Cross Wind





「でさ、躓いたノンノンの先に運悪く浦沢キャプテンがいてね」

「え〜! まさか…」

「そう、そのまさか! キャプテンのご尊顔に向けてソフトクリームが発射されちゃったんだけど、横から見てたらもう、マトリックス状態でさ〜」

「ひゃ〜、目に浮かんじゃうかも〜」


 食事の仕上げのデザートをつつきながら、雪哉と信隆は話を弾ませていた。

「野崎さんって、意外とおっちょこちょいなんですね」

「そうなんだよ。普段はしっかり者のクセに、やらかすとなったら派手でさ〜」

 最近のフライトで起こった失敗談やステイ先のホテルでの怖い話を面白おかしく話してくれる信隆に、雪哉はすっかりリラックスしていた。


 昌晴にすべてを話してから、すっかり吹っ切れたと思っている。

 ともかく今はしっかり体力をつけて、問題無く乗務出来るようにするのが最優先だ。

 定期訓練と審査も無事クリアして、また明後日から忙しい日々が始まる。

 あの大きな空が待っているかと思うとワクワクするし、きっともう、敬一郎の下で乗ることになっても大丈夫だ。

 好きなものは好きと認めて、ひとり、この胸の中だけで大切にしていく。
 そう割り切れば、きっと楽しい。


「で、雪哉は当分仕事一筋?」

「そうですね。まだまだ覚えなきゃいけないことがたくさんありますし、いくら訓練を重ねたところで、乗らなきゃわからないことはいっぱいですから」

 座学と実践の繰り返しでパイロットは成長していく。

 少しの怠りが大きなミスに繋がるから、一時も気が抜けない。

 そう、よそ見をしている間はないと、何度も自分に言い聞かせてきた通りに。


「そうだね。経験しか解決してくれないことはたくさんある」

 その『経験』に裏付けられた信隆の言葉は、優しい重みで雪哉に届く。

 頷いて雪哉は感謝を口にした。

「僕は幸せです。こんな風に、経験豊富な先輩方に見守っていただけて」

「そうそう、その気持ちを忘れずに、先輩に尽くしなさい」

 茶化していても、信隆の眼差しは暖かい。
 本当に、素敵な人だと雪哉は思う。

「僕、不思議です」

「何が?」

「都築さんみたいな素敵な人が、恋人いないって」

「そう、それ。理想の恋人を追い求めてるうちにこんな歳になっちゃったわけ。やっと見つけた子には振られるし」

 軽く笑って雪哉の頬をつつけば、『ええと…』と途端に困り顔になるので、この手のからかいは止められない。

 が、今夜は雪哉の方が上だった。

「そうだ。この前、運航部長がぼやいてましたよ。『都築に見合い話持ってったら、軽く鼻であしらわれた』って」

「えー、部長〜!もう何をベラベラと〜」

 お偉方も雪哉の前ではおしゃべりになるらしく、案外雪哉は色々な情報を持っている。

 ただ、雪哉は聞いているだけなので、そこから広まることはないのだが。


「ま、確かに周囲はうるさいね。さっさと身を固めろって。来栖キャプテンほどじゃないけど」

 わざわざその名を出してみれば、その瞬間、雪哉に僅かな動揺が走った。

 そして信隆は当然それを見逃さなかった。


「あはは、出来る男は仕方ないですよ。仕事も家庭もって、期待されるのは」

 だが、明るい顔で答える雪哉に無理をしている様子は見受けられない。表面上は。

 けれど、今の一瞬だけで十分だった。
 雪哉の気持ちは敬一郎に向いていると確信した。


「雪哉にもそのうち運航部長のお節介の魔の手が伸びてくるよ」

「ふふっ、僕はその手には乗りませんって」

「え、なに? 結婚する気ないの?」

「ないですよ」

 当然だといわんばかりの雪哉に、信隆は身を乗り出した。

「んじゃ、恋人は? この際、老若男女問わず」

 信隆の言い方が面白くて、思わず笑ってしまったけれど、雪哉はふと真顔になった。 

「好きになったら男とか女とか年齢とか関係ないだろうなあって思いますけど、とりあえず恋をする気もないんですよ」

 本気で言っているのは見て取れた。

