Turbulence




 あの日のことは、一生忘れないだろうと雪哉は思っている。

 初めて路線訓練で運航便に乗ってから約3ヶ月。

 無事に訓練生から副操縦士に昇格して、その後漸くパイロットとしての生活のリズムをつかみかけていたことろで、あの人に出会った。

 何人ものベテラン機長と乗務して、それから回ってきた若手機長との乗務。

 その終わり頃、社内での『機長昇格最速・最年少記録』を持つ機長の下で乗務することになった。

 機長の名は、来栖敬一郎。機長としては最も若手の部類に入る38歳。
 雪哉の一回り上だ。

 長身、男前、穏やか、敏腕…と、いいことずくめの『若手のホープ』は、実はバツイチとも聞いた。


 ともかく雪哉には色々な噂話が入って来る。
 けれど雪哉はそれらを単なるお楽しみとして聞き流している。


 子供の頃からの夢、パイロット。
 狭い園庭から見上げた先、ビルに切り取られた小さな空を、白雲を刷いて飛んで行く姿をいつも見つめてきた。

 地上にいる場所がないのなら、あの空にはきっと、自分の居場所があるはず。

 いつか、あの空へ行きたい…。


 けれど、絶対に叶わないはずだった夢は、中学の恩師の尽力で道が拓け、そして高校の恩師に後押ししてもらったおかげで実現した。

 頼るべきものを持たない雪哉を、彼らは全力で護り、育ててくれた。

 今自分に出来る恩返しは、立派なパイロットになって、自分の足でしっかり生きていくこと。

 そしていつの日にか、機長になって、自分が操る機に招待できる日が来れば…と願っている。

 だから、よそ見をしている暇はなかった。

 なのに。



 
 ディスパッチルームへ向かう途中、数日前に世話になった機長にばったり出くわした雪哉は、この日のフライトの機長――来栖敬一郎について、『彼はまだ若いが頼りになる人物で面倒見もいい。安心して勉強しておいで』と言われていた。

