終幕 「桜咲く頃」

【最終回】

そして、桜再び。





 本当に卒業式の日がやってきてしまった。

 入学した時とよく似た、遠くまで高い青空の下には、たくさんの父兄や関係者が集まり始めていて、写真を撮る人の姿があちらこちらにある。

 式は午前中で、昼は父兄と先生を交えての謝恩会があるから、その後、グランマが和真のご両親をうちへ招いて、和真の部屋なんかを見てもらうみたい。

 謝恩会後の3時頃からは、部活やクラス単位の送別会がびっしり。
忙しい1日になりそう。 

 桂のところはなんと栗山先生が来られてて、昨夜は僕のうちに泊まって、葵ちゃんや悟くんとも久しぶりにゆっくり話が出来そう…なんて聞いてる。

 僕も会うのは本当に久しぶりで、特に桂とここで再会してからは初めてだから、どんな顔して会ったら良いんだろう…なんて考えちゃったり。

 直也は中等部の頃に2回あってるそうで、緊張もしてない。

 その直也のところは、お母さんが来られるんだけど、僕は初めて会うから、かなり緊張してる。

 葵ちゃんからどんな人なのかは聞いていて、不安ではないんだけど、別の意味で…というか、僕自身の気持ちとして、緊張してるんだ。

 そう、大切な人の、お母さん…だから。

 ちゃんと挨拶しなきゃとか、思うことは一杯あるんだけど、相変わらず『そういう場面』ですんなり言葉の出てこない僕だから、そう言う意味ではすごく不安。

 多分、直也と桂はフォローしてくれるとは思うんだけど、それに頼ってるようじゃダメダメだし…。

 なんてグルグル考え込んでたら、和真がポンッと背中を叩いて笑ってくれて、僕は知らず知らずに詰めていた息を、漸く吐いた。





 講堂は、全校生徒と父兄と先生方やその他諸々でぎっしり埋め尽くされている。

 静かに進行して行く式の半ばで、卒業生全員がひとりずつ卒業証書を受け取り、直人先生の式辞、来賓祝辞、生徒会長の送辞と続いた後、翼ちゃんが僕を見て、ニコッと笑った。

「答辞。卒業生総代、桐生渉」
「はい」

 3年前と同じシチュエーション。
 でも、僕の気持ちは随分違う。

 何もかもに迷い、行き場を失って逃げるようにやってきたこの場所が、こんなにも大切な場所になった。

 相変わらず、こんな場面で堂々と振る舞うなんてことは全然出来ない僕だけど、でも、精一杯自分の言葉で、3年間の感謝の思いを言葉にする。

 僕がここで受け取った色々なことが、どれだけ大きくて、どれだけ大切なものか、言葉には尽くせないんだけれど、でも、少しでも伝わって欲しいと願いを込めて。


 直人先生が、僕の言葉に小さく頷いて、微笑んでくれた。

 途端に僕の目には熱いものが溢れてきて、『卒業生代表、桐生渉』…って言った最後がちょっとだけ、鼻声になっちゃった…。

 その途端に、講堂のあちらこちらからかなり盛大に泣き声が発生して、おかげでびっくりした僕の涙は引っ込んだけど。



                    ☆★☆



「いやー、ビビったな〜」
「それ、僕の台詞だろ〜」

 最後の夜…とは言っても、4月からの新生活でも同じ家に暮らすのだから、『ここを離れる』という以外にはさほどの『特別感』を感じるでもなく、直也と桂はベッドに並んで腰を掛け、昼間の出来事を反芻していた。

 もうすぐ渉が来るはずだ。

 渉と和真も新生活でも同居なのだから、あちらも恐らく『最後の夜』という感傷は少ない方だろう。

 と言うよりも、渉がこちらの部屋へ来た後は、当然英がやってくるはずで、彼らの方が『最後の夜』という思いが深いだろう。
 ただしそれも、1年限りのことだし、長期休暇中は一緒にいられる時間もあるはずで。


