第4章「恋人たち」





1.逢瀬の時


「早くしろ、鈴瑠!」

 今日も竜翔がやって来た。
 秀空も嘶きを上げ、鈴瑠を呼ぶ。

 そんな騒がしい門前に向かって、鈴瑠が声を返す。

「お待ち下さい、竜翔様!」
 その後に、『もうっ』と続け、ぷうっと頬を膨らませる。

 花山寺の門前ではどこに人の目があるかわからない。
 だから、一応は『竜翔様』と呼ぶのだが、その態度がどうみても釣り合っていないことに、鈴瑠は気付いているのか。


 竜翔はいつも、執務が終わったとたんに、秀空を駆って、花山寺を訪れる。

 鈴瑠はたった今、夕べの祈りを終えたばかりだ。
 見習い僧が着る萌葱色の僧服から、普段着に着替える間もない。

 竜翔はちゃんと、夕べの祈りを済ませてきたのだろうか。
 一度、問いただしてみよう、と考えつつ、上着に袖を通しながら部屋を後にする。

「お待たせいたしましたっ」

 その声は半ば、やけくそ気味である。

 しかし応える竜翔はお構いなしのようだ。

「遅いぞ、鈴瑠」

 言うや否や、竜翔は鈴瑠を、馬上の自分の前に引っ張り上げる。

「しっかり掴まっていろ!」

 目指すはいつもと同じ、静泉溜の森。

「相変わらず軽いな、鈴瑠は」

 駈けながら、竜翔が言う。
 鈴瑠はしがみつくだけで精一杯だ。

 振り落とされまいと、胸にしがみつく鈴瑠が愛おしくて、さらに竜翔は速度を上げる。

 どれだけ駈けただろうか、やがて泉に着いた。
 しかし、それは森の名にもなっている、静泉溜ではない。

 もっと奥に湧く、誰も来ない、二人だけの場所。
 名もない小さな泉。

 竜翔は先に降りると、鈴瑠に手を差し伸べ、その軽い体をゆっくりと降ろす。

「もうっ、竜翔ってば…」

 しがみついていただけなのだが、鈴瑠の息は少し荒い。

 そして竜翔の表情は、人前では決して聞くことの出来ない、鈴瑠が甘やかに『竜翔』と呼ぶ声を耳にするだけで、この上もなく柔らかになるのだ。



「鈴瑠…」

 竜翔の声が、耳元で聞こえる。

 鈴瑠の後頭部に回った竜翔の手から、黒髪がサラサラと流れ落ちる。

 創雲郷とその周囲の里の人間は、概して栗色や赤褐色の髪の者が多い。

 竜翔や泊双など、本宮の人間は、都の血を引いている者が多いので、栗色より濃い茶色の髪が主だ。

 いずれにしても、鈴瑠のような濡れたように黒い髪の者はほとんどいない。

 瞳の色も同じだ。

 竜翔はいつも、この目で見つめられると、己の内に沸き上がる甘い疼きを自覚する。

 そして、耐える。



「竜翔…」

 目を閉じると降ってくる、いつもの温もり。
 納まりきっていない息は、それだけでまた、呆気なく上がってしまう。

 もう、何度も経験した感覚なのに、まだ、慣れない。



 初めて唇が触れたのは、もう、二年も前のこと。

 籠雲に伴われ、数日置きに本宮を訪れるようになってから、三年ほどたったときのことだった。

 十八歳になろうとする竜翔の、婚儀の日が迫っていた。

 その時の竜翔の様子は、今でも鈴瑠の記憶にはっきりと焼き付いている。

 まだ、『竜翔さま』と呼んでいた、あの頃…。






2.初恋


「竜翔さま…?」

 背後から遠慮がちにかかった声に、竜翔はハッとしたように、肩を震わせた。

 声の主は、今、竜翔の心をもっとも占める……。

「鈴瑠…」

 夕べの祈りが終わった頃か、創雲郷のあちこちから、香の気配に代わり、今度は夕餉の支度の煙が上がる。


 本宮の執務の間。広いテラスから郷を見おろすことが、今、竜翔の心を一番癒す行為になっている。

 見おろす視線の先は、いつも、花山寺。

 鈴瑠がやってきたのは実に十三日ぶりのことだ。

 初めて出会った日から三年。
 会わない日といえば、長くても中二日だったのだが、珍しく鈴瑠が風邪を引き、竜翔にうつしてはいけないと言う配慮から、長く辞していたのだ。

