Take Off





「うわー、今朝はまた一段と寒いなあ」

 寮を出た雪哉の第一声は、まだ夜が明けていない空を見上げて発せられた。

 名前が『雪哉』で、生まれたのも2月――その冬で一番寒い朝だったらしい――だけれど、実のところ雪哉は冬が大の苦手だ。

 雪哉と名付けられたのは、赤ん坊の時の色の白さからだと聞いているが、それは氷点下に近い気温にいたからだろうと雪哉は思っている。

 冬が苦手なのもきっと、人生最初の体験が『低体温症』だったからに違いない。
 もっともそのことを雪哉はもちろん覚えていないが。


「雪にならなきゃいいけど、予報はぎりぎりなラインだよな 」

 応えるように後ろから掛かる声に雪哉は振り返った。

「あ、昌晴。今から?」

「そう、8時10分の福岡。雪哉は8時ジャストの新千歳だろ?」

「うん、あっちはもう降り始めてるからちょっと憂鬱」

「お前って寒いの苦手だもんなあ」

「どうせなら那覇に行きたかったし」

「ま、この時期の雪国は、パイロットなら誰だって嫌だけどな」


 軽口をたたき合いながら、2人は連れだってオペレーションセンターを目指す。

 現在時刻は午前5時30分。
 彼らの業界でショウアップ(出頭)*と呼ばれる時間の1時間ほど前だが、それまでにやらなくてはいけないことは多いから、2人とも大概1時間前には寮を出る。

 ラフな私服にコートを着込み、その出で立ちには少々不釣り合いな、小ぶりだけれど頑丈そうな黒いキャリーケースを引いているが、中身は必需品がぎっしりでそれなりの重さだ。

 2人とも会社支給品のものを使っているので、よく見るとロックの部分に社章が彫り込まれていて、見る人が見れば彼らの職業はすぐにわかる。


 寮からは徒歩とモノレールで15分。
 至近といっていい立地ゆえになかなか出て行きたがらない者が多く、あと1年も居座れば、恐らく次の訓練生のために部屋を空けろと言われそうな気配だ。


「今日の新千歳行き、来栖(くるす)機長だろ?」

「うん。ここのところ来栖機長とはすれ違いばっかりだったから久々かも」

「キャプテンも楽しみにしてんじゃねえの? お前のこと、可愛がってるもんなあ」

「そう? 他のキャプテンと変わんないけど」

 真顔で首を傾げる雪哉の可愛らしさに、昌晴は自分の肩口あたりにある小ぶりなその頭をかき混ぜて豪快に笑う。

「ま、どのキャプテンもお前にはメロメロだけどな」

「もー、せっかく寝癖直したとこなのにー」

 かき混ぜられた頭を直して文句を垂れる雪哉に、昌晴はまた笑う。

「そんなの帽子被りゃわかんないって」

 2人とも、出社したらまず制服に着替える。
 制服には制帽も含まれている。

 制服組の出社時の服装は自由で、スーツで出勤する者もいれば、ジョギングのついでに寄りました…みたいな者までいて、みな思い思いの私服で出社している。

 今し方話題に上ったばかりの来栖機長はいつもピシッと決めたスーツ姿で出社していて、独身のみならず既婚のキャビンクルーたちからも黄色い悲鳴があがるけれど。


「帽子だってずっと被ってるわけじゃないじゃん。ってか、被ってる時間の方が少ないし」

 だいたいアラウンド・チェック*の時くらいしか役に立たないんだし、それならヘルメットでもいいじゃん…なんて、雪哉がブツブツ文句を垂れるには理由があった。

 男子にしてはあまりに頭が小さかったため、女性用の帽子を用意されてしまったのだ。
 いや、実は女性用でもまだ少し大きかったのだが、後はもう、イベント用の『ちびっ子パイロット』の帽子しかない状態で。

 ともかくサイズの問題だけでデザインは一緒だから傍目にはわからないのだけれど、内側のタグにはサイズを表す数字の前に『W』の文字があり、『女性用』をこれでもかというくらいにアピールしている。

 そして、その 『W』の近くには雪哉のネームが刺繍されているので、『W』の部分を切り取りたい気分になったけれど、制帽も会社の貸与品なので、手を加えれば懲戒の対象にもなりかねない。

 制服の管理は厳しくて、一式が一切社外持ち出し禁止なのは、現在では主にセキュリティーの観点からだ。
 そのかわり、全て社内でクリーニングしてもらえるので、その点は楽なのだが。

