小さな逸話集


「古の瑠璃の珠」その後。



 
 まさに『バケツの底が抜けたような』大雨で、研究室に閉じこめられた夜が明けて。

 それこそ、その大雨に何かを綺麗さっぱり流してもらったかのように、やたらとすっきりした気分で一日を過ごした歩と龍也は、『ここで夜明かししたんだから疲れているだろう?』という阪本教授の心遣いで、いつもより早い時間に大学を後にした。




「え、何? 龍也ってば本当にワイン買うの?」

 大学の最寄り駅が始発の、私鉄のローカル線に乗って四駅。 

 二人が暮らしているワンルームまで徒歩五分という駅前には、一通りのものが揃っていて便利なのだが、その中の、時々立ち寄る小さな酒屋に、龍也は歩の手を引いたまま入っていく。


「なんだよ、歩。口から出まかせだと思ったわけ?」

「うん」

 即答されて、龍也がコケる。

「あのなあ〜。俺が今まで歩にいい加減なこと言ったか?」

 ここで『言った』と即答すれば、龍也はさらにコケてくれるのだろうが、残念ながら…。

「…ない、けど」

「だろ?」

 そう。龍也は有言実行の男であって(不言実行の時もあるのだが)、思いつきや軽はずみなことは口にしない。

 ダジャレはやたらと多いのだが、いい加減な事と言われれば、ないものはないのだから、ないとしか言いようがなくて、歩がちょっと口を尖らせる。


「じゃあ、なんのお祝い?」

 確か、『ちょっとしたお祝いだ』と言ったはずだ。

「ん〜? 内緒。帰ってからゆっくり話すって言ったろ?」

 話す口調はやたらと上機嫌で、歩はますますわからなくなる。

「俺、パスタ作るから、歩はサラダとスープ担当な」

「あ、うん、それはいいけど…」

「けど?」

「サラダもスープも…だなんて、豪華版だね」

 いつもは『サラダかスープ』なのだ。

「だから、お祝いだって言ってるだろ」

 笑いながら頭をかき混ぜてくる龍也に、歩はこっそりと怪訝な目を向ける。
 だが。

 口調も表情も上機嫌なのに、パタリと合った龍也の瞳は、何故か少し、探るような色をしていた。


 ――龍也…?


 そのギャップに戸惑い、少し首を傾げてみれば、龍也は僅かに苦笑して視線を逸らした。



 それから。

 ワインの他に食材も買って、五分ほどの帰路についている間にも、時々龍也は何か物問いたそうな視線を歩に寄越す。

「ね、だからなんのお祝い?」

「だからそれは帰ってからゆっくりだってば」

 気になるからと再度尋ねてみても、相変わらず同じやりとりになって、歩はもう一度首を捻る。

 そして、ふと気付いた。

 この、何か言いたげな視線は、何かを思いだして欲しいと言うことなのだろうか。もしかして、今日は何かの記念日だったとか。

 大切な日を忘れているのだとしたら大変だ…と、歩は高速で記憶を辿るが覚えがない。

 まず思い当たりそうな『誕生日』だって今日じゃない。


 ――まさか、出会った記念日とか言うんじゃ…。


 龍也は案外そういうところはロマンチストで、どちらかというと、歩の方が無頓着なので、『出会った記念日』とか言われてしまったら、残念ながら『出会った日』をはっきり記憶していないのだから、お手上げだ。もし薄情だと責められたら謝るしかないだろう。


 ――素直にごめんって言うしかないよなあ。

 仕方ない…と、内心で小さく嘆息して、無理矢理ケリをつけてみた。



                     



「歩、そっちいいか?」

「うん、ばっちり!」

 結構な手際の良さで夕食のテーブルを整え、歩は満足そうに頷いた。

 お祝いのテーブル――未だに歩はなんの祝いかわからないが――とは言っても、元々学生一人暮らしの小さな部屋で、食器その他が満足にあるわけではないが、それなりにいい感じになったなと思う。

 そして最後にワイン用のカップをきちんと並べる。

 これは、前回の発掘調査後に、阪本教授から『がんばったご褒美だ』…と、ペアでプレゼントされたもので、二人の大のお気に入りだ。

 なんでも現地の古木を使って作られた物らしい。

 渡された時、手触りが懐かしくて、思わず涙がこぼれそうになった。

 あの当時、都では銀器が使われていたけれど、質素を旨とする祈りの郷では銀は贅沢品とされていて、滅多に見ることがなかった。

 本宮でも、勅使饗応など、郷の外からの賓客をもてなす時のみに使用されていた。だから、普段の食器と言えば木製か陶製だった。

 もちろんそれは、統治者である竜翔も、跡継ぎである翔凛も同じだったけれど、二人のものにはきちんと紋章が彫られていたり、描かれていたりして、精巧な造りの美しい物だった。