「まさかあんな展開になるとはなぁ…」

 直也が言う『あんな展開』…とは、桂にとってもあまりにも予想外の出来事だった。

 謝恩会の会場で、渉と初めて対面した直也の母が、満面の笑みで渉を抱きしめて言ったのだ。

『直也のこと、末永くよろしくね』…と。

 渉が硬直したのは言うまでもなく、側にいた和真まで目を見開いたまま固まる有様で。

 そんな渉を、直也の母…茉美は、『いや〜ん、ほんとに葵様そっくりで可愛いわ〜』と、離そうともせずにいて、その様子をみて香奈子がコロコロと笑っているという、NKコンビ的には『これっていったい何なのよ?』という事態が展開されてしまったのだ。

『葵様を抱きしめるのは倫理的に問題アリになっちゃうけど、渉くんならOKよね〜』…なんてオプションまでついていて、桂の父も香奈子の隣で苦笑していたくらいだ。

 小学生の娘…茉奈を育てながら現役司法書士として事務所を切り盛りし、さらにてんこ盛りの『議員夫人としての雑用』も精力的にこなす直也の母は、いつも明るく元気印であるには違いないのだが、まさか初対面の渉に真正面から全力で突撃してくるとは夢にも思わなかったのだ。

 直也も、桂も。


「えっとさ…まさかと思うけどさ、お前、親にカミングアウトなんて、してないよな?」

「…や、カミングアウトじゃないんだけどさ、合格発表の次の日に、父さんが院長先生のとこに挨拶に来てたじゃん。その時の帰り際にちょっと…それとない感じのことは言った」

 直也の告白に、桂が目を瞠った。

「マジでっ?! それとなくって、何て言ったんだよ?」

 詰め寄る桂に、直也はひとつ深呼吸をした。

「別に、渉がどうとか言ったわけじゃないんだ。ただ、『僕は結婚しないから、孫は諦めて』…って言っただけなんだけどさ」

 それはまた、変化球のように見えて実はモロに直球だな…と、桂は半ば呆れながらも更に聞く。

「親父さん、何て?」
「『そうか』って、一言だけ」

 特に表情を変えることもなく、いつもの様子そのままだったから、果たして正しく受け取ってもらえたのかどうか不安になるほどだったのだが、『この気持ち』が父親に伝わらないはずはないと直也は確信しているから、そこから先への言葉はわざわざ続けなかった。

