Cruising





 雪哉は日々成長していると敬一郎は思っている。

 最初から能力が高く、伸びしろは少ないのではと思っていたのは大間違いだった。

 パイロットと言うのは、年齢制限に達して降りるその時まで勉強と訓練と審査の日々で、学びに終着点はない。

 そんなパイロットの出発点――乗務を始めて1年から2年と言う頃は、ともすれば慣れからの油断が生じやすい時期だ。

 機長の庇護下で、大したトラブルにも会わずに順調に行けばなおのこと。

 しかし雪哉は自分の能力に胡座をかくことなく、貪欲に学んでいた。

 一緒に乗る度に、また進歩しているなと驚かされて、そして嬉しくなる。

 管制との交信のタイミングや気象条件が厳しい時の離着陸など、経験を積むにつれて感じるようになる様々な疑問や質問を素直に打ち明けてアドバイスを求める姿は、敬一郎にも『初心』を思い起こさせてくれる。


『あの子といると、自分もこのままではいけないと言う気になるね』

 そんな言葉をベテラン機長から聞いた時には、何故か自分が誉められたかのように嬉しかった。



 オートパイロット中にはプライベートな話をする事も多くなった。 

 最近読んだ本、聞いた音楽、見た映画…。

 好きな食べ物の話になった時に無類のチョコレート好きとわかって以来、ステイ先で仕入れたチョコレートを雪哉のメールボックスにたびたび差し入れるようになった自分は分かりやすすぎて可笑しくなるが、雪哉はそのたびに丁寧な礼状にその日のフライトの状況などを添えて返してくれて、それらをすべてきちんと取ってある自分がまた可笑しくなる。

 ちなみに雪哉がチョコ好きだというのは誰にも教えていない。
 教えてしまえば最後、自分と同じ行動を取る輩が激増するのは目に見えているから。


 また、滅多にそう言う内容にはならないのだが、好きな女性のタイプに話が及んだとき、雪哉は少し考えてから、『年上の人がいいです』と答えて敬一郎を驚かせたことがある。 

 この発言を、雪哉をかまい倒している年上キャビンクルーたちが聞けば狂喜乱舞だろうけれど、教えてやる親切心はやっぱり持ち合わせてはいない。

 が、考えてみれば『年上』というのはしっくりくる気がする。

 本人はその足でしっかりと歩んでいるが、確かに雪哉は庇護欲をかきたてる。
 この腕の中で、ずっと護ってやりたいと思わせる。 

 けれど、そう思っているのは自分だけではないはずだし、その中でも自分の可能性が1番遠いだろうことは、敬一郎は理解しているつもりだった。

 理性と欲望の乖離には、自分でも呆れているが。


『年上の人がいい』と言ったその後、雪哉は『キャプテンはどうなんですか?』と口にしてから、小さく『…あっ』と声を上げた。

 恐らく敬一郎がバツイチなのを思い出したからなのだろう。

 きっと『しまった』と思ったに違いない。
 ちょっといじめてみたい気もしたが、可哀想なので笑顔で答えてやった。

『今度は仕事に理解のある人を選ぶよ』…と。

 それについて雪哉は、真面目な顔で『そうですよね』と答えてきて、そのあまりに真面目な顔つきに可笑しくなって、つい笑ってしまったら、『えー、ここ笑うところですか〜』と可愛い反論が来た。

『とりあえず今は飛ぶことが最優先だな』と本心を言うと、『僕もです!』と元気な答えが返ってきたので、『良い子だな』と、手を伸ばして頭を撫でれば、ちょっと照れたように笑ったのが可愛くて、目が離せなくて困ったものだ。




 そんな日々が続いていたある日、雪哉が乗務する機にトラブルが発生した。

 着陸時に前脚が降りなかったのだ。

 最悪の場合は胴体着陸になるのだが、衝撃を与えて前脚を出す目的で行ったタッチアンドゴーで幸いにも前脚が降りて、通常着陸が出来た。

 その時の機長は社内でも3番手のベテランで、敬一郎たちが属するチームの主席機長だったが、緊急時にも雪哉は非常に冷静かつ機敏で頼りになったと後に敬一郎に語ってくれた。

