第9章「もう一度逢うために」
1.若宮 「鈴瑠!」 筆頭末寺、花山寺の回廊に午後の風が吹き抜ける。 運ばれてくる薫りは薬草園からのもの。 そのかぐわしい薫りの中を、鈴瑠の姿を見つけるなり駆け寄ってきたのは、九歳の生誕祭を終えたばかりの若宮・翔凛。 「翔凛様、今日のお勉強は進みましたか?」 しがみついてくる翔凛の頭を優しく撫でながら、愛おしげに言う鈴瑠の外見は、相変わらずあの日…成年式…のままの十五歳。 しかし、二十五歳になっていようはずの、鈴瑠のあまりに変わらない風貌にも、郷の者たちはこれと言った抵抗を感じていない。 「今日はね、星の読み方、雲の読み方…それと、新しい薬草のことを教えてもらった!」 翔凛は、面差しこそ鈴瑠に似ているが、快活な質と健やかに成長していく肢体は父である本宮から譲り受けた血が濃いように思える。 「星の読み方は難しいでしょう?」 「うん。今日で七回目なのだけれど、まだまだ…。つい輝きの弱い星を見落としてしまうんだ…。こんな事では月夜の晩にはまったく星が読めなくなってしまう…」 ほぉ…っと一つ、ため息をつく翔凛の視線の先には、僅か後ろに控える若き僧、采雲(さいうん)。 視線を向けられた采雲は、穏やかに笑むだけ。 そんな翔凛の肩に優しく触れ、鈴瑠はいつもの笑顔でいう。 「慌ててはいけません。何度も何度も繰り返す…、それこそが『学問』のなですから」 それを見て、翔凛は沈ませていた表情をまた輝かせ、鈴瑠の腕に絡みつく。 「ね、鈴瑠、お願いがあるんだけど」 「なんでしょう? 翔凛様」 ゆったりとした足取りで回廊を行く。 「翔凛…って呼んで」 数歩、回廊に足音だけが響き、やがて止まる。 「どういうことでしょうか? 翔凛様」 驚いた表情を隠さない鈴瑠。 「私は本宮様、若宮様に仕える身でございますよ」 「でも!」 珍しく翔凛が食い下がった。 いつもならば、養育係である鈴瑠の言は絶対であるのに。 「鈴瑠は父上のことは『竜翔』って呼んでる」 翔凛の口をついて出た思いもかけない言葉に、鈴瑠はこれほどまでは…と言うほどに目を丸くした。 いったい、いつの間に聞かれていたのか。 『竜翔』と呼ぶのは二人きりの時だけ…のはずであったのに。 ふと、鈴瑠の視界に入った采雲は、俯いて肩を震わせている。 何のことはない、笑いを堪えているのだ。 その溢れる才と湛える徳で、籠雲の腹心となった、弱冠十七歳の僧、采雲。 何もかも知りすぎだ…と鈴瑠は内心でため息をつく。 「翔凛様…本宮様と私は、幼なじみです。子供の頃から一緒におりました故、二人きりの時には幼い頃からの呼び方になってしまうのです。おわかりですか?」 言い含められた翔凛は、これ見よがしに口を尖らせる。 「では、呼び方以外はすべて、僕と父上は同じ?」 諦めてくれたかと安堵の息をつき、鈴瑠はまた、にこやかに答える。 「もちろんですよ。本宮様も、若宮様も私がお仕えする大切な御方ですから」 「じゃあ」 翔凛が嬉しそうに声をあげる。 「鈴瑠、目を閉じて」 「目…でございますか?」 「そう。閉じて」 「何故?」 「いいから」 理や道に反しない限り、主である翔凛の命もまた、絶対だ。 鈴瑠は小さく首をかしげて目を閉じる。 『ちゅ』 唇に触れたのは、小さく柔らかい感触。 そんな些細なものに、完全に動きを封じられてしまった鈴瑠の後ろで、今度こそは采雲の笑い声が聞こえた。 恐る恐る、目を開ける鈴瑠。 目の前には幸せそうに微笑む翔凛。 「翔凛様…。いま、何を…?」 わかっているのだが、認めたくはない。 「いつも、鈴瑠と父上がしてるのを見て、羨ましいなと思っていたんだ」 采雲の笑いが一層高くなる。 「な…っ」 今や泊双と共に、本宮…ひいては創雲郷になくてはならない存在となった鈴瑠。 その鈴瑠の絶句する姿など、滅多に見られるものではない。 「鈴瑠、愛してる」 ごく自然に溢れでた言葉は、父宮にそっくりすぎて気持ちが悪いほど。 「翔凛様っ」 やっとの事で言葉を発した鈴瑠に、翔凛はこれもまた父宮譲りの快活な笑い声を向けた。 「僕、栄雲たちと遊んでくるっ」 そう言って一目散に薬草園へと駈けていった。 後に残ったのは、未だに続く采雲の笑い声。 「采雲っ、いつまで笑うつもりだっ」 「あっははははっ、す、すみません…鈴瑠さま…あはは」 息も絶えるほど笑うことはなかろうにと、鈴瑠が恨めしそうな瞳を向ける。 「…私は、籠雲様のところへ伺うが…」 その一言で、采雲はピタッと笑い声を止めた。 