「……それって、やっぱりお見通しとか言うヤツ…じゃね?」

「…まあ、確かにそんな気がしないでもないけど…」

「でもさ、親父さんならありかも知れないけど、それ、母上に伝わってる…ってことないよな?」

「いや、そこんとこはさすがにわかんない。父さんが何か言ったかも知れないし、言ってないかも知れないし…ってか、普通言わないよな?」

「…だよな……」

「でも、今日の母さんの言動はあやしい感じだったよなぁ」

「めっちゃな」


『これからもよろしくね』とは言うだろうけれど、『末永く』はあまりにも意味深で、含むものが多すぎる。

「ってか、桂、お前はまさかカミングアウトとかしてないよな?」

 栗山家と桐生家は関係が深すぎて、それはいくらなんでも拙いだろうと、直也は思っているのだが。

「…や、俺が言う前に、母さんからチラッと言われた」
「ええっ?」

 よりによって母上から御言葉があったとは。

「な、何て言われたんだよ」

「『渉くん泣かせたら承知せえへんよ。これからもしっかり守って行きや?』って…」

 桂の本来の日本語――ネイティブ京都弁で再現すれば、直也の腰がわずかに引けた。

「…お前さ、それってもしかして、バレバレってヤツじゃねえの?」
「…かな? やっぱり…」

 2人して考え込むことしばし。

「な、和真と英のことって、少なくとも香奈子先生にはバレてる可能性大だよなって思ってたけどさ…」

「俺たちのことはバレるはずない…って確信してた…よな」

「でもさ、葵さんにバレてたじゃん」

「あ、でもあの時葵さん言ってたぞ。『わかってるの僕だけだし』って」

「あ、そうか」

 そうだったよなっ…と、ちょっとホッとして、『大丈夫に違いない』と自身に言い聞かせた…のだが。

「…でもさ、あれって、『どっちも恋人』ってことに気がついてるのが…じゃなかったっけ?」

 つまり『どちらかが恋人』と言うことについてではなかったはずだと思い出してしまい、いや〜な空気が漂う中を、直也と桂は顔を見合わせた。

「…ま、百歩譲ってそれぞれの関係がそれぞれの親に何となく知れたとしてもさ…」

「いくらなんでも、僕も桂も渉に…って話にはならないよな」

「ああ、そりゃないだろうって」

「でもさ、うちの母さんと桂のお母さんって、ツーカーじゃん?」

「…そこだ…」

 綻びができるとすれば、そこだろう。

 そうなった時のことを考えると気が重くはなるけれど、そんなことで怯んではいられない。

「ま、バレたところで俺たちの仲には影響ないけどさ」
「そういうことだな。僕たちは何があっても渉を護り抜くってことだ」

 そして、2人とも口にはしなかったが、同じ決意を抱いている。

『絶対に、渉を辛い目にはあわせない』…と。

「…ってかさ、よもや…とは思うけど、お前のお母さん、『あのこと』知ってる…ってこと、ない…よな?」

 桂が言う『あのこと』…を、直也は正しく受け取って、ほんの少し考えてから、緩く首を振った。

「…いや、さすがにそれはないだろ。…でも…」
「でも?」
「生んでもらえたことに、感謝してる」

 命が芽生えた時、直也の両親はまだ二十歳で、周囲の反対もあったと聞いている。

 けれど、直也は生まれ、ここへ来た。

「…だな。でなけりゃ、俺たち3人、出会えてなかってもんな」

 生まれてきたからこそ、出会い、恋し、泣いて、愛せたから。

 そしてこの『生』が、『あのこと』――父親たちが乗り越えた悲しみの先にあることを、直也も桂も知っているから。


「あ、そろそろ渉、迎えに行かね?」

「よっしゃ、今夜は寝かさないからな〜」

「ってか、いっつも寝かせてねえじゃん」

「…そう思うと、渉って結構体力あるってか?」

「和真が言ってたからな。ケダモノ2人の相手はさぞかし大変だろうに、渉ってば頑張ってるし〜…なんてさ」

 この時和真が『ケダモノ2匹…あ、ゴメン、2人』と、わざとらしく言い直したのは聞かぬ振りで流したが、アレはアレで、和真なりの 『無理させるんじゃないよ』…と言う 『忠告』だったのだろうと思っている。


