小さな逸話集


「密やかに、金糸雀の歌を」
〜父と子の鈴瑠争奪戦〜




 重厚な執務の間で、側近と共に執務に励んでいた本宮が、突然顔を上げて眉を寄せた。

「鈴瑠はまだ戻らぬか」

「はい。未だ『勅使の間』かと」

 泊双の答えに、竜翔はさらに険しい顔を見せる。

「今何刻だ?」

 再びの問いに、泊双の答えを聞くと突然立ち上がった。

「後は明日でもよいか?」

 その様子に泊双が、珍しいこともあるものだと目を丸くした。

 成年以来、ずっと側で補佐してきたが、竜翔がその日の執務を途中で切り上げることなど滅多にない。

 あるとすれば、重要な別件が入った時くらいのもので、己の立場の重要性を良く理解している竜翔は、『本宮としてなすべき事』について、殊更厳しい。

 それがまた、どうして。

 しかし、滅多にないこと故に、何かきっと理由がお有りなのだろうと、泊双は頷いた。

「はい。差し支えはないかと存じますが」

「そうか。ではすまないが今日はこれで終わりだ」

 言うなり立ち上がり、竜翔は足早に扉へ向かった。

 その背中に、泊双は思わず声を掛ける。

「本宮様、どちらへ」

「鈴瑠を迎えに行ってくる」

「…は?」

 ぽかんと口を開けたままの泊双を残し、竜翔はあっと言う間にいなくなった。
 迎えに行くとはいったいどう言うことだ。
 宮殿の外へ出ているというのならともかく、鈴瑠は宮殿内にいるのだ。

 そしてその時。

「泊双様! 若宮様がお呼びでございます」

 扉の外から掛けられた声に、泊双は慌てて口を閉じると、威厳を正して鹿爪らしく頷いた。



                     



 時は少しさかのぼり…。

 風の吹き通る中庭で、お付きの武官たちを相手に遊んでいた若宮が、突然その手を止めて、ぷうっと膨れた。

「鈴瑠、遅い」

 言って、すっくと立ち上がる。

「僕、鈴瑠を迎えに行ってくる! 誰か泊双を探してきて」

 若い武官が一人、一礼ののち、走り去った。

 その様子を芳英が、珍しいこともあるものだと目を丸くして見ている。

 御誕生以来、片時も離れず側に仕えて守り続けてきた若宮が、このような自己主張をすることは稀だ。

 教育係である鈴瑠の厳しい躾の賜物だろう。
『言うべき事は言うが、我が儘は一切言わない』という、八歳にして己を律する術を身につけつつある若宮を、芳英は誇りに思っているのだが、それにしても今日の若宮は様子がおかしい。

 本来ならばすぐに鈴瑠に報告すべきところだが、生憎とその本人は朝から表宮殿へ出たまま戻ってきていない。

 今は一年で一番忙しい時期なのだ。

仕方がない、報告は今夜にするしかないと、芳英は、先ほどまで走り回っていた若宮の衣を丁寧に整えた。


 程なくして泊双がやって来た。

「如何なさいましたか。翔凛様」

 珍しいことは続くものだと思いながら、奥宮殿の翔凛の元へと急いだのだ。何かあったのだろうかと。

 ところが。

「鈴瑠を迎えに行きたい。ついてきて」

 用向きはと言えば、極めて私的なことのようで。

 執務中――所謂大人の時間――に、私用で翔凛が側付き以外の者を呼び付けることなど今まで一度もなく、泊双はまたしても目を丸くする。

 そう言えば、今し方、父宮である竜翔も同じ台詞を告げて執務の間を後にしたばかりだ。

 何かあったのか。…いや…何となく…もしかして…と思い当たることが無きにしもあらず…なのだが。



                     



 程良く空気が乾き、果実や花々、薬草などがもっとも豊富に、美しく咲き、実る頃。

 信仰の郷、ここ創雲郷では、国の安寧を祈る、年に一度の大祭を控えて郷全体が気ぜわしく動いている。

 郷だけではない。
 郷の外にある宿や店は、遠来の巡礼者を当て込んだ一儲けの準備に余念がなく、麓に点在する里や村では、民たちが着飾って郷に上がることを楽しみに、衣装を揃え、供物を調えている。

 そんな中、もっとも忙しいのはもちろん創雲郷の中心である本宮で、寺院と共に儀式を準備し、都からの勅使の饗応、郷や周辺の警備…など、やらねばならないことは山ほどある。