 敬一郎は雪哉よりも遥かに長い時間を飛んでいるが、幸いなことに急患と悪天候によるダイバート(目的地外着陸)を数回経験した以外に大きなトラブルに見舞われたことはない。

 そもそもトラブルというのは発生してはいけないのだが、残念ながら人間が行うことに100%はなく、運悪く欠けてしまった部分を補うのは、乗客乗員すべての命を預かる機長の役目だ。

 そんな機長の運命共同体は言うまでもなく副操縦士であり、何があろうとも最後まで機長と共にあらねばならない。


 もし『人生の運命共同体』に、雪哉がなってくれたら…。

 ふとそう考えて、小さく頭を振った。

 そんな夢のようなことを考えるなんて、いい歳をしてまだまだ自分も青臭いと少しばかり憂鬱になる。


 ちなみに雪哉は敬一郎に、『あの時はもう、心臓バクバクで汗ダラダラでしたよ』と笑って報告してくれたが、当時那覇空港への着陸準備中だった敬一郎はこの事実を到着後に知って、もしリアルタイムで知っていたら、もう何もかもが手につかなくなっていただろうな…と、事態を反芻したものだ。

 離着陸準備中に他機のトラブルが知らされることはないので――到着地が同じだったり、同じ管制内にいれば別だが――幸い乗務に支障はなかったけれど、雪哉がパイロットでいる限り、危険は常に隣り合わせだ。

 そんなことは同じパイロットである自分はこれ以上なく理解しているにも関わらず、雪哉に関しては、どんなことがあっても危険から遠ざけてやりたいと願ってしまう。

 やはり雪哉のことになると、自分は途端にコントロールを失ってしまうなと、気恥ずかしくて少し情けない。


 ともかく今は、雪哉と飛べる事が1番の楽しみなのだが、スケジュールはなかなか合わず、良くて1ヶ月に3回程度、長いと1ヶ月近く回ってこない来ないこともある。

 ただ、雪哉は国際線も飛ぶようになったから、国際線乗務が出来る副操縦士は現在不足気味なので、今までよりは一緒にフライトできるチャンスは増えるかも知れないな…と期待はしているところだ。


 そして、期待していたとおり、雪哉が世界の空を飛び始めて3度目の国際線乗務が敬一郎の機に当たった。

 片道6時間を越える乗務は初めてと聞いているから、いつもにまして気を遣ってやらなくてはと考えていたが、相変わらず雪哉は優秀で、フライトは快適なものになった。


 しかし。

 ホノルル到着後、クルー専用のミニバスでホテルへ向かう途中、肩で息をしている雪哉に気がついた。

 上気した頬は、一目で発熱を覗わせるもので、同時に気づいた信隆が速効でドクターにラインを繋ぎ、早い対処のおかげで大したことにならずにすんだ。

 原因は、日本とホノルルの気温差ではないかとのことだった。

 体調を崩したことにショックを受けている様子の雪哉を慰め、眠るまで側で見守ることにした。

「心配しなくていい。一晩眠れば治るそうだから、何も考えずにゆっくり休んで帰りの便でまた元気にサポートしてくれ」

「はい」

 点滴を受ける腕にそっとタオルを掛け、『眠りなさい』と小さく声を掛けると雪哉は素直に目を閉じた。

 暫く見守っていると、やがてその息が規則正しくなってくる。

 安らかな寝息に安堵して、寝顔を堪能する。

 コックピットでの雪哉は、可愛い顔なりに引き締まった顔つきで乗務をこなし、その集中力の高さにはいつも感心している。

 その反面、クルーたちと話す姿はいつも天真爛漫だ。

 けれど、こんな無防備な寝顔は初めてで。

 確かもうすぐ27歳になるはずだけれど、とてもそんな年齢に見えない。

 あどけない寝顔に気持ちのすべてが吸い寄せられた。


「ゆきや…」

 そっと頭を撫で、囁くように、震えるようにその名を呼んで、敬一郎は羽で触れるようなキスを落とす。

 その、薄くて柔らかい唇に、ふわりと翼が舞い降りるように。

 一度触れてしまうともう、離れられないほどに甘く切ない疼きが起こったけれど、ここで深く貪ることなど絶対にできなくて、敬一郎は理性を総動員させて、漸く雪哉から離れ、堪えきれずに熱い息を吐いた。