 渉と自由に行き来のできる『最後の夜』。

 しばらくは離れて暮らさなくてはいけないけれど、『その先』に向かってやらなくてはいけないことは多く、ぼんやりしている暇はない。

 護られてきた『子供の時代』を卒業して、まだ半人前だけれど、明日からは自分自身の足でしっかりと歩いて行きたいと、2人は願う。

 いつの日も、この手を離さずに。



                     ☆★☆



 退寮の時がやってきた。

 今日ここを出れば、僕たちはもう二度と寮内へは入れない。

 そう思うとやっぱり名残惜しくて、すっかり片付いてなにもない部屋の中ををゆっくりと見回してしまう。


「最後だね」

 和真が静かに言った。

「うん、そうだね」

 僕も静かに答える。

「自分が卒業する時のことって、あんまり考えたことなかったんだけどさ、こんなにセンチメンタルな気分になるなんて、思ってもいなかったな」

 そっと机を撫でて、小さく和真が笑う。

「色んな事、あったね」

 部屋の空気まで記憶しておきたいような気がして、僕は少し、深く息をする。

「ほんと、盛りだくさんだったよ。渉に会えて、英に会えて…そうそう、アニーにも会えた」


『僕の未来を変えた3年間』

 昨日、卒業式の後に和真はそう言った。

 でも、それは僕も全く同じ。

 もしここへ来ていなかったら、僕は今頃どうなっていたんだろう……なんて、怖くて考えられないくらいで。

「大学の4年間も、盛りだくさんかな?」

 和真が笑う。

「きっと、そうかも」

 僕も笑う。

 少し広くなる世界ではきっと、もっと色んな事が起こり、色んな人に出会って、また、泣いたり笑ったり…時には怒ったりすることもあるのかも知れない。

 でも、そんな毎日が、『僕』を作っていくのだと、僕はここでの3年間で学んだ。

 そして、明日からも、僕は『それ』を積み上げていくのだろう。
 きっといくつになっても、生きている限りは。


「行こうか、渉」
「うん、行こう、和真」

 僕たちは、静かにドアを閉じた。



                   ☆ .。.:*・゜



 昨日卒業して、一応すでにOBってことになっている僕たちの、退寮の服装は自由だ。

 それはずっと昔からそうだったって話で、ゆうちゃんと葵ちゃんは普段の制服で退寮したって言ってた。

 葵ちゃんがこっそり教えてくれたところによると、ゆうちゃんはあーちゃんに制服のブレザーを着せかけていったとか。

 それで、当時の在校生の間では、2人の仲は、半ば公認になったらしい。

 ただ、当時のゆうちゃんには親衛隊がいて、あーちゃんには『守る会』があったそうで、双方のメンバーは、『あれは一番可愛いがってた後輩に対する親愛だ』って、『2人の仲』を認めなかったらしいけど。

 あ、好きな子にブレザーを着せかけていくって言うのは、今でも続く退寮時の風習的行事みたいなもので、始めたのは悟くんだって話なんだけど、本当かな?

 今度聞いてみよう。

 ちなみに父さんは管弦楽部の制服で、昇くんは『オズの魔法使い』の『ミニスカドロシー』だったとか…。

 しかも、それをリクエストしたのはグランマだって言うから、さらにびっくりで。

 そんなわけで、今日の退寮も、美術部とか写真部とか、その他研究会を中心に趣向を凝らした格好が結構ありそうなんだけど、管弦楽部はやっぱりステージ用の制服が多いみたい。

 直也と桂もそうみたいだし。

 で、和真と僕は普段の制服。

 話し合ったわけではなくて、僕はただ何となく『いつもの服装』で…と思っただけなんだ。

 ただ、普段の制服ってことは、もしかして和真、英にブレザー着せる気だろうか…って思ったんだけど、『んなはずないじゃん。僕と英、3サイズ違うんだよ? 羽織ることも不可能で、頭に被るくらいしか出来ないじゃん』って笑って否定されちゃった。

 で。

 何故か和真と僕に『聖陵祭のフリフリピンクロリータで退寮して欲しい』っていう、有り得ないリクエストが殺到したらしいんだけど、当然すべて、和真が踏み潰してまわったって話で。