「調子は…もういいのか?」

 鈴瑠の姿を認めたとたん、竜翔は愛おしそうに眼を細める。

「長く逢えなくて、寂しかったぞ」

 その声は力無く、語尾には影が落ちる。

 鈴瑠は僅かに眉をひそめた。
 普段の竜翔、鈴瑠のよく知る竜翔なら、こんな弱気なことを言うはずがない。

「竜翔さま…本当に、元気がない…」

 いいながら、不安そうに鈴瑠が歩を進めてくる。

 十三歳になった鈴瑠は、初めてあった頃に比べるとずいぶん大きくなった。

 しかし、やはり小柄で華奢な造りであることには違いなく、十日の後に十八歳を迎える竜翔に並び立つと、相変わらず、大人と子供といった風情のままだ。

「鈴瑠…」

 竜翔はもう一度名を呼ぶと、鈴瑠をその腕に抱き上げようとした。

 だが、鈴瑠はクスッと笑って、抗う。

「ダメです。僕はもう大きくなったんですから、抱っこなん…」

 言い終わる前に、抱き上げられていた。

「竜翔さま!」

 驚く鈴瑠に、竜翔はまた寂し気に微笑みを漏らす。

「すまないが、今だけ静かにしていてくれないか」

 そう言うと、軽々と抱き上げたまま、豪奢な布張りのイスに深く腰を下ろした。

 膝の上には、鈴瑠。

 その鈴瑠は、竜翔の見せる、あまりに精気のない顔に不安を募らせる。

 眠っていないのだろうか…。

 しかし、疲れている様子とは裏腹に、鈴瑠を抱き留める腕には力がこもる。

(籠雲さまのおっしゃったとおりだ…)

 ここしばらくの竜翔の様子を案じた泊双が、籠雲を呼び、そして今日、全快した鈴瑠が薬草を運んできた。

 薬草は今頃、泊双の指示で煎じられているはずだ。

 膝の上の鈴瑠の首筋に顔を埋めたまま、竜翔は顔をあげようとしない。

 時折り吐かれる熱い息が、鈴瑠の首を掠めていく。

 まるで発熱しているかのような、熱い息。
 しかし、頬に当たる竜翔の額からは発熱は感じられない。

 その事に、ほんの僅か安堵するが、それでも鈴瑠は、ただならぬ竜翔の様子に心を痛めていた。




 まもなく十八歳になる竜翔。

 その生誕祭の日に、都から天子の姫を后に迎えることになっている。

 今、もっとも輝いているべきはずの、竜翔のこの様子は、いったいどうしたことなのか。

 鈴瑠はそっと手を挙げた。

 竜翔の頬に、ほんの少し、触れてみる。
 触れただけでは、心の内などわかろうはずもないが、それでも触れずにいられなかった。

 しかし、その僅かな感触に、竜翔が動揺を見せた。

 その動揺に驚いて、慌てて鈴瑠が手を離す。

 …が、その手は竜翔に捕らわれてしまった。


「………っ」


 ぶつかった視線に、鈴瑠が息を呑む。

 まるで、手負いの動物のように、追いつめられた瞳。
 しかも、その輝きは暗く、鈍い。


「竜翔さ…」

 思わず名を呼んだが、最後の一文字は、消えていた。

 確かに鈴瑠は発声したのだが、それは、竜翔の胸の奥深くに吸い込まれていった。

 唇が触れている。
 それも、深く。

 鈴瑠が大気を吸い込む隙間は、何処にもない。

 抗う気配のない鈴瑠に、竜翔はさらに深く口づけて、その身体をきつく拘束する。

 鈴瑠は事態を把握できぬまま、本能的に身体を固くするばかり。

 抗わないのではなく、抗うことを忘れているのだ。

 それほど竜翔の行動は、鈴瑠の理解を越えていた。



 ややあって、竜翔の手が鈴瑠の脇腹を滑った。
 その動作に、初めて鈴瑠の思考が動き始める。

 手は、そのまま鈴瑠の上着の裾から忍び込んできた。 

 その刹那、耳元で、鈴が転がったような音が鳴る。

 同時に鈴瑠の身体が大きく震え、突如沸き上がった渾身の力で竜翔の身体を押し戻す。


「りゅ…う…」


 もう、肺に息が残っておらず、鈴瑠は竜翔の名さえ満足に呼べない。

 瞳に溜まる涙は、肉体的な苦しさによるものなのか、それとも、竜翔から与えられた突然の仕打ちによるものなのか、荒く息を継ぐ鈴瑠には、すでに判断がつかない。


「婚儀など…なくなってしまえば…いい」

 息をつく間に、再び激しく拘束された鈴瑠の耳に、信じられない言葉が届いた。

(え…?)

 そして、鈴瑠がその言葉をもう一度反芻しようとするより早く、竜翔が再び言葉を吐いた。

「鈴瑠…お前が…」


『パタン』
 僅かな音を立てて、扉が開いた。

 この扉を、主の応答なく開けることが許されているのは、籠雲、鈴瑠、そして泊双の三人だけ。

 しかし、籠雲は、いかなる時でも必ず応答を待つ。泊双もまた然り…だが。

 扉の外から呼びかけられたことに、主が気づかなかったのか。


「竜翔さま…」

 僅かに困惑の色を乗せた、しかし、重厚な泊双の声が主を呼んだ。

 鈴瑠は、弾かれたように竜翔の膝から飛び降りる。
 そして、上着の裾の乱れを認め、顔がカッと火照るのを覚えた。

 近寄ってくる泊双の顔が見られない。
 落とした視線の先に、泊双の足先が見えた。

(叱られる…!)

