Climb





 チーフパーサーの都築信隆(つづき・のぶたか)は敬一郎の大学の1年後輩で、在学中から馬が合った2人は職種こそ違うが同じ航空会社に入社して、今もこうして時間が合えば情報交換をしあっている仲だ。

 ただ、敬一郎は大卒の後に航大へ進んだので、入社は信隆が1年先になる。

 身長は敬一郎より2cm低い183cm。
 長身に見合ったバランスの良いスタイルは、日本人離れしていると言われるほどだ。

 そして、ともすれば冷たくも見えるほど整った顔立ちは、客室内の平和を保つためには威圧感を発揮し、微笑むと一気に華やかなおもてなしモードになる。

 さらに、スマートな物腰、そつのない受け答え、完璧な気配り…と、この職が天職に違いないと誰もが思う、有能なチーフパーサーだ。

 当然ファーストクラス担当資格を始めとする様々な資格を有していて、チーフパーサーを纏める事の出来る上級チーフパーサーという立場で、教官としての一面も持つ管理職である。

 そろそろ現場を離れて後進の指導に専念してくれないかと上から言われているのだが、本人は『現場・命』と公言して憚らず、まだ当分の間は飛び続けるつもりのようだ。

 バツイチの敬一郎と違い、未だ結婚歴無しなのだが、本人は『世界中で恋人が待っているから』と嘯いて、数多の誘いを断り続けている。

 だが、それが本当ではないことを敬一郎は知っていた。

 信隆は理想が高すぎるのだ。
 高すぎて未だに意中の人に出会えていない彼は、それでも理想の恋人に出会うことをまだ諦めてはいない。

『意外にロマンチストなんだな』…と、一度真面目に言ってみたら、『意外ってなんですか。失礼なんだから』と、笑われたが。




「で、来栖先輩の『その後』はどうなんですか?」

 社内では『キャプテン』と職位で呼ぶ信隆だが、一歩外へ出ると、昔のままの呼び方になる。

「なにがだ?」

 聞かんとしていることはわかってはいるが、わざと聞き返してやる。

「周りは相変わらずうるさいんじゃないですか? 再婚しろって」

「…知るか」

 長身で男前。品行方正・頭脳明晰・冷静沈着で上層部からの覚えもめでたい敬一郎は都内の由緒ある名家の一人息子だが、仕事に没頭しているうちにいつの間にか見合いをセッティングされて、跡取りとはそんなものだと説得されて、そんなものかと結婚はしてみたが、不規則な上に神経を使い、さらに日々勉強が続く仕事を黙々とストイックにこなす敬一郎との生活に耐えられなくなった妻は、心を通わせる間もなく、ある日突然実家へ帰ってしまったのだ。

 親のすすめで一度は迎えに行ってみたけれど、話し合う気もなさそうだったので、それはそれで仕方がないな…とあっさり諦めた。

 我ながら薄情だとは思うが、今や顔ばかりか名前すらぼんやりとしか思い出せない有り様だ。

 以来、恋愛には夢も希望も持ってはいない。期待など以ての外だ。


「その気はないってことですか」

「ないね、全く」

「でも相手には事欠かないじゃないですか。うちのチームにも『来栖キャプテン』狙いはたくさんいますよ」


 副操縦士時代に突然見合い結婚した時のキャビンクルーたちの落胆振りと来たら、可哀想を通り越して可笑しいほどだった。

 その反面、僅か半年で破局した時の喜びようときたら、乗務中でないすべての女性キャビンクルーが世界中のどこかで祝杯を挙げていたと言われたほどで、『女ってコワい〜』とパイロットたちは震え上がったものだ。

 ただ、半年で破局ときたら、それなりにネガティブな憶測も流れようなものだが、そこは敬一郎の人徳なのか、はたまた常の禁欲的な行動のおかげなのか、『奥さん、不規則な生活に耐えられなかったんだって』…という、かなり事実に近い噂だけが流れて、いつしか消えていった。

