番外・現世編 「古の瑠璃の珠」

【最終回】


 ずっと、永い夢を見ていた。



 街のざわめき…物売りの声…夕餉の煙…。

 芳しい香の薫り…祭壇を彩る花々…祈りの時…。

 渡り行くそよ風…浄い湧き泉…木漏れ日がきらめく森の道…。

 守るべきもの…愛すべき人々…次へと繋ぐ使命…。

 出会い、愛し、別れ、そして誓った…。

 生涯を共にあろう…。 そして、次の生でも必ず巡り会おう…と。



 何もかもを押し流して奪い去ったあの激しい嵐と、それに続く恐ろしく永い暗闇を抜けると、そこには誰よりも愛おしい笑顔が待っていた。



                    



「もー、ほんとに大変だったんだから〜」


 前夜の嵐が嘘のように去った朝。

 大気中の埃も洗い流されたのか、空気は澄んでいて、まだ柔らかい春の日差しですら眩しいほどだ。窓の外の緑は輝く雫を溜めている。

 あれから歩は停電の回復を待って、龍也の身体をソファーまで運んだ。
 実際は「運んだ」と言うよりは「引きずった」という方が正しいのだが。


 身長差約20cm。もちろん大きいのは身長差だけではなく、骨格自体に差があるのは歴然で、外見だけで判断していいとすればまるで『大人と子供』といった風情だ。

 だから、歩はもしかしたら発掘調査よりも体力を使ったかも知れない。

 その証拠に、普段使わないところに筋肉痛が自覚できる。


「俺がでかすぎるんじゃなくて、歩がちっこくて非力なんだよ」

「あ〜! 床で寝ちゃった人間をソファーまで運んであげた恩人にそう言うこという?」

「あはは、ごめんごめん。ちゃんと感謝してるって」

「ほんと〜?」

 思いっきり疑わしげに見上げると、龍也はウィンクなどして茶化してくれる。

「もちろん。ただ、目が覚めたときに腕の中に歩がいなくて残念だったけどな」

「何言ってんの〜。ここ、大学の中なんだよっ? もう〜」


 ぷうっと膨れてみせる歩の頬を、昨夜の様子など微塵も感じさせない笑顔で龍也がつついてくる。



 夜が明けて、目覚めた龍也の前に、歩はいつもの笑顔を作って立った。何事もなかったように。

 そして、龍也もまた、まるで憑き物が落ちたかのような清々しい顔で『おはよう、歩』と微笑んだから、歩の笑顔は一生懸命作ったものから本物のそれに変わった。


 何もかもが元通り。
 いや、違う。

 歩は昨夜、これからの自分たちの方向をはっきりと見定めた。
 悩むことは何も無かったのだから、これからもずっと二人寄り添って生きていけばいいのだと。

 だから『元通り』なのではなく、『それ以上』なのだ。

 前世で添い遂げられなかった分も、龍也を愛して、龍也に愛されて、いつかこの現世を全うする時まで絶対に離れない。

 そしてまた、次の生も必ず龍也と巡り会う。
 歩はそう確信していた。

 だから、気になって仕方のなかったもう一つの事――9歳で別れた翔凛の事も、『どの生にあっても幸せであれ』と祈り、信じようと決めたのだ。



「歩、コーヒー入ったぞ」

「あ。ありがと」

「どういたしまして」

 と、いいながらも龍也はカップを歩に手渡そうとしない。

「歩、ありがとうのキス…プリーズ」

 幸せそうに表情を緩める龍也に、歩は口を尖らせる。もちろん照れ隠し…だ。

「…もうっ、ここが学内だってわかってる?」

「もちろん。ここは俺たちの大事な研究室だ」

「だったら…」

「だから…だろ?」

 パチンと音が聞こえそうなほどのウィンクを、性懲りもなくまた歩に贈り、龍也はもう一度『ほら…』と小さく唇を突きだしてくる。

「…ほんとにもう、龍也ってば、わけわかんない…」

 観念した歩が息を殺して背伸びをする。
 それに合わせて龍也もまた少し膝をかがめ、二人の唇が小さく重ねられた。