 そして今日も…。

「鈴瑠様は何処に?」
「先ほど勅使の間でお見かけいたしましたが」
「泊双様はまだ創雲寺からお戻りではないのか?」
「先ほど戻られまして、執務の間に」

 忙しなく飛び交う会話のあちこちに、鈴瑠と泊双の所在を尋ねる言葉が聞こえる。 

 竜翔の二人の側近、鈴瑠と泊双は多忙を極めていた。

 本宮の第二の側近にして若宮の教育係である鈴瑠は、翔凛が五歳になるまではその養育に専念してきたが、その後は少しずつ本宮の側近としての役目を増やし、今や完全にそれらが鈴瑠の両輪になっている。

 鈴瑠が――自身がこの地に在る真の意味を悟る以前の――『本宮に仕える』という本来の務めをも果たすため、翔凛の成長が一つの山を越えたのを見極めてのことであった。

 というわけで、鈴瑠と泊双には、様々な事柄を取りまとめる役目の他に、諸事を本宮に取り次ぐ役――すべてが二人を通して竜翔へと奏上されるのだ――も担っているため、まさに目の回るような忙しさだ。

 その上、鈴瑠には竜翔の伴侶として奥向きの役目もある。
 これはもちろん公にされているわけではないが、芙蓉が遺言として、翔凛だけでなく竜翔の今後も鈴瑠に託したという経緯があるため、郷では公然のこととなっている。

 まさに、一人数役。
 しかもそのどれもが余人を以て代え難いものばかり。

 そうなると当然、普段は当たり前のように過ごしている、所謂『団欒の時間』と言うものが削られることになり、ここのところ、竜翔と翔凛の不満は日々募っていくばかりだ。

 そのことはもちろん、鈴瑠はひしひしと感じ取っているのだが、だからといって今はどうしようもなく、ともかく大祭をつつがなく終えることが最優先だと気持ちを切り替える。

 しかし。鈴瑠は『何だか今年は変だ』と感じている。 

 大祭は毎年行われ、忙しいのは毎度同じだ。 
 なのに、特に今年は二人の我慢がきかないような気がする。

 翔凛はまだ子供だから、大祭には出席するだけでいい。
 しかも、この期間は鈴瑠が多忙なため、翔凛の勉学は一時休みとなっている。

 だから例年ならば、喜んで伸び伸びと遊んでいるはずなのに、今年はやけにまとわりついてくる。

 そして竜翔。
 統治者として最も重い責任を担っている本宮として、大祭のあれこれに専念し、同じように忙しい鈴瑠の『時間割』も尊重してくれて、奥向きの用が後回しになっても、『構わないから、今はお互いのやるべき事に専念しよう』と言ってくれるのだが、今年はやけに、『早く奥へ戻れ』と再三のご下命がある。しかも有無を言わさず…だ。

 やはり何かがおかしい…と思うのだが、結局忙しさに取り紛れ、深く考えないままになっている。



                    



 そして、大祭の勅使が都から到着して四日目のこと。

 諸事の他、勅使の饗応という重大事が増え――しかも今年の勅使は何故かやたらと世話が焼けるし――長い一日をやっと終えた鈴瑠が一日の終わりの祈りを捧げに祭壇の間へ行っている間に、奥宮殿の居間では親子が向き合っていた。


