清けき笛の音の伝説 |
緑濃い山郷に、午の陽が照りつける。 木々の間を渡るのは、清けき笛の音。 その音は風を運び、沢のせせらぎの涼を伝える。 「千寿」 呼びかけと同時に笛の音は去る。 「弥栄…」 見つめ合い、微笑む様は思いを寄せ合った同士のもの。 「いいの?」 「いいんだ」 いつもの二人の場所。 沢の上流。 その、むせ返るほどの緑陰に守られた、二人だけの…。 弥栄(やさか)は18才。 この緑深き豊かな郷を治める、郷長(さとおさ)の長子である。 「どんなに長老や親父様が難しい顔したところで、雨なんかふりゃしないさ」 弥栄は今の今まで、屋敷の奥座敷で父である郷長の隣に座らされていたのだ。 陰鬱な奥座敷の話題は『干ばつ』。 ここしばらく、天からの恵みはなく、作物は急速に勢いを失っているのだ。 「でも、弥栄は郷長のお側にいなくては…」 「俺がいたって言うことは同じさ。雨なんか、時期が来なけりゃ降りゃあしない。こんな時の為に、去年俺は沢の水を引く算段をしようって言ったのに、長老も親父様も取り合わなかった。もう、遅いんだ。事が起こってしまった今から、打つ手なんかない」 弥栄は大きな岩の上に腰掛ける千寿を軽々と抱き上げ、自分の腕に抱き込んだ。 「そんなことより、俺は千寿に会いたい…」 千寿(せんじゅ)は15才。 親はない。郷に捨てられていた子を、木こりの爺が育てた。 落人が、途中足手まといになって置き去りにした子だとか言われているが、定かではない。 ただ、共に捨てられていた『笛』が大層高価そうな品だったことから、実は高貴な家の落とし子ではないかと囁く者もいた。 だが、弥栄にとってはどうでもいいこと。 千寿がいて、千寿の笛の音が聞ければそれでいい。 「千寿、続きを聞かせてくれ」 腰を下ろした弥栄の膝の上。 抱き上げられた小柄な千寿はその腕の中にスッポリと納まって、また、笛を吹き始める。 そこだけ照りつける陽が避けて行くかのような清涼感。 梢のさざめきも、千寿の笛に合わせて舞い上がる。 二人だけの時間…。 「千寿…」 そっと笛を取り上げて、笛の代わりに自分の唇を押し当てる。 「ん…っ」 少し深く合わせ、そっと離すと千寿はその瞳に翳りを落としていた。 「…千寿…?」 不思議そうに覗き込む弥栄の瞳を避け、千寿は心の中だけでため息をついた。 ため息の訳は、昨日、郷の子供たちから聞いた噂話。 『弥栄様の嫁取りが決まったらしい』 弥栄はゆくゆくは郷長となるべき人間。 嫁を取って、跡継ぎを残さねばならないのは、道理の話だ。 そうなったとき、自分はどうすればいいのか…。 千寿はまた、重い吐息をつく。 きっと黙って姿を消すのがいいのだろう。 どこからともなく現れた自分なのだから、どこへともなく消えていく。 それが、ふさわしい。 翳りを濃くしていく千寿の様子を、その腕の中に抱き留めたまま、弥栄はじっと見つめていた。 誰よりも愛おしい千寿。 引き離されるくらいなら、何もかも捨てて二人だけで逃げる。 そう決意したのはいつのことだったろう。 嫁取りの話は、幾分か前から、くどいほど耳に入れられていた。 そして、弥栄の同意を得ないまま、それは父親によって決められてしまったのだ。 先刻、陰鬱な奥座敷をあとにするとき、自分が吐いた言葉を弥栄はもう一度、心の底の方で反芻した。 『俺は嫁など取らない。生涯…』 その後の父親の怒声は、虚しいほど弥栄には届かなかった。 「千寿…」 柔らかい弥栄の物言いに、千寿は翳ったままの瞳を静かに上げた。 「お前は、この郷が好きか?」 訪ねる口調はどこか寂しげで。 「…うん…好き」 だって、弥栄がいるから…。 続く言葉は胸にしまった。 「離れるのは嫌…か?」 「え…?」 弥栄の言葉の真を捉えかねて、千寿が狼狽する。 「もう二度と、この郷には帰れない旅に、俺は…出る」 「弥栄っ?」 