 そう感じて身を固くした鈴瑠の頭上に降ってきたのは、思いもかけず柔らかい声色だった。

「鈴瑠…」

 大きな手のひらが鈴瑠の頭を包む。
 思わず顔をあげた鈴瑠に、泊双は微笑んだ。

「竜翔様に、薬湯を…」

 手にした椀を鈴瑠の手のひらに載せる。
 すでに飲みやすい温度にまで下げてある。

「鈴瑠が自ら調合して参ったのであろう?」

 泊双の微笑みは偽りではないようだ。
 頷くと、鈴瑠は両手で椀を、竜翔の前に捧げだした。

「…ありがとう、鈴瑠…」

 力無く呟くと、竜翔は椀を取り、ゆっくりと飲み下した。量はさほど入っていない。
 きれいに空になった椀を、泊双が竜翔の手から取った。

「竜翔様、ただいま都より使者が参りまして…」

 その言葉に、鈴瑠はハッと顔をあげた。
 大切な話が始まるのだ。子供の自分がいて良い場面ではない。

 籠雲に育てられた鈴瑠には、こういう躾けは十分に行き届いていた。

 黙って膝を折り、その場を辞そうとするが…。

「鈴瑠…かまわぬ。ここにいなさい」

 言ったのは、竜翔ではなく、泊双。

 鈴瑠は驚きを隠しきれない。

 普段の泊双はとても優しいが、教育係として、また本宮の片腕として厳しい人であることには変わりがない。

 竜翔も少し驚いたようである。
 泊双の顔をジッと見上げている。



「芙蓉姫様…ご病気の知らせにございます」

 竜翔が音を立てて椅子から立ち上がる。

 鈴瑠は思わず声を上げそうになった口を、その小さな両の掌で覆い隠した。

 芙蓉姫…この国を統べる、天子の姫。

 竜翔よりも1つ年上で、竜翔の母が、天子の妹であるために、従姉に当たる。

 そして、まもなく執り行われる婚儀のもう一人の主役。


「すぐお命に関わるほどではなくとも、御容態は思わしくないとのことです」

 泊双の言葉は、意外なほどに、事務的に紡がれていく。

「婚儀…は?」

 竜翔の震える声に、鈴瑠は思わず涙を溜める。

 突然もたらされた、許嫁の凶報に竜翔が動揺したと取ったのだ。

 しかし、その直後、先刻の竜翔の言葉が蘇る。


『婚儀など、なくなってしまえばいい…』


「ご婚儀は延期。…無期限です」

 落胆の色が全くない泊双の物言いに、鈴瑠は状況を判断する作業をやめてしまいつつあった。

(どうして…?)

 泊双は、竜翔と芙蓉姫の婚儀に反対だったのだろうか?
 そして、何より…竜翔は…婚儀を嫌がっていたのだろうか?

 何故?