 そうそう。
 なんでかわかんないんだけど、あの時の写真を母さんと奏が持ってるらしいんだ。

 っとに、どこから漏れたんだろ…。
 犯人の心当たりが多過ぎて、もう追求する気にもならないけど…。



                    ☆★☆



 寮から正門へと続く道は、見送りの在校生たちで溢れていた。

 同級生たちはみんなそれぞれに、部活や委員会で一緒だった後輩と、別れを惜しんでいる。

 そんな中でも、当然というか何というか、直也と桂と和真には、とんでもない数の後輩たちが押し寄せてきて、なかなか前へ進めない感じ。

 そして、僕にもたくさんの後輩たちが声を掛けてくれて、嬉しいのと寂しいのとで、どんな顔していいのかわからなくなってしまう。

「渉先輩!」
「岡崎くん!」

 1年間でいっそう男らしくなった岡崎くんは、すでに管弦楽部にはなくてはならない存在になっていて、次に僕がここへ来るときにはきっと、コンマスに違いないと思うんだ。

「大学へ行かれても、身体に気をつけて、頑張って下さいね」
「うん、ありがとう。岡崎くんも頑張って」

 見上げると、晴れやかな笑顔で僕に決意を語ってくれた。

「はい。2年後にはまた、絶対渉先輩の後輩になりますから」
「ほんとに? 嬉しいな。待ってるから」
「がんばりますっ」

 隣にいる結城くんも、『俺も追いかけますから』って言ってくれて、寂しい気持ちが少し楽になる。

 そして、僕の隣では直也と桂が、英と言葉を交わしている。

「英、あと、頼むな」
「期待してるぞ」
「任せて下さい。先輩たちの代より、管弦楽部はもっとパワーアップしますから、お楽しみに」

 不敵に笑う英に、『言うようになったよなあ』と、直也と桂は呆れ顔を作りながらも頼もしげで。

「英、和真がいなくて寂しいと思うけど、がんばれ」

 そう言うと、英は真顔でとんでもないことを言った。

「もちろん。1年頑張って『やりたい放題』のご褒美もらうんだ」
「…は?」

 間で和真が『こんなとこで何言ってんだよっ』って暴れてる。

 その和真は、ここに至ってまだ告白されちゃってて、『大学まで追いかけてきたら、その時にもう一度聞いてやる』なんて言ってんだけど、そんなこと言って大丈夫かな?

 告白してきた相手はなんと現生徒会長で、多分直也と同じ大学を狙ってるはずだから、和真的にはそれも見越して言ってるんだろうけど。

 そうそう、英が面白くない顔してたのが笑えた。

 もしかしたら、文化部長会議なんかで、生徒会長に対する英の腹黒い復讐とか、ありそうな気がする…。

 ま、いずれにしても、和真と英は来週にはうちで再会できるんだから、いいじゃん…なんて思うわけで。




 そして、僕たちの『ゴール』である正門の近くには、多くの先生たちの姿があった。

 直人先生を始め、お世話になった先生ひとりひとりに感謝を伝えて、僕はまたやっぱり寂しくなる。

「渉…よくがんばったな」

 ゆうちゃんが、僕の頭を撫でてくれた。

「ゆうちゃん、本当にたくさんのこと、ありがとう」

 もうOBなんだからいいよね…って、ひとりで納得して僕は『浅井先生』とは呼ばなかった。

 そんな僕の気持ちを汲んでくれたような笑顔でゆうちゃんはそっと、僕を抱きしめてくれて。

「僕の方こそ、ありがとう。渉と過ごした3年間は宝物だよ」

「僕も…」

 大好きなゆうちゃんと同じ場所で過ごした3年間は、思い出で溢れかえってるよ。

「ま、渉も指導OBだからな。期待してるから、せっせと通ってこいよ」

「うん、毎日来ちゃうかも」

「こら、いつ大学行く気だ?」

 ゆうちゃんの言葉に、周りのみんなが笑う。


 そんな笑顔と、たくさんの声に送られて、僕たちは聖域の門を出て行く。

 ありがとう。僕の学校、僕の友達。そして先生たち。

 僕はここでの3年間をずっと、宝物のように胸に抱いて生きていく。

 そして、この世に命がある限り、僕はずっと音を紡ぎ続ける。

 直也、桂。
 どこまでも一緒に歩いていこう。

 しっかりと結んだこの心で、ずっと愛を奏でながら。


「ありがとう!」

 僕たちは、振り返って大きく手を振った。





そして、桜再び。

 