思いもかけない言葉に、千寿は思わず弥栄の襟元を掴んでしまう。 「どうして…っ、何処へ行くのっ」 「何処へ行くかは、わからない。でも、一つだけ持っていきたいものがある」 弥栄の瞳が千寿を射抜いた。 「やさか……」 「ついて来い、千寿」 まるで言葉を失ったように、千寿はその瞳だけを大きく開いた。 「俺は…どこへも帰れなくていい。お前さえいれば、そこが俺の帰るところになるから…」 言葉の終わりに、きつく抱きすくめられる。 「千寿は、どうだ?…何処へ帰りたい?この郷でなければ嫌か…」 それはつい今しがた『ついて来い』と言い切った者とは思えないほどに、不安の色を掃いた声音。 「…弥栄…」 漸く発せられた声は、少し掠れて…。 「弥栄のところへ…帰り、たい…」 「千寿…!」 |
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「よもや異存はあるまい」 「しかし…それはあまりにも…」 「郷のためだ」 「郷長…」 「弥栄の気の迷いも、正さねばならん」 |
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千寿が一人で暮らす小さな小屋に、人が訪ねてきたのは夜も更けた頃だった。 育ての親である爺を病で亡くしてからは、訪ねるのは子供ばかりという千寿の住まいに、郷人がやって来るのは珍しいこと。 「弥栄が…?」 弥栄が呼んでいるという。 連れ出された千寿がやって来たのは、郷の奥。 鎮守の杜(もり)の中に一際大きく枝を延べる、御神木の根本であった。 見渡したところで、弥栄の姿はない。 しかし、その代わりに…。 一人…二人…三人…。 気配を殺して近づいて、くる…。 「な、に…」 得体の知れない恐怖に身を震わせる千寿を、数人の郷人が取り巻いた。 どれも見知った顔だ。 「千寿…騒ぐな…」 よくない予感に、千寿は大きく声をあげようとしたのだが、次の言葉は出すことを許されなかった。 千寿の口が、ごつごつとした男の大きな手で塞がれ、間髪入れずに鈍い音が耳に届く。 「…ぐ…ぅ……」 背中に感じた奇妙な違和感と、それに続く裂けるような痛みは、音に遅れてやって来た。 「すまん…。恨まないでくれよ…」 「これも皆、郷のためだ…」 男たちの声が次第に遠くなる。 「…郷…の…」 千寿は、漸く絞り出すことの出来た声に、遠くから返事があったような気がした。 「お前は…龍神様への贄(にえ)と…」 最後の方は、もう、聞こえなかった。 ざぁっと、耳障りな音があたりを支配して、千寿は目を閉じた。 知らず、懐に入れた笛に手を当てる。 『…や、さ、か…』 最後の言葉は、胸の内に落ちた…。 「は、早いこと、埋めてしまおう」 血まみれで横たわる千寿を見つめ、しばし呆然としていた男どもが、誰かの一言で、ふいに我に返った。 「お、おお、そうだな…」 「ともかく、弥栄様に知れてはならんのだからな。それだけは…と言う、郷長のご命令だ」 誰もが、すんでしまった事の重大さに押しつぶされまいと、異様に言葉多くなる。 やがて、御神木の根本に掘られた深い穴。 千寿は、底に横たえられた。 まだその顔は白く、流した血も乾かぬうちに、真っ黒な土が重くのしかかっていった…。 |