「よいか翔凛。鈴瑠鈴瑠とまとわりつくな」

 父が威厳をもって見下ろすと、小さな息子は精一杯背伸びをして食ってかかる。

「どうしてですか? 鈴瑠は僕の養育係なんですよ?」

「それを言うなら、鈴瑠は本宮の側近だ」

「父上の側近なら泊双もいるではありませんか。でも僕の養育係は鈴瑠一人です」

「采雲もおるではないか」

「采雲はお師匠であって養育係ではありません」

「一緒だろうが」

「違います。鈴瑠は僕の生活全般の養育と教育の係で、采雲は…」

「ああ、わかったわかった。だがな、ともかく鈴瑠は今一番忙しい時期だ。邪魔するんじゃない」

 言われて息子はぷうっと膨れた。

「それを仰るなら父上だってそうではありませんか」

「なんだって?」

 父の目がスッと細められる。

「父上も、鈴瑠が表宮殿で都からの御使者とお話中だったのに、執務時間は終わっておる!…なんて、強引に奥へ連れ帰られたじゃありませんか」

 ビシッと指摘されて、父が固まった。

「…翔凛。お前どこでそれを見ていた。許しなく表宮殿へ立ち入ってはならぬと言ってあるはずだが」

「泊双を伴っておりましたから、お許しなどいりません」

 確かに、泊双か鈴瑠を伴っていれば父宮の許しは要らないのだが。

「何故泊双と?」

「鈴瑠を迎えに参ったのでございます」

「ほらみろ。お前だって鈴瑠の邪魔をしにいったのではないか」

「違います。僕はちゃんと鈴瑠のご用が終わるまで見張って……じゃなくて、待っていようと思ったのであって…」

 息子の表情に、一瞬『しまった』と浮かんだのを、父は見逃さなかった。

「…翔凛」

「…はい」

「お前、何を考えておる」

「…あの…」

「もしかして、あの勅使のことか」

「……はい」

「やはりな」

 苦々しげに吐いた父を、息子が首を傾げて見上げた。

「父上?」

「どう思う、あの勅使を」

 問われて、本当の事を言って言いものかと、ほんの少し逡巡したが…。

「…あの御使者は…好きではありません」

「どうしてだ」

「当地へ到着して以来、鈴瑠鈴瑠とつきまとっております」

 気になって仕方がないから、正直に告げた。すると…。

「お前もそう思うか」

 お前も…ということは。

「父上も?」

「ああ。いつ見ても鈴瑠の側をうろうろしておる。気に入らん」

「やっぱり!」

 父も気がついていたのだと、嬉しくなる。

 それは父も同じなようで、息子の肩をしっかりと抱き寄せて『何とかせねばならんな』と呟いた。

 そして、二人であれやこれやと考えること暫し。



「父上」

 何かひらめいたのか、大きな瞳をさらに見開いて、息子が父の袖口を引いた。

「何だ」

「鈴瑠を迎えに参りました折り、御使者が侍従に、腰が痛いから薬草を…と申しつけていたのを聞きました」

「腰が痛い?」

「はい。都から八日も輿に揺られてきて、すっかりやられてしまったそうです」

 都からここまで、歩けば約五日の行程だが、輿の行列となると山道が少々難儀になるため、さらに二、三日かかる。

「そんな歳でもあるまいに、情けないことだな」

 女性の身で、しかも病み上がりであった芙蓉も同じように七日の旅を輿に揺られて嫁いできたが、疲れなど見せず、凛とした佇まいを見せていたと言うのに。

「まったくです」

 二人して、呆れたことだと肩を竦める。そして…。

「そこで父上。良い考えがあるのですが…」

「なんだ?」

 息子の、『耳を貸して下さい』…と言った仕草に、父は誰もいないと言うのに辺りを憚り、息子を片腕に抱き上げた。

 そしてまた息子も、誰もいないというのに辺りを憚り、父の耳にそっと告げた。

「花山寺へ……」



                     