 だから少し、浮かれていたかもしれない。

 ちょっとばかり落ち着かない気分で敬一郎の到着を待っていた雪哉は、その姿を見つけて弾かれたように立ち上がり、頭を下げた。

「はじめまして! 副操縦士の不動雪哉です! 本日来栖機長にお世話になります! よろしくお願いいたします!」

 それだけを一気に告げて、上げた視線の先には漆黒の瞳があった。

 瞬間、魂ごと吸い込まれたような気持ちになった。
 こんなことは、初めてだった。


「あ、ああ、はじめまして。来栖です。こちらこそよろしく」

 少しぶっきらぼうに告げられて、不意に逸らされた目は、それから新千歳空港を一往復して降機するまで、もう合うことはなかった。

 乗務に関しては、集中して出来たと思った。

 けれど、自分で気づかない点はたくさんあるに違いないから、雪哉は必ず、オートパイロット中にアドバイスを求めていた。

 それに対して、今までの機長はみな、『良く出来た』と言ってくれながらも、色々な事を教えてくれたし、雑談の中にも参考にすべきことはたくさんあった。

 けれど、敬一郎は何も言ってはくれなかった。

 こんなにも会話が続かないことは今までになかったことで、少なからず雪哉は戸惑ったけれど、それでもやるべき事には全力を注いだ。

 降機して礼を述べた雪哉に、敬一郎は一言、『お疲れさま』とだけ言って、背中を向けた。

 何がいけなかったのか、最後までわからなかった。

 ただ、『こんなランディングが出来るパイロットになりたい』と、強く感じた事が、雪哉にとっての収穫だった。



 2度目の乗務から、敬一郎に対する印象は変わった。

 初対面の時のあの緊張感は、他の機長たちでは感じたことがない種類のものだったから、2度目の乗務に臨むときには相当に気構えた。

 だが、その気構えは空振りに終わった。嬉しいことに。

 敬一郎はやはり聞いていた通りの人物だった。

 じゃあ、1度目のあれば何だったんだろうと、何度も考えたがやっぱりわからない。

 もしかして、少し浮かれていたのを見抜かれていたのかもしれないな…とも思うけれど、今さら蒸し返すのも…と、口を噤んだ。

 そのうちに思い当たったのは、もしかして体調不良だったのではないだろうかということだ。

 それならば、話しかけたりして申し訳無かったな…と思うしかなかった。


 その後、機長としての敬一郎は、雪哉の尊敬の対象になった。

 丁寧だけれど機敏で的確、冷静な仕事ぶりと、穏やかな人柄。

 美人揃いのキャビンクルーたちからも熱い視線を送られているけれど、本人はどこ吹く風。

 いつしか他の先輩クルー同様に『雪哉』とファーストネームで呼んでくれるようにもなったし、その呼びかけはいつも柔らかくて、雪哉の心を優しくくすぐった。



 あれは何度目のフライトの時だったか。

 コックピットに入り、制服の上着を脱いだ時に、不意に敬一郎が笑みを含んで言った。

『確かに制服はあまり似合ってないけれど、パイロットシャツは悪くないな。肩章はそれなりに似合ってるぞ』と。

 少し慣れてきていた雪哉は、『え〜、それって微妙に失礼じゃないですか〜』と笑いながら応戦したのだが、そんな雪哉の頭を敬一郎はまた笑いながら軽く撫でてきて、その瞬間、体中を何かが突き抜けて、足が震えた。

 こんな感覚を経験したことはない。

 酷く戸惑ったが、助かったのは、自分の切り替えの早さだった。

 集中力には自信がある。
 鷲掴みにされたような気持ちを一瞬で切り離し、雪哉はライト・シートに着いた。

 ただ、敬一郎に返した笑顔は、とんでもなくぎこちなかったかも知れないが。


 それ以来雪哉は、乗務や訓練中以外の時間のほとんどの気持ちが敬一郎に向くようになった。

 気がつけば敬一郎のことを考えている。

 今、どこを飛んでいるのかなとか、この時間ならステイ先で眠っているのかなとか、公休日には、誰かとどこかへ出かけているのだろうかとか、そろそろまた機長の定期訓練の時期だなとか。


 それが恋かも知れないと気づくまでに、さほど時間はかからなかった。


 こんな見た目のせいで、9割が寮生と言う男子校にいた頃も随分告白されたし、少しばかり危ない目にあったこともある。

 大学へ進学してからは、自分の生活を支えるために、バイトの掛け持ちと勉強に明け暮れていたにも関わらず、やっぱり告白してくる人間はそれなりに多かった。

 けれど自分は誰にも恋などしてこなかった。女性にも、男性にも。

 少し、心動かされる出会いもあった。
 けれど、そんな時、雪哉の気持ちには必ずブレーキがかかった。

 小学生の頃、仲良くなった同じクラスの女の子の母親が放ったあの一言。

『どこの子かわからないような子と仲良くしちゃいけません』

 自分のすべてを否定されて、幼い雪哉は自分の存在を見失った。

 その後、心ある教師に出会えたおかげで立ち直ることが出来たが、恋はもう出来なかった。

 だから、人生の始まりと同じように、最後までひとりで生きていく。
 そう、決めていた。


 なのに、ここに至ってよもやの恋に落ちてしまった相手は、同性で上司。

 それだけでもどうしようもないと言うのに、住む世界までが違う人だった。
 
 由緒正しい家に生まれ育った人は、それなりに見合った人とまたいつか結ばれるのだろう。

 どこの誰だかわからないような人間の手が届く相手ではない。

 どう転んでも、例え奇跡が起こっても、叶うはずのない相手に恋をしてしまうなんて…と、雪哉は落ち込んだが、次の瞬間閃いた。

 叶うはずがないからこそ、勝手に想い続けていられるのではないだろうかと。

 希望がなければ期待することもない。

 最初から成就の可能性がないとわかっているのは、いっそ楽な話なのではと思うと、自分の閃きに『Good job』と親指を立てたい気持ちになった。

 これから先も、自分の足で自分ひとりで生きていくための糧に、想い続けることだけは許してもらおうと、その気持ちを心の中だけでギュッと抱きしめた。




「ついに…だな」
「うん」

 資格審査に合格した雪哉と昌晴に、相次いで国際線乗務の辞令が出た。

 国内線のショートフライトで1日に何度も離着陸を行い、時には順調でないフライトもあり――雪哉はギアが降りないトラブルを、昌晴はエンジントラブルを経験した――実務としてさまざまな経験を積んで、2人は世界の空へ飛び立つことになった。

