「あの日、紫の雨の下」


「あの時、道隆(みちたか)、そう言ったよね」

 俺がずっと想い続けるこいつ、同級生の麻人(あさと)はそう言いながら、細くて軽い体をゆっくりと俺にもたれかけさせてくる。

 薄曇りの午後。俺たちの通学路を少し外れると、そこには鮮やかな藤棚が広がる。

 陽の射さない午後も、今が盛りの藤の花は静かに美しさを落としてくる。
 俺は麻人の肩を抱き、藤の花を見上げる。

 俺たちはこの春、高校3年生になった。
 そう、俺と、こいつ…麻人は高校3年生になったんだ。

「道隆ってば、いつも僕を笑わせてばっかりなんだから…」

 その時のことを思い出したのか、麻人はさも楽しそうに含み笑いをする。

「そうだな。あいつはいつもお前を笑わせてくれるよな」

 少し冷えてきた肩をギュッと抱き寄せると、麻人は素直に俺に身を任せる。

「ねぇ、和徳(かずのり)はどう思う?」

 和徳ってのは俺のことだ。

「そうだな、あいつは気まぐれだからな」
「そうだよね。でも、そこが道隆のいいところなんだよね。何にも縛られなくて、いつも自由に飛び回って…」

 麻人は細い腕を伸ばし、少し背伸びをして藤の花に触れる。

「でも…」

 俺はそこから先を言わせたくなくて、伸ばされた手をギュッと掴む。

「和徳…?どうしたの?」

 キョトンとした瞳で俺を見返してくる麻人には、何の迷いも…今は、ない。
 俺は静かに首を振る。

「ごめんな。なんでもない」

 そう言うと、麻人は安心したように笑って、俺が聞きたくないその言葉を、明るい声で吐く。

「道隆が帰ってくる場所は、僕のところなんだ」
 
 道隆が帰る場所…。
 そうじゃないだろう、麻人。
 お前が道隆を離さないんだ…。




 俺と麻人、そして道隆は小学校からの幼なじみ。 
 いつも3人一緒で、いつもこの藤棚の下が遊び場だった。

 いつしか、麻人を巡って俺と道隆が見えない火花を散らすようになっても、それでも俺たちは仲良しだった。
 そして、高校1年になったとき、麻人が選んだのは俺ではなく…、道隆だった。

 道隆に愛されて、麻人はそれは綺麗になった。
 もともと中性的な容姿をもった麻人だったけれど、道隆の腕の中でそれはますます光を増し、守るものを持った道隆は、ますます男らしくなって行き…。

 俺は、そんな二人の『親友』という、今にも崩れ落ちてしまいそうな場所で、それでも笑って傍にいた。




「道隆、いつ帰ってくるかなぁ?もう、10日になるよね」
「ああ、そうだな…。少し…日程が遅れてるんじゃないか?」
「そうだよね。道隆は慎重だからね」

 俺はその言葉に返事を返さない。
 いや、返せない。

 麻人はまた、そっと藤の花に触れる。
「もう、満開だよ…。今年も一緒に見ようねって言ってあるのにな」



 
2年前…。



 そう、2年前の今頃、同じ満開の藤棚の下で、俺は道隆から告げられたんだ。

『俺と麻人、つきあうことにした』

 つきあいなら子供の頃からしてたじゃないか…。

 そんな、惚けた突っ込みをしながら、俺は涙声にならないように奥歯を噛みしめて、右手を道隆に差し出した。 
 そして精一杯の強がりで言ったんだ。

『麻人のこと、絶対泣かせるなよ』って。

 その時の道隆の顔を、俺は忘れない。
 あいつはギュッと俺の手を握り、唇を噛んで生真面目な顔で頷いたんだ。

 それは、勝ち誇った顔でも、憐れんだ顔でも、何でもなく…。

 その時俺は、道隆を許したんだと思う。
 道隆もまた真剣に麻人を思い、そしてまた、本当に俺の親友でもあったんだ。





 麻人は外見通りの優しい心を持ち、大勢の友達に慕われている。
 成績もよくて、来年の大学受験では相当いいところを狙えるだろう。
 麻人は『道隆と同じところにいくんだ』と言う。
 俺は、もちろんそんな麻人を追っていく。

