さくらんぼの季節

千里&行範
時期的には、『春の章』の後のお話になります。





 春と言うにはもう遅く、初夏の匂いがそこここに漂うこの頃。

 ここは、観光シーズンたけなわの京都。
 僕は、久しぶりのデートに心を弾ませている。
 相手はもちろん、海塚千里。
 僕の愛する『ちさとさん』だ。

 ちさとさんは、大手旅行会社の社員。この春から社会人2年目だ。

 この前会ったとき、『先輩になった気分はいかがですか?』って聞いたら、『まだ新人が配属されてこないから、全然実感なくってさ』って、口を尖らせていた。
 その唇も可愛くって、つい…。

「お待たせっ」

 息を弾ませて、ちさとさんが駆けてきた。

「そんなに走らなくっても…」
「いや、待たせちゃったなと思って」
「僕も今来たところですよ」

 そう言うと、ちさとさんはほんの少し、照れたような笑みを浮かべた。
 やっぱり可愛い…。

「歩こうか」

 照れ隠しなのか、弾んだ息のままで言うちさとさん…。

「…そうですね」

 本当は、その息が落ち着くまで背中を撫でていたいのだけど…。




 僕たちが待ち合わせたのは南禅寺。
 僕にとって記念すべき、初めてちさとさんと話した場所。

「こうしてゆっくりできるのって久しぶりだよな」

 そういうちさとさんの口調には、やっぱりまだ、照れくささが残っていて…。

「よく休みが取れましたね」

 春から初夏、秋から晩秋…。京都の観光産業がもっとも多忙な時期だ。

「んー。実を言うと、明日から修学旅行を3つ掛け持ちなんだ」
「3つ?!」
「うん。あっちが自由時間の間に、こっちを迎えに行って、そのあとにもう一つを宿舎に入れて…って」
「それ、何日間です?」
「学校が入れ替わるけど、10日くらい…かな?」
「うわ…」

 僕もこの春3年になって、ゼミや何かでずいぶん忙しくなったけど、やはり社会人の忙しさはさすがに違う…。

 こんな時僕はいつも、彼より年下に生まれてしまった自分を、不毛に悔やむ。
 自分が年上だったら、もっと余裕を持って、ちさとさんを包み込めるのに…。

「それにしても」
「なに?」
「修学旅行って、中学だけですか?」
「ううん。高校もあり」
「共学校ですか?それとも、女子校?」
「…う、えっと…。覚えてない…」

 嘘ばっかり。
 隠すところを見ると、絶対男子校が含まれてるに違いない。

 ちさとさんはひたすら隠すけど、僕はバスガイドの淑子ちゃんから情報を仕入れてるんだ。
 この前だって…。

『笠永くんも大変よね〜。ちさとちゃんってば、男子校の生徒に異様にモテちゃってさ〜。昨日だってしつこく携帯の番号聞かれて困ってたよ〜ん。それにしても、こ〜んなに若くて可愛いバスガイドがいるってのに、ちさとちゃんにばっかモーションかけるなんて、失礼な話よね〜』

 …って、ちっとも失礼でなさそうに話してたっけ。

 そう、ちさとさんは押しに弱い。
 ま、弱いおかげで、今、僕の隣にいてくれるのだけど。

 いずれにしても、不安なことこの上ない。
 どこかへ連れ込まれでもしたら…そう思うと気が気でないのだか…。


「何考えてんの?」

 ちさとさんが見上げてきた。

「あなたのことですよ」

 そう言うと、ちさとさんは嬉しいくらい真っ赤に反応してくれる。
 こんな反応を返されると、さらにウリウリと苛めたくなってしまう。

 子供じゃあるまいし…。
 思わず笑みを漏らすと、また、ちさとさんが不服そうな声を出す。

「そ、そうやって年上をからかうんじゃない」

 精一杯偉そうに言う、ちさとさん。
 でも、そんな様子ですら可愛らしいのだと言うことに、本人がまったく気付いてないから始末が悪い。

 でも、そこがちさとさんの魅力なんだけど…。




 南禅寺から永観堂前を抜け、少し東へ入ると、そこから『哲学の道』へ入れる。

 ここはその昔、哲学者・西田幾太郎が思索に耽りつつ歩いた道だったことからこの名が付いた。

 細い道の脇には、南禅寺の水路閣から続く『疎水』が浅くゆったりと流れている。

 かなり早い時間なのだけど、さすがに観光シーズンだけあって、もう結構な人出だ。
 春には満開の桜並木も、もうすでに、濃い緑の佇まい。

 ふと、ちさとさんがその緑を見上げて言った。

「あれ?この可愛いの何?」

 桜の枝の先にぶらさがっているのは、一見真っ黒の小さな実。
 実は真っ赤が高じて真っ黒に見えるのだけど、それは大人の小指の先ほどの大きさだ。

「これ、さくらんぼですよ」
「えー?さくらんぼ?さくらんぼって言ったら、もっとでかくてもっと赤いじゃんか」
「それは、『佐藤錦』なんかの改良品種でしょ。これはほとんど野生種ですよ」