 機長は資格によって飛べるエリアと路線が決まっているが、副操縦士の間はどの路線に回されるかはスケジュール次第で決まりはない。

 敬一郎は現在、北米・米州とアジアのエリア資格と各路線資格を持っていて、近いうちに欧州エリアを取る予定の様子で、最後には中国エリアの資格も得て、その飛行エリアは広がっていくだろう。

 そんな敬一郎の後をずっと追っていきたいと、雪哉は願っている。



「最初、どこへ行くのかなあ」
「あんまり長いとキツいよな、きっと」
「台北か上海が多いって聞いたけど」
「らしいな。でもそれって国内便とあんまり変わんないよな」
「だよねえ」

 久しぶりに同じ時間帯に羽田へ帰り着いた2人は、今日のフライトを報告し合いながら帰途につく。

「なんか、長いようであっという間だったな」

「うん。初フライトが昨日のような気もするし、何年も前のような気もするよね」

「ってか、これくらいが危ないんだろうなあ」

「油断?」

「それ」

 うん、と、雪哉が口を引き結んで頷いた。

「この前、来栖機長ともその話した。1番怖いのは慢心だって。手袋に汗が滲むくらいがちょうどいいのかも知れないなって、キャプテン笑ってたけど。でもそれ、わかる気がする」


 最近、雪哉は来栖機長の話をすることが多くなったなと、昌晴は気がついていた。
 今のところ、敢えて突っ込んではいないが。


「この前のタッチアンドゴーくらい?」

 無事だったからこそネタにできるのだが、あの時、昌晴は出社スタンバイ中だったから、雪哉が乗務しているシップのトラブルはすぐに耳に入った。

 雪哉がコ・パイになって8ヶ月ほど経った頃のこと。

 そろそろ雪哉が戻ってくる頃だなと、広げていたテキストから顔を上げて時計を確認した時のことだった。


 第一報は『ギアが降りない』。

 その時オペレーションセンターにいた全員が恐らく、固唾をのんでモニターや空を見守っていたはずだ。

 センターから機影は確認出来なかったが、管制は恐らく機体を降下させて、ギアの状況を視認もしていただろう。

 上空旋回中との知らせが入ったときには、もしかしてこのまま胴体着陸になるのかと背筋が冷たくなり、今雪哉が上空で必死に対応しているだろうと思うといてもたってもいられなかった。

 その後すぐに『メインギア(主脚)は降りている』と伝えられ、その段階で昌晴はほんの少し緊張を緩めることができた。

 このままノーズギア(前輪)が出ずに胴体着陸になったとしても、メインギアが出ているから危険度はかなり下がる。

 まして機長は百戦錬磨のベテランで、補佐しているのは雪哉なのだから。

 結局、試みたタッチアンドゴーの衝撃でギアが降りて、通常着陸が出来たのは本当に幸いだった。

 ただ、降機した雪哉の顔をこの目で確かめるまでは、心拍数は上がったままだったが。

 自分がエンジントラブルに遭遇したときよりももっと強い不安を覚えたあの時、昌晴ははっきりと己の気持ちを認識した。

 雪哉が好きだと。



「マニュアルでもギアが降りなかった時には、『来たな』って覚悟決めたよ。でも、キャプテンから『これくらい想定内だろう?』って言われて、急に落ち着いた」

「ああ、キャプテンの一言って大きいよな」

 操縦技術だけでは機長になれないのだと、副操縦士たちはを機長を見て学んでいくのだ。


「うん。でも、降ろせた後でも、ダウン・ロックされてない可能性が残ってたし、そこんとこはタッチダウンしてみないとわかんなかったし、キャプテンも『乗客を全員無事に降ろすまで気を抜くな』って」

 雪哉が口を引き結ぶ。

「ああ、タッチアンドゴーの衝撃で無理に降ろしたギアだもんなあ。中途半端に下りてたら、タッチダウンの衝撃でグキッてことあるもんなあ」

 殊更のん気に言う昌晴に軽い肘鉄を入れ、雪哉は眉を下げた。

「ほんと、もう二度とゴメンだよ。確かにギアが降りないって想定の訓練はいっぱいしたし、タッチアンドゴーだって実機訓練でイヤってほどやったけどさ、乗客がいるのといないのであんなに気持ちが違うんだって、ほんとに身に沁みたよ」