 そんな雪哉の様子に、初めて制服を身につけた時の雪哉の姿を昨日のように思い出して漏れた昌晴の笑いは、周りから見ると極めて怪しくて、もちろん雪哉もそれを見とがめた。

「なに怪しい思い出し笑いしてんの」

「いや、だってさ、さすがに最近はちょっと見慣れてきたけどさ、最初の頃の雪哉の制服姿ってさ、まるでチビがパイロットの制服着せてもらって記念撮影してるみたいでさ〜」

「あ〜! まだそれ言うか〜!」

「ぎゃ〜雪哉ちゃんが怒った〜」


 ふざけて逃げる藤木昌晴(ふじき・まさはる)と拳を振り上げながら追いかける不動雪哉(ふどう・ゆきや)は、国内大手航空会社の同期社員で親友同士だ。

 所謂フラッグキャリアではないが、事実上の最大手とも言われているフルサービスキャリアで、この業界にしては上下関係の風通しが良く、労働環境は同業他社の社員に『いいね、おたくは…』と羨まれる状況で、働きやすいエアラインだ。

 国内線はすべての拠点空港と大半の地方管理空港に飛び、国際線も就航路線はさほど多くはないのに先進主要都市はほぼ網羅しているので、実際に空を飛ぶクルーたちにとっては負担と充実感のバランスが取れていると言えるだろう。

 そんな居心地の良い職場で、雪哉と昌晴が在籍しているのは運航本部・乗員室。

 職種はパイロット。職位は副操縦士。

 羽田ベースで飛んでいる、パイロットになって1年の、まだまだひよっこだ。

 長身でそれなりに整った顔立ちの昌晴は、自社パイロット養成所時代には『10年にひとりの逸材』と言われていて、その評判に違わぬ優秀さで極めてスムーズに副操縦士の資格を得たのち、日々様々な訓練や試験、審査をこなしながらフライト経験を積んでいる。

 雪哉はそんな昌晴とは正反対の見た目だ。

 ハイヒールを履いたキャビンクルーの中に埋もれてしまいそうな身長に、華奢な身体。

 女性陣から羨望の眼差しを向けられるほど肌は白くきめ細かく、リップを塗っているかのように艶めいたピンクの唇から発せられるのは、いつも明るく優しい言葉と笑い声。

 長い睫毛に縁取られた瞳は少しばかり茶色掛かっていて、キャビンクルーたちの間で『ハーフかクオーターじゃないかしら』と噂になっていることを雪哉も知っている。

 実際に聞かれたこともあるのだが、詳細を突っ込まれたら困るので、いつも『一応国産です』と、曖昧な表現と笑顔で誤魔化している。

 そう、まるで少女人形のような顔立ちなのだ。26歳にもなるというのに。

 だから、昌晴がいうのも強ち間違いでは無い。

 未だにパイロット・スーツはいまいち似合っていないような気がしているし、初乗務の歓迎会の時に着せられた女性キャビンクルーの制服の方が似合っていたくらいだと雪哉自身も思っているが、だからといって真剣に悩んだことは無い。

 見た目は自分ではどうしようもないし、こんな見た目に産んだことに対して文句を言う相手もいない。

 だいたいそんなことに悩んでいる時間があったら、日々副操縦士としての鍛錬を積まねばならない。

 乗務を続けるためには、頻繁にやってくる訓練や審査をクリアし続けなくてはならないし、何より心身ともに健康でないといけないのだから。


 そんな雪哉に、昌晴は訓練開始当初、かなりの対抗心を燃やしていた。

 女の子みたいな見た目のくせに、こいつはどうしていつもいつも、自分の前にいるのだと。

 けれどどんなに努力を尽くしても、昌晴は一度も雪哉を追い越せなかった。

『10年にひとりの逸材』も敵わなかったその才能は、教官たちの間で密かに『不世出の天才』と呼ばれていたから。

 やがて、昌晴は追い越すことのできない自分を自覚し、それならば、励まし合いながら共に歩んで行こうと決めた。

 雪哉の側にいるにふさわしいパイロットでありたい。

 そこにはすでに友情以上のものが芽生えていた。




『訓練生に凄いヤツがいるらしい』

 そんな噂がパイロットたちの間で飛び交い始めたのは、今から2年近く前、雪哉がまだ養成所にいた頃で、実際に乗務する機の実機訓練を始める直前のことだった。

 今まで誰も着陸に成功したことのない――訓練生全員がもれなく操縦不能で墜落した荒っぽいフルフライトシミュレーター訓練で、雪哉は機体を降ろすことに成功したのだ。

 教官が思わずシミュレーションプログラムを見直したほどだったのだが、それでも雪哉は悔しがった。

『タッチダウン(接地)しただけでは意味がありません』と。

 確かに接地はしたものの、機体は止まれずにオーバーランして爆発、炎上した。

 だが、墜落とオーバーランでは天と地の差だ。

 その、現役の機長ですら困難なプログラム――もちろん機長はクリアするが――を、それでも着地させたと言う評判はあっという間に広まり、それは当然、当時機長昇格2年目だった来栖敬一郎(くるす・けいいちろう)の耳にも入った。


