小さな逸話集
「戴冠式の夜に…。」
〜翔凛、王になる〜
午に始まった戴冠式は、雲一つない晴天の下、一刻ほどでつつがなく終わり、その後各国の列席者から祝辞を受け、いくつかの儀式を含む一通りの行事を終えた翔凛は、夜の祝宴までの間、私室で束の間の休息を取った。 「大丈夫? 疲れたろう?」 扉の前まで大勢の侍従や女官が付き従っていたが、それらを下がらせて、悠風だけがその側にある。 「ううん、平気だよ」 だが、二年前、自身も同じことを体験しているからこそ、悠風には翔凛の笑顔に少し無理があることを簡単に見抜けてしまう。 「いいから。ちょっとおいで」 有無を言わせず、軽い身体をひょいと抱き上げて、そのまま椅子に深く腰を掛けて膝に乗せる。 やはり少し疲れているのだろう。 いつもなら憎まれ口の一つも聞けるところなのだが――照れ隠しなのが見え見えなところがまた可愛いと、悠風は常々思っているのだが――翔凛は意外に大人しく身体を預けてきた。 暫しの間、沈黙を守り、その身体を抱きしめて温める。 やがて悠風が翔凛の手を取り、その甲にそっと口づけた。 「我が国の新国王に、永遠の忠誠を」 本来は膝を折るべきところだが、おそらく翔凛はそれを許さないだろう。 本日の午までは国王だった悠風。 この国は建国以来、王の譲位はその死を以て行われるのが常であったため、今まで『存命の先王』と言う存在がなかった。 漣基の場合は、そもそも出自が他国であると言うことと、漣基自身が『王位は一時的に預かったにすぎない』と公言して憚らないこと、そして、本人の『自由でありたい』という強い希望から、王家の系譜にその名を記さないことになった。 しかし、漣基が『救国の英雄』であることには変わりなく、その名と功績は永く語り継がれるであろう事は明白で、漣基自身も、この国を第二の故国として愛し、悠風と翔凛の統治に全面的に協力することを約束してくれている。 なので、何ら問題はないのだが、悠風の今後の立場については、翔凛が少しばかり頭を悩ませていることには気付いていた。 悠風本人は、とりあえず自分は王家の血筋だから一度は王位を継いで筋を通しておかねばならないけれど、そもそも第三王子で、そのための教育などろくに受けていないし資質もないと言い切り、度重なる翔凛の説得にも関わらず、僅か二年で譲位を行ったのだ。 まだ二十二歳。 隠居するにはあまりにも早く、歴代の王の即位年齢からみても、まだこれから王位に就こうという年齢である。 それだけに、僅か二年で譲位を受けた翔凛の悩みも理解はできるのだが。 「先の王様が、新米にそんなことしちゃダメだよ」 思った通り、手に口づけただけでも翔凛は遠慮したのか、そっと手を引いた。 だが悠風はその手を離さず、再び口づける。 「何を言う。当代の王に忠誠を誓うのは、どのような立場とて当然のことだろう?」 「でも…」 「それに…」 少ししょげたような表情が可愛くて、ついでに頬にも口づける。 「それだけじゃないだろう?」 「え?」 「私には、翔凛の伴侶という大切な役割がある」 そして、唇にも小さく口づけを贈り…。 「…悠風…」 「お前のことは私が守る。だからお前は安心して、この国のために尽くせばよい」 その言葉に、翔凛は目を潤ませてギュッとしがみついてきた。 「…うん…。ありがとう…悠風…。…僕…がんばる…」 あまりに熱くしがみつかれ、つい身体が暴走しそうになったのだが…。 まだやらねばならないことがある。 「翔凛…。祝宴が始まる前に、一緒に行って欲しいところがあるんだ」 「あ、うん、いいよ。どこへ?」 尋ねたが、『来ればわかる』と言われ、翔凛は黙って悠風に従った。 取られた手は強く握られ、宮殿の奥へと導かれる。 「ここは…」 手を引かれてやって来たのは、王宮の奥、地下深くにある王家の霊廟だった。 翔凛は一度、悠風の両親と二人の兄の廟に参りたいと申し出たことがあるのだが、悠風が『あそこは怖いから嫌だ』と言うので実現していなかった。 内乱当時を知る大臣に聞いた話によると、悠風の両親と兄たちは、命を絶たれた後、この廟に無造作に投げ込まれていたという。 それを知って以来、悠風はここへ足を運んだことがなく、正式な埋葬は漣基と大臣たちが行ったと言うことだった。 