 機長と自分が背負う命の重さを、言葉でなく身体で実感した瞬間だった。

 思い出して、キュッと身体を縮めた雪哉の姿を見て、不意に抱きしめたい衝動に駆られ、昌晴は慌てて言葉を継いだ。


「でもさ、それを実感できたのは、雪哉にとって大きな財産になったんじゃねえの? 怪我人も出なかったしさ」

「うん。忘れないようにする」

 決意も固く頷いて、ふと雪哉は顔を上げて昌晴を見つめた。

 それだけで、昌晴の心拍数は上がってしまうが、取りあえずこっそり息を逃して耐えてみる。

「昌晴もエンジントラブルの時、色々考えたって言ってたよね」

 雪哉のトラブルのわずかひと月前、昌晴もトラブルに見舞われていた。

「ああ。まあ、緊急事態は宣言したものの、天候は良かったし空港も近かったし、コックピットはそれほど深刻じゃなかったよ。 ただ、最悪を想定して行動した。 それと、あの時のキャプテンの冷静な対応は勉強になったな。 いつもと全然変わんない口調で『無事に降ろして当たり前だろ。そのために俺とお前がいるんだからな』…なんて言ってさ」

 その時の機長は、雪哉がコ・パイになり立ての頃から家族ぐるみで可愛がってくれている人で、その機長と親友のシップがトラブル…との一報を聞いた時には、公休で寮にいたのだがすぐにオペレーションセンターに駆けつけた。

 機長は敬一郎よりも3年先輩だが、何度もお互いの口から名前が出るほど2人は仲が良いので、自分が昌晴を案じたように、来栖機長も牛島機長を心配したんだろうな…と、やはり雪哉の思考は敬一郎に向いてしまう。

「あの時、牛島機長だったよね。来栖機長がすごい仲良しなんだ」

「…へ〜、そうなんだ」

 やっぱり気のせいではないなと思った。
 雪哉の思考はかなり来栖機長に向いていると昌晴は確信した。

「なあ」
「ん?」
「最初の頃は違ったよな」
「何が?」
「来栖機長だよ」
「え、なんで来栖機長?」

 雪哉はスッと表情を変えた。少し、無理をしたように。

「今でこそ仲良くやってるけどさ、なんか手間取ってただろ? 他のキャプテンとはあっという間に仲良くなれるのにさ。最初のフライトの時なんか、ほとんど口きいてもらえなかったって、ヘコんでたじゃん」

「あー、でも2回目から大丈夫だったよ。機嫌でも悪かったんじゃない?」

 そんなはずはないと、昌晴は思う。

 雪哉よりも先に来栖機長とは組んだけれど、至って穏やかで、饒舌ではないけれど、たくさんのことを教えてもらい、充実した時間だった。

 それから何度も一緒に飛んだけれど、ご機嫌・不機嫌でコックピットでの態度が変わる人とは思えない。

 だからおかしいなとは思っていたのだ。

 1番気難しいと評判の機長でさえ一発で虜にしてしまった雪哉が、どうしてあの人に限ってダメだったのか。

 それも、聞く限りでは最初の一度きり。


 ――まさか…な。

 もし、来栖機長が雪哉に特別な想いを抱いたのだとしたら。

 ふとそう考えたが、すぐに馬鹿馬鹿しいと打ち消した。


 確かに雪哉は可愛い顔をしている。

 乗客に『キャビンアテンダントさんがイベントでパイロットのコスプレしてるのかと思った』なんて言われたこともある。

 雪哉は引きつった笑顔で『あはは、ジョークがお上手ですね』…と返していたが。


 ともかく『コ・パイのゆっきー』はすでに全社的アイドルで、女性キャビンクルーたちは当然として――昌晴も一応モテてはいるが――同性の自分も惚れてしまっているし、恐らく上級チーフパーサーの都築も雪哉に惚れてるに違いないと踏んでいる。