 1時間もすれば医療スタッフが点滴を抜きに来てくれるはずだ。

 それまで隣の自分の部屋で待機していようと敬一郎は立ち上がった。

 このままここに居ると、取り返しのつかないことをしでかしてしまいそうな自分が怖かったから。


 廊下に出ると、そこには信隆の姿があった。

「キャプテン」
「…都築…」

 上級チーフパーサーの顔で、信隆は敬一郎に呼びかけてきた。
 ステイ先では乗務中扱いだから、当然と言えば当然なのだが。

「いつから…ですか」

「…見てたのか」

「ええ。見るつもりはなかったんですけど、雪哉の様子が気になったんで一足先に戻ってきてたんです。ちょうどドクターがお帰りになるところでした」

 ということは、かなり前からここにいたことになる。

「…すまん」

「いえ、別に謝ってもらいたいわけじゃないです。ただ、いつからなのか知りたいだけです」

 敬一郎は口を噤んだが、信隆は諦めなかった。

「ここではなんですから、私の部屋へ行きましょう」




「で、先輩」

 部屋に入るなり、信隆はプライベートの顔になった。

「すまない。お前の気持ちを知っていたのに」

「…ああ、そのことでしたらもう構いませんよ。早く報告しなきゃと思ってたんですけど、1ヶ月ほど前にしっかり振られてますから」

「なんだって?!」

 驚きすぎて二の句が継げない。

 大切な後輩の失恋だから慰めてやらなくてはと思う反面、受け入れられなくて良かったという残酷な一面も持ち合わせてしまい、どんな言葉を探しても適当なのが見つからないまま、敬一郎は信隆の報告を聞くことになった。 


「真正面から好きだ、付き合ってくれって言ったんですけど、これまた真正面から『ごめんなさい』って言われました。雪哉の目が潤んでたんで、こっちが慌てて謝っちゃって、聞かれもしないのに『これからも頼りになる先輩でいるから、友達は続けてくれる?』なんて懇願しちゃいました。我ながら情けないやら笑えるやら…です」

 自嘲の笑みすら冴え冴えとした美しさを見せる信隆だけれど、さすがに今回の失恋は堪えたらしく、端々に痛々しさが見えて、やはり掛ける言葉はないのだけれど、雪哉の事は気になるから…。

「それについて雪哉は?」

 雪哉の事だけ聞いてしまった。

 けれど、それについても信隆は気を悪くするでもなく、答えてくれた。

「『こんな僕でも、まだ都築さんの後輩でいさせてもらえるんですか?』ってね。もう可愛いやら惜しいやらで、これからもずっと仲良しでいようねって、どさくさに紛れて抱きしめておきました。思う存分」

