「ただ、ひとつだけ」
〜岳志と陽日の7月7日〜
陽日、20歳
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そう言えば、もうそんな時期か…。 僕がそれを見かけたのは、梅雨の晴れ間の午後。 この春から通い始めた大学からの帰り道、花屋の店先をいろどっていたのは、たくさんの飾りがついた『笹の葉』だった。 夏の風物詩らしく、可愛い西瓜のマスコットや小さなガラス風鈴、竹で編んだ手のひらサイズの提灯がちょうどいいバランスでぶら下がっている。 そして、その間を彩るのは色とりどりの短冊だ。 もちろんディスプレイ用なのだろう、願い事なんて書いてないんだけど…。 そう言えば、あの時。 岳志もこんな風に綺麗に飾られた笹の葉を持ってかえってきてくれたっけ。 ふと、数年前の7月7日を思い出し、僕は一つ、何もついていない笹の葉を買った。 ☆ .。.:*・゜ うちに帰り着くと、僕は自分で鍵を開ける。 岳志がいてもいなくてもそう。 岳志もそうだ。 僕がうちにいてもいなくても、自分で鍵を開けて入ってくる。 それは、特に言葉にして決めた事ではないのだけれど、いつの間にか定着している。 僕は岳志の練習の邪魔にならないように。 岳志は僕の勉強や執筆の邪魔にならないように。 インターフォンは、鳴らさない。 そして今日も僕は鍵を開けて中に入る。 岳志はオフだから、多分今頃の時間は練習しているはず。 岳志はこの夏、ヨーロッパでももっとも伝統のある音楽祭に正式に招聘されている。 ヨーロッパでも名門のオーケストラとの共演だ。 曲目はベートーヴェンのピアノコンチェルト『皇帝』。 あまりにも有名な曲を向こうから打診されて、岳志はほんの1日だけ考えたあと、それを受け入れた。 本当の事を言うと、岳志はあまりベートーヴェンは得意でない。 もちろん、聴衆にそれがばれると言うことは皆無だけれど。 どうせコンチェルトなら、ショパンかラフマニノフあたりをやりたかったんじゃないかと思うんだ。 でも、岳志は自分の意志で決めた。 決めたからには全力投球。 春のコンサートツアー以降、仕事を絞って音楽祭の準備に掛かりきりなった。 そして僕の前期試験が終わり次第、二人でヨーロッパへ発つことになっている。 「あれ…?」 防音の施された音楽室は、リビングに向けてだけ、わずかに音が漏れるようにしてある。 まったく音を止めてしまうと、在・不在がわからなくて困るのと、せめてリビングにいるときは、岳志の音を聞いていたいから。 今日も『皇帝』が聞こえてきてはいるのだけれど…。 リビングの出窓の花瓶にちょこんとさしてあるものが目に入った。 笹の葉だ。 しかも、可愛い楽器のマスコットがついている。 ピアノ、ホルン、トランペット、ギター、ハープ…。 どれもよくできているけれど、とても軽い。 だから笹の葉はたいしてしなりもせずに、リビングの空調に時折揺れていて…。 これ、どうしたんだろう? 僕がそう思ったとき、音がやんだ。 そして・・・。 「陽日?お帰り」 「ただいま、岳志」 言葉と一緒に、小さい挨拶もお互いの唇に贈る。 「ね、これどうしたの?」 僕は小さな楽器のマスコットを一つ、ちょんちょんと指先でつついた。 「可愛いし、よく出来てるだろ?3時間ほど前に松崎くんが来て置いていったんだ」 「松崎さんが?」 松崎さんは岳志が契約しているレコード会社の社員さんで、有能なマネージャーさんだ。 「販促用だって言ってたけど、結構良くできてるよな…って、陽日、お前何もってんだ?」 岳志は僕の右手に視線を落とす。 そう、帰り道に買ってきた、何もついていない、笹の葉。 「ん、これね、帰り道で見かけて…」 松崎さんが持ってきてくれた笹の葉は、少し時間が経っているのだろう、わずかに水分の抜けた感じになっている。 けれど僕が買ってきたのはまだ切り立てなのか、葉も、うっかりすると指を切ってしまいそうなほど瑞々しい。 「じゃあ、その笹の葉は俺たちの願い事専用だな」 そう言って岳志はあたりをキョロキョロとみ回す。 「何探してるの?」 「短冊」 「え?」 短冊って…。 「願い事を書くのは短冊って決まってるじゃないか」 そう言う右手にはすでにペンが握られていて…。 「岳志の今年の願い事は『音楽祭の成功』?」 