 芙蓉姫は心優しい、美しい姫と聞く。
 しかも、二人の婚儀は遙か昔からの取り決め。

 もう一度、竜翔の顔を見ようと鈴瑠が顔を向けたとき、竜翔は力強く鈴瑠の頭を一撫ですると、くるりと踵を返した。

「夕べの祈りに参る!」

 弾んだ声でそう告げると、祭壇へ通じる大きな扉を開け放ち、軽い足取りで行ってしまった。






3.泊双


「竜翔…様…」

 呆然と見送る鈴瑠の傍らに、泊双が片膝をついた。

 やはり大きな泊双と、小柄な鈴瑠。
 立ち尽くす鈴瑠は、下になった泊双の目線に気づく。

 竜翔の教育係、そして本宮の片腕。
 竜翔とはまた違った美しさを持つが、その落ち着いた容貌は、年齢よりも少し上に見られることが多い。

 しかし、竜翔より十歳上の、まだ二十八歳。

 竜翔がその生涯を終えるまで側に仕えると、十歳の頃…、そう、竜翔が生まれたときに創雲寺にて誓約をした。
 一つ年上の籠雲とはその時以来の心許し合える仲だ。
 
 大きな手のひらが、鈴瑠の細い肩にそっと掛かる。

「鈴瑠…お前は竜翔様が好きか?」

 相変わらず優しい物言いだ。
 鈴瑠は迷わずに頷く。

「はい」
「どのように好きか、わかるか?」

 鈴瑠はその問いに、僅かに眉を寄せる。

「どのように…?」

 呟いたまま答えを返せなくなった鈴瑠に、泊双はさらに声をかける。

「先ほど、鈴瑠は竜翔様の膝の上にあった。その時の竜翔様は好きか?」

 言われて、頬がカッと上気する。

 そうだった。芙蓉姫の知らせですっかり失念していたが、つい先刻、鈴瑠は竜翔の膝に抱かれて、口づけされていたのだ。

「あ…あの時の竜翔さまは…」

 言い淀む鈴瑠に、泊双は笑みを絶やさず、辛抱強く次の言葉を待つ。

「すこ…し、怖かった…です」

 言ってしまって俯く鈴瑠。

「ああいった竜翔様は嫌いか?」

 泊双の口からでた言葉に、鈴瑠は小さく身体を震わせた。

 顔をあげて、首を横に振る。何度も。
 嫌いではない。嫌いなはずがないのだ。

 泊双が小さく笑ったような気がした。

「鈴瑠、また明日おいで」

 そう言って、立ち上がる。

 鈴瑠は、竜翔が開け放したままの扉に目をやった。
 竜翔の様子が気になる。

「大丈夫だ。竜翔様はお元気になられる。明日からまた、しっかりお相手をするのだぞ」

 確信を持って告げられた泊双の言葉を、鈴瑠は素直に信じた。

「そろそろ日が暮れる。気をつけて帰るのだぞ」




 鈴瑠が辞したあと、泊双はらしくもなく、大きく一つ嘆息した。

 竜翔がふさぎ込む理由はわかっていた。

 初めてあった日から、若き統治者の心は鈴瑠に釘付けにされている。

 鈴瑠しか心にない。

 竜翔らしいといえばそれまでだ。

 后を迎えてもなお、鈴瑠を側に置くことは叶う。
 そう言った意味では、むしろ鈴瑠が女性でなくてありがたいくらいだ。

 しかし、自分の教育の賜といって良いのか、竜翔は一度に複数の人間を愛せるようには育たなかった。

 竜翔が欲しているのは、鈴瑠ただ一人。

 芙蓉姫には申し訳ないが、今しばらくは時間稼ぎになった。

(仕方があるまい…)

 今、一番先にせねばならないこと。
 それは、竜翔に釘を刺しておくことだろう。

 鈴瑠が、この郷において大人と見なされる十五歳に達するまで、あと二年。

 いくら、郷の最高権力者とは言え、大人になっていない者に手を出すことは絶対に許されない。 

 それだけはきつく言っておかねば…。

 そう思い、竜翔が祭壇から戻るのを待つ。
 ふと、夕闇の迫るテラスに目がいった。

 見おろす先に、花山寺。

 泊双は先ほどよりさらに大きく、心底憂鬱そうに嘆息する。

(籠雲に…なんと言えばよいのだ…)






