そのための努力は惜しまないから、ずっと側にいさせて…と。

「直也、桂…」

 相変わらず気の利いた言葉なんて、ひとことも出てこない僕だけれど、せめて、これだけは伝えたい。

「ありがと…嬉しい…」

 返事は強くて熱い抱擁だった。


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