番外・前世編 「遙か東方のバザールにて」
【4】
あれから一年。 翔凛は、采雲たちに託した街に二度ほど戻った以外は漣基の国で過ごしている。 そう遠くないうちに、その街もこの国に加わることになっており、頻繁に交流が行われ、国情も外交も安定しているために心配事はほとんどない。 唯一の心配事と言えば、初めてあった日以来、過剰に接触を図ってくる、王太子・悠風の存在だけ…という、なんとも平和な状態だ。 ここへ来たに頃は、頻繁に王太子宮の湯殿で一緒にはしゃいで遊んだものだったが、最近では何だか身の危険を感じないでもないので、誘われてもご遠慮申し上げている状態だ。 今日もこれから成年式だというのに、翔凛の手をしっかりと握って離そうとしない。 しかも…。 「あ〜あ、これが婚礼の式だったら言うことないのにな」 しゃあしゃあとこんな事を言ってのけるのだ。 「誰の婚礼さ?」 翔凛もまた、言ってしまってから『聞くんじゃなかった』…と後悔する。 「決まってるじゃないか、私と…」 答えはわかっていたのだ。 「もういい、全部言わなくても」 「あ〜、酷いっ、翔凛ってばっ!」 …悠風〜、いい加減にしろって。侍従や女官たちがまた笑いを堪えてるじゃないか…。 そんな翔凛の内心のぼやきを知る由もなく、すでに王宮の名物となっている二人のやりとりに、最近ではみな、耐えることも放棄し始めている。 何しろ、時々吹き出す声まで聞こえるのだから。 「待たせたな」 だが、先触れもなくいきなり現れた漣基に、慌てて侍従や女官は笑いを収める。 むろん、笑っていても別に咎などないのだが、今日はこの国にとって大切な日。 久しぶりに見る国王の礼装に、皆が気を引き締めたのだ。 「「国王様、かっこいい〜」」 そして、うっとりと見上げながら見事に和した翔凛と悠風に、漣基はチロッと視線を投げてからそっぽを向く。 「バカ。気持ちの悪いことを言うな」 どうやら照れているようだ。 何しろ漣基は、普段、警護の武官と変わらない格好で国中を駆け回っているのだから。 漣基は一つ大きく息をして、翔凛を見つめた。 「少し、いいか?」 問われたが何のことかわからない。 だが、はい、も、いいえ、もないうちに、翔凛は漣基に抱きしめられていた。 どうしたというのだろう。 いつもは『いいか?』などと了解を取ることもなく、勝手に抱き上げて運んだり、膝に乗せたりもするくせに。 「漣基……?」 しっかり抱きしめられているから、言葉は小さくくぐもって、漣基の胸に落ちる。 「すまんな。あと少しだけ、こうしていさせてくれ…」 その言葉に翔凛は悟る。 自分の中に、ずっとあの人の面影を重ねている漣基。 だが、自分もまた、あの人の想い出を、今でもずっと追っている。 「僕は…鈴瑠ではないよ…」 なのに、ちょっぴり残酷な言葉は何故、出たのか。 「わかってる。わかっているが、今だけは……」 何事にも怯まない、強く逞しい王、漣基。 そんな漣基の支えになっていたのはきっと、ずっと、鈴瑠。 鈴瑠の代わりになどなれようはずはないが、それでも『王』という重責を担っている漣基の、少しでも気休めになるのなら……。 そう思って、翔凛は漣基を抱き締め返した。 |
成年式と宰相就任式。 二つの式はつつがなく終わった。 降ろしていた髪を結い上げると、同じ礼装でも何となく大人っぽく見えるのが不思議だ。 そして、成年したというのに、悠風はまた手を繋ごうと翔凛の手を取る。 「王太子様…」 国での身分を正式に得た翔凛としては、いつものように振り払うわけにもいかず、声だけで何とか牽制しようとする。 だが、悠風はそんな翔凛の手をきつく握り、真摯な眼差しを向けてきた。 「翔凛。お前は、国王様と私、そして国中の民の支えとなるように」 そう、政務に当たっているときの悠風はいつもこんな感じだ。 自分とじゃれているときとは随分違う。 そして、そんな悠風に、翔凛もまた、大人の階段を一歩上がったことを実感する。 「はい。仰せのままに、王太子様」 翔凛は跪き臣下の礼を取る。 「翔凛…」 今度はうって変わってにこやかに笑いながら、悠風は翔凛の手を取り、そっと立ち上がらせる。 「だがな、翔凛。支えというのは政務のことだけではない」 いいながら悠風が見せるのは、王太子の顔でもなく、友人の顔でもない。 なんとも形容しがたい…そう、いつになく艶めいた悠風の様子に、翔凛は戸惑う。 