僕がくすくす笑いながら尋ねると、岳志は真顔で僕を見返す。 「いや。俺の今年の願いは『評論家の佐上香氏に、夏の音楽祭の出来をこき下ろされませんように』…・だな」 「なに、それ。ひど〜い」 むくれると、岳志は嬉しそうに僕の鼻先を長い指でつついた。 「心配するなって。佐上香が泣いて感激するような仕上がりにしてみせるからな」 「あったりまえじゃない。花城岳志は佐上香が惚れ込んだピアニストだよ」 そう、きっと岳志ならやり遂げる。 夏の音楽祭デビュー。 僕はもう、今からワクワクしていて…。 じっと見上げた僕の額に、岳志はチュッと音を立ててキスを落とし、思いついたように囁いた。 「なあ、折り紙買いに行こうか」 「え?」 「だって、願い事を書くのにメモ用紙じゃまずいだろ?」 叶うものも叶わなくなるような気がするしさ…と、続けて、岳志は僕の手から買ってきたばかりの笹を取り上げて、松崎さんの笹と一緒に花瓶に差した。 「ほら、行くぞ」 こうして僕たちは夕暮れの街へ出かけることになった。 |
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街を歩いてみると、意外にも七夕飾りが多いことに気がつく。 買い物の目的がそれだから余計に目に付くのかもしれないけれど。 僕らが入ったのは、全国展開のハンドクラフト専門店。 クリスマス時分ともなると、店中がツリーやオーナメントで溢れて、それはみてるだけでも楽しいものなんだ。 まあ、七夕はそれに比べると、地味なイベントではあるけれど…。 それでも、目的のものはたくさんあった。 折り紙もスタンダードな色揃えの束から、金銀の多く使われているいかにも七夕用なものまで。 あと、薄紙でつくられた繊細な提灯や、中にはクリスマスイルミネーションよろしく、ライトのつく提灯まであって、なかなか楽しめる品揃えだ。 「うーん。色々揃ってるけどなぁ」 岳志が方々を見渡しながら言う。 「やっぱり出来合いのものを飾るより、手作りだよな」 そう、意外と岳志はそう言うところにこだわるんだ。 やっぱり芸術家肌なのかな? 「なんだか岳志らしいね」 そう言うと、岳志は自分では気がついていないのか、少し目を丸くした。 「そうかな?ほら、出来合いの物って色合いとか納得行かないとこあるじゃないか」 ふふ、やっぱり芸術家だね。 僕がクスッと笑ったのが気に入らなかったのか、岳志はちょっとムキになったようだ。 「勲さんはどうだった?」 え? 「勲さん?」 「そう、勲さんは七夕飾りなんてしなかった?」 …そういえば。 「軽井沢の家には七夕の絵を飾ってたよ」 「ほら、勲さんは勲さんらしいこだわりがあるじゃないか」 そう言えばそうか…。 「うん、勲さんは何年か前に行った『仙台の七夕祭り』の風景画を飾ってたんだ」 「仙台か…有名だよな」 「すごく壮麗でにぎやかで…。勲さん…『いつか陽日も連れていってやるよ』…って言ってくれてたっけ」 実現できなかったな…。 「今年は俺と一緒にヨーロッパだもんな・・・」 まるで僕の心の内を読んだように岳志が続ける。 「もしなんだったら仙台の七夕の時期に一度日本に戻るか?」 それは『勲さん孝行』しろってこと。 岳志はとても勲さんを大切にしてくれる。 僕にはそれがとても嬉しくて…。 でも…。 「ううん。大丈夫」 「陽日?」 あっけらかんとした僕の物言いに、岳志が少し怪訝そうに眉を寄せた。 「勲さんね、今年の夏は誰かと旅行みたいだよ」 「え?勲さんが?」 岳志の驚きももっとも。 だって、勲さんって、かなり出不精な人なんだ。 スケッチ旅行なんかは別だけど、そんなときは僕以外の人間が同行した事なんて一度もないらしいし。 「一人じゃなくて、誰かと一緒なのか?」 「そう、ほら、春の個展の時にずっと傍にいた人…」 勲さんと岳志が出会ったあの時のように、何かの雑誌の企画が縁で出会ったらしい人。 「…あ!もしかしたら、あのアメリカ人の…?」 「そう、あの人と一緒に行くみたいだよ」 「へ〜、そうなのか」 やけに嬉しそうだな、岳志。 でも、僕はちょっとだけ、穏やかでない。 そんな想いは単純に顔に現れたらしい。 「なんだ、陽日。お前もしかして妬いてるのか?」 そう言うのとはちょっと違うような気はするけど。 「まさか。僕だって勲さんに素敵な人が現れたらいいなって思ってるのに」 「ならいいけど。お前があの金髪の彼に妬いちまったら、俺だって…」 俺だって? 「いらないヤキモチ妬かなくちゃいけなくなるだろ?」 パチンとウィンクしながら余裕で言っても説得力ないよ、岳志。 でも、それこそが岳志が勲さんに寄せる絶対の信頼。 だから僕も、そう、たまらなく心地よいんだ…。 |