「何か理由あるわけ?」

 だから、軽く聞いてみる。

「そりゃもう、仕事一筋でいい男になるためですよ」

 返すノリも軽くて。

「いやいや、雪哉クンは誤解してるね。恋をして初めて男は『いい男』になるんだよ」

「えー、そんなこと誰が決めたんですか〜」

「私をみなさい。恋した数だけ、いい男だ」

「しょってますね〜。嘘じゃないところが腹立ちますけど」


 馬鹿を言って笑い合うと、心はどんどん軽くなる。
 それは、今の雪哉には何よりの栄養源だ。

「そう言えば、いい歳をしてやっと『現在初恋中』なのに、やたらといい男がいるな〜」

 ふふ…と、信隆が思いだし笑いを零した。

「え、誰のことですか? 僕が知ってる人ですか?」

 小首を傾げる様子も可愛らしいが、本当にわかってない様子だ。

「もちろん、我が社の人間だけどね。それがいったい誰なのか、彼の初恋が成就した時に教えてあげるよ」

「うわっ、楽しみかも」

「驚くよ、きっと」

「うわ〜うわ〜、どうしよう〜。気になって今晩寝られない〜」

 また笑い合って、心が浮いた。




「現在初恋中…か」

 明日はOJTの審査をしなくちゃいけないから…と、当然飲酒しなかった信隆に寮まで送り届けてもらい、その車を見送って、雪哉は空を見上げた。

 星は見えないが、関西空港行きの最終便の灯りが見えた。

 乗ってるのは誰かなあと思いながら、脳裏を過ぎるのはやはりあの人の姿だ。

『現在初恋中』なのが、誰のことかはわからなかったけれど、自分も同じ。

 ただ、自分の初恋は、実る可能性のない初恋で、このままきっと、『ずっと初恋中』のままだ。

 でも、この気持ちを否定するのはやめたし、あの人もきっと機長として自分の成長を見守り続けてくれると思うから、今の気分はかなり清々しい。

 いつかあの人が再婚する日が来たら、きっと胸が潰れそうに苦しくなるかも知れないけれど、同じ空を飛べる限り、きっと自分は大丈夫。

 自分のコールであの人が操縦桿を引き、機体が大空に吸い込まれていくあの瞬間は、誰にも邪魔されないから。

 これからも、飛ぶことだけを考えて生きていこう。

 雪哉は夜空に消えていく航空灯を見送って、幸せそうに、微笑んだ。




 雪哉と食事に行った時からさほど経っていないある日、信隆は昌晴を食事に連れ出していた。

 同じフライトでバンクーバーへ飛んだ夜のことだ。


「実はさ、雪哉に告白して振られたんだ。少し前のことだけど」

「…そう、だったん…ですか」

 もしかしてという気はしていたが、引き続き2人の関係は良好に見えていたから、思い過ごしだろうと、昌晴は勝手に納得していた。


「ああ、その後も上手く友達関係続けてるから気にしなくていいよ。それに、この話は私と雪哉の現在の関係を明らかにするための単なる前置きだから、もういいとして…」

 グラスを置いて、ひとつ、息をつく。

「藤木くん」
「はい」
「きみ、雪哉の事、好きだろ?」

 真っ直ぐ見つめられて、瞬間呑まれそうになったものの、昌晴は小さく笑うことで立ち直った。

「はい。好きです。でも俺は、雪哉の恋人になるよりも、雪哉の逃げ道になることを選びました」

 静かに告げられたその言葉に、覚悟の深さを見て取って、信隆は思わず息を詰めた。

 と、同時に雪哉の心情を慮る。

「…それほどまでに雪哉は追い詰められていたってことか」

 未だ理由は見えてこないけれど。

「それでも雪哉は空を選びました」

「空…を?」

「はい。地上を共に歩むのではなく、空を、キャプテンと飛ぶことを選びました」

 今の言葉で、都築ならすべてを察してくれるだろうと、昌晴は思う。

「恋人ではなくて、機長と副操縦士でいることを選んだってわけか…」

 思った通り、正しく受け止めてもらえて昌晴はホッと息をつく。


「…ひとつだけ教えてくれないか?」

「お答えできることなら」

「理由が…あるんだね?」