なので、その後は翔凛も、参りに行きたいとは言えなかったのだ。 それなのに、何故、今日…? 「実は、二年前の戴冠式の時に、一人で廟の扉の前まで来たことはあったんだ」 王位に就いたことを、報告しようと思ったのだ。 「…でも、どうしても開けられなかった」 「悠風…」 「けれど翔凛となら、もう大丈夫だと思ったんだ。王位のこと以上に、大切なことも報告しなくちゃいけないし」 言いながら、悠風は静かに扉を押した。 百合の花が香る広い空間に、歴代の王と王妃が、王族と共に眠っている。 二人が立ったのは、その中でも一番新しい四つの棺の前。 手入れが行き届き、供えられている花も新しいものだ。 一際大きな棺が悠風の父のもので、その隣に寄り添う、花模様を彫ったものが母のもの。 そしてその両側を守るように、二人の兄が眠っていた。 「父上、母上、兄上…」 静かに語りかけて、翔凛の肩を抱く。 「私の生涯の伴侶です。今日、この国を継ぎました」 紹介されて、翔凛が静かに頭を下げる。 「はじめまして、翔凛と申します。至りませんが力を尽くします。どうかお導き下さい」 風もないのに百合が揺れて、一層濃く香ったような気がした。 「翔凛」 呼びかけて、手を差し出すと、素直に一回り小さな手が重なる。 「これを…」 悠風が懐から取り出したのは、花鳥の細工も見事な銀の腕輪。 「代々王家に伝わる『王妃の腕輪』。母上の形見だ」 取った手にはめて、そのまま上腕へ滑らせる。 衣に隠れて完全に見えなくなるが、そもそも他人に見せるつもりはないからこれでいい。 自分たちだけが、知っていれば。 「僕がはめて、いいの?」 「当たり前だろう? 私の伴侶なんだから」 優しく抱きしめられて、翔凛が小さく頷き、『ありがとう』と告げる。 「でも、なんか変だな」 悠風がクスッと笑った。 「翔凛は王なのに、『王妃の腕輪』だなんて」 つられて翔凛も、『それもそうだね』と笑いを零したが、ふと表情を改めた。 「ねえ、この国では、婚礼の誓いはどんな言葉なの?」 三年前、竜瑠の街で、創雲郷での誓いの言葉は交わしたが、この国の作法に則った誓いは交わしていない。 できることなら今、悠風の両親や祖先の前で、誓いたい。 この想いを永遠に。 それは悠風も同じだったのだろう。 優しく微笑んで、翔凛の手を取り口づけた。 「今ここに、娶せられし我が妃に、永久の愛と真の心を捧げる」 そして、再度口づける。 「翔凛…同じ言葉を…」 促され頷き、悠風の手を取り口づけた。 「今ここに、娶せられし我が君に、永久の愛と真の心を捧げる」 やはりもう一度口づけて、誓いを調える。 「この誓いは、何人たりにとも、覆されざるものなり」 言葉の最後に、優しい口づけが降ってきた。 また、ふわりと百合が香り、二人をそっと包み込む…。 …あやしい。あれは絶対あやしい。かなりきている。 「悠風様…」 「采雲か」 「はい。これを…」 宮殿の大広間。 儀式である昼間の『祝賀の儀』と違い、夜の『祝賀の宴』は始めから無礼講の様相を呈していて、三刻ほどの時が過ぎて未だに盛り上がりを見せるところもあれば、すでに撃沈しているところもあり、そのような客人には侍従たちが甲斐甲斐しく世話に回っている様子が見て取れる。 本当なら側から離したくないのだが、本日の主役である翔凛には酒を手に挨拶に来るものが絶えず、今も少し離れたところで南の王家の王子と何やら話が弾んでいる様子。 だが。どうも翔凛の様子があやしい。 これはそろそろ引き時か…と腰を上げようとした時に、背後からそっと寄ってきた采雲が、悠風に小さな薬包みを差し出したのだ。 「酔いに効く薬でございます」 「…ということはやはり」 「はい、かなり過ごされておられるご様子と拝見しました」 心配そうな様子で翔凛を見遣る。 「特にお弱いということはないのですが、さりとてお強いわけでもございませんので、念のためと思いまして」 「助かる。何しろ明日も行事はあるし、祝宴も続くからな」 「御意にございます」 采雲が頭を垂れる。 しかし、つと、顔を上げた。 「ただ…」 「ただ?」 「この手の薬草を調合したものは、翔凛様は服用なさったことがございません。故に、どれほどの効き目が期待できるかは、飲んでみて…ということになるのですが」 「そうなのか?」 