 今や『バツイチ』まで勝手に『いい男の勲章』のように扱われてしまい、それはそれで居心地が悪いのも確か…といったところだ。


「あのな、親が求めてるのは、俺の妻じゃなくて来栖家の嫁と跡継ぎだ。キャリアを積んで生き生き働いている彼女たちを閉じ込めるような可哀想な真似ができるもんか」

「ああ、それには同意しますけどね」

 不規則な勤務である敬一郎の通勤事情もあるから、本家に同居を強制されているわけではないし、かつての短い新婚生活もマンションで――今とは違う場所だが――送っていた。
 
 けれど、物質的な束縛だけでは無いのだ。旧家の嫁というのは。


「それより、お前が俺に何か話したいことがあるんじゃないのか?」

 もうこの話題はたくさんだとばかりに、敬一郎は話を振った。

 だが、信隆はすぐには話し出さず、少しの間、視線を遠く揺らして、それからおもむろに敬一郎に向き直った。

「噂の不動雪哉とは、もう乗務しました?」

「いや、まだだ。先輩機長たちからは耳にたこができるほど話しは聞かされてるがな。順調にチェックアウトしてコ・パイに昇格したらしいな。 同じチームに配属されたようだから、そのうち回ってくるだろう」

「…順調どころか、実機訓練開始からコ・パイ昇格までの月数は最速記録大幅更新で、『最短不倒記録』なんて言われてますよ…」

 珍しくだるい様子を見せる信隆は、片肘をカウンターに乗せたまま、水割りを少し舐めた。
 クルーと名の付く職業の人間は、普段から飲酒は控えめだ。このエアラインでは。

「どうしたんだ? 何か悩みでもあるのか?」

 滅多にないことだ。信隆は昔から物事に動じない質で、そういう部分でもチーフパーサーとしての資質を備えているとも言えるが。

「俺…」

 言葉を切ってまた怠そうに水割りを舐める信隆を、敬一郎はまたも驚きをもって見つめた。

 自分はオンとオフで一人称を使い分けているが、現職に就いてからの信隆の一人称はいつも『私』だったから、その変化に戸惑う。

 これは相当に悩みを深くしているに違いないと、身体ごと信隆に向き直り、敬一郎は先を促した。


「何でも良いからこの際吐いてしまえ。俺が全部聞いてやるから」

 色恋の話だと何の手助けも出来ないとは思うが、それでも誰かに話せば少しでも楽になるだろうと真剣に考えた。

 見合いで結婚した妻に半年で逃げられてしまう程度には恋愛オンチだけれど、話くらいは聞いてやれる。


 やがて、信隆がぽつりぽつりと話しはじめた。

「俺、普段は国際線飛んでるし、まだ当分の間は国内乗務だろう彼との接点はないと思ってたんですけど…」

「ああ、最低でも1年は国内だろうな」

 ただ、雪哉が持つライセンスでは、資格さえ取れば、いずれ国際線での乗務も増えてくるはずだ。

「…この前に2回ほど、新人の審査で久しぶりに国内線に乗ったんですよ」
「…それで?」

「そしたらね、その2回ともが偶然、雪哉の乗務だったんです」
「…うん」

 それと、このいかにも奥深そうな悩みとは結びつかないのだが。


「ふわふわのオコサマ的カワイコちゃん系って、全然好みじゃなかったんだけどなあ…」

 独りごちた信隆に、敬一郎は同意した。

「そうだな。お前の好みは昔からキリッとした美人系だったな」

『どっちもOK』と公言して憚らない信隆の好みは学生時代から一貫して同じだ。
 男女問わず、大人びた外見で、女性であっても『男前』な性格を好んでいたはずだ。

「でも俺、雪哉に惚れちゃった気がする…」

「…えっ? な、なんだって?」

 驚きすぎて二の句が継げなくなった。