 正門へと続く桜並木。

 入学式・始業式を明日に控えて今日、1125人の生徒全員が入寮する。
 満開の桜の下、どことなく儚げな後ろ姿で、ただひとり、私服の少年がいた。

 佇んで、桜を見上げる姿はそのまま、ふと、淡い春色に吸い込まれていきそうだった。

 制服の採寸に来ていなかった彼は、ワールドツアーを終えて今朝帰国したばかりのはずだ。


 いつまでもうっとりと見上げているその様子に、いったい何が見えるのだろうかと、その隣に立ってみる。

 見上げた先には、桜、桜、さくら…。

 そして、彼が微笑んだ。
 蕾が綻んだような笑顔。

 桜の精が降りてきたのかと思った。


「ようこそ聖陵学院へ。桐生斐くん」


 聖陵学院で、また新しい物語が始まる。


君の愛を奏でて3
END

そして、ついにこの日がやってきた。

『おまけSS〜和真くんの嫁入り』
仕組まれた嫁入り完結編(違うっ!by和真)


 退寮したその日、一旦ご両親と実家へ帰った和真は、10日後に改めて、今度は翼ちゃんに連れられて僕のうちにやって来た。

 これから少なくとも4年間をここで暮らすために。

 少し前に英も修学旅行から戻っていたから、翼ちゃんに色んな事を報告したり、翼ちゃんから和真と過ごした6年間の裏話を聞かせてもらったり、僕たちが入学してからの思い出話なんかに花を咲かせて、半日ほど楽しい時間を過ごして、翼ちゃんは夕方に帰省して行った。

 グランマは、泊まって下さいって誘ってたんだけど、翼ちゃんは『迎えが来るので』って言って、帰り際には携帯に着信があって、密かに嬉しそうな顔したから、多分あれ、古田先生からだと思うな。

 一緒に帰るみたいって、和真も言ってたから。

 僕は、翼ちゃんと古田先生が一緒にいるところを見たことがないので、2人の関係はほんとに想像に難くて不思議な感じなんだけど、驚いたことに、葵ちゃんがこの事実を知ってて、しかも在校当時から知ってたって話で更にびっくり。

 ちょうど、古田先生が翼ちゃんに猛アタックしてた頃、側にいたから…ってことらしいけど。

 …ってことは、ゆうちゃんも知ってるってこと…だよね?