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結局僕たちは一番オーソドックスな折り紙セットを買い、ついでに折り方のたくさん載った本まで買い込んで帰ってきた。 そして、帰り着くなり僕たちは、すぐにリビングのローテーブルに折り紙を広げ、まるで子供のように夢中で飾りを折り始めた。 どれくらいだろう、それに集中していたとき…。 「なぁ、初めて二人で過ごした七夕って、覚えてるか?」 ぽつん…と岳志が言った。 「ほら、俺がピアノ弾いてたラウンジから飾りのついたヤツもらってきてさ、 お前、メモ帳に何か書いてぶら下げてたじゃないか。しかも中身が見えないようにしっかり糊付けまでしてさぁ」 …そうだ。あれは二人で暮らし始めて2ヶ月ほど経ったときのこと。 あの時僕が書いた願いは…。 「でも、岳志もあとから何かぶら下げてたじゃない。メモ帳で。しかもしっかり糊付けまでして」 そっくり同じ言葉を返すと、岳志は一瞬目を丸くしてからスッと目を逸らした。 「岳志…?」 「…いや…メモでも叶うんだな、願い事って」 まるで独白のように落ちたその言葉。目尻がほんのりと朱い。 「岳志の願いって叶ったんだ。何書いたの?」 そう聞いたのは僕なのに、それに応えず、岳志は僕に同じ事を聞いた。 「陽日は?なんて書いたんだ?それって、叶ったのか?」 …・それは…。 「・・・僕にはわからない」 僕が書いた願い事。それは…。 『岳志が幸せでありますように』 それが叶ったのかどうかは、岳志にしかわからないから…。 「陽日…」 「それより岳志の願い事を聞かせてよ。叶ったんでしょ?」 「お前が何を書いたか教えてくれたら白状する」 「え〜!どーして!」 …でも、ちょっと聞いてみたい気もする。 岳志は今、幸せなのかどうか…って。 「いいから、ほら、吐けって」 岳志は手にしていた折り紙で器用に飛行機をつくると、僕の頬をちょんちょんつつき始めた。 「あんっもうっ、くすぐったいってば」 身を捩りながらも僕は素直に白状する方を選んでいた。 ちょっと、ううん、かなり恥ずかしいけれど…。 岳志が僕をじっと見つめる。 「岳志が幸せでありますように」 それだけを小さな声で告げると、岳志はキュッと唇をかみしめた。 「岳志?」 思わぬリアクションに僕はどうしていいかわからない。 けれど…。 岳志の顔はなんだか紅くて…。 「めちゃくちゃ…嬉しい」 絞り出すようにそう言うと、岳志はローテーブル越しに上体を伸ばしてきて、僕をギュッと抱きしめた。 「お前って、やっぱり俺よりずっと大人だよ、陽日」 そんなはずないじゃない。僕たちは10歳も違うのに。 「次は岳志の番だよ。教えて、岳志が書いたこと」 約束なんだからね…と続けて言うと、岳志はちょっと困ったような風で、顔を伏せた。 「岳志?」 「陽日が欲しい」 ……? 「な、なに、いきなりっ!」 そりゃ、その、毎晩、えっと…・・。 ともかく、灯りの煌々とともったリビングで、思いっきり日常の中でそんなこと言われると恥ずかしいことこの上ない。 「た、岳志っ。誤魔化そうったって…」 「陽日が欲しい」 僕の言葉を遮るように、もう一度岳志が言った。 それは怖いほどの真剣みを帯びていて…。 「俺の願いは…叶ったんだ」 「岳志…」 もしかして、それが…? 「そして、陽日の願いも…叶った…」 言葉の最後は、そのまま僕と岳志の吐息の中に封じ込められた…。 リビングに揺れる2つの笹の葉。 その一つ、なんの飾りもない笹の葉に、二人の願いを託す。 そう、今、僕たちが願うことはただ一つ。 『君が幸せでありますように…』 来年も、その次も、その次も。 僕たちの命が、ある限り。 『…いつまでも』 |
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