「ようっ、早いな二人とも」

 いきなり開いたドアから聞き慣れた声。

 慌てて飛び退こうとする歩の腰を片手でがっちりと掴み、龍也は恨めしそうな目を声の主に向けた。

「せんせ〜。もしかしてわざと…とか言いません?」

「あっはっは、まさか」

 心底楽しそうに笑う阪本の様子に肩を竦め、龍也は腕の中でもがく歩を解放する。

 歩はそんな龍也に一発肘鉄をお見舞いすると、その手から自分のカップを奪い取り、そして、阪本にもコーヒーを淹れようと新しいカップを手に取った。

 そして。

「わざとだったらもうちょっと『いいところ』まで進んでから乱入するって」

「せんせ〜……」

 若くして世界にその名を知られた考古学の第一人者とは思えない腐った発言に、今度は歩も盛大に脱力してしまう。


「って、もしかしてお前たち、昨日帰れなかったのか?」

「その通りです」

「そうか。昨夜の雨はすごかったからな。農学部の試験場が水路の増水で水浸しになったって大騒ぎしていたぞ」

「あ〜、あの水路、ちょっと底が浅いですからねえ」

 龍也がそう答え、歩が湯気の上がるカップを阪本に手渡したとき、開いたままのドアからぴょこんと小振りな顔が覗いた。

「あ、れ?」

 その顔に、歩の目が大きく見開かれる。

 その視線を受けて、阪本が柔らかく微笑んだ。

「ああ、入っておいで」

 手招きをすると、『お邪魔します』と言いながらその少年は阪本の側へとやってきた。

 濡れたような真っ黒の瞳。白い肌。桜色の唇。

 どれをとっても少女めいている、まだあどけない表情のその子の、遠慮がちに辺りを伺っていた視線が、歩のところで止まった。

 そして、歩に負けないぐらい、大きく見開かれる瞳。
 見つめ合う、歩と少年。

 そんな二人を見て、龍也もまた驚きの表情を隠すことなく阪本を見る。


「紹介しよう。来週入学する新入りだ」

 どうだ、驚いただろう…と言わんばかりの表情の阪本に、龍也も歩も、そして『新入り』と紹介された少年も言葉がない。

 なぜなら。

「私も初めてあったときには、歩が増殖したのかと思ったからな」

 そう。 丸2年、歩と身近に接してきた阪本がそう言っても不思議ではないほどに、彼らは似ていた。

「だがな、この子が歩にそっくりなのは、外見だけじゃないぞ。なんと合格発表のその日に私に熱烈なファンレターを持ってきてくれたんだ」

 それは2年前の歩とまったく同じ行動。
 歩もまた、合格発表のその日に、徹夜で書いたファンレターを持って阪本のところへ突撃してきたのだ。


「というわけで、歩以来の『見習い』復活だ」

「じゃあ、僕…っ!」

 阪本の言葉に、歩を見て固まっていた『新入り』の表情が輝いた。

「ああ、正式には2年からしか研究室には入れないが、1年間ここで先輩たちの手伝いをしてくれ」

「はい! ありがとうございます!」 

「それにしても、本当にそっくりだな、お前たちは」

 阪本が歩と新入りの頭をポンポンと撫でる。

 こうしてみると、ほんの少し新入りの方が背が高い。
 そして、目が少し、やんちゃな色を宿しているだろうか。


「まさかとは思うが、お前たち、生き別れの双子とかじゃないよな?」

「「ええっ? 違います!」」


 その否定の言葉は二人同時に、しかもとてもよく似た声で発せられて、言った本人たちも龍也も阪本も思わず吹きだしてしまう。


『生き別れの双子』


 そんなものではもちろんないけれど、遠い遠い昔には、二人の魂はそれ以上に近かった。

 ここに…目の前に立つのは、かつて心から愛し、慈しみ育てた魂。
 どの生にあっても幸せであれ…と心から祈った、愛しい子。

 もう二度と、まみえることはないのだろうと諦観したその朝に、こんな出会いが待っていたとは。

 歩はその子に向かって柔らかく微笑む。