 あ、ちなみにこの前まで『安藤くん』って呼んでた葵ちゃんたちだけど、桐生家に来るんだからって、『和真くん』って呼ぶことになったみたい。

 もうすっかり『桐生家の人』扱いで、僕も英も嬉しいんだけど、和真にバレた時がコワいなあ…って、ちょっとブルー。

 まあ、英になんとかしてもらおうっと。 
 


 晩御飯の前に、僕と英で和真を部屋に案内した。

 ついこの前まで葵ちゃんが使ってた広い東南の角部屋は、南側の大きなバルコニーのおかげで、まだ浅い春の西日でも十分に明るいくらい。


「え…ここ?」
「そ、ここが今日から和真の部屋だよ」

 開け放したドアの向こうには、新しい主を迎える用意がすっかり整った空間が広がっている。

 でも、肝心の主は、ちっとも入ろうとしない。

「和真?」

 英が肩をそっと抱いて、顔を覗き込む。

「…こんないい部屋もらっちゃ…」

 ぽつんとそう言ったきり、珍しく言葉を無くした様子の和真に、後ろの方にそっとついて来てたグランマが満足そうに微笑んでいる。

「葵がずっと使ってた部屋なんだけど、全面リフォームしたんだ」

 入り口で佇んだままの和真の背を押して、英が中へと勧める。

「え? 葵さんの部屋?! それダメじゃん!」

 慌てた様子で振り返る和真に、僕は説明した。
 葵ちゃんは葵ちゃんで、新しい部屋を作ったんだって。

 もしかしたら、いずれ葵ちゃんと悟くんの話をする日がくるかもしれないけれど、それはもう葵ちゃん次第ってことで。

「なんか…こんなにしてもらっちゃって…」

 ほんと、どうしよう…なんて、珍しく頼りなげに呟く和真の様子に、僕と英は顔を見合わせて『ふふっ』と小さく笑う。

 和真がこの部屋を気に入ってくれたら、僕たちも葵ちゃんも、凄く嬉しい。

 英は隣の部屋がゲットできなくてむくれてるけど。

 っていうか、今晩から入寮する日まで、もしかして毎晩入り浸り?
 うーん、悔しいから乱入しちゃおうかなあ。

 なんてぐるぐる考えつつも、僕は、ベランダから庭を見下ろして楽しげに話している和真と英の後ろ姿に幸せを感じちゃったりしていて。

 振り返れば、グランマが僕を手招きした。

 もしかして、2人きりに…ってこと?

