エピローグ「始まりの地」





「大丈夫か? 歩」

 袖で汗を拭いながら、龍也が顔をあげた。

 暑い日中を避けての発掘調査だが、それでも根を詰めているうちに脱水症状を起こしそうだ。

「うー、キツイ」

 自信がないわけではないが、それでも、華奢で食も細い歩の体力は、そろそろ本日の限界に近づきつつあった。

「あ、歩っ、お前全然飲んでないじゃないか」

 歩のステンレスボトルは重いまま。
 中身はほとんど減っていないようだ。

「う…ん。忘れてた」
「忘れてたじゃないだろっ。倒れちまうぞ。ほら、欲しくなくても飲め」

 龍也はボトルのキャップを開けて、歩の口まで持っていく。

 素直にそれを受け取り、歩は口を付けた。そして一気に飲み干していく。


「ほら見ろ。身体は欲しがってたんだ」
「そっか…」
「まったくお前は、根の詰めすぎだよ」

 龍也は呆れたように言うが、歩は残り1日となった今回の発掘調査で、ここだけはどうしても最後まで見ておきたかったのだ。



 大きな地形の変動が確認され、今まで発掘された寺院とは違う様式――ここから約100km離れた大規模な都市遺跡に見られたような宮殿様式――の遺構。

 この場所で果てた竜翔の命。

 歩はあの翌晩に見た夢の続きが、『夢』でないことをすでに知っていた。

 すべて取り戻した遥か昔の記憶。

 次の世で必ずと誓った竜翔と自分の想い。

 この地の終焉の夢を見た朝、歩は自分を抱いて眠る龍也のTシャツをそっと捲った。

 今まで、意識しすぎて真っ直ぐに見つめることの出来なかった、龍也の引き締まった肌。

 その肌に残る、自分とまったく同じ痕。

 しかし、それを見るまでもなかったのだ。

 歩は思い出してしまった。

 自分がかつて生きていた時のことを。

 傷つき、悩み、愛し、愛された日々を。



 そして、今自分を抱く力強い腕は、あの誓いの言葉通り、自分を探し出してくれた龍也…。

 龍也が自身の前世を思い出すことはあるのだろうか。
 だが、龍也がこの地へ来て『夢をみた』様子はない。

 では、自分だけがあの『夢見』に導かれてすべてを思いだしたのは、何故…。
 自分がかつて『天の子』であったから?

 しかし、歩の記憶に『天の子』としての『その後』は何も残されていない。

 空を飛ぶ力も、『気』を感じる力も当然、もう、ないだろう。
 望み通り、『地に生きるもの』になったのだから。

 残されたのはただ、地上の者たちと生きた、あの十数年の記憶だけ。

 しかし、あの最初の『夢』から今日までの2週間、まるで『予言者』のように遺跡を探り当てることが出来たのは、その懐かしい記憶があったからこそ。




 幼い頃遊んだ薬草園。
 秀空を駆って竜翔と出掛けた森や泉。
 籠雲の愛にくるまれて育った花山寺。
 芙蓉が短い日々を送った奥の宮殿。
 そして、泊双が威厳をもって遣えていた表宮殿。
 愛する竜翔と翔凛がいた、この郷のすべて…。




「歩、龍也、今日はもう上がれ」

 16日に及ぶ発掘調査にも疲れ一つ見せない阪本が、まだ未練を残して地面をつつく歩と、それを守るようにして立つ龍也に声をかけた。

「あ、はい。でも歩が…」

 龍也が返事をしようとしたその時。

「こ…れ…」

 歩が息を飲む音がした。

「何だ?」

 阪本と龍也が思わず声を合わせて訊ねる。 

(竜翔…っ!)

 歩が言葉にならない叫びを漏らす。

 そしてそっと『それ』に触れた。
 固まった白い土から僅かに覗いたもの、それは…。


「…柄(つか)…か?」

 阪本が呟く。

「まさか、刀…?」

 龍也も信じられないといった声色で呟く。
 武器の出土は未だになかったからだ。

(竜翔の、守り刀だ…)