 雪哉らしい言葉だと思ったが、それにしてもどさくさに紛れて抱きしめるとは羨ましすぎて、失恋に同情する気はすっかり失せた。


「さて、答えていただきましょうか? いつから雪哉のこと、好きなんですか?」

「…いつの間にか」

「……あ〜、王道かつオコサマのお答えですね」

 完全にコケにされているが、ここは敢えて『されっぱなし』が正解だろう。

「で、告白するんでしょうね」

「いや、しない」

「唇まで奪っておいて?」

 痛いところを真正面から突かれて、言葉に詰まる。

「…それを言うなって…。同意のないキスをするなんて、海の底まで反省してるさ…」

「反省…ね」

 見ている限りでは反省している様子はなかった気がするけれど…と、信隆は思ったが口にはしなかった。


「いや、その前に、俺は同性だ」

 真顔で言う敬一郎に、信隆が切れ長の目を丸くした。

「ええと、それって今さらのような気が…」

 何を今になって…と、盛大に呆れるのだが、ふと思いついてふざけたような声で『ああ』と声を上げた。

「来栖家に『男の嫁』ってわけにはいかないってことですか」

 明らかにバカにした言い方をされて、それでも敬一郎は怯まなかった。

「家は関係無い。俺のパートナーは俺が選ぶし、文句は言わせない。『勘当上等』だ」

 ひゅう…とひとつ口笛を鳴らし、信隆はまたも目を丸くした。
 今までの敬一郎らしからぬ『荒さ』だ。

 そんな敬一郎に、今までになかった類の『男らしさ』を感じて嬉しくなるが、今はそれを喜んでいる場合では無い。


「そこまで決意出来ていて、それでも同性って壁は何か意味があるんですか?」

「…それは…」

 ふと目を逸らして唇を噛む敬一郎の横顔に、信隆は思いつく。

 理由をつけて、どうにかして諦める方向へ持って行こうとしているのかも知れないと。


「ともかく、私から言わせてもらうのなら、『そんなこと』…レベルの話ですよ。性別なんて」

「…そんなことくらい、わかってる」

 むくれた答えが返ってきた。

「わかってるなら、またどうして…」

「どうしてって…、恋愛はひとりではできないってことくらい、お前が実証済みだろうが」

「…喧嘩売ってんですか?」

「や、すまん」

 さすがに失言だったと素直に謝れば、『仕方ないですね』とため息を吐いて、信隆は言葉を続けた。

「蛇足ながら、雪哉はその点はあんまり気にしてないみたいですよ。私が告白した時も動じてなかったし、断る理由もそれじゃないって言ってましたし」

「ともかく俺は告白はしない」

 どうやら決意は岩のように堅いらしい

「振られた時のこと考えてみろ。その後も俺たちは狭いコックピットの中で何時間も一緒にいなきゃいけないんだぞ? そんな気詰まりな状況で、操縦に支障が出たらどうするんだ」


 ――つまりあなたともあろう人が、操縦に支障を来すほど惚れたってことですね。


 わざわざ指摘するのはやめて、信隆は心の中だけで呟いた。


「そんなことになるくらいなら、ずっと片想いで見つめるだけにした方がマシだ」

 言い切る敬一郎の横顔に『無理している』のがありありと見て取れて、やっぱりため息が出てしまう。

「って、さっきから聞いてて不思議なんですけど、なんで振られる前提でモノ言ってるんです?」

「お前が振られてて、俺に望みがあると思うか?」

 バツイチでなお、社内人気ナンバーワンの、イケメン誠実マジメ敏腕機長の言葉とは思えず、信隆はたまらず笑いを漏らす。


「なに笑ってんだ。雪哉からみたら、俺は一回りも上で、同性で、上司で、しかもバツイチだ」

 それは今さら言われなくても良くわかっていますけど…とはやっぱり口に出さず、とりあえず当たり障りなく『そうですね』とだけ言っておくことにした。


「どっちにしろ俺は半年の結婚生活すら維持できないような朴念仁だ。気の利いた言葉ひとつかけてやれないような面白くない男に雪哉が振り向いてくれるわけないだろう」

 バツイチと言う勲章は、どうやら敬一郎にとって、周囲が思うよりずっと重くのしかかっていたようだ。

 それに、確かに『朴念仁』だな…と信隆は心中で笑う。
 これだけ自分の魅力に気づいていない男も珍しい。

 要は自分の存在感は外見や私生活ではなく、操縦席で示すと言うことだろう。

 けれど、雪哉に出会ってからの敬一郎は間違いなく『恋愛体質』化している。


「そうかなあ。今までそう言う想いになったことがないだけで、マジ惚れしちゃった相手には、マジ顔で歯の浮きそうなセリフを言えちゃいそうな気がしますけど」

「誰がだ」

「来栖敬一郎が」

「…都築は意外と人を見る目がないんだな」

「あらま、そんなこと言われたの、初めてですけど」

 敏腕チーフパーサーは、人間観察力にも優れていると、周囲の評価は高いのだけれど。


 ふと目をそらし、敬一郎は懺悔の前のように重い息をついて、言った。

「初めて雪哉と組んだ時、俺はあいつに優しい言葉ひとつ掛けてやれなかった。少しでも学びたいとアドバイスを求めてきたのに、何の手助けもしてやれなかった。肝心なところでこの有り様だ。情けない」