 けれど、何となくだけれど、いくら何でも機長クラスが副操縦士に…と言うのは考え難い。

 特にあの『来栖敬一郎』では。

 いや、考えたくないだけかもしれないが。


「明日、公休だろ?」

 雪哉が大きな瞳で見上げて来た。
 それだけで、気持ちが騒ぐ。

「ああ」
「久しぶりにどっか行く?」

 好きだと告げたら雪哉はどんな顔をするだろうか。

「いいな。映画でも行くか?」

 それでも同じ笑顔を向けてくれるだろうか。 

「うん。ホラーがいい」
「えー、何でだよ〜」

 それとも、この幸せな時間を無くすことになるのだろうか。

「心拍数鍛えるんだよ」
「こいつ、信じらんねー!」

 抱き込んでぐちゃぐちゃと頭をかき混ぜれば、身体の芯が疼いた。 

「もう〜!それやめろってば〜!」

 本気で抵抗しているわけでもない雪哉の身体を好きなだけ抱きしめて、それが自分を追い詰める結果になることは、すでに目に見えていた。




 雪哉と昌晴の国際線初乗務は、予想と噂の通り、それぞれ台北と上海だった。

 国内線遠距離とほぼ変わらない飛行時間で、出入国や税関などの手続きが増える程度。 

 管制のやり取りは同じ航空英語だから不安はなかったが、噂に聞いていた通り、中国圏の管制官には訛りのきつい人がいて、聞き間違えないようにかなり神経を使った。

『あれ? 今、何て?』…と思ってしまった時には、すかさず機長から助言があって、事なきを得たが、こんなことではいけないなと気持ちを引き締めた。


 日常会話は、養成所時代にアメリカで1年半近く訓練を受けていたので英語なら不安はないが、アジア圏の言語は今のところさっぱりだ。

 けれど、これも心配ないと聞いていた通りだった。
 この距離の国際線はそのまま折り返しになるので、空港から出ることはないからコミュニケーションのほとんどは英語で成り立った。

 こうして初の国際線乗務を問題無くこなし、2度目の香港は天候悪化で上空待機になったものの、30分遅れ程度で済んだ。

 今のところ、時差の大きい移動はないから多分まだ楽なのだろう。
 先輩たちも『最大の敵は時差だ』と言うから。

 要は、乗務時間と自分のコンディションをどれだけ上手く同期させられるかだな…と、思い込んでいた雪哉の3度目の国際線乗務で、思わぬ落とし穴が待っていた。



 3度目の乗務はホノルル行き。
 当然時差が発生するから心の準備はしていた。

 それに、機長は敬一郎で、キャビンクルーは都築チームと、雪哉にとっては気持ちの上でも嬉しいフライトのはずだったのに、到着後に雪哉は発熱してしまったのだ。

 ホテルにはすぐ、社が契約している医師が来てくれて、気温差から来る軽い風邪のようなものとの診断で、念のために点滴をしておくから一晩休めば翌日の乗務にも影響はないだろうと言う判断でホッとはしたのだが、雪哉自身、日本と現地の気候の違いで体調を崩すとは思ってもみなかったので、呆然といったところだ。


「すみません。自己管理がなってなくて…」

 ワイキキで雪哉を連れまわす予定だったキャビンクルーたちは、みな、自分が雪哉の世話につくと主張したのだが、敬一郎がそれを制して『コ・パイの面倒を見るのはキャプテンの務めだから』と、 キャビンクルー全員を信隆に押し付けて食事に送り出してしまった。

 というわけで、雪哉の枕元には敬一郎が添っていて、雪哉は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「体力には自信があったんですけど…」
「それを過信というんだ」