「今日はかなり調子が良いご様子でいらっしゃいます」 真剣になった眼差しには、理知の光。 「ん…。ではご挨拶してくるとしよう…。采雲、翔凛さまを頼む」 「はい」 鈴瑠は、心地よい風の抜ける回廊を一人進む。 薬草園から流れてくるのは、翔凛と、栄雲、光雲など十歳をわずかに過ぎたばかりの少年僧の笑い声。 籠雲の居室は、花山寺の一番奥に置かれている。 やがて到着した扉の前で、鈴瑠は少し息を整え、そして遠慮がちにノックをする。 「…鈴瑠…か?」 いつも必ず当てられてしまう。 同じ刻限に来るとは限らないと言うのに。 「はい」 返事をして扉を開けると、さあっと風が抜けていく。 「お加減はいかがですか?」 みると、籠雲は寝台の背に枕をあて、半身を起こして書を持っていた。 「籠雲様…。お体に触ります…」 鈴瑠が駆け寄ると、籠雲は片手をゆっくりと上げ、鈴瑠の動きを制した。 「いや…今日は気分がいい…。このままでいさせてくれ」 確かに、顔色は若干いい。 籠雲が病の床に伏したのは、半年ほど前。 まだ若い籠雲のことだから、程なく回復に向かうだろうと思われていたのだが、人々の意に反して、籠雲の病は重篤になるばかり。 そして、鈴瑠にももうわかっていた。 回復の見込みはない…。 それは、籠雲が自らのために使用した薬草の調合過程をみて確信したこと。 見知った薬草。しかし、滅多に使わぬ薬草。 これを使うとき、それは、ただ命を細い糸で繋ぎ止めるだけの時…。 「鈴瑠…」 呼びかけられて、鈴瑠は小さく返事をすると、籠雲の枕辺に腰を下ろした。 「今日は…聞いておきたいことがある…」 「なんでしょうか?」 「私の命は、程なく果てる」 「籠雲様…」 静かに告げられた『真実』の重さに、鈴瑠は言葉をなくす。 だがしかし、ここで慰めの言葉を吐いても仕方がないことも、重々承知している。 「鈴瑠…お前が地上に降りてきた訳を聞かせてはもらえないか…」 時が満ちるのはそう先のことではない。 しかし、その前に籠雲の生は尽きるであろう。 ならば…。 鈴瑠は静かに口を開いた。 「籠雲様の目に、例の星たちはどのように映っておりますか?」 吉兆の星、災いの星。 それら二つのうち、災いの星を見て取れる者は少ない。 籠雲は、佳くないであろうその兆しを、顔色を変えずに告げる。 「吉兆の星の光が弱くなっているように思うのだが」 それは同時に、災いの星の光が増すということ。 鈴瑠が静かに頷いた。 「翔凛様が、この二つの星を自らの力で見分けられたとき、私は、翔凛様をこの郷から出そうと思っております」 「鈴瑠…」 本宮の後継である若宮を郷から出すとはいったいどういうことだと、籠雲は今度は僅かに顔色を変えた。 「鈴瑠…この郷に、何かよくないことが起こるのだな…」 動揺を抑えた籠雲の物言いに、鈴瑠は静かに首を振った。 「この郷に…ではありません…。この大地に…です」 「それは…」 僅かに風が渡る音だけが流れていく花山寺。 時折風に乗ってくるのは、翔凛たちの屈託のない笑い声。 その声に、僅かに笑みを漏らし、鈴瑠は静かに天意を告げた。 大きく開かれる籠雲の双眸。 また訪れた静けさの後、やがて籠雲はいつもと同じ、穏やかな声を出した。 「それは何時、どのようにしてやってくるのであろうか」 「時が満ちるのはそう先のことではないと思われます。が、どのようなことが起こるのかは…。残念ですが、私にもわからないのです…」 籠雲は目を閉じて身体を覆っていた緊張を解いた。 「今は、一日でも長く、翔凛様がこの地でお育ちになられるようにと願うばかりです」 「鈴瑠…」 「はい」 籠雲は閉じた目を再び開けた。 そして、その瞳は涙を湛えていた。 「籠雲様…?」 親であり、師であった籠雲の涙を、鈴瑠は知らない。 「私は…そのような大切なときに、お前の側に居てやれないのだな…」 「ろう………」 絶句した鈴瑠の頬に、ひんやりとした籠雲の手が添えられた。 「お前は天の子。しかし、心の内は我らと同じ。喜びも痛みも覚える」 流れ出した鈴瑠の涙を、籠雲はそっとその親指で拭った。 「一人で背負うでないぞ。竜翔様の想いを…忘れるな」 「…はい…」 涙に濡れた瞳で、それでも鈴瑠は笑って見せた。 |