 出会いの時の失敗は、今でも苦く心に残る。
 雪哉がもう気にしていない様子なのには救われているが。

「それ、分析してみましょうか?」

「分析?」

「ええ、いつも冷静沈着で公明正大な来栖キャプテンがどうしてそんなことになったのか」

 そう言われても、あの時の複雑な心の動きが、当人でもないのに解るわけがない…と高をくくったのだが。

「ズバリ、一目惚れでしょう」

 ニコッと微笑まれて、腰が引けた。
 自分ですら『その事実』に気付くのに時間を要したと言うのに。

「分かり易すぎですよ、キャプテン」

 どうしようもなく『恋する男』の顔をしている自分にまったく気がついていないなんて、可笑しすぎて可愛いくらいだ。


「まあ、どうしても告白する気がないって人を、どうしてもって焚きつける義理もないですし、少なくともあなたはいい大人なんですから、ここから先はご自分の判断でお願いするしかなさそうですね」

 突き放した言い方だが、信隆の言葉にはいつもどこか暖かい。
 だからキャビンクルーたちからもコックピットクルーからの信頼も厚いのだけれど。


「そうそう、追加情報ですけど。うちのCPのノンノンから重要な証言を得ましたよ」

 ちなみに『うちのCP』とは『都築チームのチーフパーサー』で『ノンノン』とは『野崎典子』の略だ。
 つまり『国際線都築チーム:チーフパーサー・野崎典子』ということだ。

 大和撫子系美人で有能な彼女は、信隆が『右腕』と見込んでいるチーフパーサーだ。
 中身が大和撫子でないところがご愛敬なのだが。

 国際線都築チームは総勢165人。
 上級チーフパーサーである信隆の下にチーフパーサー10人と35人のアシスタントパーサー、120人のクルーが10の班に分かれて乗務している。

 内訳はローテーションしているので一定ではなく、今回のホノルル線には、ノンノンこと野崎典子は乗務していない。


「雪哉のことか?」

「この流れでそれ以外ないでしょうが」

 茶化した口調で言うものの、その目はいつになく真剣で。

「あなたは絶対口外しないってわかってるから言いますけど、彼女、雪哉にマジ告白したそうですよ」

「…なんだってっ?」

「ああ、もう、威嚇しないで下さいってば」

 ただでさえ手負いの獣状態で扱い難いのに…と、小さく呟いてから、信隆は言葉を続けた。

「『あなたのこれからのフライトを全力で支えて行きたいから、結婚を前提にお付き合いして下さい』って」

「ソースは?」
「ノンノン本人」

「雪哉の返事は?」
「ノー」

 敬一郎の肩から、無自覚に力が抜ける。

「ま、ノンノンは雪哉より5つも年上だから、それで振られたかと普通思うところですけど、雪哉はこう言ったそうですよ」

 コホンとひとつ、咳払いをして信隆は静かに再現した。

「『野崎さんのことは好きですし、尊敬もしています。お気持ちもとても嬉しいです。だから本当のことを正直に言いますが、僕は生涯誰とも添う気はないんです』ってね」

 言葉の前半は雪哉らしい真摯な物言いだけれど、言葉の最後がとうしようもなく引っかかった。

「ノンノン、自分が振られたショックよりも、雪哉の諦めたような笑顔が痛くて涙が出たって言ってましたよ」

「…どういうことだ…」

 生涯誰とも添う気はないと、まだ26歳なのにそう言い切ってしまえる訳とはいったい…。

「さてね…と、言いたいところですが、私とノンノンが推察するに、雪哉には想い人がいるんじゃないかなあって…。 でも、何らかの理由があって、その人とは結ばれない。だから何もかも諦めてる…なんてね。 まあ、私も振られたひとりだから、こんな勝手な妄想を無責任に展開しちゃえるわけですけど」