4.幼い約束


 鈴瑠が竜翔の背を叩く。
 息ができない。

 一日の、名残の日差しが木漏れ日となって、あたりを煌めかせる。

 名もない小さな泉のほとり。
 柔らかい草の上で、鈴瑠の身体は竜翔によって押さえつけられている。

 二十歳と十四歳。
 体格の差は相変わらず歴然で、鈴瑠は小柄なままだ。



「あと三日だな」

 漸く唇を離し、竜翔が嬉しそうに言う。 

 そう、あと三日。
 鈴瑠が成年と見なされる十五歳になる日まで。

 その日から、鈴瑠は花山寺を出て、本宮へ移ることになっている。

 正式に竜翔に仕えるためだ。 

「どれだけ待ったか…。鈴瑠」

 震える吐息をついて、首筋に顔を埋める。
 鈴瑠の身体がカッと火照る。

 その体温の上昇を敏感に感じ取り、竜翔の行動が大胆になる。

 上着の紐が解かれ、鎖骨のあたりから肌が露わになり始め…、そこへ唇を落としたとき…。


『りん…』


 小さく涼やかな鈴の音が聞こえた。

 これで幾度目か。

 竜翔の行為が禁忌の領域に踏み込みかけると、必ず聞こえる鈴の音。

「鈴瑠は、浄き生き物なのだったな」

 クスクス笑いながら、竜翔が鈴瑠の上着を整える。

 しかし、我慢もあと三日。
 成年に達すれば、鈴の音も消えるだろうと、竜翔も、そして鈴瑠も考えていた。

 横たわる鈴瑠を助け起こし、膝の上に横抱きにする。

 腕の中にすっぽりと納まってしまう身体が愛しくてしようがない。

 堪らずにキュッと抱きしめた瞬間、鈴瑠が身を固くし、気配を殺す仕種を見せた。

 この数ヶ月、時折見られるようになった行動だ。

「鈴瑠…?」

 呼びかけられて、鈴瑠は不安そうな瞳を竜翔に向ける。

「また…か?」

 頬を寄せながら聞いてきた竜翔に、鈴瑠は僅かに頷く。

「ここのところ…強くなってきてる…」

 鈴瑠が感じる「気」。

 竜翔との出会いのきっかけとなった、あの時のような邪悪な気が、まとわりつくように、足元から這い登ってくる。 

 しかし、あの時の気配は獣の気配。だが、ここのところ澱んでいるのはそうではなく…。

 誰かが見てる…。
 人の気配…。

 小さく鈴瑠が震えた。
 その身体を、竜翔が愛おしげに抱きしめる。

「鈴瑠、案ずるな。私がお前を守ってやる」

 断言するが、竜翔の胸も不安に塞がれていた。

 ほんの数日前に、泊双から聞いた話が心の隅に刺さっていて…。







『鈴瑠の周辺警護…?』

『はい、鈴瑠も間もなく本宮へ入る身。その身には位が与えられます。まして、もっとも竜翔様のお側近くに上がる身で…』

 いつになく歯切れの悪い泊双の物言いに、竜翔が焦れる。

『どうした…? 何が言いたい』

 泊双は我ながら、まずい物言いだったと省みる。
 竜翔が洞察力に優れていることは十分にわかっているのに。

『…実は、籠雲から相談を受けておりまして』

『籠雲から…?』

 導き手である籠雲に、こちらが相談を持ちかけることはよくある。
 しかし、高僧である籠雲から相談とは…。

 よくない予感に、竜翔の表情が曇る。

『鈴瑠が…狙われているようなのです』
『何っ?』

 思いもかけない言葉に、竜翔が鋭い声を発する。

『どういうことだ、泊双』

 胸ぐらを掴まんばかりの勢いで迫る竜翔を、泊双は宥めるように制し、言葉を繋ぐ。

『数ヶ月前の事ですが…』





 数ヶ月前、籠雲と鈴瑠は、七日ほど麓の里へ下りた。
 麓に住む薬師たちに、新しい薬草の知識を伝えるためである。

 創雲郷で作られる薬草は、こうして麓の薬師たちによって国の全土へと広がっていくのだ。

 泊双によると、その折りに、鈴瑠に目を付けた一党がいるらしいという。

 夜盗や山賊の類とは少し違った、もっとたちの悪い者たち…。
 呪術を操り、人心を惑わせる集団は、信仰の中心『創雲郷』の対極にある。

 そのような者たちが、賢く美しい鈴瑠に目を付けた。
 まして鈴瑠はやがて本宮へ仕える身…。利用価値はいくらにでもある。
 



『泊双、鈴瑠のまわりを固めるように…』

 あと少し…、本宮へ入ってしまえばいつでも自分が傍にいる。

 それまでは何が何でも鈴瑠を守らなければならない。 







 邪悪の気配が去ったのか、鈴瑠は堅くしていた身を解き、ゆったりと竜翔にそのすべてを預けてくる。

「竜翔様、わたくしは、竜翔様のお助けする為に、本宮へ上がるのでございますよ」

 甘えるような仕種と裏腹に、鈴瑠はわざと、人前で竜翔に接するときのような態度をとる。

(守ってもらってちゃ、話にならないのに…)

 内心で苦笑いし、鈴瑠はその頭を竜翔の肩に乗せる。 

 竜翔に仕えるため…。

 鈴瑠はその事に大きな誇りを感じていた。

 大好きな竜翔。


 二年前、婚儀延期の知らせがもたらされた翌日に、『好きだ』と告げられ、よくわからないままに頷き返したが、あの日から、竜翔に対する気持ちは日に日に大きくなるばかり。

「そうだ、鈴瑠は私を助けるために、生涯私と共にあらねばならない」

 三日後、成年の式を終えれば、鈴瑠は僧籍に入らず、創雲寺にて本宮に仕える終世誓約を立てることになっている。

 二十年前に、泊双がしたのと同じように。

 竜翔は鈴瑠の頬をそっと撫で、もう一度優しく口づけた。




 一年前、籠雲に対し『鈴瑠を本宮に入れたい』と申し出たとき、籠雲はほんの一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに鈴瑠を呼び、その気持ちを確かめ、そして同意してくれた。