 そう言って僕は手を伸ばし、一つ摘む。

「え?取っていいの?」
「地元の方は、朝早くに摘んでますよ」

 そう言うと、ちさとさんは目を丸くした。

「ってことは…まさか…」
「そう、食べられるんです」

 とたんにちさとさんの目がキラキラと輝いた。
 ほんっとに素直で可愛いんだから。

「はい、どうぞ」

 僕はちさとさんの目の前に小さなさくらんぼをぶら下げる。 

「ありがと」

 ちさとさんはそれに手を伸ばそうとして…。

 …ふふっ、手なんかには渡しませんよ。

 僕がチョイッとさくらんぼを取り上げると、ちさとさんは可愛い口を尖らせた。

「イジワルするなよ」
「イジワルなんかじゃありません。…ほら、あーんして」

 そう言った瞬間、ちさとさんはさくらんぼに負けない顔色になった。

「な…っ!」

 そう言って、抗議をしようと開いた口に、小さなさくらんぼを放り込む。

「ん…っ」

 ちょっと涙目になったちさとさん。
 でも、素直な彼は、すぐに口をもぐもぐし始めた。

「どうですか?美味しい?」

 それでなくとも小さな小さなさくらんぼは、すぐに口の中でなくなってしまう。

「うん。ちょっと酸っぱくて、タネもでかくて実はちょっとだけど、なんだかいい匂いで、売ってるさくらんぼより味が濃かった」

 ちさとさんらしい、素直でわかりやすい感想だ。

 ちさとさんは、もう一度さくらんぼを見上げ、そしてあたりをグルッと見渡すと大きく息を吸い込んだ。
 このあたりは交通量の多い幹線道路から少し離れているせいか、空気がいい。

「俺、京都に来て10ヶ月ほどだけど、この道をまともに歩いたの初めてだ」
「え?でも、こんなに有名な観光地なのに。添乗してこなかったんですか?」

 意外なことだと、目を見開いた僕に、ちさとさんは肩を竦めてみせる。

「来たよ、何度も。でも、たいがい銀閣寺でお客さんを降ろした後、俺たちはダッシュで反対側へ走る。永観堂側でお客さんが来るのを待って誘導しないと、そこから先、迷子になられたら困るからね」

 確かに、『哲学の道』は銀閣寺から永観堂方面へ向けての一本道だから迷うことはない。けれど、永観堂側へ抜けてしまうと、南禅寺のバス待機所までの間で『迷子』ってこともなくはない。

「大変なんですね…」

 悔しいけど、その言葉しかない。

 社会へ出ているちさとさんは、見た目は可愛くても、中身は責任感に溢れた立派な大人。

 僕は、見た目は落ち着いていても、まだまだ親のおかげで大学へ通い、何不自由なく生きている気楽な学生。

 決して追い越すことのできない3年の差。
 追い越せないとわかっていても、僕はあなたを追いかける。

「でもさ…」

 ふいにちさとさんが言った。

「おかげでいいとこ発見したんだ」

 その目は、またキラキラと輝いて、悪戯を思いついた子供の様な可愛らしさで…。

「この道は混んでるからさ、俺はたいていあっちの道を走るんだ」

 ひょい…と、ちさとさんが指さしたのは、『哲学の道』より一つ山側にある小さな道。
 それは細くて、民家の間を抜ける道だから、観光客は通らない。

「あの先に、おばあちゃんが一人でやってる小さな茶店があるんだけど、知らないだろ?」
「ほんとですか?」

 全然知らなかった。

「支店のみんなも知らないんだ。もったいないから俺だけの秘密」

 そう言ったちさとさんは、嬉しそうに、その細い人差し指を唇に当てた。 

「でも、笠永くんにだけは教えてやるよ。…行ってみよ…」

 それは、僕にとって天にも昇る『お誘い』だった。
 僕にだけ…。
 願わくば、『行範にだけ』って言ってくれると、最高なのに…。 

 ちさとさんは、クイッと僕のシャツの袖を引っ張った。

 その手をとって、強引に繋ごうかと思ったけれど、この往来でそんなことをしたら、ちさとさんのご機嫌は真っ逆さまになるはず。

 だから、今日のところは我慢してあげますよ。



「さくらんぼ、美味しかった…」

 ちさとさんがポツッと呟いた。

「来年も来ましょうね」

 そう言うと、ちさとさんはほんのりと紅くなった。

「…うん…」
 


 来年も再来年も、ずっとずっと…。
 あなたと一緒に。


END

2001.6.15 10万記念感謝祭にてUP


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