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Approach
「見合いする気なんてこれっぽっちもないさ」 例の噂話が横行しているさなか、信隆に『ガス抜きしますか?』と誘われて、敬一郎は『俺も話があったんだ』と一も二もなく乗ってきた。 そして、『キャビンクルーの間でも持ちきりです。で、さすがに観念したんですか?』と、からかうでもなく静かに聞いてきた信隆に、『まさか』とやはり静かに返したあと、敬一郎は言ったのだ。 これっぽっちもないと。 「でもな、このまま逃げてばかりいるわけにもいかないと思った」 グラスを握ったまま、ジッと前を見つめて心の内を吐露する敬一郎の横顔を、信隆は黙って見つめている。 「諦められるものなら諦めてしまいたい。けれど、それはきっと無理だろうってことに気づき始めたんだ。でも、このままならいずれ、またあ時のようなことを俺はしてしまう」 あの時とはつまり、眠る雪哉からキスを盗んだこと。 「いや、あの程度で済めばいいが、次はもう抑え切れないかもしれない。それで雪哉を傷つけるようなことになったらと思うと…」 こんなにも苦しそうな敬一郎の姿は見たことがなかった。 いつも冷静で、どこか超然としていて、ただひたすら飛ぶことだけに向き合ってきたこの人は、もしかしたら今頃になってやっと、自分の内側の『熱』に向き合ったのかも知れない。 まさに『現在初恋中』…だ。 「…仕方ないですね」 そう、一肌脱ぐと昌晴にも宣言したのだから、ここがまさに、助けの手を延べる場面だろう。 「ちょっと耳寄りなネタを持ってるんですが」 楽しそうな声で言うと、敬一郎は少しばかり訝しげな視線を向けてくる。 「雪哉の想い人についての情報です」 「掴んだのか?」 見開く瞳が、急いているのを物語る。 「ええ。出所のしっかりした確度の高い情報ですが、ご入り用ですか?」 けれど一瞬、敬一郎が躊躇ったのが見て取れた。 聞きたいけれど聞きたくない。 恋をしていれば誰しもが感じるところだろう。 「…聞かせてくれ」 観念したようだ。やはり、知らずにはいられない。 「相手の職種はパイロット、職位はキャプテンです」 「…なんだって?」 …社内って事か…と、敬一郎は呟いた。 けれど見当はつかない。パイロットの数は多いから。 「ちなみにそのキャプテンは、ステイ先で仕入れたチョコをせっせと雪哉にプレゼントしてるようなんですが、同期の藤木くん情報によると、雪哉がまた可愛いことに、そのチョコの空き箱を全部大切に残しているらしいんですよ。 ものに執着しない雪哉が、よりによって空き箱を残すなんて考えられないって、藤木くんも驚いてましたけど」 チョコと聞いて敬一郎は、自分以外にも同じ事をしていたヤツがいたのか…と、さすが『恋愛オンチ』の面目躍如な思考を巡らせて呆然としている。 「で、ここから先は追加情報提供料が欲しいところですが…」 さも可笑しそうに信隆が言うのを黙ったまま受けて、敬一郎が息を詰めた。 「一回り上のバツイチで、ステイ先で熱を出した時に付き添ってくれた人…の、ようですよ」 ここまで言ってまだわからないと言うのなら、ここから先のフォローはもう、お手上げだろう。 「本当か、それは…」 「残念ながら」 「後からガセでしたとか言わないだろうな」 「なら私がもう一度アタックしますよ」 「なんてことだ…」 「って、顔が緩んでますよ、キャプテン。イケメン台無し」 からかわれても、痛くも痒くもないくらい、一気に気分が上がってしまった。 「さて、これで気持ちは固まりましたか?」 「ああ、雪哉にちゃんと向き合うよ。正直に気持ちを伝える」 「でも、見合い話はどうするんですか? 雪哉の耳にも当然入ってますけど」 「見合いの話はそもそも関係無い。雪哉の事がなくても断ってる」 やはり周りが思っている以上に、前回の失敗は堪えているようだ。 「…まあ、今回のことは断るにも骨が折れそうですけど、上手く断れたとしても、雪哉とのことはどうするんですか? いくら可愛くても、嫁というわけにはいきませんし」 「前にも言ったろ。勘当上等だって」 敬一郎の返事は、信隆が予想していた通りだった。 けれど、そういうわけにもいかないのだ。残念ながら。 