 その時からすでに、竜翔に結婚の意志はない。

 芙蓉姫の容態は一進一退のまま。
 都からは、なんとかしなければと焦る様子が伝わってくるが、芙蓉姫以外には本宮の后になれる器はいない。

 それならば『芙蓉姫の三人の弟のいずれかを、竜翔の跡継ぎとするのが良策』という声も上がり始めている。

 竜翔にとってはありがたい話だった。



「生涯共にあろう…鈴瑠」

 触れるか触れないかの唇で、竜翔が囁く。

 そして、唇の動きだけで『はい』と答える鈴瑠。

 三日後に、鈴瑠が述べるのは『終世お側にお仕えすると、ご誓約申し上げる』という言葉だ。

 今二人が交わした『生涯共にある』という言葉。
 それは、婚儀の時に交わされる誓約…。

 触れあった唇から、鈴瑠の『浄い気』が溢れ出て、竜翔の心を満たしていく。

 結びあう心と心。交わしあう魂の誓約。



『その日』は、三日後に迫っていた。






5.緋色の衣


 早朝から、花山寺は慌ただしく動き始めている。

 籠雲と共に、赤子の時から鈴瑠を育ててきた花山寺の僧たちにとっても特別な日。

 鈴瑠が門前で拾われた日から十五年。
 今日、鈴瑠は成年と認められる。

 この創雲郷で成年を迎える者はあまり多くはない。

 鈴瑠のように、赤子の頃から育てられた子か、もしくは十の歳に修行に入った子供であるか、そのいずれかである。

 創雲郷に僧の数は多いが、そのほとんどが、成年以降に自らの意志で郷に入った者であるから、子供の数は少ないのである。



「鈴瑠、支度はできたか?」

 鈴瑠の部屋に、その姿をみるのは今日が最後だ。
 籠雲は眩しそうに鈴瑠を見つめた。

 僅かに肩に触れる長さの漆黒の髪に、濡れたような黒曜石の瞳。

 すらりと伸びた四肢に纏う緋色の衣は、本宮に使える者たちのもの。

「籠雲様…」

 振り返った鈴瑠には、僅かに寂寥の色が伺える。

「どうした鈴瑠、そのような顔をして」

 しかし、問う籠雲もまた、同じ色を浮かべている。

 今日を限りに、ここを出て本宮へ入る鈴瑠。

 本宮と花山寺はそう離れてはいないし、これからも籠雲は、三日に一度は本宮を訪れるであろう。

 それでも、育ててきた大切な宝が手元を離れる寂しさは拭いきれない。

 本当に寂しいのは自分の方かもしれない、と籠雲は内心苦笑を漏らす。



「……今まで…ありがとうございました…。捨てられていた僕を…ここまで…」

 鈴瑠が言葉に詰まった。唇を噛みしめて何かを耐えている。

 大人になるのに、泣いてはいけない…。

 懸命に堪える鈴瑠に、籠雲がゆっくりと歩を進めてくる。


 鈴瑠は天からの預かり物。

 竜翔から『鈴瑠を本宮に入れたい』と申し出があったときには困惑も感じた。
 泊双共々、竜翔の瞳に尋常でない物を感じていたからだ。

 賢い鈴瑠は、確かに有能な右腕になるだろう。
 だが竜翔はそれ以上のことを鈴瑠に求めている。

 鈴瑠が天から遣わされた本当の意味がどこにあるのか、まだわからない今、それが果たして許されることなのか。

 ただ、本宮に仕えるためだけに、この地へ降りてきたとは考え難い。

 鈴瑠は何の為にここにいるのか。
 その意味を知るのはいつになるのだろうか。


 籠雲は様々に交錯する思いを胸に閉じこめて、その暖かく大きな手で鈴瑠の身体をゆっくりと抱きしめた。

「鈴瑠…大きくなったな。これからは、竜翔様のために、精一杯尽くすのだぞ」

 鈴瑠は頷くと、そのまま籠雲の胸に顔を埋めた。  





 鈴瑠の成年式は、花山寺にて静かに荘厳に執り行われた。
 そして、そのまま籠雲に伴われ、創雲寺へ向かう。