「…確かに、雪哉には思うところがあります。でもそれを雪哉の了解なしに俺の口からお話することはできません」

「…だよね」


 言って、少しばかり考える。

 雪哉の気持ちは敬一郎に向いている。
 そして、敬一郎の気持ちが自分に向いていることを、恐らく雪哉は知っている。

 けれど、雪哉はすべてを諦めようとしている。

 何故、なのか。

 …いや、わかっている。
 理由は恐らく敬一郎のバックだ。

 旧家の跡取りが再婚を迫られていることは、雪哉の耳にも入っている。

 そうなると、雪哉の気持ちは理解できるが、その理由では敬一郎は納得しないだろう。

 あの男は、いざとなったら家を棄てる覚悟くらいはするはずだ。
 雪哉への想いはそれほど深い。

 雪哉の気持ちが自分に向いていることを知れば、躊躇わないだろう。

 けれど。


 ――そんな単純な話なんだろうか…。

 信隆は、胸の奥に小さく刺さる違和感を拭い切れていなかった。

 両想いの2人はいずれも立派に成人して自分の意志と力で生きていける社会人だ。

『家を棄てて愛を取る』…で、すむ話なら、恐らく藤木も後押しするはずなのに、それをしないのは必ず訳があるはずだ。

 それが、藤木が『言えない』と言った『雪哉の思うところ』だ。

 そう、雪哉自身にも、何かある。

 巡らせた思考の先に、ふと行き当たった。


 ――まさか…。いや、やっぱり…あの事…か?


「なあ、藤木くん」

「はい」

「違ってたら聞き流して欲しいんだけど、もしかしてそれは雪哉の生い立ちに関わってるのか?」

「つ、都築さんっ?!」

 昌晴は、腰を抜かさんばかりに驚いた。

「どうして、それを…」

 目を見開いて固まっている昌晴の肩を軽く叩き、隆信は小さく呟いた。

「…やっぱりそうか…」

 糸口は掴んだ。まだ縺れたままだけれど。

「君はいつそれを知った?」

 穏やかに尋ねれば、昌晴もまた、一度深呼吸して静かに答えた。

「国際線に乗るようになって、少し経った頃……雪哉がホノルル便の乗務から戻って、定期訓練に入った頃です」

 その答えで信隆は粗方を把握した。
 雪哉がもっとも揺れていた時期だ。

 ついさっき、『逃げ道になる』と言った昌晴はきっと、自分を殺して雪哉を救ったのだろう。
 なかなかいい男じゃないかと頼もしくなる。


「都築さんはいつ、どうして知られたんですか?」

 話の出所は雪哉以外に考えられなかったが、それがいつ、何をきっかけに…だったのかを知りたいと思う昌晴の問いに、信隆はゆっくりと話し出した。

「私はね、君たちが入社した時……だな。養成所に入って訓練を始める1年前だ」

 パイロット訓練生として入社しても、最初の1年は地上職の業務を経験することが決められているから、雪哉たちが訓練を始めたのは入社2年目だ。


「どういう…こと、ですか」

 あまりに意外な事実を突きつけられて、昌晴は軽く混乱していた。

 雪哉と都築の出会いは、確か路線訓練を開始して暫く経った頃――入社から数えると、3年半以上経っている――のはずだ。

 けれど、やはりその記憶は確かだった。

「私が雪哉本人に初めて会ったのは、君たちがコ・パイに昇格したばかりの頃だった。けれど、私は彼が入社して1年目の地上勤務の時から見守ってきた。ある人の頼みでね」

「ある人…ですか?」

「そう。実はね、私と雪哉は同じ高校を出ているんだ。十ほど離れているからもちろん重なってはいないけれど、雪哉が3年間世話になっていた先生は私が尊敬する恩師でもあって、雪哉が採用になった時に連絡をくれたんだ。雪哉の事情を話して、見守ってやって欲しいって」

 雪哉が慕う恩師は、今でもずっと雪哉を見守っているのだと知って、昌晴の胸が熱くなる。

 雪哉はいつでも、決して独りではなかったのだと。


「入社以来、雪哉が順調だったのは君が一番よく知っていることだけれど、私も雪哉が順調に育っているのを頼もしく見守ってきた。まさか本人と直接接触した途端に恋に落ちるとは思ってもいなかったけどね」