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夜が明けた。 やがて、弥栄は千寿の不在に気付いた。 郷人を捕まえては、千寿をみなかったか…と訪ねる。 「いいえ…せ、千寿はこのあたりでは見ておりませんが…」 若干狼狽したようにも見える、郷人がいた。 「何か、知ってるのか?」 「とんでも、ありません」 詰め寄っても、知らぬと言い張るばかり。 弥栄は、はぁっと吐息を吐き、ポツリと呟いた。 「どこからか、笛の音は聞こえてくるのに…」 肩を落として去っていく弥栄の背後では、郷人が腰を抜かしていたのだが…。 夜が来たが、弥栄は屋敷へ戻らなかった。 小さく耳を掠めてくる、千寿の笛の音を求めて彷徨っていたのだ。 そんな弥栄を遠巻きに見る、男たちの群。 「本当に、弥栄様は笛の音がするとおっしゃったんだな」 くぐもった声に、腰を抜かした男は無言でただただ頷き返す。 「…掘り返す…」 「ま、まさかっ」 「千寿の懐から笛を抜くんだ…」 誰もがすぐには同意しかねたが、やがて、弾かれたように、我先にと走りだした。 男たちの耳にも、微かに笛の音がよぎったのだ…。 掘り返された千寿は、昨夜のままであった。 男がそろっと千寿の懐から笛を引き抜いた。 「沢へ捨ててくるんだ」 言われた男が笛をひっ掴み、一目散に走り出した。その時…。 「そこで何をしておるっ?」 手にした提灯の明かりにぼんやりと照らされたその顔を見て、男たちは『しまった』と唇を噛んだ。 「ここは神域であるぞ。この様な夜更けに…」 足早に近づいてきたのは、その神域を守る神職であった。 「いったい……」 男たちの足元を見た神職は顔色を失った。 「…せんじゅ…千寿ではないかっ!これは…お前たちが殺めたのかっ」 声を荒げる神職に、男たちは必至で言い募る。 「郷長のご命令なのですっ」 「水乞いの贄に捧げよと仰せになってっ」 その言葉に、神職は激しい不快感を示した。 「水乞いの贄…だと…?」 問われて、男たちは壊れたように何度も頷く。 「水乞いの神事は、神職の取り扱うべき神聖なる神事。その神事に、この私に黙って贄を捧げるとはどう言うことだ…。私は何も聞いていないし、それに…」 神職は言葉を切って、半身を土に埋めたままの千寿に目を落とした。 「この様なむごいことを、龍神様はお許しにはならん…」 神職は深く掘られた穴に入り、手が汚れるのもかまわず千寿を掘り出し、抱き上げた。 そして、穴の底から男たちを睨み上げる。 「郷長の目的は、何だ」 その視線に射すくめられた男の一人が、うなされたように口を開く。 「や、弥栄様の…」 それだけで十分だった。 「弥栄の…嫁取りか…」 言いながら、神職は千寿を抱えたまま、ゆっくりと底から昇ってくる。 「それで、お前たちはなぜ千寿を掘り起こした」 先刻殺めて、今埋めようとしていたのではないことは、千寿の様子から明らかだった。 すでに体中を土の気配が埋め尽くしていたから。 「弥栄様が…千寿の笛の音が聞こえると…」 最後まで聞かず、神職は深く息をついた。 「…お前たちは、笛までも取り上げたのだな…千寿から…」 男の一人が声をあげて泣き出した。 やがてつられるように、それは広がっていく。 「…千寿の魂は私が封じる。お前たちは、御神木の根本を綺麗にして、ここから去れ。決して弥栄に知らせてはならん。よいな」 男たちは、泣きながら、何かに取り憑かれたように土を戻し、転がるようにして鎮守の杜をあとにした。 神職は、そのまま神殿へと向かい、思いを残したままであろう千寿の亡骸を、神域の奥深くに封じた。 可哀相だが、そうでもしなければ千寿は彷徨い続ける。 弥栄と、笛を求めて…。 いつまでも…。 |