 信隆のことだから、相手の性別に驚いたわけではない。

 好みのタイプについての宗旨替えに驚いたわけでもない。
 なにしろ敬一郎は噂だけで、まだ本物の不動雪哉を見たことがないのだから。

 だから何に驚いたのかというと、この、天下無敵のチーフパーサーをたった2回の乗務で落としてしまうとは、いったい何者だ…という一点だ。

 しかも同じ客室乗務ならば一緒にいる時間も多いだろうけれど、同じシップに乗務しているとは言え、コックピットクルーとキャビンクルーでは接する時間も限られる。

 それに信隆は審査のために乗務したのだから、コックピットの世話はしていないはずだ。

 となるとやはり接点は、乗客の搭乗前に行われるキャビンでのブリーフィング*の時間くらいしかないが、その時間は相手を知るにはあまりにも短い。

 フライトの重要事項を端的に伝えあう時間だから、不必要な私語を交わせる状況ではないのだ。


 敬一郎が考え込みかけたとき、信隆がまた口を開いた。

「実際、乗務前のキャプテンから聞いてはいたんですよ。 訓練生時代の成績が良くても実際乗務させてみればてんで使い物にならないヤツはいるし、あんな華奢な身体でフライトのストレスに耐えられるのかねえ…なんて、割とネガティブな意見ばっかりをね」


 その言葉に敬一郎は眉根を寄せる。

 新人パイロットに対する不安はわかるけれど、偏見もいけない。
 見た目に騙されるようでは機長失格だ。
 どんな事態でも、物事の本質を瞬時に見極められないと、緊急時に判断を誤る。


「それに触発されてか、キャビンクルーたちまで最初は『あんなに頼りなさそうで、本当に操縦桿握れるのかしら』とか『何かあってから『ごめんなさい』じゃ、済まない世界なんだけどなあ』なんて不安がっていたようなんですけど、実際雪哉に接してみたキャビンクルーたちはみんな言うんです。見かけと違うって」

 つまり、会ってみればネガティブな噂は一蹴されてしまうというわけだ。

「そう…なのか?」

「ええ、俺も実際会ってみて、そう感じました。まず集中力の高さ。それから記憶力。同じシップのキャビンクルーの顔と名前を一発で全員覚えました」

「ほんとか、それ」

「ええ。」

 敬一郎はパイロットこそ覚えているが、それもほとんどが同じチーム――所持ライセンスごとに課が別れていて、その中でさらにチームが組まれている――の者であるし、キャビンクルーに至ってはコックピットと直接連絡を取り合うチーフパーサークラスでないと覚えていない。

 だいたい人数にしても羽田ベースだけでも3000人近い規模で、必要も感じていないから。


「何しろ噂が先行しちゃってますから、初めて組むキャプテンたちも、最初は表情硬いんですけどね、往路便が到着した頃にはもう、完全に認識改めてました。彼は非常に優秀だって、そりゃもう手放しで」

「…ああ、それは聞いてる」

 あれ以来、実際に組んだ機長たちから直接耳に入ってる。
 異口同音に、楽しみにしてろ…と。

「復路のオートパイロット中なんて、どのキャプテンも自分の武勇伝やら経験談を語って聞かせてご満悦らしいですよ」

 それも敬一郎は聞いていた。
 素直で話しやすいタイプらしく、話が弾むのだと。


「ちなみに牛島キャプテンは、『雪哉の『Roger』って発音、戦隊モノのヒロインみたいでクソ可愛い』って仰ってました」

「…なんだそりゃ」

 機長の牛島聡(うしじま・さとし)は敬一郎の3年先輩で、同じチームに長く属していて何でも相談できる気の置けない『仲間』であり、同期を除けばもっとも親しい機長だが、そう言えばまだ『不動雪哉』については話を聞いていない。