2.星読み (翔凛様…) 鈴瑠はここしばらくの翔凛の様子を、気を張って見つめていた。 星が出る刻限からあと、翔凛は頻繁に中庭へ足を運び、空を見つめているのだ。 そして今夜も…。 その瞳には、未知の物への憧れと、そして困惑。 鈴瑠は意を決して翔凛に声を掛けた。 「翔凛様…何か見えますか」 翔凛は空から視線を外さぬまま、その声に答える。 「ねぇ、鈴瑠。あの星の意味は…」 その双眸が捉えているのは、確かに吉兆の星。 ここのところ、急速に光を失い始めている。 「あれは、よい兆しの星だよね」 「そうですね」 「でも、このところ、急に輝きが落ちてるんだ」 「翔凛様…」 その事実に気付いているとすれば…。 鈴瑠の身体に緊張が走る。 「後ろにあるよくない星が、目立ってイヤなんだ…」 それは、出来れば少しでも先に延ばしたかった、翔凛の言葉。 ついに自力で災いの星を読んだ翔凛の成長を、むろん手放しで喜ぶことなど出来ない。 この成長は、『別れ』を意味するのだから。 「あれは災いの星。初めて現れたのは、私がこの郷に戻った頃のことでした」 「え? そんなに前から?」 星から視線を外し、見上げてくる翔凛の肩を、鈴瑠はそっと抱いた。 「そうです。でも、その頃は吉兆の星の輝きが強く、あの星の存在に気付く者はほとんど居りませんでした」 「鈴瑠…」 不安そうな声が、鈴瑠を追いつめる。 「翔凛様。何も案ずることはありません。あなたには…、天意がついています」 「てんい…?」 「ほどなくお話しする日が来るでしょう。その時は、私を信じて下さいますね」 微笑んでくる鈴瑠を、翔凛は神妙な顔つきで見つめ、そして一つ、力強く頷いた。 翌日、鈴瑠は創雲寺に大座主を訪ね、そして本宮に戻ったあと、竜翔に向き合った。 「どうした? 鈴瑠」 いつも二人きりになると、鈴瑠の雰囲気は柔らかく甘やかなものに変わる。 それが今夜に限って、昼間の表宮殿での雰囲気を脱ごうとしない。 抱き寄せようとする竜翔の手を、やんわりと止める。 「鈴瑠…?」 鈴瑠は思い詰めたような瞳で見上げてきた。 「竜翔…」 それでも、名前で呼んでくれるのは、心を開いている証拠。 竜翔は僅かに安堵して、鈴瑠の手を取った。 「何かあったか?」 優しい声で問われ、鈴瑠は一つ息をついた。 「大切な話があるんだ」 「……今日、大座主様のところへ行ったと聞いたが…」 今や齢百を越えた高齢の大座主は、よほどの用がない限り人と会うことはない。 それが竜翔や鈴瑠ならばもちろんその限りではないのだが、だからこそ遠慮もあろうというものだ。 些末な用件で訪ねることなど出来はしない。 「大座主様は、ここに残ると仰せになられた…」 「鈴瑠…? 何の話だ」 鈴瑠は訝る竜翔の瞳を見つめたまま、昼間の大座主の言葉を思い出していた。 『私が大座主になったときに天空様から仰せつかったのは、その命果てるまでこの地と共にあれ…ということじゃ。若い命は、次の世を目指して旅立つ。私は、この地で果てた僧たちの魂とともに、ここで眠るとしよう』 「翔凛をここから出す。供につけるのは采雲、栄雲、光雲…。そして、本宮からも芳英の他2人ほど、若い武官を…」 「鈴瑠…、どういうことだ」 鈴瑠の細い肩を掴み、怪訝に眉を寄せた竜翔に、鈴瑠は寂しそうな瞳を向けた。 「僕は、この地を閉じるために、降りてきたんだ」 降るような星空の下、鈴瑠と竜翔は中庭にいた。 鈴瑠がこの地に戻ってきた本当の理由。 そして、翔凛が読んだ災いの星。 それらすべての話を聞いたとき、竜翔は取り乱すことなく頷いた。 そして一言、『それが天意なのだな』と問うた。 その問いに鈴瑠が頷くと、竜翔は意外にも笑って見せたのだ。 『その天意のおかげで私たちは出逢えたのだからな』と。 「それで、お前はどうなるのだ?」 石造りのベンチに腰掛け、竜翔は鈴瑠を膝に乗せた。 十五歳で成長を止めた身体は、逞しい竜翔の腕の中にスッポリと納まってしまう。 「僕は…わからない」 「わからない?」 鈴瑠は竜翔の胸に頭を預け、吐息混じりにそう言った。 しかし、それは紛れもない事実。 鈴瑠自身にも、その時、自分に何が降りかかるかは予想が出来ないのだ。 「その時になってみないと…」 「そうか…」 それならばそれで仕方のないこと、と竜翔は考えていた。 翔凛がこの地を逃れ、無事に新天地を目指すことが出来るのなら、自分はただ、鈴瑠の傍から離れないでいればすむことだ。 たとえその結末が『死』という言葉で結ばれようと、鈴瑠の傍にさえいられるのなら、他に望むことなど何も、ない。 「それにしても…」 竜翔は膝の上の鈴瑠をポンポンと揺すった。 「お前は相変わらず軽いな。翔凛とたいして変わらないぞ」 そう言うと、鈴瑠はプクッとふくれてみせる。 「酷い。