 ――木製のものは無理だと思うけど、もしかしたら、陶器は残ってるかも…。


 まるで『思い出探し』のように感じて苦痛を覚え始めていた発掘も、昨夜の大雨で綺麗に吹っ切れた。

 いつも側に、龍也がいてくれるのだから。


「何? 不気味な思い出し笑いして」

 次回の発掘での目標がまた一つ増えて、嬉しくなって思わず漏らした笑いを聞きつけた龍也が歩の額を小突く。

「失礼だな〜。不気味ってなに〜」

「だってさ、なんか嬉しそうに笑っちゃって」

 見れば、龍也は少し、拗ねた風で。

「だって楽しいこと思い出してたんだもん」

「なんだよ、楽しい事って」

「ん〜? 今度の発掘のお楽しみ〜」

 発掘と聞いて、龍也の目の色が変わった。

「何?」

「ナイショ」

「あゆみ〜」

「だって、龍也だって内緒にしてるじゃない」

「…う。」

「なんのお祝いか、そろそろ教えてくれないと乾杯もできないよ?」
 
 さあ言え…とばかりに迫ってみたが、龍也も今夜はなかなか強情で、ちらっと視線を逸らした後、とってつけたように、『冷めるから食べよう』なんて言い出した。

「龍也〜」

「まあまあ」

 軽くいなされて、またしても歩はちょっと口を尖らせるだけで言葉を飲み込む。
 自分も結構頑固なのだが、龍也もまた、こうと決めたらなかなか頑丈で動かない。

「じゃ、とりあえず次回の発掘の成功を願って、乾杯」

「え〜」

 どうして今夜はこんなにはぐらかすかなあと思いながらも、歩も渋々カップをカツンと合わせる。


「で、発掘のお楽しみって?」

「もう〜、自分は教えてくれないくせに〜」

「いいからいいから」

 こうなったら、本人が口を割る気になるのを待つしかないのだろう。
仕方なく、歩は自分のネタを話すことにした。


「えっとね。陶器とか、探してみたいな…って」

「陶器?」

「そう、食器とか。木製のよりは残ってる確率高いし」

「なるほど」

 龍也が真剣な顔で頷いた。

「でも、当時は銀器もすでに存在していたんじゃないか? 銀器の方が形を残している可能性は高いぞ」

「あ〜銀器はねえ…あんまり見つからないと思うなあ。元々の数が知れてたから」

 あまり使う機会のないものであったし、そもそも宮殿の奥深くに保管用の倉はあったから、霊峰崩壊の折りには真っ先に泥流に流されているはずで、あったとしてもかなり地中深くに埋まっているのではないだろうか…と歩は思いめぐらせる。