 蚊の鳴くような声で弁解する雪哉を笑いながら敬一郎が諭す。

「そうですね…気をつけます」

 返す言葉はそれしかない。

「心配しなくていい。一晩眠れば治るそうだから、何も考えずにゆっくり休んで帰りの便でまた元気にサポートしてくれ」

「はい」

「眠りなさい」

 小さく声を掛けられて雪哉は素直に目を閉じた。

 眠いわけではなかったけれど、熱と点滴の所為なのか、次第に意識が沈んでいく。

 そして、夢と現実が混濁し始めていた中で、その呟きを聞いた。

『ゆきや…』

 温かくて大きい手がそっと頭を撫でてくれて、囁くように告げられたのは自分の名前。

 程なくして、唇に羽のような感触が降ってきた。

 まるで敬一郎の機が地上に戻ってきたときのように、ふわりと。

 その甘さに陶然となり、触れる温もりを追いかけて意識が浮上した時、その優しさは唇から離れ、熱い吐息が鼻先を掠める。


 ――……え……、今の……。


 静かに扉が閉まる音がして、それから暫くの後。

 閉じられたままの雪哉の目尻から、つう…と一筋、涙がこぼれた。



 知りたくなかった。気づきたくなかった。
 もしかしたら、あの人の気持ちが自分に向いているのかもしれないなんて。

 いや、きっと何かの気の迷いだ。
 自分が女の子のような顔をしているから、ちょっと魔が差しただけに決まっている。

 現に今までそんなそぶりを見せられたことは一度もないではないか。



 けれど、片想いの相手から受けた優しいキスは、例えそれが気の迷いであったとしても、胸の中を掻きむしるには十分過ぎて、思わずギュッと胸元を握ってしまえば、点滴の針のあたりに痛みが走った。

 その痛みに、雪哉はパチッと目を開いた。

 復路便で、この気持ちの揺らぎを絶対に悟られないようにしなければならない。

 何もかも、無かったことだ…と。



 
 ホテルを発つとき、いつもにまして元気な雪哉に、敬一郎が声を掛けた。

「どうした? 今日はまたえらく張り切ってるな」
「はい! 昨日ご迷惑おかけした分、がんばろうと思って」

 精一杯の笑顔を返せば、敬一郎は一瞬目を見開いてから表情を崩した。

「いつも通りの雪哉がいてくれたら、それでいいよ。無理するな」
「はい!」

 どうやら上手く誤魔化せたらしいと、雪哉はそっと息をつく。

 けれど、自信を持っていた集中力が時折途切れそうになるくらい、コックピットの中は苦しかった。

 途中、雷雲に遭遇したけれど、それはあらかじめ予測されていたことで、回避ルートもいくつか想定していたので難なく通過して、その後着陸まで平和なフライトになり、今までに無かったオートパイロット時間の長さに、酸素が足りなくなったような気がして、何度も深呼吸をしてしまった。


 あと少し。

 半月後には定期訓練と審査が待っているから、降機してしまえばもう、最低でもひと月は敬一郎との乗務はないはず。 

 その間に必ず立ち直ってみせると、雪哉は白い手袋に包まれた小さめの手をギュッと握りしめた。
 


「雪哉、ちょっと痩せたんじゃないのか?」

 定期訓練期間中の雪哉は現在、定時に寮へ戻れる日々で、国内線乗務から戻ってきた昌晴と玄関でばったり会うなり彼の部屋へ連れ込まれた。

「え、そんなことないけど」

 元々華奢な造りだが、パイロットの健康に関する規定は非常に厳しく、当然雪哉もそれをクリアして今の職位にいるのだが、今までにない線の細さを感じ取って、昌晴は眉根を寄せた。