翔凛はまだ子供で、僕はもう大人だよ」 「それがなぁ、その子供はもう、最近は膝にも乗ってくれなくなったよ」 少し寂しそうな顔で言う竜翔は、優しい父親の顔になる。 「え? 翔凛、膝の上に乗ってこないの?」 「ああ」 「変だな。僕の膝の上は隙あらば乗って来ようとするのに」 「何?」 目を細めた竜翔の表情の変化に、鈴瑠は気付いていない。 「この頃大きくなって、重くて仕方がないから『降りましょうね』って言うんだけど」 「あいつ…」 「なに?」 見上げて初めて、鈴瑠は竜翔が険しい顔をしているのに気付く。 「どうしたの? 竜翔」 「油断も隙もあったものではないな」 「どういうこと?」 「あいつも一人前に男になりつつあるということだ」 真剣な表情で語る竜翔に、鈴瑠はケラケラと笑ってみせる。 「あはは、やだなぁ。翔凛はまだまだ子供だよ。だから少しでも…」 手放すのは先の方がよかったのに……と、言おうとした唇はすでに塞がれていた。 いきなり深く口づけられても、苦しいのはほんの一時。 やがて鈴瑠もその細い腕を竜翔の首に回してしがみつく。 こうして、いつものように恋人たちの、口づけと抱擁だけの甘い夜が更けて行こうとしていたその時…。 中庭へ続く長い廊下の向こうから、駆けてくる足音があった。 「竜翔様っ、鈴瑠!」 慌てて身体を離した二人の目に飛び込んできたのは、顔色の失せた泊双の姿であった。 「何事だ、泊双」 「花山寺より使いの者が!籠雲、危篤の知らせにございますっ」 |
鈴瑠と竜翔が駆けつけたとき、すでに籠雲の意識は途切れつつあった。 「籠雲様っ」 「籠雲っ」 枕辺に寄る二人のすぐ後ろでは、泊双も言葉を堪えて見守っている。 「もはや、お言葉の発せられる状態ではありません…」 采雲が静かに告げる。 それでも、鈴瑠の声が届いたのか、籠雲は閉じていた瞼をもう一度開けた。 「籠雲様…」 鈴瑠が力のなくなったその手を握りしめる。 僅かに籠雲が微笑み、そして、言った。 「忘れるな。お前は一人ではない」 それは、采雲が驚くほどにはっきりとした物言いだったのだが。 「はい」 そう鈴瑠が返事するのを確かめて、籠雲は静かに目を閉じた。 鈴瑠が握りしめる手から、『気』がこぼれ落ちていく。 最後の『気』を押しとどめるかのように、鈴瑠がさらに強く手を握ったが、籠雲は静かに去った。 そして、その場に居合わせた誰もが、鈴瑠の泣き崩れる様子から、籠雲が逝ったことを悟る。 「籠雲は、輪廻に戻ったのだな」 竜翔は伝う涙を拭おうともせずに、鈴瑠の肩を抱いた。 「高僧は…転生も早いと…聞きます」 泊双が震える声を堪え、自身に言い聞かせるかのように静かに告げる。 采雲をはじめとする花山寺の僧たちも、くぐもった声で泣いている。 やがて鈴瑠が抱き起こされ、籠雲の亡骸から離されようとしたとき、鈴瑠の耳に小さな声が響いた。 『鈴瑠…』 ふと顔を上げる鈴瑠。 『忘れるな。お前は一人ではない』 もう一度、この耳にはっきりと聞こえてきたのは、籠雲最後の言葉。 (籠雲様…? まさか…) 『お前は一人ではない』 先刻、鈴瑠はこの言葉を「竜翔の存在」と捉えていた。 しかし、今一度よぎった籠雲の声に、鈴瑠の胸はざわめく。 (そんなことが…) 籠雲は本当に輪廻に戻ったのか。 そこに『人』の意志など介在出来ようはずがない。 だが、今それを確かめる術は、天の子とても持ってはいなかった。 |
3.時は満ちて 籠雲の葬儀が、創雲郷の僧らしくひっそりと行われてから、ひとつだけ季節が過ぎ、この国全土が雨期を迎えようとしていた。 霊峰の頂付近で降った雨は、狂ったように大河を流れ、郷の麓の村を一つ、跡形もなく押し流してしまった。 「恐ろしい勢いで水かさが増しているな」 宮殿最奥、祭壇の間のテラスから竜翔が下を見おろしている。 ぱっくり口を開けた断崖のその下。 遥か下方の大河であるにもかかわらず、人の目にこれと言ってわかるほどの増水だ。 「この雨はやがてこちらへ降りてくる」 竜翔の隣で、ポツンと鈴瑠が言った。 「鈴瑠?」 「…竜翔、今のが天意。僕の意識の外から、語りかけられてくる…」 「そう、か。…では…」 竜翔は不安を殺すように、鈴瑠をしっかりと抱きしめた。 「うん。翔凛に話をするときが来たみたい…」 鈴瑠もまた、不安を殺そうと、竜翔の広い胸に顔を埋めた。 「霊峰の向こうは真っ暗だね」 書物から顔を上げ、翔凛はテラスの外を見てポツッとそう言った。 ここは『若宮』の居室から続き間になった小部屋。 そこで翔凛は鈴瑠からこの国の地理を学んでいた。 