 それに、そんな愛着のない客用銀器より、歩にとって大事なのは竜翔の紋章が入ったものを見つけることなのだ。


「元々の数が知れてるって?」

 龍也がスッと目を細めた。

「……あ。……ええっと…」

 ついベラベラと喋ってしまった。

 まるで見てきたような事を言われて、龍也はきっと怪訝に思ったろうと、歩は慌てて口を噤む。

 実際、見ていたのだから仕方ないのだが。

 けれど気をつけないといけない…と、チラッと龍也を見上げてみれば、合った視線を今度は龍也が降ろしてしまい、その後は何だか静かになってしまった。

 龍也が黙り込んでしまったからだ。

 ――やっぱり龍也…変…だよ。

 気まずくて、小さくため息をつき、歩が手にしていたフォークを降ろした時、龍也がまた唐突に口を開いた。

「ところで歩、そんな薄着で大丈夫か?」

 春とは言え、まだまだ夜は肌寒い。今夜も少しずつ冷えてきた。

「あ、そう言えばちょっと寒いかも」

「何か上に着ろよ。体調崩したら、その『お楽しみ』の発掘に行けないぞ」

「そうだね。置いてかれたら大変だもんね」

 気まずい雰囲気から少しでも早く逃れたくて、歩は慌てて立ち上がり、ハンガーに掛けてあった上着に手を伸ばした。

 すぐに後ろで龍也も立ち上がる音がする。

 そして、その温もりはそっと背後から歩を抱きしめた。

「何? どうしたの、龍也」

 やっぱり今夜はいつもと違う。

「歩…」

 けれど、甘い呼びかけはいつもの優しい龍也そのまま。

 龍也の鼻先が歩の頬を撫で、そのまま首筋に顔を埋める。

 チュッと吸い付かれて歩はふにゃ…と、とろけて…。

「なんだか今日の龍也は甘えんぼさんだね」

 そう言って、笑いながら自分の胸に回されている逞しい腕をポンポンと叩く。

 浮いたり沈んだり、なんだか忙しないけれど、そんな龍也ももちろん大好きだから、歩は暖かくてしっかりとした身体にそっと背中を預けてみる。

 その時。

 歩を背後から抱きしめたまま、龍也が小さく何かを口ずさんだ。

 歌…だ。

 耳元に、呟くように、途切れ途切れだけれど届くその旋律には、聞き覚えがあった。

 …そうだ。遠い遠い昔、金糸雀と呼ばれた旅の一座の少年が、鈴瑠に教えてくれた歌。

 ずっと忘れていたけれど、それは、夜毎翔凛の寝室で口ずさんだ歌。

 子守歌が必要な年齢ではなかったけれど、翔凛が喜ぶので、いつも小さく小さく口ずさんで…。

 どこで聞いていたのか、竜翔もそれを気に入っていて、聞かせてくれと何度も言われたけれど、恥ずかしくてなかなか歌えなかった…あの、歌。


 どうしてそれを、今、龍也が…。

 歩の手が小刻みに震え始めた。

 その手を背後から龍也がきつく握りしめる。

 歩のその反応を、確かめるように。

「幾度頼んでも、お前は滅多に歌ってくれなかった」

 そしてその口調は、普段の龍也のものではなくて。

「本当は、歌は苦手なのだと…いつも恥ずかしがって…」

 抱きしめられている体の中で、心臓が飛び跳ねそうに脈打ち始めた。

 頭の中は散らかり放題で、何から考えていいのかまったくわからなくなってくる。

 今、自分がどこに…どちらの時代にいるのかさえぼんやりとしてきたその時、龍也が呟いた。

「……鈴瑠…」

 その瞬間、歩の何もかもが固まった。

 今、龍也は何と言った?

 聞き違えではないのか。

「…た、つや…?」

 漸く絞り出した声が、みっともないほど震えている。

 だが、耳に触れる龍也の熱い息もまた、震えていて、その緊張を伝えてくる。

 何かを…歩の口から漏れる何かを、待っているかのように。

 それは、期待なのか、それとも、懼れなのか。

 震える吐息はもう一度、耳元に囁いた。

 愛しいその名を、万感の思いを込めて。


「…鈴瑠、ただいま…」

 見開いた歩の目が一気に熱くなる。

 そして、二度と口にするまいと封じたばかりのその名は、涙と共に勝手に口からこぼれ落ちた。


「………りゅう…か……?」

 瞬間、背後から抱きしめられていた身体は返されて、正面からきつく、息もできないほどに抱き込まれた。

「不安だった…。自分は思い出したけれど、歩に鈴瑠の記憶があるのかどうか…。絶対大丈夫だと思ったり、でも、もしかしたらと思ったり…」

「…だから、あんな風に…?」

 探るような視線や言葉があったのかと合点がいった。

「…ああ。…けれど…もし歩に記憶がなくても、どうしてもあの懐かしい名で呼びたいって思ったんだ」

 たとえ歩に『なにそれ?』と、不思議そうな顔をされるだけで終わってしまったとしても、言葉にしてみたいと願ったのだと告白されて、どうしようもなく胸が熱くなる。

「もう一度…呼んでくれ…鈴瑠」

 ねだるように頬を合わせ、どうしようもなく甘く囁かれた。

「…竜翔……竜翔!」

 数え切れないほどの歳月、閉じこめられたままだった思いが一気に溢れだして、歩もまた強く龍也を抱き返す。


 と、そのまま足を掬われ、ベッドに運ばれてしまった。

 そして、もう一度呼び合えば、唇が塞がれる。

 むしるようにシャツが脱がされ、もつれるように絡み合うと、もう何が何だかわからなくなった。

 とにかく、今すぐに一つに溶けてしまいたい。
 誰にも、何にも、もう二度と、離されないように。

 性急に身体を繋ぐと、もう後は、お互いを呼び合うだけ。

 他に何の言葉もなくていい。
 呼び合う名の中に、すべてが籠められているから。

 そして、幾度となく求め合い、漸くすべてが満たされていくのを覚えた。
 身体を超えて、魂の底までも。

 何もかもが満たされて、落ちるように眠りにつこうとした歩に、龍也が囁いた。

「鈴瑠、次の生も、その次の生も…永遠に共にあろう」

「はい…。竜翔」

 幾たび生まれ変わろうと、必ず巡り会い、そしてまた来世を誓う。

 それは、何人にも損ねることのできない、魂の誓約。





2008年発行 同人誌掲載作
2013.11.3 サイトUP