 はっきりと脳裏に残る、それは、いつも竜翔が身につけていたもの。

 鈴瑠が贈った瑠璃の玉が、その柄を飾っていた、竜翔の守り刀。





『瑠璃の玉がついた刀を発掘』



 このニュースはその日のうちに世界に配信された。






「やっぱりここが歩を呼んだんだな」

 夜もすっかり更け、あたりは静寂に包まれている。

 二人の部屋で、龍也はベッドに腰を下ろし、くったりと頭をもたせかけてくる歩の肩を撫でている。

 明日は今回の調査の最終日。
 夕刻にはこの地を発つことになっている。

 しかし、今回の発見につぐ発見は、次回の調査予定もあっさりと決めた。

 半年後にはまた、さらに規模の大きな調査団を組んで発掘が再開される。

「しかし、ホントによく粘ったよな。あそこから、あんな物がでてくるなんて…」

 宮殿様式の巨大な建物は、どうやら泥流に押し潰されたらしいという見方が強くなっていて、阪本の「天変地異」説は「異常気象」と言う形でほぼ認められ始めている。




「そうだね…」

 歩は特に感慨のない声で答える。
 あのあたりにあるだろう…いや、あって欲しいと願っていたのだから。

 ここが、自分がかつて生きていた地であるとわかっていてもなお、竜翔が確かにこの地にいた証し、それをこの目でもう一度確かめたかった。

 そして、今自分の前にいる龍也。

 名前や、髪の色、瞳の色、話す言葉が違っても、その姿と声、その魂は確かに、かつて自分が愛した人のもの。

「龍也…」

 歩はそっと呟いた。そして、龍也の瞳をジッと見上げる。

「あ、あゆみ…?」

 潤んだ瞳で見上げられて、龍也の胸は『ドクン』と一つ、大きな音をたてた。

「龍也…ありがとう…」

 そういって胸に顔を埋めると、ほのかに石鹸の香りがする。

「あああああ、あゆ…」


(僕を探してくれて、ありがとう)

 言葉に出来ない思いを込めて、ギュッとしがみつくと、龍也も強く歩を抱きしめた。

「歩…」

(忘れないでいてくれて、ありがとう)

「歩………」

(愛し続けていてくれて、ありがとう…)

「たつや……あい…して…る」
「あゆみっ」

 突然の歩の告白に、龍也はその黒い瞳を大きく見開き、そして唇をギュッと噛んだ。


「龍也…?」

 ほんの少し、不安な様子を見せた歩に、龍也は今度は満開の笑顔を見せる。

「あゆみ……俺、嬉しい…。嬉しすぎて、どうかなっちまいそうだ…」

 どちらからともなく、唇を寄せ合って交わすのは、龍也と歩にとって初めての両想いのキス。

 そして、竜翔と鈴瑠にとっては、永い時を越えての成就の口づけ。

 そっと唇を離すと、歩は少し龍也から身体を離し、微笑んだ。



「歩?」

 小さく訊ねる龍也に、もう一度微笑んで、歩は自分の着ているパジャマのボタンを外し始めた。

「あゆみ…何を…っ」

 慌てたのは龍也である。
 熱烈に求愛し続けること1年半。
 嫌われてきたわけでは決してないが、キス以上の行為を受け入れてもらったことなど一度も、ない。

 素肌に触れること…いや、素肌を見ることすらタブーだったのだ。

 たった今、死ぬほど嬉しい告白をもらったばかりでも昇天してしまいそうなのに、まさか歩はその先に進もうとしているのか。




「僕を……龍也のものにして」

 スルッと脱いだパジャマの下は、ほんのりと焼けた健康的な美しい肌。

 日焼けしにくい体質である歩の身体も、さすがに連日の発掘作業で白さを残してはいない。

「……どう、したんだ…? 急、に…」

 そう言いながらも、龍也は歩の穏やかな微笑みと露わになった肌から目が離せない。

 僅かに語尾が震えるのが我ながら情けないと思うが、この状況ではいたし方ないと諦める。

「僕は、龍也に出会うために生まれてきたんだ」
「歩…」



 それは龍也も同じ思いだった。

 幼い頃から誰かを探す夢を見てきた。
 まるで身体までとけ込んでしまうような漆黒の闇の中で、そう、確かに誰かの名を呼んでいた。
 その夢には根拠も何もない。
 しかし、ただ、ただひたすらに、誰かを求めてきた。