竜翔は麓の村へ、増水による被害の視察に出掛けている。 「翔凛様。私が以前申し上げたことを覚えてらっしゃいますか?」 鈴瑠もまた手を止めて、テラスの外を見る。 「災いの星を見たときのことだね」 「そうです」 翔凛は、何かを感じ取り、手にしていた筆を置いた。 「鈴瑠の言うことなら、僕は何でも信じられる」 そう言った翔凛の、力のこもった瞳を見て、鈴瑠は重い口を開いた。 「霊峰の向こう、あの黒い雲はやがてこちらへまいります。そして、雨を降らせ、すべてを流します」 「…りんりゅ…」 何でも信じられると言ったものの、その口から淡々と紡がれる言葉に、翔凛は声を失う。 しかし、そんな様子の翔凛に気付きながらも、鈴瑠はかまわずに同じ口調で続けた。 「この災いは、やがてこの国全土に及びます。そして、その始まりの地は、ここ、なのです」 鈴瑠は翔凛の開かれた双眸を真っ直ぐに見つめた。 「人は、すべてを失うでしょう。この国とその周辺は…」 開かれた書物の頁には、この国を中心とした世界観が描かれている。 「この地から消えてなくなります」 「う…そ」 翔凛が漸く言葉を発した。 「翔凛様、最初のお言葉をお忘れですか?」 『鈴瑠の言うことなら、僕は何でも信じられる』 自分の言葉を反芻し、翔凛は慌てて首を振った。 「忘れてなんかいない! ただ…」 「ただ?」 翔凛は諦めたように肩を落とした。 「びっくりしただけ…」 その様子に、鈴瑠が翔凛をギュッと抱きしめる。 「そうですね、誰でもこんな事をいきなり聞かされたのでは驚きます」 「でも、でもっ…どうして鈴瑠にその事がわかるの?」 見上げてきた翔凛に、鈴瑠は優しく微笑んだ。 「それは、私が天から遣わされた者だからです」 「え?」 そう言って疑問符を浮かべたときには、すでに翔凛の身体は鈴瑠に抱かれたまま浮き上がっていた。 「わっ! 鈴瑠!」 「大丈夫、これ以上は飛びませんから、落ち着いて」 ほんの少し、宙を漂ってから、鈴瑠はまた静かに床に降りた。 「鈴瑠は…天空様のお使い…なんだ…」 「そうです」 降ろされた翔凛は鈴瑠の袖口を掴み、真摯な瞳で尋ねてきた。 「では、天空様が、この地を滅ぼされるの?」 鈴瑠は静かに首を振った。 「そうではありません。この地がやがて形を変えてしまうのは、この空と大地の理(ことわり)。それは誰の意志でもなく、人が輪廻をするように、空と大地も生まれ変わっていくのです。そして、たまたまその時期に、私たちは生きた。 それだけなのです」 「では天空様はなぜ助けて下さらないの?」 「その天空様の助けの御手こそ、翔凛様、あなたなのです」 「僕?」 「永く続いたこの地の営み。人が生まれて死んでいく。その悲しみ、怒り、喜び、笑い…。たくさんの人の想いと受け継がれてきた浄い精神を、あなたに託されたのです」 翔凛はまた、瞳を大きく開いて鈴瑠を見つめた。 「僕に…?」 「そうです。あなたは采雲たちと共にこの地を逃れ、もっとも災いから遠い、東へ向かうのです」 「僕たちだけ…?」 鈴瑠は頷いた。 「どうして? どうして僕たちだけなの? 鈴瑠は?父上は?泊双は? 宮や郷のみんなはっ?」 声を荒げる翔凛の肩を優しくさすり、鈴瑠は諭すように言葉を紡いだ。 「一度にたくさんの者が動いてはいけないのです。身に危険を感じた者たちが大勢で動くとどうなるか…。おわかりですね?」 翔凛は素直に頷いた。 「まず、あなた達が先に、安全な地を目指し、ここを出ます。そして少しずつ、僧や麓の里人を逃しましょう」 「鈴瑠や父上も大丈夫?」 「大丈夫ですよ。ただ、本宮様にはこの郷、麓の里や村の統治という大変な責任があおりですから、先に逃れるわけにはいかないのです。それも、おわかりですね」 翔凛はまた、頷いた。 「翔凛様は、ここに残られる本宮様の代わりを立派に努めねばなりません」 「父上の代わり?」 「そうです。この郷や麓からはたくさんの人々が東方へ逃れます。あなたはその時、それらの人々の中心であらねばなりません」 「僕が…? 都の天子様はどうなるの?」 「天空さまがお選びになったのはこの創雲郷。都は大きすぎるのです。恐らく都の避難は叶いません。そして、天子様と第一の皇子様は、民と共に都に留まられるでしょう。けれど、第二の皇子様はもうすでに東方へ向かっておられます」 「第二の皇子様…? 漣基様のことだね」 幼い頃、生誕祭にわざわざ足を運んでくれたという漣基。 その時に贈られた翡翠の飾り玉は、今も翔凛の守り刀を飾っている。 