「おまけに謙虚で、新人らしく周囲への気配りも忘れないときて、その上に優しくて、しかも笑顔が可愛いんですよ〜」

 ううっ…と嗚咽までいれて信隆は熱演してくれるのだが、こうまで『事前情報』を入れられてしまうと、諸先輩方同様、身構えてしまう気がしてならない。

 そう、敬一郎の嫌いな『先入観』というヤツだ。

 振り回されないように冷静に…と、思い込みすぎて、また振り回される羽目になる。

 だからもう、これ以上は聞きたくないなとは思ったのだが、信隆の口は止まらない。


「この私がまさかの一目惚れ状態なんて、納得出来ないんですよね。しかも全然好みのタイプじゃないし、そもそも遠くから見守るだけのつもりだったのに…」

 一人称が『私』に戻ったから、それなりに自我を取り戻したようだけれど、確かに『一目惚れ』というのはらしくない。

 好みのタイプでないのも認める。

 いや、『理想の恋人』というのは、案外こんな出会い方をするのかもしれないな…と、恋愛オンチらしからぬ推測を展開しつつ、敬一郎は黙って話に付き合う。


「だから、これはもう個人的にお近づきになって、彼の人となりに接近して確かめるしかないと思って雪哉のメールボックスにメッセージいれたんです。今度ゆっくり話をしませんかって、こっちのスケジュール付きで」


 乗務員たちは、コックピット、キャビンに関わらず、それぞれ個人のメールボックスを所有していて、すれ違うスケジュールの中、会社からの伝達事項を受け取るというメインの使い方の他にもさまざまなやり取りをしている。

 連絡だけならば携帯でも可能だが、国内外問わず、滞在状況によっては繋がらないこともあるし、携帯番号を知らない相手もいる。
 
 だから、メモや書類をいれたり、ステイ先でのお土産や頼まれ物を入れたりなどに活用している。

 雪哉のそれに、信隆は自分のスケジュールを明らかにしてお誘いメッセージを入れたというのだ。


「で、結果は?」 

 この様子では空振りだったのだろう。間違いなく。

「これですよ」

 差し出されたのは、社名入りの白い便箋。
 丁寧な字でそこにはこう書かれていた。


『お誘いいただいてありがとうございました。キャビンのお話など、お伺いして勉強させていただきたいと思うのですが、今回はスケジュールが合わないようで、とても残念です。もし宜しければまた誘って下さい』


 これはもう、体よく断られたとしか受け取れないのだけれど、話には続きがあった。

「他のキャビンクルーもかなりアタックかけたようなんですけど、『まだ新米で時間も体力もいっぱいいっぱいなので、今回はごめんなさい』って丁寧な返事が入ってたようです。 でも、私にはちゃんと、彼のスケジュールが添付されてたんですよ。 まだ中身見てないですけど、寄越して来たからにはスケジュールが合わないってのは、事実みたいで…」

 どうやらスケジュールは逃げ口上ではなさそうだけれど、スケジュールを利用したとも言えるから、敬一郎はなんとも返事のしようがなく、口を噤んだ。

「でも、もしかしてこれって脈あり?」

 ぱっと顔を上げて浮上する信隆だが。

「いや、相手が上級チーフパーサーだから気を使ってるんだろ」

 あっさりばっさり斬られてがっくりとうなだれる。


 フライトになれば、年齢も経験年数も関係無く、機長が命令権を持つ最高責任者で、機長に何かあった場合にはその権限と義務は副操縦士に移り、いくら経験が長くても年長でも客室乗務員はその下に在るのだが、地上に降りてしまえばそうはいかない。