「よろしくね、見習いくん」


 ――やっと会えたね。


「はいっ、よろしくお願いします、先輩!」

 白い頬をほんのりと染めて、それでも元気よく返事をする新入りを、龍也も目を細めて優しく見守っている。


「よし、それじゃあせっかく来たんだから、いい物を見せてやろう」

 そう言って阪本が示したのは、ガラスケースに収められた『竜翔の守り刀』。


「あ! これは去年の発掘で初めて出土した『刀』ですよねっ?」

 さすがにファンレターをもって突撃してくるだけのことはある。予備知識はしっかりと身についているようだ。

「ああ、そうだ。前回の発掘調査の目玉…といってもいいだろうな」

「…すごい…。写真で見るよりずっと綺麗だ……」

 目を輝かせてガラスケースに張り付く新入りの様子を見て、歩はまた一つ確信をする。


 ――信じなさい。そして願うのです。そうすれば、結ばれし魂はまた、必ず巡り会うでしょう。


 それは、遠い昔に自らが翔凛に語って聞かせた言葉。
 そしてそれは現実のものとなって今、ここに在る。



「…っ…」

 小さな嗚咽が聞こえた。
 慌てて覗き込むと、新入りは『守り刀』を見つめるそのやんちゃそうな瞳から大粒の涙を零していた。


「ど、どうしたの? 大丈夫?」

「…ご、ごめんなさい。なんだか…」

 歩の問いに答えようとしたものの、感極まったかのような様子で言葉を詰まらせた新入りの肩を、阪本がギュッと抱きしめた。


「そうかそうか。可愛いヤツだなあ。そんなにここへ入れた事が嬉しいか。うんうん」

 ご満悦の体で頷いている阪本を余所に、龍也は新入りに向かって『こら、今から弱み握られてたら、好き放題こき使われまくるぞ』などとアドバイスをしている。


 2年前の歩もそうだった。『憧れの研究室に出入りを許されたこと』が嬉しくて、涙が出た。その夜は眠れなかった。

 けれどきっとそれだけではないのだ。
 あの時の自分にはわからなかったけれど、今ならよくわかる。

 かつて翔凛だった彼の魂もまた、自分と同じく『あの場所への思い』に満ちているのだと。


「次の発掘が楽しみだね」

 背伸びして、龍也の耳元にそう囁くと、龍也もまた、満面の笑みで『そうだな』と頷いた。


「そうだ。龍也も歩も朝食はまだだろう? 連れてってやろうか?」

 阪本の提案に、歩が両手を上げて騒ぐ。

「わーい! センセ、好き〜」

「…歩はこう言うときだけ『好き』って言ってくれるよな…」

「え? そんなことないですよ〜」

 脱力する阪本に、はしゃぐ歩、そして笑いを堪える龍也。

 そんな様子に、新入りも、長い睫毛に溜まった涙をギュッと拭って控えめな声を上げて笑う。


「どうだ、新入り。お前も来るか?」

「あ。…ええと、ありがとうございます! …でもちょっと待ち合わせがあって…」

「なんだ、デートか?」

 明らかにからかうつもりで言っている阪本の言葉に、新入りは耳まで真っ赤に染めて、その言葉が図星であることを3人に教えてしまった。

「や、そんなんじゃなくて、ええと、その、幼なじみで、そいつも今度ここの薬学部に入学することになってて…っ」

 しどろもどろに説明する新入りに、歩はにっこり笑って見せた。

「幼なじみから恋に発展することなんて珍しくもなんともないと思うけどー」

「えっ、あのっ、その…っ」

 さらに詰め寄られて言葉をなくす新入りに、龍也が助け船を出した。

「友達でも恋人でもいいからさ、今度そいつ連れて来いよ」

「あ、はいっ」

「ほんとにお前に相応しいヤツかどうか、俺が見極めてやる」

「は、はい?」


 どうして、初対面の先輩に幼なじみの値踏みをしてもらわなくてはいけないのか、新入りにとっては甚だ疑問なところではあるが、歩はそんな龍也の様子に内心で笑いを漏らしていた。