 ――不動雪哉…か。どんなヤツなんだろう。

 当然興味は持った。
 その腕を実際に見てみたいと思ったし、それだけの能力を持つヤツならば、態度もそれなりなのだろうかとも考えた。

 先入観を持つのは嫌いだが、予測は必要だ。

 敬一郎は、航空機の操縦で一番怖いのは慢心だと思っている。

 慣れてしまえば必ず落とし穴が待っている。
 だが落とし穴にはまってから気がついたのでは遅い。

 訓練機ならまだしも、実際に乗務を始めてしまえば、その手には数百人の人命を握っているのだ。
 ひとりだけが落とし穴にはまるわけではないのだから。

 敬一郎も早くからその高い能力を買われ、機長への昇格も35歳という異例の早さだった。

 けれど、やはり副操縦士時代にはふとした意識の隙をつかれる場面に出くわし、その都度先輩機長たちから適切に指導を受けて育てられてきた。

 だから、今は自分も機長として成長しながらも、後輩たちの道しるべにならねばと気を引き締めている。

 件の訓練生は自分と同じ機種――社の主力機だ――のライセンスだと聞いたから、自分と組む日も来るかも知れない。

 そうなれば、自分が育てられたのと同じように指導していかなければと、少しばかりの気負いも感じていた。


 そしてその『不動雪哉』は順調に審査をチェックアウトし、実際に旅客を乗せた運航便で行う路線訓練(OJT=On the job training)を始めることになった。

 路線訓練の初日は羽田−福岡間の往復。

 路線教官の機長は社内でももっとも信頼を寄せられているベテランだった。


 


「いやー、やられたよ」

 敬一郎は機長専用のロッカールームで、雪哉の訓練に当たったベテラン機長に出くわした。

「お疲れさまでした。路線初日の訓練生をお連れになるのは大変でしたでしょう?」

『やられた』という言葉を額面通りに受け取れば、やはり相当に大変だったのではと推察される。

 自分も初めて運航便に乗った時にはかなり緊張したが、同期や先輩後輩たちの話を聞いても、緊張で声が掠れたとかうわずったとか、手が震えてスイッチが入れられなかったとか、果ては声が出なくてコールが出来なかったなどという危ない話まで飛び出してくるくらいだ。

 ただ、訓練生を乗せる場合には必ず正規の副操縦士もコックピットに入るので、万一の場合にも操縦に関しての危険はまったくないのだが。


「いやいや、あんな子は初めてだ」

 唸るように言うベテラン機長の表情はいたく満足そうで、まさに相好を崩すと言った感がありありだ。

「ランディング(着陸)に際して、この僕より先に、気流の変化に気づいたんだよ、あの子は」

 まさか…と敬一郎は思った。

 あらかじめ風力や風向に注意が必要な状況ならいざ知らず、今日の羽田は比較的穏やかで、こんな日には乗務数年程度の副操縦士では、わずかな風向の変化には気づかない。

 ただ、着陸間際の変化には誰しもが敏感になるのは事実で、だが、それでもこのベテランを差し置いてそれよりも早く、しかも初訓練でそれをやってのけるとはいったい…。


「まあその他の能力はもう言わずもがな…だ。 養成所の教官に同期がいるんだが、そいつも舌を巻いていたからな。 特に空間認識力とバランス感覚は特筆すべきものがあるようだ」

 上着に袖を通しつつも話を続けるベテランは、まだ少々興奮気味だ。

「とにかく訓練生だということをこっちも完全に忘れてしまうくらい、完璧な仕事ぶりだったよ。後ろのコ・パイが唖然としてたな。この調子なら、もしかしたらいずれあの子は来栖くんの『機長昇格最速最年少記録』も塗り替えるかもしれないね」