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ほんの少し前、笛の音が止んでしまった。 弥栄は今度こそ本当にあてもなく探し続ける。 知らず足が向いたのは、いつもの沢。 千寿と二人きりの場所…。 背後でざわざわと音がして、コツン…カラン…と乾いた音が、湿った沢の岩場に木霊した。 「誰だっ」 大声を上げて誰何する弥栄の存在に、何者かが『ぎゃあ』と声をあげて応えた。 すでに夜は深い。 頼りになるのはもう、残り少ない蝋燭の灯りだけ。 それでも弥栄は音のした方へと沢を降りていく。 おぼつかない足元に何かが触れ、またカランと音を立てた。 そっと手を伸ばす。 「…ふ、え…」 それは、紛れもなく千寿の笛であった。 ほの暗い灯りの下、その笛には、べっとりと血糊の痕。 おぞましい予感が弥栄の背筋を這い昇る。 「せんじゅ…」 その呟きに、「ひぃっ」と言う悲鳴が答えた。 弥栄は振り返り、悲鳴の主に問うた。 「千寿に…何を、した…」 言葉の底に、闇が広がる。 「さ、さ、郷長の…」 弥栄は屋敷を目指して走っていた。 男の言葉など、最後まで聞くには及ばない。 屋敷の門前には、帰らぬ継嗣を待っての大松明が掲げられていた。 「親父様っ、千寿に何をしたっ」 だが駆け込んできた弥栄にも、郷長は顔色を変えなかった。 「千寿は郷の為、喜んで龍神様の贄となった」 「嘘だ」 言下に否定した我が子に、郷長はすうっと目を細めた。 「ならば、お前のせいだ。お前が素直に嫁を取っていれば、千寿は死なずにすんだ」 千寿は…死んだ…? 「行ってその目で確かめてくるがいい。千寿は贄として御神木の根本におるであろう」 弥栄は何も言わずに踵を返し、郷長の部屋を走り出た。 郷長は、これですべてが終わったと息をつき、寝具に身を横たえて目を閉じた。 明日、とは言わなくとも、弥栄はきっと正気に返る。 そう信じ、疑わずに目を閉じた。 弥栄は走り出た父親の部屋の襖を、殊更丁寧に閉じた。 きっと父親は眠るだろう。 自分が正しいと信じたまま、眠るだろう。 弥栄は表情を変えずに、手にしていた蝋燭を襖の傍に置いた。 それはゆらっと一揺れして、紅い炎で襖を舐めた。 さあっと走る朱色。 弥栄はもう、振り返らなかった。 門前へ戻り、大松明を手にすると、そのまま神域へと走る。 真っ黒な杜の中、静かに手を伸べる御神木。 根本の土は確かに軟らかく、今しがた何かを埋めたような跡を残していた。 「千寿っ…千寿っっ…!」 弥栄は狂ったように土を掘る。 爪が割れ、血が噴き出してもかまわずに掘る。 しかし…そこに千寿の姿はなく…。 「千寿…何処だ…。何処へ行った…」 ゆらりと立ち上がる。 「お前の帰るところはここだろう…?千寿…何処へ行った…。帰ってこい…」 鎮守の杜から見おろす郷が、夜明けでもないのに煌々と輝き始めた。 真っ赤な炎と、闇にも負けないほどの真っ黒な煙を立ち上らせて。 そして、日照り続きの乾いた土地は、それをいとも簡単に迎え入れた。 折しも今宵は、吹き上げる風。 郷からの業火は、灼熱の風を伴って、神域をも飲み込もうと迫ってきた。 弥栄は追われるように、歩を奥へ進める。 やがて見えてくる神殿。 「千寿…何処だ…。どうして俺を呼ばない…?」 ふと手にしたままの笛を見る。 笛は、吹き手を失い、もはや自分を呼んではくれない…。 弥栄はその笛にそっと唇を押し当てる。 息を吹き込んでみても、音など鳴りはしない。 それでも、千寿に口づけるように押し当てる。 千寿を蘇らせるように、息を吹き込む。 「千寿…返事を…してくれ…。何処へ…行った…」 弥栄が神殿の階に足をかけたとき、炎が追いついた。 「千寿…何処…」 |
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その夜、小さな蝋燭から出た大火は、郷と杜を焼き尽くし、3日後に龍神が涙を流すまで荒れ狂った。 何故か一つだけ、災禍を逃れた御神木以外に、この大火の意味を知る者は誰一人残らず、後にはただ、帰るところを見つけられずに彷徨う魂のみがそこに留まった。 そして、清けき笛の音の郷には、静かに刻が降り積もるばかり…。 |
2001.6.19 10万記念感謝祭にてUP
「君の愛を奏でて」の番外に 関連小説「清けき笛の音の郷」があります。 |