 翌朝、翔凛は芳英たちを伴って花山寺へ出向いた。

 花山寺では、籠雲・采雲をはじめとする僧たちが、総出で出迎える。

 普段、学問や私用のためにここを訪れる折りにはもちろんこのような出迎えはない。

 なのに何故今日は…というと、それは翔凛が『本宮の名代』で訪れたからに他ならない。


「勅使様を花山寺で治療…でございますか?」

 若宮を上座に置き、正面の下座で籠雲が『はて』…と首を捻る。

「しかしその件に関しましては、先日宮殿よりお使いが参り、薬草をご所望でございましたので、拝診させていただきましたが、それほどのご重傷ではなく…」

 何のことはない、ただの疲れと判断し、緩やかな効き目の薬草を処方したのだ。

「籠雲」

「は」

「面倒をかけますが、これは本宮様の命であります」

 捧げ、差し出された書状は正式なもので、当然、本宮・竜翔の名が直筆で記された上に、印まで押されている。

 これでは逆らえない。
 いや、逆らうほどのものでもないが。

「勅使様のお世話には侍従を三名遣わします。お食事も宮からお運びいたしますので、こちらには治療に専念していただくだけで結構です」

 若宮の言葉に、籠雲がひれ伏す。

「それはありがたいことでございます。こちらでは十分なおもてなしができませんので」

「勅使様には大祭にて大役がございます。大祭までの間、くれぐれも勅使様を御病室からお出しになりませんよう」

 大祭が済めば、勅使はそのまま都へ戻る慣わしだ。
 都の天子にいち早くの報告のためということになっている。

 つまり、本宮は『郷から追い出すまでここに閉じこめておけ』と命じてきたに他ならない。

「畏まりまして」

 籠雲の承諾の言葉を聞き、若宮は頷いた。

「よろしく頼みます」

 鈴瑠に瓜二つの可愛らしい容姿に、父宮譲りの物言いが何やらおかしく、籠雲は、思わず口元が綻びそうになるのを慌てて引き締める。

 だが、一生懸命威厳を正して名代を務める若宮の姿はなかなかに初々しく爽やかで、このまま真っ直ぐのご成長を期待するばかりだと、心を温かくした。




「籠雲様、これはいったい…」

 翔凛を見送った後、側に控えていた采雲が訝しげな声で話しかけてきた。

 ご下命の中身にも納得できないが、このようなご下命があったことも今まで一度たりともなく、何から何まで怪しいことだらけと思える。

「鈴瑠様や泊双様はご存じなのでしょうか」

「いや、鈴瑠は与り知らぬことだろう、むろん、泊双もな」

 おそらくは、本宮と若宮……いや、『父と子』が二人きりで画策したことに違いないと籠雲は小さく笑った。

「では、何故…」

「実はな、先日泊双が参った折り、ちらと気になることを申しておったのだ」

「気になること…でございますか」

 重大事が起こったか…と采雲が眉根を寄せてみれば…。

「勅使様が鈴瑠を大層お気に召したご様子でな、随分と鈴瑠の手を煩わせておられるようなのだ」

「それが……あ。」

 それが今回のこの一件とどう…と言いかけて、采雲は口を噤んだ。

「そういうことだ、采雲」

 愉快そうに笑いながら、『勅使様のご病室』を整えに治療院へと向かいながら籠雲は、ほんの少し呆れながらも、竜翔と翔凛に愛されている鈴瑠を嬉しく思う。

「しかし、翔凛様も、頼もしくお育ちあそばされたものだ」

「はい、学問はもちろん、その他におかれましても、非常に積極的で利発であらせられます。…ただ、今回のことには若干邪なものを感じざるを得ませんが…」

「なに、人の上に立つもの、人間らしくあらねば人民の心も解るまいて」

 ほんにお心豊かな親子でいらっしゃる…と、籠雲はやはり嬉しく思うのだ。

「翔凛様は、慕われる統治者におなりであろう。采雲、これからもしっかりとお助けして参るのだぞ」

「はい、必ずや」

 決意を込めて、采雲はしっかりと頷いた。



                    



「よくやった、翔凛」

「はい!」

 翔凛が花山寺から戻って後、すぐに勅使は花山寺へと護送された。

 何やら不満そうであったが、『花山寺にて、国一番の施療をご用意いたしました』と言われてしまえば駄々をこねるわけにもいかず、諾々と従ったのだった。


「さて、これで鈴瑠も少しは時間が取れると言うものだ」

「はい。明日は鈴瑠と供物を調えに創雲寺へ参ります」

「ちょっと待て。鈴瑠は明日、一緒に祭礼服を合わせる予定だぞ」

「父上っ、ずるいです! どうして一緒なんですかっ」

「何を言う、お前こそずるいではないかっ。供物を調えに行くのなら、芳英を供にすれば良いではないか!」

「父上こそ、祭礼服のお支度なら泊双を伴われればよろしいのです!」

「いかがなさいましたか、お二方とも」

 泊双がやってきた。

「泊双、明日は祭礼服を合わせる予定だなっ」

「違いますっ、供物を調えに参るのですっ」

 勅使を宮殿から追い出してすっかりご満悦かと思えば、何故だか妙に緊迫した様子の親子に泊双が首を捻った。

「いえ。明日は大座主様のご名代が奥の祭壇の間に供物を捧げに来られますので、お二方ともこちらにいていただかなくては困りますが」

「「…あ」」

 少々、浮かれすぎたようである。



                    



「しかし、あれはまだ八つになったばかりだというのに、鈴瑠に似て口ばかり達者になってくる」

 表宮殿の執務の間。
 今年も大祭を無事に終え、勅使を追い返して、やっと一息ついたところだ。

「…何か仰いましたか、本宮様」

「うわっ、鈴瑠っ、いつの間に…」

 泊双が笑いを堪えている。

「私に似て、口ばかり…と聞こえたような気がいたしましたが」

「そ、空耳だろう。なっ、泊双っ」

「はて、私にも聞こえたような気がいたしましたが」

「泊双〜!」



                    