 あははと笑う様子はもう、本当に吹っ切ったようにも見えるけれど、同じ人間に恋をしてしまった者として、そんなに簡単に諦めきれないことも昌晴はわかっているつもりだ。

 けれど、こんな風に大きな人になりたいな…と、頭のどこかでぼんやりと感じた。


「というわけで、私は包み隠さず話した。…雪哉の想い、聞かせてくれないか?」

 昌晴は、頷いた。

「雪哉は俺に、『棄てられた人間の気持ちを考えてみろよ』といいました」

 その言葉が、雪哉の声で聞こえたような気がして、信隆はこみ上げるものをグッと堪える。


「雪哉は、自分が踏み出してしまえば、来栖機長に取り返しのつかない選択をさせてしまうかもしれないと考えたんじゃないでしょうか。それが、雪哉が諦めた理由だと思います」


 漸くループが繋がった。

 敬一郎は家を棄てることも辞さない。
 雪哉は敬一郎に家を棄てさせたくない。

 まだお互いの気持ちも確かめ合ってないくせに、彼らの心はもう、結ばれているかのように寄り添っている。


「もしかしたら、こういうのを運命の出会いって言うのかも知れないな」
「…都築さん…」

 不安そうな昌晴の肩をまた元気づけるようにポンッと叩き、信隆は笑んでみせた。

「藤木くんは、雪哉に幸せになって欲しいだろう?」
「もちろんですっ」
「私も同じだからね。一肌脱ぐことにするよ」

 今度は意味ありげに微笑んだ信隆を、『やっぱこの人、一筋縄ではいかないな…』と、畏れを抱いて、昌晴は見つめていた。




 その話が雪哉の耳に入ったのは、初めてのロサンゼルス便乗務から戻った直後だった。


「ゆっきー、一緒に帰ろ〜」

 着替えて、寮に帰ろうとオペレーションセンターの建物から出た時、後ろから追い掛けてきたのは1年先輩の国内線アシスタント・パーサー、太田遥花(おおた・はるか)だった。

「あ、遥花さんも今帰りですか?」

「そう。4レグ。最後の便でお子ちゃまが走り回っちゃって、ママさんたちは知らん顔だし、他のお客さんは怒り出すしでもう大変。めっちゃ疲れたけど、帰りにゆっきーに会えたから、疲れも吹っ飛んだわ〜」

「わあ、お疲れ様でした〜」

 キャビンには様々な乗客がいて、トラブルもよくある話で、彼女たちはコックピットとはまた違う種類のストレスに晒されている。

 それでもメゲずにバリバリ働く彼女たちの姿は雪哉の励みにもなっているし、空の上では乗客同様、彼女たちの命も預かっているのだと、いつも気を引き締めている。

「ゆっきーは? インター?」

「はい、ロスから戻ってきました」

「そっか、お疲れだねえ〜」

「時差との戦いに敗れました…」

「ああ、あれ、キツいっしょ? 私、時差に耐えきれなくなって身体壊してさ〜、んで、ドメに配置換えしてもらったんだよ」

「え。そうだったんですか? 大変でしたね。もう大丈夫なんですか?」

「おうっ。もう元気いっぱい!」

 突き上げる拳も雄々しくて、笑う雪哉につられて、遥花もまた元気に笑う。

 こんな風に、仲間と過ごす時間が雪哉は大好きだ。
 独りではないと、実感出来て。


「そう言えば、この前管制の人たちと合コンしたんだけど、ゆっきーのこと聞かれちゃった〜」

「管制の人に?」

 管制官にも乗務訓練と言うのがあって、コックピットのジャンプシートで国内線を往復して、乗員と管制官のやり取りをコックピット側から確認する…と言うのは知っているけれど、自分がそれに当たった事がないので、今のところ管制官とのつき合いは無い。

 だから、どうして自分の事を尋ねられるのだろうかと首をひねる。


「『君のところのコ・パイにめっちゃ可愛い声の子がいて、どんなヤツだろうって話題になってるんだけど、心当たりある?』って聞かれちゃった訳よ。で、この前ほら、ラッピング機材の前でゆっきーと撮った写メみせたらもう、声より更に可愛いって大騒ぎ」

「って、その声のコ・パイが僕だって確証ないじゃないですか」

 それ以前に、同じ人間の声かどうかなんて、無線を通してわかるんだろうかと雪哉は首をひねる。

 東京の管制は世界でも有数の混雑を捌いているのだ。

 確かに自分たちはここがベースだから、他のパイロットよりは交信を交わす機会は多いし、便名でどこのエアラインかまではわかるけれど。

 ちなみに雪哉は女性管制官の声は何となく覚えていて区別がつく。
 オジサマはみんな一緒にしか聞こえないが。


「んなの、合コンにいった私たち5人全員、『そりゃゆっきーだ』って思ったよ。だって、ゆっきーが機内アナウンスしたらもう、お客様騒然だもん。『なんだ、今の可愛いアナウンスは』ってさ〜」