 機長ならともかくも、副操縦士の身分ではまだ、経験の長いキャビンクルーには頭が上がらない。
 
 まして相手が社内でも数少ない、教官でもある上級チーフパーサーともなれば、副操縦士が束になっても敵う相手ではない。


「どっかでスケチェンにならないかなあ…」

 平のキャビンクルーならいざ知らず、教官業務もこなす信隆にスケジュールチェンジが入ることは稀だ。
 訓練や審査の日程に影響が出るからだ。

 それでもつい口に出さずにはいられないほどがっかりして、カウンターと『お友達』になっている信隆を、どうしたものか…と困惑顔で敬一郎が見つめる。

 やっぱり恋愛沙汰は苦手だ。


「ま、今月がダメなら来月があるさ…ってことで、諦める気はないですけどね」

 ペラッと目の前に晒された紙――雪哉のだというスケジュール表――を、敬一郎はため息混じりに引き取って、何気なく目を通した。

「あ。」

「ん?なんですか?」

 突っ伏していたカウンターから顔を上げた信隆に、敬一郎が告げる。

「月末のフライト、俺の機(シップ)だ」




 そして、その日がついにやって来た。

 今月は国際線1往復が2回と3日連続の国内線乗務が3回の予定だったが、その最終の新千歳往復便の副操縦士が、雪哉だった。

 定刻にショウアップした敬一郎よりも早く、すでに雪哉はディスパッチルーム*前の椅子で機長の到着を待っていた。

 敬一郎の姿を見つけると、弾けるように立ち上がり、帽子を取って深く頭を下げる。

「はじめまして! 副操縦士の不動雪哉です! 本日来栖機長にお世話になります!」

『可愛い可愛い』と散々信隆から聞かされていたが、思っていた以上に頭は低いところにあって、華奢な肩はまるで女の子のようで…。

「よろしくお願いいたします!」

 そう言って、やっと上げたその顔に…。

 敬一郎の心臓が、口から飛び出しそうなほど、大きく脈打った。

 ジッと見つめてくる屈託のない明るい色の瞳。
 ほんの少し上向き加減かもしれない小さな鼻と、それに見合った薄くて艶めいた唇。
 少し癖のありそうな髪の毛はいかにも触り心地が良さそうで。 

 身体を包む、袖口に3本線――機長は4本線だ――の副操縦士の制服は、なるほどさっぱり似合っていない。
 着せられた感が満載で、それがまた不思議な可愛らしさを醸している。

 敢えて下世話な表現をするならば、『美少女の制服コスプレ〜パイロット編』状態なのだ。

 初めての路線訓練に当たった機長が『コスプレだな』と言った言葉を漸く敬一郎は理解した。


 そして、これが『釘付け』という状態なのかと、後から思い返すことになるのだが。


「あ、ああ、はじめまして。来栖です。こちらこそよろしく」

 漸くそれだけ――努めて冷静に――言って、ディスパッチルームのドアを開けた。

 後ろから雪哉がついてくる。


 それからは打ち合わせに集中した。

 天候、運行に関する各種情報、飛行ルート、燃料・搭載物の量などなど、やらなくてはいけないことが山積みだ。

 特に今日は、到着地の札幌はすでに降雪で、復路便が羽田へ帰り着く頃にはこちらの降雪も予想されているから、その対策――目的地へ降りられない場合の代替空港の設定など――に時間を取った。

 雪哉もまた集中している様子で、私語を交わすこともなく、それは搭乗してからオートパイロット(自動操縦)に入るまで続いたが、キャビン・ブリーフィングの時には初めて雪哉の姿を見たキャビンクルーたちの間に密やかなざわめきが広がった。

 これが噂の…と言ったところだろう。

 そして信隆からの情報通り、雪哉は一度でも同じ機に乗り合わせたことのあるキャビンクルーはすべて記憶していて彼女らを喜ばせ、初めてのメンバーもまた一度で名前を覚えられてご満悦だった。