「ところがね、今回のキャプテンとコ・パイの恋について、最も高いハードルは、年の差でも同性でも上司でもバツイチでもなく、『それ』…みたいですよ」 思わせぶりに振ってみると、敬一郎は眉根を寄せた。 「どういうことだ?」 「雪哉が何もかも諦めてる…っての、覚えてるでしょ?」 「…ああ。だから、そのことだろう? 俺の家の話は色々と尾ひれがついて出回ってるからな」 自分はいちいち気になどしていなかったが、雪哉がそれで傷つくのは堪らない。 「まあ、そうなんですけど、でも、根っこはもう少し深くて、少々厄介なんですが」 「…なにか、あるのか?」 『自分が知らない何か』の存在を感じて、敬一郎の表情が硬くなる。 「少し長い話になりますが、まず始めに、私が今まで黙っていたことを謝っておきます」 いきなり謝罪から入った信隆の話に、敬一郎は、聞き入った。 ☆ .。.:*・゜ 「俺はずっと雪哉を諦めてきた。一緒に飛べるだけでいいと、自分に言い聞かせてきた」 もう傷つくのはごめんだと、いつしか臆病でずるい大人に成り果てて。 「…ですね」 「でも、もう諦めない。雪哉を必ず幸せにする」 覚悟を決めた男の横顔に、信隆は嬉しくなるが、まだ難問は山積だ。 「でも、どうします? 雪哉が悲しまなくて済むようにできるんですか? 家を棄てて雪哉を取るという選択肢はないんですよ」 「そうだな。だが…」 応じる敬一郎の表情に、陰はない。 「家にも親にも誰にも邪魔はさせない。俺の大切なものは俺が決める」 敬一郎が、副操縦士のロッカールームの前で雪哉を待ち伏せたのは、この翌日のことだった。 |
「残念なご報告があります」 来栖家の奥座敷で、敬一郎は両親を前に背筋を伸ばして向き合った。 「先日、思うところがありまして、病院で検査を受けました」 「航空身体検査*ではないのか?」 「はい。メディカルチェックではありませんが…」 両親の表情が曇る。 「どこか悪いのか?」 「いえ、悪いというのではなくて、ひとつの診断結果が出ました」 ひとつ深呼吸をして、深刻さを装ってみる。 「私は子どもを持てない身だと判明しました」 両親が目を見開いた。が、もちろん検査を受けたというのは嘘だ。 だが雪哉との間に子供が持てないのは事実だから、敬一郎的には嘘ではない。 「…治療法は?」 「ありません。専務にも正直に報告して、見合いの件もなかったことにしていただきました」 一気に母親の目が潤みはじめたのを見て取り、敬一郎はすぐに言葉を継いだ。 「そこで、ですが」 居住まいを正す。 「今さらこの結果を恨んでもしかたがありませんので、本家の継嗣として、今後の来栖家の発展的解決方法を考えました」 「どうするつもりだ」 「いずれ、分家筋から養子を取り、来栖家の次代として、私から引き継いで行きたいと思います」 「…まあ、それが妥当な線だろうな。三代前も分家からの養子だからな」 定年で退官するまで大学教授をつとめていた父親は政財界にも顔が利き、厳しく一徹な性格をしているが、分からず屋ではない。 筋を通せば話はできるし、なにより『是々非々』であるところは助かっている。 そうでなければ恐らく、パイロットを目指した時点で、敬一郎は家を棄てることになっていただろう。 「はい。ですが、私の不規則な勤務体制はまだまだ続きます。この状況で養子を迎えても十分な時間を費やしてやれませんし、子が成せないとわかっている以上、妻を迎えるのは、女性に対しても失礼なことと考えます」 言葉も無く頷く父親に、敬一郎は畳み掛けた。 「そこで、まず私と共に来栖家を支えてくれる人材を養子にし、安定した基盤を作った後に分家からの養子を迎えようと考えました」 「そんな人物がいるのか?」 「はい。部下の副操縦士に大変優秀な人物がいます。年齢は27。養成所時代から『不世出の天才』と呼ばれていまして、現在私が持つ、機長昇格の最速最年少記録を抜くのは彼だと社内でも言われています」 雪哉の優秀さはこんな言葉では語り尽くせないのだが、全部並べていると日が暮れそうなので、とりあえず端的に伝えた。 言葉の最後に少しばかり、最終学歴をちらつかせておくのももちろん忘れなかったが。 「でも、そんな優秀な方なら、いずれお嫁さんをもらわれて家庭を作られるのではないの?」 