 自嘲気味に口角をあげる様子からは、信隆もまた、雪哉を思い切れていないのが察せられる。

「あ、ノンノンは『雪哉くんの想い人は同性のような気がする』って言ってましたけど。案外女性の勘って鋭いんじゃないかなあって」

「雪哉の相手は同性だと?」

「あくまでも推測ですよ。でも、それならそれで、なんで私が振られるかなあ…って気もしますけど」

 最後に信隆らしい言葉を吐いて、はあ…とベッドに突っ伏した。


「雪哉の想い人…」

 敬一郎の口から溢れた言葉は、どこへともなく転がって消えていった。

 けれど、信隆には予感があった。
 もしかしたら、雪哉の想い人は目の前のこの人ではないのだろうかと。
 



 一度気になってしまったら、行動に移さずにいられなかった。

 それはもう半ば職業病のようなもので、ともかくフットワークが軽くなければ国際線チーフパーサーなど務まらない。

 結果がどう転ぶかはもちろん未知数だし、敬一郎の懸念の通りに『気まずいコックピット』になる可能性も残されてはいる。

 けれど、何もかも諦めた様子だったという雪哉と、ひとり勝手に想い続けるだけだと意地を張る敬一郎のどちらにも、現状が良い影響を及ぼしているはずはないのだ。


 それに、ホノルルでの雪哉の様子も気になっていた。

 あの後、敬一郎と一緒に雪哉に付き添い、雪哉が目覚めた後は敬一郎を部屋に返して休ませたのだが、その後の雪哉は、明らかに無理をしていた。

 身体ではなくて、心が。

 その様子に信隆は、もしかしたらあの時雪哉は起きていたのではないだろうかと考えた。

 そして、やはり敬一郎もいつもとは違った。
 自分にしかわからないだろうけれど。


 こんな状態が続いて、もしそれが2人の精神衛生上に暗い影を落とすことになれば、重大事故にも繋がりかねない…と、ひとり勝手に大きくした話に納得して、信隆は雪哉を待ち伏せた。

 ともかく、今なお信隆は雪哉が好きなままであったし、『依頼主』から『お役御免』を言い渡されても、自分は雪哉を見守って行くのだと決めているから。

 現在雪哉は地上訓練中で、訓練センター内にいることはわかっているし、今日の上がりの時間も調べてきた。



「あ、れ? 都築さん」
「ホノルル以来だね、雪哉」

 告白して振られたものの、そこは持ち前のバイタリティーと演技力とそつのなさで、その後も信隆はちゃっかり『雪哉の良き先輩』の座を守っている。

「あれからもう3週間も経っちゃったんですね。あの時にはご迷惑おかけしてすみませんでした」

 駆け寄る雪哉の、かなり低い位置にある頭をいつものように優しく撫でる。

「どういたしまして。その後どう?」
「はい、おかげさまですっかり元気です!」
「それは良かった」

 雪哉も撫でられるのは好きなようで、はにかむその仕草に『甘えられなかった』のであろう過去が透けて見えて心が痛む。


「で、今日はどうされたんですか、こんなところで」 

 ここはパイロットの訓練施設で、客室訓練部はまた別の場所にあるから、雪哉の疑問はもっともだが、信隆は言葉ひとつであっさりとくぐり抜ける。

「うん、ちょっと用があって覗いてみたら、雪哉がいるって聞いたから待ってたんだ。今日で終わりだろ?」

「はい、何とかクリアです」

「最後のシミュレーター、過酷だったんだって?」

「そうなんですけど…」

 誰に聞いたんだろうと雪哉が首を傾げる。

「さっき、牛島キャプテンが帰られるところだったんだ」

「あ、それで」

「キャプテン、『病人役』だったって?」

「そうなんですよ。気象レーダーに異常が起きてるのに目的地は横風制限超え、予定のダイバート先は霧が発生していて閉鎖中、その他へのダイバートには燃料が足りない、しかもハイドロオイルが漏れ始めて、その状況下でとどめが『キャプテンの急病』ですよ」
 
「あの牛島キャプテンのことだから、さぞかし熱演だったんだろうね」

 笑いながら言うと、雪哉もまた『それ!』と乗ってくる。

「もう、汗まで流して呻くんですよ。しかも途中から意識不明モードに入っちゃって、僕ひとりで操縦と通信を全部やる羽目になりました。後から教官に『牛島、ノリ過ぎ』って笑われてましたけど」

 現場が目に浮かぶようだ。

「キャプテン褒めてたよ。雪哉は冷静に複数の可能性を素早く分析できる能力が高いって」

 褒められて少し、雪哉は照れくさそうに笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
 
「でも、キャプテンの訓練なんて僕の比じゃないですよ。制限いっぱいの重量で離陸滑走開始直後にエンジン停止とか、CATVで進入中にオートパイロットに不具合とか、その他諸々てんこ盛りのめちゃくちゃなシナリオでした。最終的にはゴーアラウンド4回で結局燃料ぎりぎりのダイバートですから」