「…なんか心配事でもあるのか?」
「ないってば。心配性だなあ、昌晴は」

 目を逸らして言う雪哉に、昌晴は直感で『これは放っておいてはいけない』と感じ、華奢な腕を掴んだ。

「な、なにっ?」
「誤魔化すな」

 真っ直ぐに射貫かれて、雪哉は言葉をなくす。

「お前、今のままだと滑り落ちるぞ」

 それは資格を落として空を飛べなくなるという意味。

 いくつもの資格を取得してやっと飛ぶことの出来るパイロットだが、そのどれかひとつを無くしただけでも飛べなくなる。

「…昌晴…」
「いいか、俺はお前のどんなことでも受け止めてやる。だから、全部話せ。抱えてること全部吐き出せ、今すぐ!」

 昌晴の真摯な言葉と、空を飛べなくなるという恐怖が雪哉の心を揺さぶった。

「飛べなく…なる?」
「ああ、そうだ。飛べなくなる」
「…そん…な…」

 飛べなくなると言うことは、あの人の側にもいられなくなると言うこと。
 大空もあの人も失うだなんて、考えられない。

「…ぼく…」

 幼い口調と顔つきになって、頼りなげに見上げてくる雪哉を、昌晴は堪らず抱きしめた。

 そして、1つの疑念を口にした。

「もしかして雪哉…片想い…か?」

 瞬間、腕の中で大きく震えた身体が答えだろう。

 はあ…と大きく息をして、昌晴は覚悟を決めた。

 その相手と、代われるものなら代わりたい。
 けれど、直感が告げた。きっと自分では、ダメなのだと。


「相手…キャプテンだろ」

 一瞬の後、目一杯腕を突っ張って逃れようとする雪哉を、それでも渾身の力を込めて、昌晴は抱きしめ続けた。

「落ち着けってばっ。何でも受け止めてやるって言っただろっ」

 暴れていた身体は突然崩れ落ちそうになり、それも昌晴はしっかりと抱き留めた。

 力の抜けた身体を抱え、ベッドに腰を下ろし、また抱きしめる。


「俺の言葉は嘘じゃない。本当に、全部受け止めてやるし、俺はお前の味方だ。いつでも」

「…昌晴…」

 漸く言葉を発した雪哉に少し安堵して、今度は穏やかに話しかけることにした。

「もしかして…とは思ってたんだ。でも、確証のないこと言って、雪哉を傷つけるのは嫌だったし、雪哉だって詮索されたくないだろうと思ってさ」

 優しい口調に、ぐちゃぐちゃに丸まっていた心が少し、解けた。

「……ばれちゃうほど、見え見えだった?」

「いや。俺はずっと、誰よりも近くお前と一緒にいたから、もしかしてと思っただけだ」

 それだけではなく、ずっと見つめてきたからだ…とはもちろん口に出来なかったが。

 雪哉は視線を落として、返事をしなかった。


「告白…しないのか?」
「なんで」

 今度は即答だった。

「なんでって…」

 それは確かにそうだろう。相手は上司で、しかも同性だ。

 けれど、昌晴にはもうひとつ、思い当たることがあった。

 当初は『まさか』と否定していたけれど、もしかしたらやはり、向こうも雪哉が好きなのではないだろうかと。

 どういう意味で、どれくらい好きなのか、そこまで突き詰めたことはないけれど、乗務中に雪哉の話題が出ることが多く、その度に幸せそうに笑う機長を思い起こせば、少なくとも『上司と部下』以上の親愛があるのは確かだと思える。

 だから、口にしてみた。

「…なあ、もしかしてキャプテンもお前のこと、好きなんじゃないか?」

 けれど、そんな昌晴の問いに、『そんなはずないじゃん!』…と、返ってくるはずだった答えはまるで違っていた。

 雪哉はまた沈黙したのだ。


「…雪哉、まさかお前…」

 わかってたのか…とは続けられなかった。

 わかっているのなら、両想いでハッピーエンドのパターンではないか。
 大団円というヤツだ。

 なのに何故、雪哉の表情は氷のように冷たく硬いのか。


「どういう…ことだよ」
「…どういう…って」

「もしかして、キャプテンから告白されたのか?」
「そんなはずないじゃん!」

 今度こそ、昌晴が想像していた答えだったが、中身がまるで違う。

「でも、キャプテンの気持ちには気づいてるってことだろ?」
「…もしかしたら…って勘違いしただけ、だよ」
「嘘だ」
「昌晴……」

 言下に否定されて、雪哉が目を見開いた。

「キャプテンの気持ちがお前にあって、お前もキャプテンが好きなら、問題ないじゃないか」
「問題だらけだよっ」

 速攻で返されて、今度は昌晴が言葉に詰まる。

 確かに問題がないということはないだろう。
 年の差はともかくとして、上司で、同性なのだから。


「…キャプテンは、僕なんかを相手にしてちゃダメなんだ…」

 雪哉の呟きに、昌晴は『そうか』と思い至った。
 敬一郎のプライベートだ。

「あのな、雪哉。俺だって聞いてる。キャプテン、いいとこの坊ちゃんで、親から再婚迫られてるっての。でもさ、キャプテンだっていい歳した大人だぞ。自分の人生くらい自分で決められないとダメじゃん。それに、同性に恋してどうのこうのってくらいなら、家棄てるくらいの覚悟持てって話じゃないか?」