「そうだ。それに先方のご両親が納得されないだろう」 「いえ、彼には事情がありまして」 ひとつ、ゆっくりと息をして、敬一郎は言葉のトーンを落とした。 むろん、計算の上だ。 「生後すぐに両親と生き別れをして、以来天涯孤独の身です。本人の優秀さと努力と、中学高校時代の教師に恵まれたおかげでここまで来ました。が、本人は親に棄てられたことを非常にコンプレックスにしていまして、このままずっとひとりで生きていきたいと強がっています」 後半は若干脚色してあるが、母が小さく、まあ…と言って口元に手をやったところを見ると、関心を引くことには成功したようだ。 「しかし、親がないのは彼の所為ではないだろう」 「おっしゃるとおりです。ですが、彼は見かけによらず頑固者でして…」 これはかなり嘘だ。 雪哉は意志は強いが頑固ではない。柔らかい心をしている。 「見かけによらず?」 「はい、連れて参りますので、一度会っていただけませんか?」 父が腕を組んで目を閉じた。 「…そうだな。それほど優秀な人物と言うのなら、養子という件は別にしても、一度会って話をしてみたいものだ」 しめた…と敬一郎はほくそ笑んだ。 雪哉本人に会わせることに成功したら、これはもう、勝ったも同然だ。 あとは、雪哉をここへ連れてくる手はずだけ…だ。 |
「よっし! 気合い入れていこう!」 ここのところ少しは板に付いてきたような気がする三本線の制服に着替え、雪哉は自分の頬をパンっと1つ叩いた。 あの突然の告白から半月余りが経ち、雪哉はシンガポール行きで敬一郎と飛ぶことになった。 その間は会うこともなくて、色々と整理するにはちょうどいい時間だった。 いつものように、ディスパッチルームの前で機長を待つ。 定刻に現れた敬一郎は、長身に見合った男性らしいしっかりとした体つきで機長の制服を着こなし、いつもに増して凜々しい。 ステイ先での私服姿もいつもきっちりしているから、一度ラフな姿も見てみたかったな…なんて、雪哉はこっそりと笑う。 「おはようございます!」 「おはよう、雪哉。今日もよろしく頼むよ」 「はい! こちらこそよろしくお願いします!」 いつもの通りに出来た。 キャプテンもいつものように接してくれた。 何もかも順調だ。 定刻から5分遅れで出発したシンガポール行きは、順調に離陸し、飛行ルートは安定した良好な天候に恵まれている。 「さて、順調にオーパイだな」 「はい。このルートでこれといった雲がないなんて、すごいラッキーですし、その上に到着地の天気も良好なんて、いいことずくめですよね。到着時刻前後の風が少し心配ですが、影響が出る前に降りられるといいですね」 「そうだな」 いつものように穏やかなコックピット。 雪哉の気持ちも今日の空のように、見晴らしがいい。 ところが。 「雪哉」 「はい」 「この前は、驚かせてすまなかったな」 まさかここであの話を蒸し返されるとは思っていなくて――いや、ここでなくてもこれから先ずっと、無いはずだったのに――雪哉は固まった。 返事が出来ないままの雪哉を現実に戻したのは、東京コントロールからの『高度維持』の指示で、それに応答してからも雪哉はどうしていいのかわからずに、胸を押さえた。 そんな雪哉に、敬一郎は穏やかに告げた。 「俺は、これからも雪哉と一緒に飛びたい」 「キャプテン…」 ああ、そうか…と、雪哉は納得した。 自分が自分の想いに蓋をして、一緒に飛び続けることを選んだのと同じなのだと。 優しいこの人は、それをきちんと口に出して伝えてくれたのだと。 「僕も、これからもキャプテンと一緒に飛び続けたいです」 だから、雪哉も素直に気持ちを告げる。 そして、小さく微笑んだ。 目の前の計器が数値を変えたので、それを確認し、ついでにちら…と左を伺えば、敬一郎は真っ直ぐ前を向いて、いつものように穏やかな顔をしたままで『と言うわけで』と言った。 と言うわけで…とは、どういうわけで…と、雪哉が首を傾げてまたパネルに目を戻した時、敬一郎はとんでもない一言を落としてきた。 「結婚しよう、雪哉」 「……へ?」 プロポーズに対する返事としてはあまりにマヌケな声が返って来て、敬一郎は笑い出した。 「あのな、雪哉。こっちとしては一世一代のプロポーズなんだ。