 同乗したコ・パイが誰で、そいつがどう思おうが知ったことではないが、その後の言葉は聞き捨てならなかった。

 いや、自分の記録などはどうでもいい。

 あれは、路線拡大で機長が不足した時期にたまたま当たり、2年ほど前倒しになった機長昇格訓練の枠に運良く入れただけだと自分では思っているから。

 それよりも、初めて路線に出た訓練生――まだパイロットではない――と比べられるのはいかがなものか。

 機長という職位に胡座をかくつもりもないし、乗務にはいつも謙虚な気持ちで臨んでいるが、背負う責任へのプライドはある。

 だが、目の前のベテランは己のちょっとした失言にはまったく気づくことなく、まだご機嫌で話を続けている。

「でね、『キミはまったく緊張しないんだね』って声を掛けたら、その答えがなんと」

 こっちを向いてニカっと笑われて、思わず腰の引けた敬一郎だったが…。

「『いえ、とんでもありません。緊張で手に汗びっしょりで、喉はカラカラです』ってニコッと笑うんだよ。これがまた天使のように可愛くてなあ」

「……天使、ですか?」

 20代も後半のはずの訓練生が天使なワケがなかろうと、敬一郎の眉間に皺が寄る。

 だいたいさっきから違和感を感じていたのだ。
 ベテラン機長は『あの子』を連発していた。

 ――普通は『彼』とか『あいつ』とか言わないか?

「あの子を僕の専属コ・パイに指名したいところだけれど、あの子にとっては色んな機長と組む方がためになるだろうからね」

 いや、その前にこの社には専属制度はないし、VIPフライトでもない限り、機長だからと言って副操縦士をリクエストすることも出来ないじゃないか…と内心で突っ込んでいる敬一郎だが、それをおくびにも出さないところがまた、『来栖キャプテン、めっちゃクールでかっこいい!』と、キャビンクルーたちが勝手に騒ぐ一因にもなっているが、そんなことは敬一郎には預かり知らぬ事だ。


「しかしなんだな。あれほど訓練生の制服が似合わん子も珍しいぞ。あれじゃあまるでコスプレだ」

「……は?」

 こんなことろで先輩機長から聞くはずのなかろう言葉を耳にして、敬一郎が珍しく呆けた。

 コスプレと言う言葉はもちろん知っているし、内容も把握はしているが、自分が知っている『コスプレ』と今ベテランが口にした『コスプレ』が同じ意味だとは到底思えない。

「ああ、来栖くんも疲れているのに、長々と話してすまなかったね。今日はインター?」

「はい、バンクーバーから戻りました。貴重なお話をありがとうございました」

「うん。いずれ君も雪哉と組む日がくるだろうから、楽しみにしているといい。じゃあ、お先に」

「お疲れさまでした」

 上機嫌の背中を見送って、敬一郎はまた違和感に気づく。


  ――雪哉だって? ファーストネームじゃないか、それは。

 そう、普通、機長は副操縦士を苗字で呼ぶ。
 呼び捨てにする機長もいれば、『くん』をつける機長もいるが、ともかく苗字だ。


 ――いったいどんなヤツなんだ、不動雪哉は。

 ベテランを一度で『手名付けて』しまったらしき訓練生に、機長としての敬一郎の興味が引きつけられる。

 ただし、あくまでも『その実力』についてであって、本人そのものに興味があった訳ではなかった。

 今のところ、まったく。




 それからは、敬一郎が雪哉の情報を集めるまでもなく、四方八方から彼の話題が耳に入ってきた。それこそ、否応なしに。

 それは、彼の出身大学だとか――国立最難関の文科T類と聞いて驚いたが――入社時にすでに取得していた資格の多さ…などという履歴書的な事柄から、職務においても非常に優秀だという話、そして、とても明るくて気立ての優しい人間だという、その人物像についての話も聞こえ始めて来た頃、国際線のチーフパーサーを務める都築信隆から、久々に飲みに行こうと誘われて、その席でまた雪哉の話を聞かされる羽目になるのだった。




 副操縦士昇格審査の結果が掲示された。

 それを確認してから、携帯電話を手に、物陰へ入る。

 コール1回で繋がった。恐らく向こうも首を長くして待っていたのだろう。

「…はい、お待たせしました。…ええ、良いご報告です。無事に副操縦士に昇格しました。訓練生の最速記録だそうですよ。今掲示されたばかりですので、そのうち本人からも報告があるのではと思います」

 通話の向こうの声が、感極まる。

「…先生のご苦労が、報われましたね」

 それから少し自分の近況も報告して、ラインを切って、ひとつ、息をつく。


「不動雪哉……か。やっとここまで来たな」


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コ・パイ:Co-Pilot/副操縦士のこと。
コー・パイと発音することも多い。
英語ではFirst Officer とも言う。

インター:インターナショナル/国際線
国内線はドメスティック。略して『ドメ』。


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