「そうです。漣基様といつか巡り会う日まで、創雲郷とその麓の里から流れ出る民は、あなたが守らねばなりません」 口にする厳しい現実とは裏腹に、鈴瑠の瞳は優しく微笑んでいる。 「僕に…そんなことが出来る?」 「私は、あなたをそのようにお育てしてまいりました」 鈴瑠は翔凛の頬をそっと撫で、ぎゅっと抱きしめた。 「私を…信じて下さい」 耳に優しく埋め込まれる鈴瑠の言葉に、翔凛は深く頷いた。 「僕…がんばるよ」 その答えに、鈴瑠は微笑みで応えた。 『明日、翔凛を逃します』 そう鈴瑠から告げられたのは今朝のこと。 竜翔は祭壇の間で翔凛と向き合っていた。 「二度と会うことはかなわぬかも知れぬ」 「はい」 「民を守るのは容易ではない」 「はい」 「恐らく、辛いことのみの日々が続くであろう」 「はい」 「それでも、お前は創雲郷の若宮、翔凛である」 「はい」 「誇りを持って、生きて行きなさい」 「はい」 そう言って、父は息子を抱きしめた。 「漣基に出会うことが叶ったら、伝えてくれないか」 翔凛が顔を上げる。 「私たちは、幸せだった…と」 「私たち…?」 「そう言えば、わかる」 そう言った父の顔は、本当に幸せそうに輝いている。 「父上…」 「なんだ?」 「お願いがあります」 「珍しいな」 父は息子の頭を愛おしそうに撫でた。 「鈴瑠から…絶対に離れないで下さい」 「…翔凛…?」 「鈴瑠はきっと、最後の時に父上を逃そうとします。僕にはわかるんです」 息子はギュッとしがみついてきた。 「だから、鈴瑠を絶対一人にしないで。逃れるときは、必ず鈴瑠を…っ」 「…わかった。約束しよう。絶対に鈴瑠を離さない」 「ありがとうございます…父上…」 |
「采雲。くれぐれも…」 「お任せ下さい、鈴瑠様」 「栄雲、光雲も気をつけて」 「はい。鈴瑠様もご無事で」 「必ずまた逢えると信じています」 重厚な旅支度の僧たちが翔凛を囲むようにたつ。 そして、翔凛が生まれたときから側仕えをしてきた信頼できる武官が三人。 「芳英、翔凛様を頼みます」 「命に替えましても」 早朝の創雲郷大門。 滅多に開かぬ門を開け、若宮と六人の従者が旅立とうとしていた。 見送るのは鈴瑠ただ一人。 竜翔は『別れは昨日済ませた』と言って出てこなかった。 おそらく今頃は、執務室のテラスからこちらの方向を見ているのだろう。 「鈴瑠、目を閉じて」 「こう…でございますか?」 そう言いながら、鈴瑠は少し屈んだ。 そして、その唇に触れる温かく柔らかい感触。 やがて目を開けた鈴瑠に、翔凛は大人びた微笑みを見せて言った。 「鈴瑠。たくさんのこと、ありがとう」 「翔凛様」 「いっぱい教えてくれて、いっぱい叱ってくれて…」 「しょうり…ん…」 「いっぱい愛してくれて、ありがとう」 「しょう…」 絶対に泣くまいと誓ったのに……。 鈴瑠は翔凛の身体をきつく抱きしめて耐えた。 「鈴瑠様、そろそろ朝霧が晴れます」 采雲の言葉に、鈴瑠は漸く顔を上げた。 「翔凛様…。あなたは天意を受けて、この地に永く息づいてきた尊い精神を後に伝えるために生きていくのです。どんな時にも頭を上げて、前を向いて、誇りを持って生きて行きなさい。天空様が、あなたを守られます」 「はい」 握りあった手が離れ、翔凛は歩み出す。 山道を下りはじめ、一度だけ、振り返った。 (さようなら、鈴瑠。僕の大好きだった人…) 鈴瑠はその姿が見えなくなるまで、大門に立ち尽くしていた。 天の子と魂を結んだ竜翔を父に持ち、天の子と心を通わせた芙蓉を母に持つ翔凛。 その存在がすでに『天意』であった。 |
4.所有の刻印 翔凛を東方へ向けて逃がして後、鈴瑠と竜翔は静かに行動した。 まず、創雲郷の僧たちをいくつかに分け、少しずつ里へ下ろす。 そして、里人の混乱を招かぬよう、里ぐるみで誘導し、東方への移動を開始した。 二人にとって幸いだったのは、僧たちが何よりも冷静に立ち振る舞ってくれたことである。 そして、今創雲郷に残るのは、創雲郷の大座主と、それに付き従い、離れることを拒んだ数人の僧。 本宮では竜翔と鈴瑠、泊双と僅かの武官のみとなった。 そして、その頃にはすでに、創雲郷を真っ黒な雨雲が包み込んでいた。 人の話し声すら聞き取れぬほどの豪雨が何日も続き、山や崖は水を含んで肥大し、耐えられなくなったところから綻び始めた。 「竜翔、表宮殿に残った武官たちは…」 「最後まで本宮を守ると言ってきかない」 彼らの言う『本宮』とは、宮殿のことではなく、竜翔本人であることに間違いはない。 