「それはまたハードだな…」

「でも、キャプテンは飄々としてて、『何があっても何とかするのが俺の役目だからな』って。 凄いなあって思いました」

「うん。キャプテンたちはみんな、重い責任を自覚してるのに、普段はそれを見せないよね」

「そう思います。見習うところがいっぱいありすぎて…」

 訓練を終えた開放感と、新たな課題への思いが混じり合う、アンバランスな気分のまま、雪哉は少し遠い目で言う。

 その様子に信隆は優しく目を細める。

「ともかくお疲れさま」

「ありがとうございます」

「ってことで、頑張ったご褒美に先輩がご飯をおごってあげよう」

「え! ほんとですか!?」


 目を輝かせる雪哉はやっぱり可愛い。

 このまま行っちゃおうか…と、雪哉の肩を抱き寄せて駐車場へ向かう。

 その肩の、以前よりも固い手触りに信隆が眉を寄せた。

「もしかして、ちょっと痩せた?」

「あ、それ同期にも言われたんで、体調管理気をつけてます。せっかく訓練クリアしたのに、メディカルチェックで落ちたらバカみたいですし」

 真顔で言う雪哉の頭をまた優しく撫でて、信隆は『そうだね』と笑いかける。

 恐らく、雪哉は何かに深く悩んでいたのだろう。

 けれど、吹っ切った。

 自然になのか、それとも無理やりなのか。

 その心の重荷の一端にでも触れることが出来れば…と、信隆は雪哉の肩を抱く手に力を込めた。


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おまけ小咄
『祝!ゆっきー、国際線デビュー!』

キャビンクルーたちの内緒話。
本編第4話の翌月のお話です。

☆ .。.:*・゜


「ゆっきーもインターにデビューして3ヶ月が経ったね」

「初めてロス行った時は、時差にやられたって言ってたよ」

「あれって、慣れない人はいつまでも慣れないんだってねえ」

「ゆっきー大丈夫かなあ」

「そういや、ゆっきーにさ、乗務時間以外にドメとインターの違いってある?って聞いたらさ」

「うん」

「ジュースって答えるのよ」

「ジュース? ドリンクサービスのですか?」

「そう。ドメって、路線・期間限定以外はオレンジとりんごしか積んでないじゃん。でも、インターだとパイナップルとかカシスとかグアバとかドラゴンフルーツとか、最低でも常時5種類は積んでるから、それが楽しみらしい」

「いやん、可愛い〜」

「そう言えば、ゆっきーって、コックピットであんまりご飯食べないんだよね」

「あれ、そうなんだ?」

「そうそう、結構残してるよね、いつも」

「うん、だから『美味しくない?』って聞いてみたんだけど、『美味しいけど食べた気がしないから、あんまり食欲わかないんだ』って」

「ああ、狭いコックピットで箱入りのクルーミールを膝に乗せてだもんねえ」

「しかも、コ・パイの場合、キャプテン待たせちゃ悪いから…って無意識に急いでかき込んじゃうのよね」

「そっか、食べてる間、交信とかモニターとか、全部キャプテンに代わってもらってるからか」

「え、そうなんですか?」

「そうなんだよ。『You have atc』(交信担当お願いします)なんだよ。モニターはしながら食べられるけど、交信はムリだからね」

「キャプテンたち曰く、『ゆっくり食べたきゃ早く機長になれ』ってことらしいけど」

「でもキャプテンたちもご飯食べるのマッハだよ」

「コ・パイ時代の刷り込みだって」

「なるほど」

「でも、キャプテンたちも、オーパイ中とは言え、コ・パイにコントロール渡した状態になるから急ぐみたいよ。結局のところは」

「ああ、『You have control』(操縦代わって〜)ね」

「それそれ。で、そのクルーミールだけどさ、普通、キャプテンが先に選ぶじゃない?」

「コ・パイは否応なしに残り物ですよね」

「ところがゆっきーの場合だと、『雪哉はどっちがいい?』って聞くキャプテンがいるのよ」

「マジで?」

「でね、若手のキャプテンたちは、その話聞いて、そんなこと言われても雪哉が困るだろうって笑うんだけど、ベテランキャプテンになればなるほどゆっきーに『食べたい方を取りなさい』って言うんだって」