『喜んで』って返事が欲しいな」 「ぷぷぷ、ぷろぽおず…って」 「おいおい、発音がひらがなになってるぞ。求婚って言った方がわかり易いか?」 「ど、どっちにしても、僕は男ですっ」 「でも雪哉は俺が好きなんだろう?」 返す言葉にまた詰まったその時、助け船のようにまた交信がきて、雪哉は慌てて切り替える。 そんな様子を、笑いを堪えながら敬一郎が見守る。 そう、オートパイロットといえども、交信は頻繁で、計器類から目は離せない。随時飛行ルートの確認も必要で、決してヒマな訳ではないのだ。 雪哉が交信を終えると、敬一郎はまた言葉を継いだ。 「俺は雪哉が好きで、雪哉も俺が好きなら、当然の帰結じゃないか?」 「きゃ、きゃぷてん…」 「ん?」 「け、けっこんは、おみあいあいてのかたとされるんじゃ…」 発音の端々までぎこちなくなっている雪哉が可愛くて仕方がないが、今はシートベルトで操縦席に括り付けられているから抱きしめることもできないのがじれったい。 「ああ、あれは断った」 「え〜!?」 「今度は仕事に理解がある相手って決めてたからな。ちょうど理想にぴったりの雪哉に出会えていたし、雪哉の気持ちも知ることができたから、雪哉と結婚することにした」 「ななな、なにを…」 敬一郎の口からスラスラと出てくる言葉は母国語のはずなのに、今の雪哉にとっては意味不明の言葉ばかりで、管制との交信の方がはるかに分かり易い。 が、その交信も今度は助けてくれる様子は無く、沈黙している。 その代わり、インターフォンが鳴り、チーフパーサーから『L1*、小野です。今、伺ってよろしいですか』との問いがあった。 ここ『ジャパン・スカイウェイズ』――通称ジャスカ――では、キャビンクルーは必ずL1、R1などの担当ドアナンバーと共に名前を名乗って『行きます』という意思表示をしてからドアをノックすることになっている。 万が一、悪意の第3者に『開けろ』と脅された場合には、担当ドアや名前を名乗らないことでそれをコックピットに伝えるのだ。 そしてノックもフライト毎に回数が変えられている。 すべて、コックピットを守るためだ。 敬一郎が了承を伝えると、すぐにノックがあった。 瞬間、雪哉は副操縦士の顔になって、敬一郎を見る。 『いいよ』と頷いてみせると雪哉がドアロックを解除して、上級チーフパーサーの小野香澄(おの・かすみ)が入ってきた。 香澄は信隆の同期で、本人たち曰く、『戦友で喧嘩仲間』。 スレンダーで、女性らしいけれどキリッとした顔つきの彼女は、随分前の一時期、信隆と付き合っていたらしい…とは、キャビンクルーたちの噂話だ。 「キャプテン、雪哉くん、お疲れ様です。とても快適な離陸でした」 「キャビンに変わりはない?」 「はい、順調です。ドリンクはいかがなさいますか?」 「ああ、私は珈琲をブラックで、雪哉はオレンジジュースだな」 「……」 「そうだ、この路線にはドラゴンフルーツのジュースを積んでるな。そっちの方がいいか?」 「……」 「雪哉くん?」 パネルに目をやったまま微動だにしない雪哉に香澄が声を掛けると、まるで夢から醒めた瞬間のように、小ぶりの頭が大きく後ろへと跳ねた。 「あっ、はい!」 「というわけだ。よろしく頼むよ」 何故か呆けている雪哉の様子に首を傾げ、機長を見れば笑いを堪えている。 その様子に、きっとキャプテンが雪哉くんをからかって遊んでいたのね…と判断し、今日のフライトは順調そうだと微笑んで、香澄は一礼して出て行った。 「さて、珈琲がくる前に、返事をもらいたいな」 敬一郎は楽しそうだが、雪哉の気持ちは正反対だった。 「…でも…僕は…」 何をどう説明していいのかわからない。 意識の大半がコントロールパネルやフライトディスプレイの監視に向けられているから、余計に頭が回らない。 だが、雪哉の混乱が思っていた以上だと感じた敬一郎はすぐに言葉を継いだ。 「雪哉は家族がいないと聞いた。だから、俺と家族になろう」 「え…、どうして…それを…」 親友にしか話していない事実をまさかの敬一郎に指摘されて、さらに混乱しそうになったが、すぐに種明かしがされた。 「ああ、藤木くんがしゃべったんじゃない。都築が知ってたんだ」 「都築さんっ!?」 「そう。だから都築に聞いた。