「竜翔が残っているからだね…」 ポツッと漏らした鈴瑠の呟きは、激しい雨音に紛れても、竜翔の耳に届いた。 「鈴瑠…それは…」 「竜翔。泊双と一緒に、郷を出て」 そう言うであろうことは、容易に想像がついた。 翔凛にさえ見破られているのだから。 「お前が共に行くというのならば」 竜翔は落ち着き払った物言いで返してくる。 鈴瑠もまた、竜翔がそう言うであろうことは容易に想像をしていた。 竜翔は自分を残して去ることなどできはしないと。 だが…。 「僕も…僕も行くっ! 必ず行くから大門の外で待っていて」 鈴瑠はとにかく郷の外へ竜翔を逃すことを考えた。 昨日から始まった霊峰の前崖の崩壊は、すでに大河をせき止め、断崖を埋めている。 もしかすると、あと二、三度の崩落で本宮が押しつぶされることも考えられる。 大門は本宮から見て創雲郷の反対側。 大門まで逃れていれば、まだ間に合うかも知れない。 「まいりましょう、竜翔様」 隣室に控えていた泊双が入ってきた。 「泊双っ!」 「鈴瑠は必ず来ると申しています。ならば、それを信じて先に参りましょう」 竜翔は信じられないと言った面もちで泊双を見つめた。 鈴瑠が自分を逃すために嘘をついていることなど、あまりにも明白ではないかと。 「鈴瑠、必ず来るね」 そう言った泊双を、鈴瑠は縋るように見つめた。 「必ず! 必ず行きますから」 (お願い、竜翔をつれていって…) 「泊双っ。お前はっ! 離せっ」 竜翔の腕を掴み、泊双は引きずるように隣室へと消えた。 「竜翔…。さよなら…」 人気のなくなった部屋には、雨音がさらに激しくのしかかってくる。 |
―――これが僕に託された天意。 一つの時代が滅びるとき、天の子は遣わされ、 その民を一人でも多く災いから遠ざける。 抗いようのない空の反乱、地の鳴動に、天の創造主が差し伸べる、 救いの手――― |
「今度こそ、本当にさようなら、竜翔。 僕はここを離れてはいけないんだ。一つの時代が閉じるとき、その扉を閉めるために、僕は在るのだから…」 鈴瑠は竜翔の去った扉をずっと見つめていた。 |
竜翔が去った夜が明けた頃。 思ったよりも早く、霊峰の前崖は全壊の兆しを見せ始めた。 昨日のうちに竜翔を逃しておいてよかったと、鈴瑠は安堵のため息をつく。 間もなく自分の使命も終わる。 この地に落ちて二十五年の歳月が流れた。 途中数年を天空に還った以外、この郷で生きてきた。 籠雲に育てられ、泊双に出会い、翔凛を育て、竜翔を…愛した。 心だけ結び、身体は結ぶことのできぬままで、きっと竜翔には苦しい思いを強いたのだろう。 それでも彼は黙って耐えてくれた。 それでも毎日『愛している』と告げ、優しい抱擁と口づけをくれた。 「竜翔が、幸せでありますように…」 そう呟いたとき、大音響と共に、宮殿が大きく揺れた。 最後の時が、そこまで来ている。 鈴瑠は心を静めた。すると身体は自然と浮き上がる。 (還るときが…近い…) そう思ったとき、扉が開いた。 「鈴瑠っ!」 それは紛れもなく竜翔の声。 「りゅう…」 鈴瑠は驚き、床に落下した。 「鈴瑠っ。大丈夫か?」 駆け寄ってきつく抱きしめる。 「竜翔…! どうしてっ…、どうして戻ってきたのっ! お願いだから…、今なら……っ」 鈴瑠は自分を抱く竜翔を引き離そうと激しくもがく。 「私は鈴瑠をおいてなど行かない」 「でも、泊双はっ」 「泊双も最初からここを出る気などない」 「な…」 鈴瑠は絶句し、目を見開いて竜翔を見上げた。 「私たちはずっと表宮殿にいたよ。だが、ああでもしなければ、お前はきっと私たちのために何かをやらかすだろうと思ったからな」 「何バカなこと言って…」 鈴瑠は激しく竜翔の胸を叩いた。 「離してっ! 逃げてっ」 「絶対に嫌だ。私はもう、お前を離さない」 ついに鈴瑠は涙を零した。 「お願いだから…逃げて…」 「どうしてだ? 鈴瑠、お前は使命を終えて天に還るのであろう? ならば、私がこの世に残って生きる意味はもう無い」 恐ろしいほど冷静に語る竜翔に、鈴瑠は泣き濡れた瞳を呆然と向ける。 「お前は言った。天に命あるお前と、地に命ある私と…交わることの許されない私たちが契れば、私の輪廻の糸は切れ、永遠に闇を彷徨うと。 しかし私は地の生き物。天に上がることは叶わない」 竜翔はそっと鈴瑠の唇に、触れた。冷たい指先だった。 「ならば、鈴瑠…。お前が地上に生まれ変わって来るんだ」 「竜翔…」 「天に還ったならば、天を司る創造主に申し出るんだ。