 その言葉に雪哉はがっくりとうなだれる。

「僕だって機内アナウンスは苦手なんですよ。でも、キャプテンに『代わりにやれ』って言われたら、やるしかないですもん…」

 最近では5回に一度くらいの割合で『代われ』と言われるので、結構なストレスなのだ。

「あっはっは、キャプテンだってお客様サービスだと思ってんのよ。ムサいおじさまの声より、可愛い男の子の声の方がいいじゃん」

 でも機内アナウンスはキャプテンがやるから意味があると思うんですけど…とブツブツと文句を垂れる雪哉の肩をガシッと抱いて、遥花は『往生際が悪いねえ』と笑う。

「管制の人から『多分、去年のギアが出なかったシップのコ・パイだと思う』って具体的な証言も得たよ?」

 それを言われてしまえば仕方がない。
 緊急事態を宣言した後の交信は、頻繁にもなるし、何より日本語になるから印象に残りやすい。


「でも、僕の声、ふつーの男の声だと思うんですけど」

「へへっ、まあ少女の声じゃないけどさ。ボーイソプラノって感じだよ?」

「あのね、ちゃんと声変わりしてます」

「えっ、嘘っ」

「嘘じゃありませんっ。そんなことより、合コンの成果はどうだったんですか?」


 雪哉の言葉に、今度は遥花がうなだれた。

「いや〜、やっぱ不規則勤務同士は厳しいわ。羽田の管制は深夜勤もあるしさ、次に会おうったって、休みが合わないんだもん」

「あ〜、なるほどね〜」

 女子寮と男子寮は少し離れたところにあるが、方向は同じなので、2人は世の20代らしい話題に花を咲かせながら帰途についている。


「どうせ不規則勤務なら、いっそのこと社内で探すかなあ。勤務体制熟知してるしさ〜」

「それもアリかもですね。それに、男性キャビンクルー、イケメン揃いじゃないですか 。都築チーフパーサーだって独身だし」

「や、だめだめ。確かにみんなイケてるけど、絶対数が少なすぎて、異様に競争率高いのよ。しかも定期採用が始まってまだ2年だからみんな年下だし。ちなみに都築教官は絶対ダメ」

 顔の前でパタパタ手を振る遥花に、雪哉は首を傾げる。

「 え〜、どうしてですか?」

 あんなに素敵な人なのに…と、続ければ、遥花は『実はね』…と声をひそめる。

「私さ、ペーペーの頃って落ちこぼれ気味だったんだよ。けど、こんな私がどうにかカッコのつくキャビンクルーになれたのは、都築教官の愛の鞭のおかげなわけ。だから、完全に恋愛対象外。頼りになるお父さんみたいな存在よ、もう」

「お父さん〜!?」

 それを聞いたら、あの綺麗な人はさぞかし憤慨するだろうなあと、想像しただけで可笑しくなる。

『教官にはナイショだよ?』と、遥花も笑う。


「ま、現実的なのは、コ・パイくんから探すことかなあ。キャプテンはほとんど既婚者だし、奇跡的に独身だった1番人気のイケメン機長もついに年貢の納め時みたいだし」

「え? 誰のことですか?」


 違うライセンスの機長のことは、雪哉はあまり知らない。

 キャビンクルーたちも、機材が変われば機体の構造も変わり、緊急時のマニュアルなども変わるので機材別の資格を持っている。

 ただ、パイロットと違い、複数の資格を取って複数の機材に乗ることが出来るので――パイロットは複数の資格を持てるが、同時期に違う機材には乗れない――チーム分けは機材別では無く、国内線チーム内でローテーションしているから、雪哉が知らない機長のこともよく知っているはずだ。

 けれど、遥花が口にしたのは、あまりにもよく知る機長だった。

「来栖キャプテンだよ」

 ほんの一瞬、時間が止まった。

「ゆっきー、仲良いけど聞いてない? 専務が取引先の社長令嬢との見合いを持ち込んだんだって」

「ええと、初耳です」

 それらしい話も一度も耳にしていない。

 定期訓練の後、国内線で1日・那覇への往復を一緒に飛んだ。

 けれど、体温が感じられてしまうほど狭いコックピットの中でも、自分は上手くやれているし、今までと変わりない優しさで見守ってもらっているから、心のどこかで、『ずっとこのままでいられたらいいな』と思っていた。