 自分なら、それで雪哉が得られるのなら、喜んでやらかすだろう。

「駄目だよっ!そんなこと絶対駄目だっ」
「雪哉…」

「家とか親とか、棄てるなんて言っちゃだめだっ…。僕のために誰かを棄てるなんて、そんなこと…絶対ダメ……棄てられた人間の気持ち…考えてみろよ…」

 突然激高して泣き崩れた雪哉の様子を、昌晴は不審に思った。

 棄てられた人間の気持ち…とは。


「雪哉…もしかして、まだ何かあるんじゃないか?」

 同期で入社してからずっと苦楽を共にしてきた雪哉のことはだいたいわかっていたつもりだったけれど、自分が知らなかった雪哉の芯の部分が今、少し見えたような気がした。

 暫く背中を撫でていると、漸く涙がおさまってきた雪哉が話を始めた。

「ずっと前、養成所の頃に一度、僕に聞いたよね。帰省しないのかって」
「…ああ」

 ずっと不思議に思っていたのだ。
 雪哉は実家の話をしたことがない。

 これだけ親しくなっても、どこで生まれてどんな風な子供時代を過ごしたのか、一度も聞いた事がなかった。

 それに雪哉は昌晴が知る限り、一度も帰省――実家へ帰っていない。


「帰る家が、ないんだよ」
「雪哉…」

「家も、親も、何にもない」
「…亡くなったのか?」

「知らない。生きてるのか死んでるのかなんて。どちらかの親は多分、ハーフだと思うけれど、それも遺伝子検査で知ったことで、僕が親の顔を見たわけじゃないから」

 どういうことだと昌晴は息をつめた。

「僕は、棄てられてたんだ」

「ゆきや…」

「生まれてすぐに、まだへその緒がついた状態で、雪のちらつく朝に不動明王の祠の前に置き去りにされてたんだって。 低体温症で、生きるか死ぬかのぎりぎりだったって後から聞いたけど」

 言葉のない昌晴に構うことなく、雪哉は淡々と続けた。

「だから僕の名前は不動雪哉…なんだ。 不動尊の前に棄てられてた、雪のように真っ白な子供だったからって」


 よもやそんな重い事実を抱えて生きているとは思わなかった。
 優しくて明るくて、笑顔の絶えない雪哉しか知らなかったから。


「自分がどこの誰なのか、気にならないって言ったら嘘になる。 それで悩んだ時期もあったけど、でも僕は幸いなことに恵まれていた。中学の先生のおかげで、学費・寮費全免除で高校に入学できて、そこで護られながら何の心配もなくいっぱい勉強させてもらって、大学に行けて、養成所に入れて憧れのパイロットになれた。だから僕は、ずっと空にいたい。何を無くしても、空にいたい」


 話しはじめた時とはまるで違う、神々しいまでの顔つきで、雪哉はもう一度、強く言った。

「空に、いたいんだ」

 言葉もなく抱きしめた。

「まさはる…」

「…お前、がんばってきたんだな。ひとりで必死で生きてきたんだな」

「ひとりじゃないよ。みんなが助けてくれたし、今はこうして、昌晴が助けてくれた」

「雪哉…」

「昌晴がいてくれて、良かった…」

「だろ? こんなに頼りになる男、ちょっといねーぞ」

 いつものように乱暴に頭をかき回すと、雪哉はふふ…と可愛く笑った。

「いつか、2人で飛べる日がくるといいね」

「ダブル・キャプテンか? そりゃチャンスは少ないなあ。うちのエアラインじゃ、インターの長距離くらいのもんだぞ」

「ううん、僕がキャプテンでコ・パイが昌晴」

「おいっ。先に昇格する気か!?」

「もちろん」

「こいつ〜!」



『何を無くしても空にいたい』

 それが雪哉の答えだと、昌晴は思った。
 それは同時に、大切な人に大切なものを棄てさせないための選択。

 恋を棄てて、空を飛び続ける。
 報われなくとも、想い続ける。

 一見幸せに見える、残酷な茨の道かもしれない。

 昌晴もまた、自分の気持ちを封じ込めた。
 この先も、大切な大切な雪哉の、逃げ道となれるように。


【4】へ


ライト・シート:コックピットの右側の副操縦士の席。機長はレフト・シート。

スタンバイ:機材変更やパイロットの体調不良などに備えて交代要員として待機すること。
出社して制服に着替えて空港で待機する『出社スタンバイ』と自宅で待機する『自宅スタンバイ』がある。
客室乗務員も同じ。

タッチアンドゴー:一瞬接地して、すぐにまた離陸すること。


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