 そして、大学で初めて歩にあったとき、それこそ何の根拠もなく、自分が探していたのはこの人だと確信したのである。


「あゆ…み」

 龍也はそのしなやかな肢体にそっと手を伸ばした。

「本当に…いい…?」

 その問いに、歩は香り立つような笑顔で応える。

「俺の…あゆみ……」

 うっとりと呟くように囁いて、龍也は歩を抱きしめた。
 そして、そっとベッドに横たえる。

「僕の…たつや…」

 龍也の愛撫は、頬へのキスから始まって、ゆっくりとその存在を確かめるように歩の全身を覆い……。

 ふと、龍也の視線が歩の一点に落ちる。
 そこには小さな『蹟』。

「歩…」

 呟いてそっと撫でる。
 龍也はそこへゆっくりと唇を落とす。

「…っ」

 一瞬鋭く走った感覚に歩が肩を震わせた。



『どれほどの時が経とうとも、私はお前を捜し出す。そして、お前は私を思い出す』



 竜翔…。長い間待たせてごめんね。
 僕は戻ってきたよ、あなたの元に。


「もう……離れない……!」


 歩の目尻から、ポロッと滴が零れる。
 そして、それを追うように、顔を上げ、歩を見つめる龍也の瞳からも熱い滴が落ちた。

「あゆみ…」

 とめどもなく、いく粒も滴は落ちて、歩の頬を濡らす。



『私が必ず捕まえる。必ず捕まえて…私のものにする』



 ずっとずっと待ち望んでいた時が近づく。


「やっと…………」


 指を絡ませ、強く握る。


「……捕まえた………!」


 その言葉は、肉体が幾たび生まれ変わろうとも、その魂が一つであることの証。






「あゆみ…力抜いて…」
「た、つや…」

 時間をかけて、体中を愛された。
 そして、全身が溶けてしまいそうなほど熟れきった頃、行為は『天の子』にとっての『禁忌』へと及ぶ。

 だが、もう鈴の音は聞こえない。
 聞こえるのは、絶えず囁きかけられる愛の言葉だけ。

「……あ…っ」

 誰にも触れられたことのないところが緩やかに、けれど熱心に拓かれていく。

「…う……くっ」

 歩はその身体にそっと埋め込まれた龍也の指の感覚に、思わず喉を反らし、身体が知らず逃げをうつ。

「歩…つらい? 辛かったら…」
 
 不安を表情に掃いて、龍也がその手を引こうとすると…。

「やめないで…っ」
「あ、ゆみ…」

「一つに…なりたい……」

 答える代わりに、きつく抱きしめた。

 やがて龍也の滾る情熱が、歩の中を侵し始める。

「う…あ…っ」
「あゆみ…あゆ…み……」

 自身を包み込み始めた、きつくて熱い締め付けに、龍也も何かに浮かされたように歩の名を呼び続ける。

「たつや…ぁ…」

 そして激しさを増していく龍也の動きに、歩はその頭を掻き抱くようにしてついていく。


「あゆみ…俺、生まれてきて…ほんとうに…………よかった…」





『次の生も、共にあろう』

 誓約は、今、成就した。






「なんだか離れたくないな…」
「そんなの、俺だって一緒さ」

 宮殿跡に立って、龍也は歩の肩をしっかりと抱いている。

「でも、また戻ってこれるね」
「ああ、半年なんてすぐだ」
「うん…」

 日はまだ低くない。しかし、その色はすでに夕刻の色を灯し始めている。

 出発の時刻が近づいていた。
 遠くから阪本が呼ぶ声が聞こえる。

 それに答えて、二人は歩き始める。

 
「それより、歩…」
「なに?」

 歩は可愛らしく龍也の顔を見上げてくる。
 そんな歩に、龍也は少し、ばつが悪そうに囁いた。

「その、これからバスで何時間も…」
「え?」
「いや、その…身体、辛いんじゃないかって…」

 一瞬呆気にとられたが、歩はすぐに顔を真っ赤にして龍也の胸にひじ鉄を一発お見舞いした。

「ってー…」
「もうっ、龍也のばかっ」
「だってさ〜」
「あ、もうこれ以上何か言ったら…」
「言ったら?」

 歩は少し考えて、ニヤッと笑う。

「次は来世までお預け!」
「はぁっ?」

 なんだよ、それ…とわめきながらあとを追ってくる龍也に、歩は思わず笑みを漏らす。

 大丈夫。来世では、僕が探してあげるから。






 遺跡の間を、乾いた風が心地よく抜けていく。
 馬の嘶き。
 夕べの祈りの声。
 芳しい祭壇の香。
 そして、愛しい人を呼ぶ声。


『鈴瑠』
『竜翔』






 朽ちた柱の根元に、じゃれあいながら遠ざかっていく一組の恋人たちの背を、そっと見送る影があった。

『やれやれ、随分と待たされたものだ…』

 その口元に微笑みが乗せられる。

『しかし、耐えた分だけ幸せが約束されているだろう…』


『夢見』を司るのは予想以上に『気』を消耗する行為だった。
 だが、もう、わずかに残された『気』も、すべて手放してよい時が来たようだ。



 影は、ゆらり…と、一つだけ揺らいだ。

 そして大気に溶けていく。



『さて、私も輪廻に戻るとするか…』





 ここは創雲郷。
 神話の終わりにして、始まりの地。





天空神話 完

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