「さすがに今回は断れないみたいでさー」

「専務と取引先が絡んでるんじゃ、ちょっとヤバいですよね」

「まったくだ」

 腕組みして唸る遥花が男前で、雪哉は思わず笑ってしまう。

「いい男って、放っておいてもらえないのよねえ」

「ほんとですよねえ」

「ゆっきーはまだ誰のものにもならないでね」

 少し背の高い遥花にキュッとしがみつかれて、雪哉はふふ…と、笑う。


「ご期待下さい。僕は空のアイドル目指しますから」

「きゃーっ、ゆっきー可愛い〜。お姉様たちが親衛隊作っちゃうからね〜」

「あ、でもイベントに駆り出すの、やめて下さいね」

「いやん、イベントはアイドルのおつとめよ〜」


 お互いそれなりに疲れているから会話のテンションは妙にハイで、分かれ道で手を振って別れた後は、その分虚脱感が重くのしかかる。


 ついにこの日が来た…と、雪哉は空を仰いだ。

 けれど、これからも何も変わらない。

 自分はあの人が好きで、空を飛ぶのが好きで。

 ただ、それだけだ。
 それしか、ない。



 
「雪哉」
「あ、キャプテン。これからですか?」

 朝から福岡と関空をそれぞれ往復して戻ってきた雪哉を、副操縦士のロッカールーム前で待っていたのは敬一郎だった。


「ああ、3時間後のホノルル行きだ」

 ここのところスケジュールがすれ違っていて、敬一郎の顔を見るのはあの噂話を聞いて以来初めてだ。

 ディスパッチブリーフィングまでまだ1時間以上もあるのに、敬一郎はすでに制服に着替えていた。

 そして、その表情は初めて会ったときのように、少し険しかった。


「少し、いいか?」
「あ、はい」

 私服に着替える間も与えられず、雪哉はいきなり手首を掴まれた。

「…っ」

 瞬間、とっさに引いた手は更に強く握られて、そのまま近くのミーティングルームに連れ込まれる。

 敬一郎は後ろ手に鍵を掛け、雪哉を壁際に追い詰めて見下ろし、いつもより少し低い声で言った。


「俺に見合い話が持ち込まれてるって話は聞いてるか?」

 まさか本人から直にその話を聞くとは思っていなくて、雪哉は動揺を隠せない。

 それに、小さな違和感を雪哉は感じとっていた。


 ――キャプテン…俺…って言った?

 明らかにいつもと違う様子だともう一度認識し、雪哉の鼓動は跳ね上がった。

「あ、はい。それと…なく…」
「なら話は早い」

 どういうことだと雪哉は目を見開く。

 敬一郎の見合いは全く自分には関係のないことだ。
 気持ちですら、もうきちんと切り離したのに。


「雪哉に聞きたいことがある。答えにくいかも知れないけれど、正直に言って欲しい」

 それは、いつだったか…確か、3度目か4度目の、敬一郎とのフライトで言われた言葉とよく似ていた。


『操縦席では、相手が機長だからといって遠慮は要らない。些細なことでも、小さな違和感でも、気になれば必ず伝えなさい。間違っていたらどうしようと躊躇ってはいけない。ここは、わずかな綻びが命に直結する現場だから』