今自分に求められている立場は何なのか。 そんな翔凛の戸惑いを知ってか知らずか、悠風はひんやりとした指先でそっと翔凛の頬を撫でる。 撫でられた跡は、何故か熱を孕み…。 「私は二人の想い出の中にある鈴瑠と言う人を知らない。 だから、私は翔凛の事を、ただ、翔凛として愛することが出来る」 悠風の言葉に、翔凛の心臓は大きな音を立てた。 茶化した色の全くない、この言葉の意味はいったい何か? 「翔凛…、私は、生涯をお前と共に、在りたい……」 告白の後に見せるのは……恋する者の顔。 悠風が抱きしめた翔凛の身体は小さく震えていた。 そう、いつまでも臣下でなどいさせない。 翔凛、いずれお前は、私の上に立つのだから……。 |
夕刻。 まだ陽は落ちる気配ではないが、あたりはゆっくりと暮色に変わりつつある。 漣基は早々に礼服を脱ぎ、翔凛を誘って馬を駆った。 王宮の建つ丘の裏側を暫く駆けると海岸線だ。 大陸の内側で生まれ育った翔凛は、この国へやって来て初めて海というものを見た。 海の向こうには何かがあるのか。それとも何もないのか。 確かめる術のないそれに、心躍らせて、翔凛はそれから何度もここへ足を運んだ。 ある時は芳英と、またある時は悠風と、そして、今日のように、漣基と……。 「翔凛。お前は『輪廻』を信じるか?」 ずうっと遠くに視線をやりながら、漣基がポツンと言った。 「輪廻…」 「そうだ。人はやがて土に還り、また新たな命を得るという…」 翔凛もまた、ずっと遠く……海が切れてなくなっている所へ視線を投げる。 「一度だけ、鈴瑠に聞いたことがあります」 「鈴瑠はなんと言っていた?」 思い出すと、言葉は鈴瑠の声で聞こえてくる。 「『信じなさい。そして願うのです。そうすれば、結ばれし魂はまた、必ず巡り会うでしょう』…と」 漣基は何も答えない。 言葉の途切れた中…ただ、波の音だけが強く、緩く、繰り返されて……。 「…竜翔と鈴瑠は、また巡り会えるだろうか」 それは波に紛れて落ちた、小さな呟きだった。 陽が少し、陰る。 漣基はふうっと息を吐き、思い出したように、殊更明るい声をだした。 「そうだ、先ほど戻ってきた巡視団の長が、采雲の伝言を持ってきた」 「え? 采雲の?」 竜瑠の街を離れられない采雲からは、数日前に成年と宰相就任の祝詞を受け取ったばかりなのだが。 「采雲たちは『年に一度でもよいから翔凛さまにお里帰り願えれば』と申し出てきたが?」 創雲郷から流れ出た民を守る。 それは、父と鈴瑠と、交わした約束。 「うん、そうだね。それも僕の責任…だね」 いずれあの街を創雲郷のようにしたい。 優しい気持ちと、芳しい祈りの香に満ちた郷に。 そして、この国の人々の、心の拠り所となる郷に。 「大変だな、宰相の君」 「もう、脅かさないで」 プクッとふくれる翔凛を、目を細めて眺めたあと、漣基は馬を返す。 「そろそろ戻ろうか。陽が落ちてしまうとやっかいだからな」 「うん」 翔凛も馬を返す。 「そうだ、明日にでもバザールを見回るといい。みな新しい宰相の君がいつお出ましかと心待ちにしているぞ」 「新しい宰相もへったくれもないよ。僕はバザールへ出れば、いつも通り、ただの翔凛だからね」 「おや、言うなぁ」 「どこかの王さまの真似をしてみただけっ」 「……こいつっ!」 いい逃げをした翔凛を追うように、漣基も馬を走らせる。 だがきっと、明日は皆が翔凛を熱狂的に迎えるであろう。 いつも元気よく顔を出していたバザールの人気者が宰相になった。 そして、この国には救世主である人望篤い国王と、賢く優しい王太子がいて…。 この三人が統治する自分たちの世界は、ずっと幸運であるに違いないと、誰もが信じ、疑わない。 あの日、乾いてしまった瓜を、新しい瓜に代えてくれた少女は今、王宮で女官の修行を始めている。 明日もまた、バザールはきっと、国の繁栄をそのままに、活気に満ちることだろう。 |
あなたは天意を受けて、
この地に永く息づいてきた尊い精神を、後に伝えるために生きていくのです。
どんな時にも頭を上げて、前を向いて、誇りを持って生きて行きなさい。
天空様が、あなたを守られます。
翔凛は、漣基と悠風の国の、宰相となった。 父の聡明さと母の優しさ、そして鈴瑠の…天の意を継いで。 その後、人民の望み通り、王国は末永く平和であった。 |
END |