Crystals of snow story
** ももいろの花びら **
〈桃の国〉7周年記念お祝い作品
ここは春の足音が聞こえ始めた山裾の小さな町にある槇原高校。 三月の初めだが、町の背後にそびえ立つ山々の頂は白く、例年五月頃まで冠雪している。 校舎の影には溶けきらない根雪がまだそこそこに残っているが、明るさを増した午後の日差しに照らされた校庭端に植えられた、桃の木々はふっくらとした膨らみをもち、微かに枝自体にも朱色を帯び始めているようだ。 ダルマストーブにあたりながら、ぼんやりとそんな景色を眺めているのは、産休臨時教師の美山文弥。 手には一枚の紙をもち、さっきから何度もため息をついている。 「とうとうだなぁ・・・・分かり切った事だけど、離任状をこうして文書にして渡されると、なんだか寂しいよな・・・」 新学期には産休も開け、元々居た理科の教師が戻ってくるので、文弥の槇原高校での勤務はあと半月ほどだ。 手に持っているのは、離任日の記載された通知書。 もちろん、新学期からは臨時職員ではなく、正規の職員としての勤め先も決まっているので、生活に困るのを危惧してため息をついて居るわけではない。 都会育ちの文弥には、初めて暮らした、田舎暮らし。 季節季節で彩りを変える自然の風景をこの一年間ずいぶん楽しませてもらったものだ。 ほんと、なんだか一年なんて思えないほど濃い一年だったよなぁ。 『カルチャーショック』と言う言葉はよく使われるが、まさに文弥のこの町での生活は、辞書の解説通り『慣習・生活様式などに接した際に受ける違和感やとまどい』そのままだった。 特に人と人との繋がりは都会にはない濃密さが有り、少々辟易とした。 なにしろ、都会ではまったく目立たない文弥の行動が細部に渡り収集され、ここで「ぼん」と呼ばれている、町の有力者の次男坊に逐一報告されているくらいなのだから。 ま、それで、助かった事もあるから、文句は言えないけど・・・・・ 未だに借りたDVDのタイトルまで情報が流れるのだから、おちおち、気軽に借りることも出来ない。 もう一つ、盛大な溜息をついたところに、 「ちぃーす。センセまだ帰ぇんねーの?」 ノックもせず、ガラッと理科準備室のドアを開けた(足で蹴り開けるのも開けると表現するのならばだが)のが、この町では誰もが「ぼん」と呼ぶ、羽生正志。 17歳と言う年齢にしては、いささか不似合いな、どこか不遜な雰囲気を漂わせてる、栗色の髪をした少年。 彼こそが、さっきから幾度も繰り返されていた文弥の溜息の大元である。 「何度言わせればわかるんだ?ドアを開けるときは手を使え。 お前の手は飾り物か?無精せずにちゃんと使え」 何回同じ事を言わすんだか・・・・ と、またしても文弥は溜息をつく。 「何もってんだよ?」 文弥の小言は正志にはそよ風の様な物らしい。 飾り物では無かった様子の手を、ひょいっと伸ばし、文弥から離任状を摘み上げた正志は、文面に目を通し、つぃっと形のいい眉を上げた。 「ちぇ、つまんねーもん。眺めてるんじゃねぇっての ほら、帰るぜ、センセ」 くしゃくしゃに丸めるとコントロールよろしく部屋の隅に置いてある、青いゴミ箱に投げ入れた。 「こら、捨てるやつがあるか」 「置いといたって、何が変わるわけじゃねぇだろ? 腹の足しにもなんねーし。 ストーブ消せよ、出るぞ」 くるりと踵を返すと、返事もまたず正志はとっとと今入ってきた扉に向かった。 ☆☆☆ 黒くて堅い昔ながらの出席簿を教壇に開き、出欠を取りながら、縦に並んだ名前の横に○を縦から順番につけていく。 ☆☆☆ ここ数日の暖かさで、校庭の桃の花はポツポツと咲き始めたと思っていると、あっという間に一気咲き誇ってしまった。 時折暖かさをましてきた春風に桃色の花びらがちらほらと舞い散る。 この一週間、正志からなんの連絡も無かったことに、薄々、見送りには来ないのかもしれないと文弥はどこかで思っていた。 そんな正志にまっすぐな好意を向けられて、非凡この上ない文弥が彼に惹きつけられないわけもなかった。 離れてしまえば、きっとすぐ、僕なんか忘れられてしまうさ。 ☆☆☆ 小さな駅舎にこれまた小さな3両編成の車両が向こうの山並みを越えてやってくる。 ひっそりとしたホームには、文弥が乗り込む前にも後にも誰1人居らず、閑散としたものだ。 ゴトゴトとあまりスピードも出せない列車はまもなく今さっきまで居た槇原高校の真横を通る。 ぼんやりと、近づいてくる高校の方を見ていた文弥の目に見慣れない白い帯・・・・ 「は・・・羽生?」 書いてある文字もこれまたデカデカと、その上目立つようにか、真っ赤な文字で。 『まってろ、センセ!!絶対追いかけていってやる!!浮気したら殺すぞ!!!』 文弥の脳裏に、高慢で気の強そうな顔に、不安の色を濃く掃いた正志の顔がはっきりと見えた。 初春の風に桃色の花びらが、ひとひら、ふたひら。 花びらに向かって、小さな声でつぶやく。 かならず、かならず、来るんだぞ・・・・・ まっているから・・・・ ボストンバックから、一冊の本を取り出し、文弥は大切にその花びらを挟んで閉じた。
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