 真摯に伝えられたその言葉を、雪哉はいつも大事に抱いている。
 だから、今も正直に答えるのが自分のつとめだと思った。

「…はい。わかりました」

 小さく頷き、見上げる。

 その、少し茶色くて大きな瞳を、敬一郎はひとつ深呼吸をしてからしっかりと捉えた。

 そして、その両手がしっかりと雪哉の手を握り、包み込む。


「俺は、雪哉が好きだ」

 瞬間、空の中に放り出されたように気がした。
 真っ白…なのか、真っ青…なのかわからないけれど。


「雪哉は俺のことをどう思っている?」

 目を見開いたままの雪哉に、敬一郎は畳み掛けた。

「これ以上の事は聞かないから、だから頼む。教えてくれ」

 強く握られる手から血の気が引いていく。

「雪哉の気持ちが聞けたら、俺は、踏み出せる」

 その言葉に、今度は急に血液が巡り始めて身体が熱くなった。
 やはりこの人は自分を想っていてくれたのだ。

 素直に嬉しくて、そして、今自分がすべきことは、この人を解放してあげることだと悟った。

「僕も、キャプテンが好き…です」

 職位でしか呼べなかったけれど、でも、過去形にはしなかった。
 これからもずっと、好きだから。

 敬一郎の表情に、安堵の色が広がった。

「ありがとう、雪哉。俺は、覚悟を決めたよ」

 握っている手をぐっと引き寄せて、一度だけ、雪哉の細い身体を強く抱きしめて、敬一郎は出て行った。


「……終わったんだ……」

 これで自分もあの人も解き放たれたと思った。

「…こんなに幸せな失恋って、ないよね…」

 もしかしたら辛いのかもしれないけれど、涙は出なかった。


【6】へ

4レグ…4フライトのこと。
1フライトは、離陸から着陸まで。
往復だと2レグになる。


本編切迫中につき、おまけ小咄で笑っていただきます。
『うっしー&ゆっきー、疑惑の一夜』

☆ .。.:*・゜

 

 牛島聡(うしじま・さとし) 42歳。

 某大手エアラインの機長。
 元チーフパーサーの美人妻と最近一緒にお風呂に入ってくれなくなった8歳の娘との3人暮らし。

 身長178cmでそれなりに男前。
 有能かつ気さくな人柄で、人望も厚く、キャビンクルーたちからは密かに『うっしー』と呼ばれる人気者だ。

 8年に及ぶ大恋愛――ちょっとした訳ありで周囲にはナイショだった――の末に結婚した妻は信隆の先輩で、当時から今に至るまで2人は『親友』だ。
 
 そんな縁で、牛島家と信隆は今も盛んに交流があり、その縁でさらに雪哉ともオフの交流が深い。

 妻に『天才コ・パイが現れた』と話していたところに、信隆からも『悶絶するほど可愛いですよ』と聞かされ、『今度連れておいでよ』となったのが始まりだ。

 以来、牛島家にとって雪哉は家族も同然で、すっかり雪哉に懐いた娘が、いつか『雪哉くんのお嫁さんになりたい』と言いだすのではないかとドキドキし、『雪哉なら両手を挙げてウエルカムだな』とか『いや待てよ、いくら何でも19の年の差はキツいか』とか『いやいや、愛があれば年の差なんて』などと派手に妄想を膨らませていたのだが、娘の口から出た言葉は『雪ちゃんみたいなお姉さんが欲しい』…だった。