 なるほど、人の心を掴むのが早いなと感じた。
 自分も一瞬で掴まれたひとりだと言うことに気づいたのは、もう少し後だけれど。



「あの…」
「なに?」

 オートパイロットに入って少し。
 チーフパーサーが客室内に異常がないことを報告して出て行くと、雪哉が小さく声を掛けてきた。

 応える言葉が、その意に反してそっけなくなってしまったことに、敬一郎は内心驚いていたが。


「ここまでで、何かお気づきの点がありましたら、ご指摘いただけるとありがたいのですが」

 少し緊張しているのか――いや、彼は緊張しないたちだと思うと先輩機長たちは言うが――若干上ずった声で雪哉が言う。


「いや、何も。特に問題は感じていないよ。ストレス無く飛べたと思う」

「そう、ですか」

 会話が途切れる。

 もともと敬一郎は口が達者な方ではない。
 だが寡黙というわけでもなく、強いて言えば『もの静か』といったところか。

 機長という立場は特にコミュニケーション能力が重要になる。

 言うべきことははっきりと言い、さらに下からも忌憚なく意見が言いやすい環境を作るのが機長の役目だ。
 乗務員全員の意思疎通が確立されていないと安全運航は図れない。

 けれど何故か今は気詰まりで、これまでに感じた事のない妙な焦りが敬一郎の中にあった。

 もちろん、乗務の上でのことではない。雪哉との接し方について…だ。


「あの…」
「なに?」

 これでは先ほどと同じ展開だ。

「雪、やんでると、いい、ですね」
「そうだな」

 また会話が途切れる。やっぱり同じ展開だ。

 それからは雪哉も会話を振ってはこなかったが、どちらにせよ『羽田−新千歳』間は飛行時間が1時間40分ほどで、オートパイロットの時間もさほど長くない。

 すぐにまた、パイロットがもっとも神経を使う着陸の準備に入り、コックピットに響くのは、管制との交信や、コールなどの引き締まった声だけになった。

 そして、わずかの時間の給油と整備を終えて、羽田へ帰る便でもそれは同じだった。 

 けれど、そのたった一往復のフライトで、敬一郎は認めざるを得なかった。

 不動雪哉の能力を。

 機長にまったくストレスを与えない――それどころか、先回りをして道をあけてくれるかのような働きぶりに、本気で舌を巻いた。

 このレベルに至るには、少なくとも乗務3年から5年はかかるはずだ。
 
 先輩機長たちが『あの子が専属ならなあ』という訳が良くわかった。
 彼と組むと恐らく、疲労は激減するはずだ。

 だから、『良い出来だった』と褒めてやれば良かったのに、何も言えずに別れてしまった。

 何故あんな態度をとってしまったのか、自分の行動が不思議でならない。

 他の副操縦士でも、良い出来であれば素直に褒めてやれるというのに。



 それから数日。
 いや、次に雪哉とのフライトとなる1ヶ月後まで、敬一郎はいつも頭のどこかで雪哉の事を考えていた。

 今頃誰と組んで、どの路線を飛んでいるのだろうかとか、不規則な勤務には慣れて来ただろうかとか、体調は崩していないだろうかとか。

 挙げ句の果てには、国内線乗務で組んだ雪哉の同期の藤木昌晴に、根掘り葉掘り雪哉の情報を聞き出すようなことまでしてしまった。


『雪哉のグラサン姿って、『アイドルの変装みたい』って言われてるんですよ』という話には笑って同意してしまい、『あいつのこと、可愛くて仕方ないんです』と言われたときには、何故か無性に苛ついてしまったりして、巨大な旅客機は自在に操れるのに、ちっぽけな自分の心ひとつがまったく操縦不能になってしまい、戸惑うばかりで。


 それでも、ずっと考え続けて免疫でもついたのか、2度目の雪哉との乗務では何とか自分を取り戻すことができた。

 コ・パイを指導していくのは機長の大切な役目であるのだということを、やっと思い出し、自分の心の乱れが新人コ・パイの乗務の妨げになるなどと、あってはならないことだと反省して。


 けれど、やっぱり、こんなことは初めてだった。

 惹かれているのは確かだ。しかしそれは彼の能力に…なのか。

 それとも…。


 それを世間では『一目惚れ』と言うのだと気づいたのは、3度目の雪哉との乗務を終えてコックピットを出る時、帽子を手渡してくれた雪哉の指先と、自分の手が触れた瞬間だった。