「はい。効かぬと言うことはないのですが、少しばかり効きすぎる…可能性はあるかと」 「わかった。今夜は目を離さないようにするから案ずるな」 「お手数をおかけいたします」 「そなたも疲れたであろう? 明日もあるから、下がってゆっくり休んでくれ」 「ありがとうございます。それではお言葉に甘えまして…」 やはりまだ心配そうな様子で翔凛を今一度見遣り、膝を折って采雲は悠風の前を辞した。 「さて…」 立ち上がり、翔凛の元へ向かう。 「翔凛、そろそろ戻ろう」 「ふにゃ?」 …やっぱり。 すでに瞳は潤み、頬は林檎の様に染まって、危険極まりない色気がそこら中に垂れ流されている。 「悠風様、もうお下がりで?」 翔凛の側にべったりと張り付いていた南の王家の第一王子――王太子は御年二十二。 来月婚礼だとかで浮かれていたはずだが、その手が翔凛の腰に回っているのは何故だ。 「ええ。明日も明後日も行事は続きますので、そろそろ休ませないと、身体が持ちません」 顔だけはにこやかに、しかし少々乱暴にその手を翔凛の腰から外し、これ見よがしに抱き上げると、されるがままになっている翔凛をうっとりと見つめながら、王太子が嬉しそうに言った。 「宰相で在られた頃から噂には聞いていましたが、翔凛王がこれほどお可愛らしい方だったとは驚きですね」 その言葉に、そう言えば二年前の自身の戴冠式には、南の王の名代――王は国を空けないのが常であるので――はこの王太子ではなく、姉の第一王女であったなと思い出す。 美しいが、物言いといい立ち居振る舞いといい、なかなかに凛々しく勇ましい姫で、他の国の姫たちが漣基や悠風、翔凛、それに他国の王子を物色している中で、何故か女官の華蘭にべったり張り付いて、帰国の折りには連れて帰ろうとまでしてちょっとした騒ぎになったのだ。 だが、あの騒ぎのおかげで華蘭の秘めた恋が進展したのだから、今となっては良い思い出話ではあるのだが。 いや、それはさておき…だ。 未練がましくまだ翔凛の手を取ろうとする王太子を、悠風は見下ろし、言葉と視線で釘を刺した。 「ええ、有能な上に可愛らしい翔凛はこの国の宝ですから」 手など出そうものなら、この国のすべてを敵に回すことになるのだぞ…と。 「では、どうかごゆっくりお休み下さいますように」 首に巻き付いてきた翔凛をさらに抱きしめ、毒を含んだ笑みで殊更にこやかに言ってやると、王太子は怯えた様に目を逸らした。 「誰か」 呼ぶと侍従がすぐに悠風の前に膝をつく。 「王太子様をお部屋へご案内申し上げるように」 言い置いて、そのまま踵を返し、大広間を後にした。 やはり何人かぞろぞろとついてきた侍従を下がらせ、腹心とも言える華蘭だけを伴って、翔凛の私室へ戻る。 「華蘭、白湯を頼む。采雲が薬を持たせてくれたんだ。休む前に飲ませてやるから」 「はい。ただいま」 軽い身体を寝台に降ろすと、翔凛はまた『ふみゃあ』などという猫のような声を発して悠風に巻き付いてきた。 「こら、翔凛、少し離してくれないと、着替えられないよ?」 ただでさえ祝賀用の大げさな衣装を着ているのだ。 少しも早く、夜着に着替えさせて楽にしてやりたいと思うのに、これではかなわない。 「悠風様、お持ちいたしました」 「ああ、ありがとう」 巻き付いている翔凛を見て、華蘭が小さく笑いを漏らす。 「随分と過ごされたご様子ですね」 「そうだな。こんな翔凛は初めてだが…」 薬を飲まそうにも、翔凛はふにゃふにゃと、骨が抜けたように頼りなく、なかなか薬も白湯も口にしてくれない。 「翔凛〜」 困り果てた様子で悠風が呼んでも変わることなくふにゃふにゃとしている。 「悠風様、これはもう、お口移しでお飲ませするしかございませんわ」 言葉が弾んでいるように聞こえるのは気のせいか。 「…華蘭…」 「どうぞ、ご遠慮なさいませず」 にっこりと微笑まれて、がっくりと脱力してしまったが、本当に今さらと言えば今さらだろう。 「仕方ないな…」 なんて言うのは方便だが。 「ほら、翔凛」 しっかりと首を支え、呼びかけられて、にへら…と笑ったところへ薬を放り込み、むせる前に口移しで白湯を流し込む。 「ん〜」 少し暴れたが、きつく拘束すると、そのうちに『コクン』と小さな音がして、飲み下したのがわかった。 