 雪哉には言えないが。


 さて、そんな彼が今最もハマっていること。それは…。

 天才コ・パイのゆっきーをおちょくって遊ぶこと。

 つい先日も、『俺、この前雪哉と寝たんだ』と思わせぶりに言い放って、辺りを阿鼻叫喚の地獄絵図に塗り替え、雪哉を灰にしてしまったところだ。

 だが、嘘ではない。
 うっしーはゆっきーと寝たのだ。本当に。



 あれはつい先日のホノルル乗務の時のこと。

 いつものようにクルーバスでステイ先のホテルに着いたのだが、その日は少し、違っていた。

 クルーは普段、新館に泊まるのだが、この日は新館の電気系統に不具合が出て一部がクローズになっていたため、クラシカルな旧館に泊まることになったのだ。

 キャビンクルーたちは天蓋付きのベッドにロマンチックだと大喜び。
 ホノルル便2度目の雪哉は辺りを珍しそうに見回している。


「なんだか凄くゴージャスですね、こっちの建物は」

「…うわ、雪哉はこの部屋か。懐かしいと言うか、恐ろしいと言うか…」

「え、なんですか?」

「いや、俺がコ・パイの頃、まだ新館が出来てなくて、クルーはみんなこっちに泊まってたんだけどさ…」

「…はい」

「出るんだよ、この部屋…」

「…ええと、何が…」

「何がって、ホテルで『出る』っつったら『アレ』しかないだろう?」

「…『アレ』って…な、なんですか、キャプテン…」

「アレっつったらほら、黒光りしてすばしっこくて…って、ゴキブリじゃねえっての」

「ひとりでボケ突っ込みしてないで教えて下さいよ〜」

「……本当に知りたい?」

「……ええと、知らない方…が?」

「いや、言っちゃおう」

「え〜」

「あのな、この部屋には…」

「わ〜! やめて下さい! やっぱり聞きたくないです〜!」

「まあまあそう言わずに」

「やだ〜!」

「ってさ、聞いても聞かなくても『出る』んだったら、聞いといた方が良くないか?」

「………どっちにしても、『出る』んですね、何かが…」

「ああ。枕元にな…」

「…やっぱりパスっ」

「大丈夫だって」

「…ほんとですか?」

「ああ、『出る』のは綺麗なねーちゃんの幽霊だから」

「うわあああああっ、やだ〜! 出た〜!」

「まだ出てないっての。 ってか、雪哉はホラー好きじゃないのか?」

「え〜、誰がそんなガセネタ流したんですか〜?」

「藤木が言ってたぞ。雪哉はホラー映画で心拍数鍛えてるって」

「映画ですよ〜。作り物ですっ。マジネタはイヤですよう〜。怖いぃ〜」

「おいおい、そんなにしがみつかなくても、廊下までは出てこないって。『出る』のはこの部屋だけだから」

「ぎゃあああ」

「よしよし、脅かしすぎたな。でも『出る』のはマジだから

「僕、今日部屋で寝ませんっ」

「まあまあ、そう言うなって。ちゃんと寝なきゃ明日のフライトに差し支えるからな、でも『出る』のはほんとにマジだから、俺の部屋に来いよ」

「…うう…」

「ほらほら、泣くなって。でもな、この部屋のことは、俺より上の機長は大概知ってるし、都築なんて『モロに好みのタイプだった』とか言ってたからな。『幽霊じゃなかったら口説いてたのに』…なんつってたけど、あいつの事だから幽霊でもお構いなしに口説いちゃいそうだよな。 あ、そう言えば来栖は見えなかったって言ってたっけ。ま、あいつはそう言うとこ鈍いからな」

「…ぐすっ、もうヤだ…」

「っとに、マジで可愛いなあ、雪哉は。さ、行こ」


 というわけで、ゆっきーはうっしーの部屋で一緒に寝ることになったのである。

 ベッドはダブルではないけれど、ハリウッドツインという、シングルベッドが2つピッタリくっつけられている状態で、ぱっと見はキングサイズのモロにカップル仕様だ。
 しかもロマンティックな天蓋に囲われているときている。


「怖かったら抱っこしてやろうか?」

「大丈夫ですっ。…って、ここは出ないんですよね…」

「多分な」

「えええええええええっ!?」

「気にするなって、出たらちゃんと俺が抱っこして守ってやるから」

「そんなこと言って、先に逃げたらダメですよっ」

「キャプテンがコ・パイを置いて逃げるわけないだろ?」


 涙目で頷く雪哉はどうしようもなく可愛い。

 もちろん愛しい妻を裏切る気はこれっぽっっっちもないが、こいつならいけちゃうかもな…と思わせるところが雪哉の恐ろしいところだ。

 そう言えば、3つ後輩でやはり家族同然に親しくしている機長――美人の幽霊に遭遇出来なかった鈍いヤツだ――が、何やら煮詰まっている様子だが大丈夫だろうか。

 面白い展開になるのは大歓迎だが、だからといって雪哉を独占されるのは悔しい。
 雪哉は牛島家にとっても大切な人なのだ。

 だからこれからも、雪哉を構い倒して楽しもうと、うっしーは手を伸ばして、隣で眠ろうと頑張っている雪哉の頭をグリグリ撫でた。



 そして翌朝。

「キャプテン、雪哉くん、ゆっくりお休みになれましたか?」

 チーフパーサーの問いかけに、雪哉はうっすら涙目になる。

「はい、キャプテンの所為で大変な目に会いましたけど、何とか寝られました…」

 ――え?
 …とは、その場にいたキャビンクルー全員の心の声。


「いやあ、『怖い』ってしがみつかれた時には思わず萌えたなあ」

「だって本当に怖かったんですよ、キャプテンがイジワルするから…」

 ――えええっ?


「また一緒に寝ような、雪哉」

「そりゃ昨夜は嫌がる僕をあんな目に遭わせたんですから、責任取ってもらうのは当然ですけど、もうあんな怖い思いをするのはヤですよ〜」

 ――えええええええっ?!


 キャビンクルーたちが『ム☆クの叫び』になっていることに気がついているのは、もちろんうっしーだけだった。


おしまいv

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