「うひゃー、それってある意味ありがた迷惑?」

「や、それがさ、都築チーパーの情報によると、ゆっきーの食の細さが原因らしいのよね」

「どーゆーこと?」

「パイロットってね、空腹で操縦しちゃダメなのよ」

「ああ、判断力鈍るって言うよね」

「錯覚も起こしやすいって聞きました」

「そう、それ。でもさ、私たちみたいな立仕事じゃなくて、パイロットって座ったままじゃん。だから、ゆっきーみたいに元々食の細い子は、益々お腹が減らなくて食べらんないわけ」

「…で、食べなくて放置してると、いつの間にか空腹…か」

「そう言うことよ。ベテランキャプテンたちが唯一ゆっきーに厳しく指導してるのはその辺りなんだけどね、ゆっきーも頑張ってはいるみたいなんだけど、無理して食べたら気分悪くなったり、胃をやられたりもするから…」

「キャプテンたちはせめて好きな方を選ばせてしっかり食べられるように…って訳か」

「やっぱりゆっきー、愛されてるねえ」

「だよねえ。で、ゆっきーどうしてるの?先に選ぶの?」

「まさか。キャプテンに『じゃあ、じゃんけんで決めましょう』って言うらしいよ」

「やだ、可愛い」

「で、またキャプテンたちの過保護に拍車がかかる…ってことですね」

「小悪魔だねえ、ゆっきー」

「ってさ、若手のキャプテンたちはゆっきーが食べられなくても黙認ってこと?」

「のんのんのん。若手のキャプテンたちは知ってるのよ。ゆっきーのある秘密を…」

「…なに?」

「ゆっきー、パイロットシャツの胸ポケットにチョコとかキャンディ隠し持ってんのよ」

「おやつに走ってるんだ〜」

「ちなみに、どうしてキャプテンがゆっきーの胸ポケットの秘密に気がついたかって言うと…」

「食べるとこ見つかったんじゃないの?」

「え、コックピットの中って、おやつ禁止なんですか?」

「んにゃ、ガムとかカ☆リーメイトとか酢昆布食べてるキャプテン多いよ」

「うん、食中毒の心配が無いもので、こぼれないものならオッケーのはず」

「私が前に乗ってたエアバス1課のキャプテン、眠気覚ましになるからって『さきいか』食べてたけど、コ・パイに『酒欲しくなるからやめて下さい』って言われたって」

「笑い話だな、もう」

「じゃあ、ゆっきー、キャプテンの前で食べたんじゃないの?」

「ないの。ゆっきー、チョコとかキャンディって、オコサマみたいでカッコ悪いと思ってるみたいで、こそこそ隠れて食べてるから」

「じゃあ、なんでばれたんですか?」

「…とあるキャプテンがね、『抱きしめたら2人の間でチョコが溶けた』…って漏らしたらしい…」

「…ちょ、ちょっと待った〜!」

「ななな、なんですか、それっ」

「誰っ、そのキャプテンってっ」

「それがわかりゃ苦労しないわよ」

「掴めてないの?!」

「ってかさ、ゆっきーのチームって、独身機長って来栖キャプテンだけじゃん」

「だよ。他のキャプテンが抱きしめたら不倫になるだろ」

「…ゆっきー、一応男子だよ? 不倫じゃないんじゃ…」

「…いや、不倫よりヤバいし」

「私が思うに、一番怪しいのが『うっしー』」

「え、でもうっしーって、愛妻家で通ってるよ? 奥さん、私たちの大先輩だし」

「そうそう、奥さんって『伝説のチーフパーサー』だよ」

「あのー、うっしーって誰ですか?」

「あ、新人は知らないか。牛島キャプテンのことだよ」

「うっしー、最初からゆっきーのこと気に入って構い倒してるもんねえ」

「…そういえば…」

「なに?」

「……うっしー、この前、ゆっきーと寝たことあるって言ってた…」

「「「えええええっ!!」」」

「冗談だと思ってたんだけど…まさか…」



 
あろうことか、『うっしー&ゆっきー、疑惑の一夜』へ続く。

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