「やれやれ」 手の掛かる国王様だ。 「夜着のお召し替え、如何致しましょう」 手を貸そうかという問いだ。 「いや、いい。落ち着いたら着替えさせるから、華蘭も下がって良いぞ。明日も忙しいだろうから、ゆっくり休んでくれ」 「ありがとうございます。それでは下がらせていただきます。何かございましたらお呼び下さい」 「ああ、わかった。おやすみ」 「おやすみなさいませ」 優雅に膝を折り、華蘭はそっと下がっていった。 「さてと。どうしてくれようか、この子猫は」 「うにゃ?」 夜着に着替えさせてやろうと思ったが、やめた。脱がせるだけにする。 何しろ今日は、この国の作法で愛を誓った、二度目の初夜なのだ。 『うにゃ』だろうが、『ふにゃ』だろうが知ったことではない。 しかしそれにしても。 采雲が言った、『効きすぎる』というのはどれほどのものなのか。 どうも翔凛の様子は更に妖しい方向へ転がっているような気がする。 現にほら、目つきが…。 「ゆふ〜…」 「ん? どうした?」 潤んでいた瞳はさらにとろんと溶けていて、熱い息が悠風の首にかかる。 それだけで簡単に煽られてしまう自分も情けないのだが。 「…そばに、いてね」 「翔凛?」 「ずっと……はなさない、でね」 聞いたことのないような甘えた口調でねだられ、悠風の鼓動が跳ね上がった。 そこへ、とどめに『あいしてる…』などと甘く囁かれてはもう…。 「翔凛っ」 もつれるように寝台に転がり込み、剥ぐように衣を取り去り、忙しなく口づけと愛撫を繰り返し、その間にも柔らかく名を繰り返されて、準備もそこそこに性急に身体を繋いだ。 だが、酔いのせいなのか大した抵抗もなく翔凛の身体は悠風を受け入れて、端から甘い声を上げて悠風にしがみついてくる。 こうなったらもう、やりたいようにさせてもらわないと気が済まない。 華奢な身体を組み敷いて揺すり立て、とりあえず一度極めたら、後は、普段翔凛が嫌がるあんなことやこんなことやあれやこれやそれや……ええい、とりあえず全部だ! 「や…ぁ…」 途切れ途切れに漏れる甘い吐息に、時折涙声が混じる。 抵抗がないのをいいことに、弱いところを同時に何ヶ所も責めてみたり、達することのできないようにして苛めてみたり、上に乗せて激しく揺すってみたり。 とにかく寝台が広くて丈夫でよかったな…なんて思える一通りの好き放題をして、とどめとばかりに俯せにして背後から深く貫いて、足を抱えて抱き起こし、ゆるゆると揺らしながら耳を甘噛みしてみたら、小さいけれど一際艶やかな声を上げ、プツッと糸が切れたように翔凛は眠りに落ちてしまった。 もしかして、失神したのかも知れないが。 ぐったりと力を無くしたその身体を隅々まで丁寧に清め、夜着を着せてからそっと抱きしめる。 「母上は華奢な人だったんだけど…」 袖に手を忍ばせて、贈った腕輪をなぞる。 「その腕輪は肘の下でちゃんと止まってたんだ」 そのまま弱い脇腹をなぞっても、もう聞こえるのは安らかな寝息ばかり。 「なのに翔凛ってば、二の腕まで上がるんだもんな」 思わず笑いが漏れる。 王の激務はこの先さらに翔凛を華奢にしてしまうかもしれない。 けれど、自分が全力で守るから…。 改めて固く心に誓い、悠風は翔凛をしっかり抱き直すとその額に小さく唇を落とし、静かに目を閉じ、眠りについた。 そうだ。何かの祝賀の折りには、またたっぷりと翔凛に飲ませよう。 そうそう、采雲にあの薬を分けておいてもらわねばならないな…なんて、煩悩にまみれた夢を見ながら。 そして翌朝…。 「翔凛様、おはようございます」 「おはよう采雲。昨日はありがとう。薬くれたんだって?」 「はい。そのご様子ですと、ちゃんと効いたようですね」 「うん。頭も痛くないし、すっきりしてる」 「それはよろしゅうございました」 「ただ…」 「は?」 「何だか腰が…」 「腰…でございますか?」 「…あ…。ううん、何でもない」 何か思い至ったのか、慌てて言葉を濁した翔凛に、采雲はスッと目を細めた。 その時、その視線の先を、やたらと上機嫌の悠風が鼻歌混じりで行くのが見え、これは、薬草の調合を変えねばなるまいな…と、一人こっそり呟いた。 おしまい |
2008年発行 同人誌掲載作
2013.10.6 サイトUP