 そこで待つのは本宮・竜翔と大座主、そして多くの高僧と泊双をはじめとする本宮の高官たちである。
 




「りんりゅ…」

 小さく呼ぶ声がした。

 誓約の儀式の直前のこと。籠雲はすでに御堂へ入った。

 小部屋で迎えの僧を待つ鈴瑠は、声の主を求めて辺りを見回す。

 今の声には聞き覚えがあるが、まさかこの様な場所で聞くはずがない。

「鈴瑠…」

 音もたてずに、するりと忍び込んできたのは…。

「りゅうか…っ」
「しーっ」

 本宮の正装に身を包んだ竜翔の姿を見て、鈴瑠は驚きを通り越して呆れ顔になる。

「どうして…もう始まるよ…」

 竜翔は御堂の一番奥、内陣の御座にいなければならないはずだ。

「どうしても、鈴瑠に会いたくて…」

 今、このような無茶をしなくても、数時間後には、鈴瑠は本宮の側から離れてはいけない身となるのだ。 

「鈴瑠…可愛いな…」

 緋色の衣を纏う鈴瑠を、うっとりと眺める竜翔に、鈴瑠はちょっと憮然として言う。

「…けっこう格好いいなと思っていたのに…」

 髪も結い上げ、すっかり大人の気分を味わっていたのに、いきなり『可愛い』と言われて納得いかないといった表情を見せる。

「…竜翔こそ…」
「私がどうかしたか?」

 群青色の衣は、綺麗で精悍な竜翔をいっそう引き立てている。 

 本宮の正装とはいえ、あまり華美な物ではない。

 ここは信仰の地、祈りの郷。
『質素』は当たり前のことなのだ。 

 じっと見つめ、やがて恥ずかしそうに目を伏せた鈴瑠に、竜翔は意地悪く囁いた。

「見惚れたな…」

 鈴瑠は顔をあげないまま、小さな拳を軽く竜翔の腹に当てた。

 その仕草に堪らなくなり、竜翔が鈴瑠を抱きしめる。

「早く…儀式など終われば良いのに…」

 言い終わる頃、竜翔の唇が、鈴瑠の唇をそっと塞いだ。

 優しく重ね、慈しむようについばむ。

 愛おしくて仕方がないと言うように、何度も何度も。

 まるで…別れを惜しむかのように…、いつまでも。






6.邪心


「…ご誓約申し上げる」

 ふと、鈴瑠の胸を痛みが突き上げた。

 今まで感じた不安などよりも、もっとはっきりとした、もっと形のあるもの。
 何かが近くまで来ているような気がする。

 しかし鈴瑠は、胸を塞ぐものを無理矢理ねじ伏せて、内陣の御座に向けて深く拝礼する。


 これで創雲寺での儀式が終わった。
 つつがなく終わったと誰もが思った。

 都からも天子の兵が送られて、今日の警備はいつもに増して厳重だったのだ。

 御堂を安堵の空気が流れていく。
 あと残すは本宮での儀式のみ。

 しかし、鈴瑠の胸を塞ぐものは、取れてはくれなかった。







 深夜、本宮の最奥にあるもっとも大きな祭壇の前に鈴瑠はいた。

 たった一人で、祈りを捧げている。

 これが終われば、すべての儀式が終わり、鈴瑠は本宮の人間となる。

 昼間の緋色の衣に替わり、純白の衣を纏う鈴瑠は、そのまま羽ばたいて天へ上がっていきそうな気配さえ漂わせている。

 鈴瑠の祈りがふと途切れる。
 空気が動いたような気がしたのだ。

 同時に突き上げてくる、昼間のあの、不安…。

(まさか…ここは本宮…容易に侵入できるところじゃない…)

 鈴瑠の思考は、皮膚に感じる悪寒を必死で否定しようとする。 

 しかし、現実にそれは、近づいて来ている。

(竜翔…っ!)

 思わず心の中で名を呼んだとき、『それ』は実際に身体に触れた。


「大人しくしていれば、何もしない…」


 耳元で底冷えのする声が囁き、大きな腕が、華奢な鈴瑠の肩をがっちりと掴んだ。  

(い、や、だ…)

 硬直する鈴瑠を、片腕で楽に抱き上げる。

(いやだ…いやだ…)