「もう…。我が子に張り合ってどうするの?」

 手を繋ぎ、ゆっくり歩くと、静けさの中に草を踏む音が柔らかく響く。

 下からそっと、竜翔の様子を覗いてみたが、しかし竜翔の視線はむくれたように明後日の方を向いている。

 翔凛を寝かしつけ、やっと二人きりになり、月明かりに照らされた中庭で、久しぶりにゆっくりとした時間をもつことができたのだが。

「翔凛はまだ子供なんだよ? 僕にまとわりつくのだって、母宮様がいらっしゃらないから、その代わりって言う部分が大きいんだから」

「それはわかっているが…」

 わかっているが、納得しかねる…といったところか。

「父宮様にも甘えて、お膝にも乗ってくるでしょ?」

「…まあ、な」

「じゃあ、ご機嫌直して?」

「…鈴瑠…」

「ね?」

 小首を傾げて念を押すと、竜翔の表情はやっと綻んだ。

「では、先ほど翔凛に聞かせていた歌を聞かせてくれ」

 言いながら抱き上げ、石造りのベンチに腰かけて、いつものように鈴瑠を膝に乗せる。

「え…。う、歌は…」

「綺麗な旋律だったではないか。どこで覚えてきた?」

「あ、あれは、この前采雲と薬草の里へ下りた時に、興行に来ていた旅の一座の子から教えてもらった…んだけど」

 金糸雀と呼ばれる少年は、まだ幼いというのに、その名にふさわしく大層美しい声で数々の歌を歌い上げていて、その姿に深い縁を感じて声を掛けた。

 そして、親しく話した中で、一番心に残った歌を教わってきたのだ。


「…歌は苦手なんだってば…」

「だが、美しい声だったぞ?」

 竜翔も『金糸雀』の歌を聴いていれば、そんなお世辞は言えないはず…と、ちょっと恨みがましい視線を投げてみたが、竜翔はすでに待ち遠しいといった面もちで、鈴瑠が歌うのを待っているようだ。

「…ほんのちょっとだけ…だよ?」

「ああ」

 嬉しそうに頷く竜翔に、鈴瑠は本当にほんの少し、小さく小さく、さわりを歌う。

「綺麗だ…」

 それは、歌が…なのか、それとも鈴瑠が…なのか。

 うっとりと呟いて優しく抱きしめられると、やがてしっとりと唇が重なって、歌が途切れた。

 月が雲に隠れ、辺りがふわりと暗くなる。
 二人の姿を、そっと隠すように。


「疲れただろう?」

 闇が深くなっていく中、暖かい腕に包まれて、優しく問いかけられた。

「ううん。平気だよ」

 それでも、甘えたい気分になって、その逞しい肩にそっと頭を預ける。

「そもそも見せかけの身体なんだから、傷もつかなければ痛みも感じないんだよ? だから疲れたりもしないって」

 それは、竜翔と籠雲だけが知る事実。

「…だが、それは身体だけの話だろう?」

「…え?」

「身体は見せかけのものでも、心はここにしっかりとある。泣いたり怒ったり笑ったりする、本物の心があるではないか」

「…竜翔…」

「心が疲れること…それが一番恐ろしいことだ」

 かつて、自身が心を失いかけた時のことを思い出したのか、一瞬視線が遠くなる。

 しかし、それはすぐに戻ってきて、また鈴瑠を暖かく包んだ。

「それに、身体が感じないというのなら、その分、心の負担は増えるのではないか?」

「心の負担…」

 自分のことなど、考えたこともなかった。自分は、自分のためにここに在るわけではないから。

 しかし、その思いは簡単に竜翔に見抜かれてしまう。

「鈴瑠…私と翔凛のために…心健やかであってくれ…」

 そう言えば、鈴瑠は必ず素直に頷いてくれるから。

 案の定、小さく…しかし、しっかりと頷いた鈴瑠に、竜翔は満足そうに微笑んだ。




 天から遣わされたという鈴瑠。

 だがその口から告げられるであろう『天意』を竜翔はまだ知らない。

 けれど、鈴瑠がこの地にある限り、自分は全力でその存在を守るのみ。


 ――愛しい鈴瑠。お前がずっと、笑顔でいられるように。


おわり



2008年発行 同人誌掲載作
2013.9.29 サイトUP