次の生を、地上に降ろして下さい、と」 大きな体が、小さな身体をきつく抱きしめる。この温もりを忘れないようにと。 「お前が地に生まれたなら、私が必ず探してみせる」 「僕が…地に転生する…」 それは考えもつかないことだった。 「それが、私とお前が結ばれるときだ…」 「竜翔…」 ゆっくりと唇を合わせる。 長く優しく、愛を伝える。 「だから私は、今、土に還る。 お前のいないこれからを生きるより、早く土に還り、次の生を待つ」 竜翔はこの愛を、来世に賭けるというのか。 いや、来世で出会うことが出来るのか。 もしかすると、幾たびも、幾たびも輪廻を繰り返さねばならないかもしれない。 そして、鈴瑠はもちろん、愛する人の死など願わない。 「だめ…だめだ…竜翔、死んじゃ嫌だ」 「死ぬのではない。次に逢うために、今は別れるだけだ」 「竜翔っ、りゅうか…」 溢れ出る涙を、竜翔の衣が吸い取っていく。 「鈴瑠…お前は、ただ一つのことをするだけでいい。 天空さまに、次の生は地に降ろして下さい、と願うのみ。 たとえお前が何もかも忘れて地上に降りてきたとしても、私が必ず捕まえる。必ず捕まえて…私のものにする。……案ずるな。この次も……絶対に離さない」 さらに激しく叩きつける雨音。 もはや豪雨を通り越し、この地の生きとし生けるもののすべてを洗い流そうとしているかのようだ。 残された時間は…もう、ないだろう。 竜翔はその姿を焼き付けるかのように、鈴瑠を見つめた。 「僕を、探してくれる…の?」 見つめ返す瞳は、悲しみと不安に満ちている。 「鈴瑠、お前は私のものだ」 そういいざま、竜翔は鈴瑠の緋色の衣に手を掛けた。 「竜翔…っ?」 驚く鈴瑠の声に、布を裂く音が重なる。 露わになる、鈴瑠の白い身体。 抗う間もなく、竜翔の唇が、鈴瑠の鎖骨の下あたりに触れた。 「…っ」 一瞬鋭く走った感覚に鈴瑠が肩を震わせた。 痛みを…感じた…? 痛まないはずの自分の身体が何故、痛みを感じたのか。 鈴瑠は呆然と竜翔の行動を見つめる。 しかし、竜翔はすぐに唇を離し、今しがた口づけていた場所にそっと指を這わせた。 鈴瑠の視線もそこに落ちる。 目に入ったのは鮮やかな朱色の印。 所有の刻印。 「血は流れなくとも、蹟はつくのだな」 竜翔が嬉しそうに言った。 紛れもない鬱血の蹟に、鈴瑠の頭は更に混乱する。 「な、ぜ…?」 「鈴瑠、願えば叶う。私たちの創造主は、慈悲深い」 鮮やかに微笑んで、竜翔は自分の衣の襟を引いた。 綺麗に筋肉のついた、逞しい胸が現れる。 そして、引き寄せられる鈴瑠。 「どれほどの時が経とうとも、私はお前を捜し出す。そして、お前は私を思い出す」 触れる素肌から漂う竜翔の甘い香りに、鈴瑠はたまらずに目を閉じた。 「鈴瑠、私にも、蹟を残せ」 胸から直接耳に響く、竜翔の声。 鈴瑠はうっとりと顔をあげ、誘われるように唇を寄せた。 張りのある肌をきつく吸った瞬間、体中を優しい抱擁に包まれる。 「鈴瑠、次の生も、共にあろう」 「はい…。竜翔」 今、再びその魂をしっかりと結ぶ。 そして、誓いの言葉を封じ込めるように唇が合わされようと…。 地が鳴動を始めた。 霊峰が、唸りをあげる。 僅かに触れた唇が、その温もりを感じた瞬間。 足元が大きく揺れ、地が押し流され始めたことが二人に伝わる。 本宮の一番大きな柱、天に向かってそびえ立つ、創雲郷の信仰の象徴がついに轟音と共に崩壊をはじめた。 「鈴瑠!!!」 「竜翔!!!」 互いを呼び合う声も、もう、耳をつんざく崩壊の調べにかき消されていく。 「かなら…ず…っ」 僅かに灯っていた燭台の明かりもすべて絶え、一つ一つの感覚が奪われていく。 降り注ぐ、宮殿のかけら。 人々が築きあげた器が、すべて地に還る時…。 どれほどの時が流れたのだろうか…。 もはや五感のきかない中、必死で竜翔の気配を追う鈴瑠…。 僅かに触れていた竜翔の『気』が…やがて、消え、鈴瑠は竜翔が輪廻に戻ったことを、知った……。 こうして愛する者たちは、次の生で巡り会うべく、永きに渡る別れの道を選んだ。 一人は光の中を天に還り、もう一人は闇の中を土に還っていく。 「僕の命を…地に降ろして下さい…」 鈴瑠はずっとそう唱える。 もはや言葉の意味が分からなくなるほど意識が溶けても、なお、次の生を地に願う。 天の子は、その後永きに渡り天の生を送り、やがて、『事実』が『伝説』となり、そして『神話』となった頃、再び、時は……満ちる。 |
輪廻を経てエピローグへ |