 全身で拒絶しようとする鈴瑠の体温が上昇する。

「いやだっ、はなせっ」

 侵入者は暴れる鈴瑠などものともしない。
 だが…。

「静かにしろっ」

 ざらついた掌で口を封じられ、鈴瑠がもがく。

 祭壇の間を出ようとしたとき…。

「鈴瑠っ!!!」

 竜翔の声が届いた。

「ちっ…まずったか…」

 侵入者は辺りを見回すが、見張っていたはずの仲間の姿がない。

 もう一度舌打ちをすると、祭壇の間へ引き返す。

 本宮内部からの情報で、祭壇の裏に大きなテラスがあることは知っている。そこから裏の山脈へ抜けられるはずなのだ。

 侵入者は、よもやそこで退路が尽きるとは、思いもしない。

 祭壇の裏は確かに広大なテラス。
 その正面は確かに山肌。

 しかし、その手前には…目もくらむような断崖が口を開けているのだ…。

 そう、本宮は、正面さえ固めれば良いように、断崖を背に造られているのだった。

 しかし、それは奥の祭壇へ出入りできる限られた人間のみが知ることである。



「何者だっ! 鈴瑠を離せっ!」

 竜翔が太刀を振りかざす。 

 その切っ先に侵入者はジリジリとテラスへ追いつめられ…。

 そして、当てにしていたはずの退路がないことに気がついた瞬間、手にした刀を鈴瑠の喉に当てた。

 口を塞がれた鈴瑠の意識は、すでに朦朧とし始めているように見える。


「…鈴瑠…っ」

 動きを止めた竜翔に、侵入者はひんやりとした笑いを向け、口を開いた。

「こいつが可愛ければ、その大げさなものを捨ててもらおうか」

 手にした太刀を、竜翔がグッと握りしめる。

 あの刃が、鈴瑠の白い首に刺さりでもしたら…。

 しかし…。

「ふん、本宮ご執心の子供だって聞いてたが、そうでもなさそうだな」

 侵入者の笑いは酷薄さを増していく。 

 そして、刀が僅かに鈍い光を放ち、同時に鈴瑠の首にうっすらと赤い筋が入った。

「鈴瑠っ! ……やめろっ、鈴瑠から手を離せっ」

 声を上げた竜翔に、侵入者の言葉が被る。

「へぇ、命令できる立場だと思ってんのかよ。…ちょうどいいぜ、こいつをさらってくるついでに、できれば本宮も殺ってこいって言われてんだ…」


「そ…そんな話は聞いてないっ」

 突然竜翔の後ろで声が上がった。

 駆けつけた泊双の後ろで、つい最近本宮の表宮殿に仕えたばかりの若い執務官が叫んだのだ。

「その子をさらう手引きだけという話だったはずだ! 竜翔様に危険は及ばないと…っ」

「馬鹿か、お前」

 侵入者は呆れたように肩を竦める。

「さぁ、お遊びはおしまいだ。刀を捨ててもらおうか…本宮様…」

 竜翔の手から力が抜ける。

「いけませんっ、竜翔様っ」

 背後からかかった泊双の声に、ギリッと唇を噛んで、竜翔は刀を投げ捨てた。

「鈴瑠を…帰せ…」

 地の底を這うような竜翔の怒りの声に、侵入者は一瞬怯んだが、鈴瑠の首に当てた刀をさらに押しつけ、竜翔をテラスの手すりに追い込み始めた。

「飛び降りるか、斬り殺されるか…好きな方を選ばせてやる」

 侵入者が嬉しそうな笑みを見せたとき…。

「早くっ」

 泊双が警護の兵を招き入れた。

「くそっ…」

『これまで』と察したのか、鈴瑠の首筋を狙っていた刀が、今度は竜翔の首筋を狙った。  

「一人で死んでたまるかよっ」

 叫び声と共に、引いた刀が再び突かれたとき…。

「竜翔っ」

 ぐったりしていたはずの鈴瑠の身体が、波動を発して翻った。

 全身から放たれる浄い『気』が、残っているはずのない力で、刃が狙いを定めた竜翔を突き飛ばす。






「あ………」

 一瞬の静寂の後、鈴瑠が小さく声を上げた。

 そして、追いつめられていたテラスの端から、祭壇の間へ突き飛ばされた竜翔が、顔をあげて見たものは…。



「り…んりゅ…?」

 テラスの手すりに寄りかかった鈴瑠の小さな身体に、侵入者の巨大な身体が突き刺さるようにのしかかっていた。

 純白の衣に、真っ赤な筋が流れ落ちる。

 それは、次第に太く、赤く…。

 足元に広がっていく深紅の水鏡…。


 鈴瑠が押しつけられている手すりの向こうは、もう帰る術のないところ…。

 目も眩むほどの下方には、山からの清流を麓に運ぶ大河が流れ…。


「ごめ…ん…りゅう……か…」


 喘ぐように、鈴瑠が言った。

 巨大な暗殺者の身体は、自らの意志をなくしたように、さらに重く鈴瑠にのしかかる。


『ずるっ』

 不快な音と共に、小さな身体が宙に躍り出る。
 大きな体は、その場に崩れ落ちた。

「鈴瑠っ!!」

 とっさに竜翔が掴んだのは、鈴瑠の衣の裾。
 しかし…。


「鈴瑠――――――――――――――!!!」


 深い谷が、大きく口を開けて迎え入れる。

 深紅に染まった鈴瑠の身体と、喉が切れるような、竜翔の叫び声を…。





(ごめんなさい…竜翔…。ずっと傍にいると誓ったばかりなのに…)





 胸を刺し貫いた衝撃の後、すべての暖かいものが、裂けた体から外へ流れ出すのを感じる…。

『気』『血』『力』そして…この『想い』…。 



(りゅ…うか…、りゅ……う…)



「鈴瑠! 鈴瑠!!」

 竜翔は狂ったように鈴瑠の名を呼び続ける。

「いけませんっ、竜翔様!!」

 泊双を始め、多くの兵たちが竜翔の身体を抱き留める。
 そうでもしなければ、今にもテラスから身を躍らせそうなのだ。

「今すぐ麓へ兵をっ。下流を探すんだっ」

 命令を下したのは泊双。

 同時に暴れる竜翔の鳩尾に、やむを得ず拳を突き入れる。


 遠ざかる意識の中で、竜翔は繰り返し呟いていた。

(鈴瑠、すぐ助けてやる…死ぬな、絶対に死ぬんじゃない!)





 その頃、花山寺と創雲寺では、籠雲と大座主がそれぞれに、不思議な光の蹟を夜空に見出していた。

(鈴瑠…?)

 ふと、鈴瑠が呼んだような気がした。

(どこへ…行く…?)

 不吉な思いが現実だと知らされたのは、それから数刻の後だった。






 断崖を落ちたはずの鈴瑠の捜索は幾日も続けられた。 

 しかし、鈴瑠の姿は、もう、どこにもなかった。

 残されたのは、大量の血と、純白の衣の僅かな切れ端、そして…空へ伸びる真っ直ぐな光の蹟。



 数刻の後、目覚めた竜翔は焦点のあわない瞳のまま、血に染まった純白の小さな切れ端を、愛おしそうに抱きしめるばかり…。