 ――龍也ってば、無意識のうちに父親根性出してるんだから。


「ま、ここの研究室の仲間は家族も同然だから、ほんとに是非紹介してね」

 歩が微笑むと、新入りもまた嬉しそうに『はい!』と答える。

「で、あのー」

「ん? なあに?」

「先輩方は恋人同士…ですよね?」

「へ?」

 その言葉に、目を点にしてしまう歩と龍也。阪本の忍び笑いが悔しい。


「その通りだ。お前、なかなか見所があるな」

 阪本から嬉しげに頭を撫でられて、新入りは照れたように頭を掻いた。

 そして、『入学前だが、明日から来ていいぞ』と声を掛けられて、また感激に瞳を潤ませて、『明日からよろしくお願いします』と礼儀正しく頭を下げ、帰っていった。






 ふと見下ろす窓の外。

 さっきまでここにいた新入りが駆けていくその先には、背の高い青年の姿があった。

 隣り合うと嬉しそうに身体を寄せ、そしてじゃれ合いながら正門の方向へ歩いていく。

 歩はそんな情景を見送りながら、ふと何処か隅っこの方で記憶の糸が解れるのを感じた。

 あまりに朧気だった画像が次第に焦点を結び始める。

 記憶にないはずの記憶の断片。
 あの時の翔凛は、恐らく15〜6歳。実際の記憶は9歳で終わっているというのに。
 

 そして、その翔凛を優しく抱いて横たわっていた青年は……。






 窓を閉ざす扉の、わずかな隙間が薄桃色になる、明けの頃。

 翔凛を、その懐に愛おしそうに抱いている青年がふと目を開く。

 鈴瑠は片手をそっと上げ、眠る翔凛へと手を伸ばす。

 そして、その柔らかい頬を何度も撫でる。

 愛おしさのあまり、名を呼んでしまった。

“翔凛”

 その声が届いたのか、青年の手が小さく動いた。

 転じると、視線がぶつかった。

 目を見開き、こちらを凝視する彼に、鈴瑠は小さく頷いて見せ、微笑んだのだ。

 翔凛を頼みます…と。






「ねぇ、あの子たちってやっぱり恋人同士だよね」

 幸せになったのだ。『翔凛』も、きっと。

「ああ、そうだな」

 だからこそ、『彼ら』もまた、巡り会ったのだ。


 龍也は歩に向き直る。
 そして、歩の頬をそっと撫で、

「この手の顔は、男前の恋人が出来る人相なんじゃないか?」

 と、言ってみれば、

「なに、それ。しょってるんだから」

 呆れたような顔でそう返された。


 だが。


 ――なかなかどうしていい趣味じゃないか。

 どうやら『生涯のただ一人』を選ぶ目は確かなようだ。


 歩にそっくりの可愛い新入りは、自分より随分長身の彼をグイグイと引っ張っていく。

「あはは、ちっこい彼の方が主導権を握ってるみたいだね」

 笑う歩の肩を抱き寄せ、龍也がポツンと呟いた。

「中身はきっと父親似…だな」

「なに? 龍也、何か言った?」

「ん? いや、別に。 それより歩、今日は駅前でワイン買って帰ろうぜ」

「え? なんでまた急に」

「ちょっとしたお祝い…だな」

「お祝い? 何の?」

「帰ってからゆっくり話すさ」



 その言葉に歩が首を傾げ、もう一度問おうとしたとき、阪本が『ほら、飯食いに行くぞ』と、二人に声を掛けた。

 部屋を出る3人と入れ違いに、研究助手や学生たちが朝の挨拶と共に賑やかに入ってくる。

 今日もまた、皆それぞれに埋もれた過去に思いを馳せ、その痕跡を解き明かす作業に没頭するのだ。

 確かにそこに存在したであろう人々の営みを、次の世に伝えるために。






 そこに想いが在る限り、人は輪廻を繰り返し、神話は永久に生きる。

 いつかまた、時代の扉を閉じる御使いが、この大地に降り立つ日まで。





 ――鈴瑠。長い間一人にしてすまなかった。これからはずっと、一緒だ。


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