 僕はそっと、部屋を後にした。



                     ☆★☆



「和真坊ちゃま、お疲れでしょう? 今日はお好きなものをたくさんご用意しましたからね。たくさん召し上がって下さいね」

 佳代子さんの得意料理――得意でない料理は聞いたことないけど――がたくさん並んだダイニング。

 なんと、第一声が『問題発言』だった。

 思わず顔を見合わせる僕と英なんだけど…。

「あの…佳代子さん?」
「はい、なんでしょう?」
「今、なんて…」

 聞き返す和真に、佳代子さんがにっこり微笑んだ。

 さすが和真。気がついちゃったよ。一発で。

「お好きなものをたくさんご用意しましたよ?」
「あ、あの、ありがとうございます」
「お口に合うと良いのですが」

 ううん。お口に合わないはずがないって。

 何度かここに来てる和真だけど、いつも『ご飯もおやつも本当に美味しいよねえ』って言ってくれてるから。

 案の定和真は、『いつも本当に美味しくいただいてますっ』って、力説してるんだけど、ハタと言葉を切って、プルプルと首を振った。

「や、そうではなくて、その前…なんですけど」
「あら、私なにか申し上げましたか?」

 首を傾げる佳代子さんと、すでに首を傾げている状態の和真から見えないところで、僕と英はさらに視線を絡ませていて…。

「あの、僕のこと、今、何て…?」
「和真坊ちゃまのこと、ですか?」

 来た、だめ押し。

「そ、それっ、それです!」
「はい?」

 佳代子さんは、確信犯なのか違うのか、まったくわかってない風で、またしても首を傾げてる。

 や、僕は確信犯だと思うな。

 葵ちゃんは、『佳代子さんは絶対お母さんに鍛えられたに違いない!』って力説してたけど、ほんと、そう思う。


「ええと、僕は『坊ちゃま』ではないんですけど…」

 あー、まあ和真的にはそうだよねえ。
 でも桐生家的にはすっかり 『坊ちゃま』なんだけど。

 で、やっぱり佳代子さんは、にっこり笑って言い切った。

「あら、御当家でお預かりした大事な坊ちゃまですもの。 渉坊ちゃまや英坊ちゃま、奏嬢ちゃまとご一緒ですのよ、和真坊ちゃまは」


 …よかった〜。
 ここで『英坊ちゃまのお嫁さま』とか言われたら、初日から大変な事になってたよ〜。

 だって直人先生のことは、『昇さまの旦那様』だもんね。佳代子さんってば。

 珍しく和真は往生際悪く、佳代子さんに絡んでるんだけど、ま、勝てっこないって。この件についてはね。



 で。

 やっぱり英は初日から和真の部屋に入り浸り…だった。

 いいんだ。僕だって明後日、直也と桂と遊びに行くんだから。ふ〜んだ。



                    ☆ .。.:*・゜  



 そしてその事件は、うららかな春の日差しの中、おやつの時間に起こった。

 柔らかい日差しが降り注ぐ明るいリビングで、他愛もない話で盛り上がっていた渉と和真と英だったが、まず英に電話がかかった。

 管弦楽部の誰か…らしく、英は打ち合わせのようなことを始めながら、リビングを出て行った。

 そしてその直後に、渉にも電話が入った。
 相手はどうやら桂か直也のどちらかで。

 2人がスマホを片手にいなくなった後、和真は花々に彩られた庭を眺めてひとつ大きく伸びをする。

 こんなにのんびりとして、穏やかな気持ちの春休みは初めてだ。

 至れり尽くせりの毎日に、親友と恋人が側にいて、こんなに幸せでいいんだろうかと、少し怖くなるくらいで。



 リビングのドアが開いた。

 英か渉かと思って振り返った和真の目に入ったのは香奈子の姿だった。

「あ、香奈子先生、お帰りなさい」

 臨時の教授会に出かけていた香奈子の帰りに、和真は立ち上がって駆け寄る。

 そんな和真の様子に幸せそうな笑顔を向けて、香奈子は言った。

「あらやだ、和真くんってば。グランマって呼んでほしいわ」

 にっこり。

 ここへ来てからずっとそう言われているが、なかなかそう簡単にいくはずもなく、和真は少し、頭を抱えているのだ。


 ――そうだ…。

 いい案が浮かんだ。

「でも、香奈子先生。それでしたら僕のことも『和真』って呼び捨てにしていただかないと」

 渉や英と同じように呼ばれたら、それはもう、こちらとしても覚悟の決め時かと思った。

 …のだが。

「あらあら、それはダメよ。だって、わたちゃんたちのお母さんもお嫁に来て18年経つけれど、私は一度も呼び捨てにしたことないわよ? 今もずっと『さやちゃん』って呼んでるもの」

 にっこり微笑んで、『当たり前』のようにそう言われてあやうく納得しそうになったが、いや待て。何かが変だ。

「…あの、香奈子先生…?」

「グ・ラ・ン・マ」

 にっこり。

 この威圧感に満ちた華やかな微笑みはいったい…。

「…あ、ええと…」

 さしもの2代目大魔王和真様も言葉を無くして立ち尽くす。
 いや、この場ではまだまだ、所詮10代のひよっこだ。

 そして、その『薔薇園のゴッドマザー』の背後では、佳代子が綺麗に盛りつけられたプリンを3つ、盆に乗せたままニコニコと出番を待っている。


「…和真。グランマって呼ぶまできっと、プリン食べられないから、呼んで?」

 いつの間に背後に戻っていたのか、親友がまさかの裏切り行為に走ったっ。

 プリンに目を眩ませたに違いない。
 今日のプリンはイチゴのようで、淡く美味しそうなピンク色をしている。

 そのプリンを背に立つ、これでもかというくらい笑顔の香奈子。
 そして背後から急かす渉。

 ぐずぐずしていれば英も戻って来るだろう。そうなると話は一層ややこしくなりそうな気がする。

 進退窮まるとはこのことか。


「えと…グランマ

「きゃ〜、もうっ、和真くんってば可愛いわ〜!」

 むぎゅ〜っと、抱きしめられた。

「わ〜い、佳代子さん、プリン〜!」

 無二の親友は、友情よりプリンを選んだ!

「…なんかあったのか?」

 戻ってきた英が、少し歪んだ場の雰囲気に首を傾げている。

「や、何でもないし」

 慌てて否定する様子もこれでもかと言うくらい怪しいが、渉に『英も早くおいで』と急かされて、英は釈然としないながらも席に着く。

 そして和真もやっぱり釈然としていない。

 この際、腹を括って『グランマ』と呼ぶことにしたとしても、アレは一体何だったのか。

 そう。
 渉たちの母が嫁に来て云々…のくだりだ。

「和真〜、プリン美味しいよ〜」

 幸せそうに『早く早く』と手招きする裏切り者の親友に、和真は深く追求する事を放棄して、取りあえずイチゴプリンに専念することにした。



おしまい。
☆ .。.:*・゜

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