「でも、道隆ほんとに間に合うかなぁ。進路調査票の提出が遅れたら大目玉だもんね」

 道隆はゴールデンウィークを利用して父親と二人、登山に出掛けた。
 それは子供の頃からの、あいつの家の習慣で、スポーツマンの道隆らしい趣味だと俺も思っていた。
 道隆が山で撮ってくる写真の数々を、俺と麻人はいつも目を輝かせて見る。

『いつか3人で行こう』
 それが道隆の口癖だった。

『ばっか、俺がついて行ったらお邪魔虫じゃんか』
 そんな軽口も、俺は叩けるようになっていたのに。 





「ふふ…。和徳って温かいね」 

 空気が湿気を含み、雨の匂いを孕み始めた。

 麻人はその華奢な身体を、体格のいい俺に馴染ませてくる。
 制服越しに伝わる麻人の体温は、決して高くはないのに、じんわりと俺に伝わってくる。

「寒いならいくらひっついてもいいぞ」

 俺の温かさ、いくらでもわけてやるから…。 

「えへへ、こんなところ、道隆に見つかったら大変だね」

 紅く小さな舌をペロッと出して、麻人はいたずらっ子のように笑った。

「そうだな…。道隆には黙っといてやるよ」

 そう言いながら、俺は麻人を抱き寄せる腕に力を込める。

 雨になりそうだ…。
 満開の藤棚の下…。



 あの雨の日…。




『道隆、いつ帰ってくるかなぁ?もう、10日になるよね』
『ああ、そうだな…。少し…日程が遅れてるんじゃないか?』
『そうだよね。道隆は慎重だからね』
『心配するようなことじゃないさ』 
『うん…。あれ?雨だ…』
『麻人、走れるか?』
『うん、大丈夫』

 藤棚の下にいた俺と麻人は、降り始めた雨に慌ててその場を去ろうとした。
 その時、背中から声がかかった。

『和徳っ!麻人っ!!………道隆がっ……』

 喉が切れそうなほど叫んだ、クラスメイトの声…。

 花から落ちる雫に打たれて、その日、麻人は静かに壊れた。






 あれから1年…。 
 
 あの日のように、俺たちはまた藤棚の下で、落ちてくる雨を見上げる。 
 雫が藤の紫色を映し、麻人の頬を打つ。

「道隆…」

 麻人が呟いた。

「道隆…みち…」

 語尾に涙がにじむ。

「麻人、俺はここにいるよ…」

 俺は自分の胸にギュッと麻人を抱き込む。

「道隆…帰ってきてくれたんだ」
「ああ…帰ってきたよ。麻人を一人で置いて行くはずないじゃないか」
「うん…うん…」 

 こうして俺は、あの1年前の日と同じように麻人を抱きしめて、雨が通り過ぎるのを待つ。 

 麻人…道隆で満たされているお前の心に、俺の声は届かない。 
 お前の未来にいるのは、今でも道隆で…。 
 それでも俺はお前を抱きしめる。

 今だけは、道隆として…。





 道隆が登山に出掛けたのはちょうど一年前の藤の頃。 

 思いもかけずに気温が上がった春の山は、懐に抱いていた冬の間の空の落とし物を、一気に手放した。 

 大勢の登山者が巻き込まれた、大規模な全層雪崩だった。 
 そして誰も、まだ帰って来ない…。



 麻人…いつかお前を、心ごと抱きしめたい…。 
 そう、その時、お前を抱いているのは俺…、俺だってことを…、麻人…。


END


2001.7.9 UP


66666GET風遊さまからいただきましたリクエストです。
風遊さまのお住まいになってらっしゃるところには、とても有名で、見事な藤棚があります。
(NHKのニュースで見た!!)
その藤棚の成長を見てこられた風遊さまの、明るいイメージの藤棚をテーマに…と
言うことだったのですが…。うわ〜ん!ごめんなさい〜!!切なくてすみません〜!!!

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