「そう言えば、キャプテンの隣に初めて座らせていただいたのは、同じ新千歳行き53便でした」

 順調にオートパイロットに切り替えたところで雪哉が口を開いた。

「覚えていたのか」

「もちろんです。降雪と凍結の滑走路でもドライコンディションと変わらないランディングをされたキャプテンに、僕は痺れてしまいました」


 照れくさそうにいう雪哉は相変わらずどうしようもなく可愛い。

 雪哉と初めて飛んだあの日から、もうすぐ1年になろうとしている。

 そう遠くないうちに、雪哉には国際線乗務の辞令がでるだろう。

 もしロングフライトで一緒になることがあれば、ステイ先でも少しはゆっくり話す機会もあるかもしれない。


 あれから敬一郎の心は雪哉に囚われたままだ。
 けれど、何も変わらない。
 2人の立場はあの日のまま、機長と副操縦士という、職務上のつき合いだけだ。

 何度か食事に行ったことはあるけれど、必ず他のクルーが一緒で、2人きりになったことはない。

 信隆は何度か2人きりで出かけることに成功しているようだけれど、そっちの方の進展はさっぱりの様子で、報告してくる度にため息が増えている。

 どうやら『頼りになる先輩乗務員』としてすっかり懐かれてしまったらしく、身動きが取れないらしい。 

 あまりにも信隆らしくない姿に苦笑が漏れるが、『上手く行きました』と言われるのは絶対嫌だ。


「でも、僕はあの時、『来栖機長は厳しくて怖い方』だって勘違いしてました」

「それはまたどうして」

 あの、記念すべき2人の初フライトで、敬一郎は一度も雪哉にダメ出しをしていない。
 する必要がなかったからだ。
 それほどまでに雪哉は完璧だった。

「初めてディスパッチルームの前でご挨拶させていただいた時から、なんだか少し不機嫌なご様子だった気がしたんです」

「そうだったかなあ」

 わざととぼけて見せる。

 そう、あの時は不機嫌だったのではなく、見惚れてしまったのだ。雪哉に。

 そしてその後の『らしくない』ぶっきらぼうは、今から思えば完全に照れ隠しだ。


「でも、あれから何度もご一緒させていただいて、あとから心配になりました」

「心配とは?」

「あれ以来キャプテンが不機嫌そうな顔をされるのをみたことがありません。いつも穏やかで、優しくて…。だからもしかしたらあの時、お加減でも悪かったんじゃないかって…」

 すでに社内のほとんどが知っている、『優しく思いやりのある雪哉』。

 だが、今敬一郎に向けられている優しさは、誰にでも向けられているもので、敬一郎ひとりのものではない。それが、悔しい。


「心配してくれて嬉しいが、私の体調管理はいつも万全だよ?」

 笑いを含んだ声で返してみたが、雪哉は慌てた。

「わあっ、すみませんっ。失礼なことを言いました!」

「いや、そうやって君に心配されるのはいい気分だ」


 今度こそ本当に笑いながら返すと、雪哉は少しホッとしたように、はにかんだ。

 その様子が敬一郎の胸を騒がせる。

「さて、今日の新千歳も若干の降雪だ。凍結の情報はまだないな。ドライコンディションと変わらないランディングを心がけるよ」

「僕、また痺れちゃいますね」

 嬉しそうに言ってくれる雪哉が可愛くて、つい、手を伸ばしてその小ぶりな頭を撫でてしまう。

 けれどそれだけで、それ以上のことはもちろん、何も出来ない。

 まったく信隆のことを笑える筋合いではない。


 今、こうしてコックピットという狭い空間に2人きりの世界を築いている時間だけは、雪哉は自分のものなのだと、それだけを何度も言い聞かせて敬一郎は雪哉に接してきた。


 ただ、いつかこの想いが溢れてしまうのでは…と、それだけが、怖かった。


【3】へ


航大/航空大学校。パイロットを養成する専門課程の学校。
2年制。入学は年4期に別れていて、修了しても大学卒業資格は取れない。
入学資格は、大卒もしくは大学2年修了で教養課程の単位を修めていること。


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