藤木くんも都築が知ってることに驚いたらしいけどな」 さらにまさかの展開で、空はクリアなのに、乱気流に巻き込まれた気分だ。 「雪哉には、高校の間ずっと世話になった先生がいたんだろう?」 そうだ。たくさんの先生が愛情を持って面倒を見てくれたけれど、中でも高1の時の担任は雪哉にずっと寄り添っていてくれた。 今でも年に2、3度は近況報告しているが、その度に優しく励ましてくれて、気持ちが落ち着いて、暖かくなる。 「…はい。いつも僕のことを気に掛けてくれて…。寮生活だったんですけど、寮が完全閉鎖になる間はうちに連れて行ってくれたりして、本当のお父さんみたいでした」 「その先生、都築の高3の担任だそうだ」 「ええっ?! 都築さんって、僕の先輩なんですかっ?」 「らしいぞ」 「知らなかった……」 けれど、なんとなくわかる気がした。 あの学校にはああ言うタイプの予備軍がたくさんいた気がするから。 「ある密命を帯びていたから、雪哉には言えなかったらしい」 「密命…ですか?」 「そうだ。その先生から、雪哉を頼むと言われたそうだ。で、雪哉が入社したときから、ずっと見守って来て、先生へ定期的に報告していたそうだ。本人に直接会った途端に恋に落ちたのは計算外だったようだけどな」 あははと声を上げて笑ってから、『ま、結果は失恋で気の毒だったけどな』…と、これっぽっちも気の毒そうでなく言う敬一郎はご機嫌だが、雪哉は胸を詰まらせている。 今でもずっと、見守ってもらっているのだと知って。 「というわけで、うちの両親には雪哉を養子を迎えたいと言って、認めてもらった。いずれは分家から跡継ぎをもらうつもりだから、その時は雪哉と2人で次の世代へ繋いで行きたいと思っている」 どうして認めさせたのかは、今は言わなくてもいいだろう。 いずれ、何年も経ってから話せばいい。 どちらにしろ、それ――敬一郎が奥の手に使ったこと――が、事実かどうかを証明する手立てはもうないのだから。 「何もかも整えた。雪哉が心配することはなにもない。両親も雪哉に会いたいと言っているから、一度うちへ来てくれないか?」 敬一郎の言葉に、鼻の奥がつんとしてきた。涙の予兆だ。 けれど、泣いている場合では無い。 雪哉にはどうしても越えられない壁があるのだから。 「…でもっ、僕は、どこの誰なのかもわからない人間です…」 ずっと雪哉を縛り付けてきた見えない鎖は、一生掛かっても断ち斬ることはできない。 …はずだったのだが。 「俺にとって大切なのは、雪哉が雪哉でいてくれること…それだけだ。他にはないよ」 敬一郎はあっさりと、鎖を断ち切り壁を越えてやって来た。雪哉の側へ。 「それより、俺は雪哉より一回りも上でバツイチなんだが」 「そんなの関係ないですっ」 咄嗟に出た言葉に、敬一郎は珍しく少し照れたような顔を見せたのだが、自分のことでいっぱいになっている雪哉には気づかない。 「そう言ってもらえて嬉しいよ」 穏やかな応えに、もう、今度こそ返す言葉は何も見つからなかった。 堪えていた涙がついに溢れそうになったその時、また交信が入った。 その応答の途中で鼻をすすってしまったのはきっと、聞こえてしまっただろう。 さらに運が悪いことに、香澄がドリンクを持ってやって来てしまった。 先ほどとはまた違う、やはり普通ではない雪哉の様子に、美人の眉がキュッと寄せられる。 信隆の『戦友』は、やはり観察力に優れていて、雪哉が泣いているのを察してしまったようだ。 「キャプテン…」 少しばかり剣呑な声には、『まさか雪哉くんを苛めたんじゃないでしょうね』という台詞が内包されていて、敬一郎はそれに笑って答えた。 「雪哉は今、嬉しくて泣いてるんだ。な、雪哉」 「泣いてませんっ」 朱色に染まった鼻先と頬がそれを嘘だと物語っているけれど、やはり洞察力にも優れたチーフパーサーは、これはどうやら機長の言葉が正しそうだと判断し、敬一郎にウィンクを一発お見舞いして出て行った。 「白状するよ」 ドアのロックを確認し、敬一郎が静かに話しはじめた。 「初めて会ったあの日から、俺は雪哉に惹かれていた。あの時、態度がそっけなくなったのも、照れ隠しだ。それくらいに一目惚れだった」 とんでもない告白に、雪哉の心拍数が上がり始める。 「けれど、雪哉に振り向いてもらえるとはどうしても思えなくて、見守るだけにしようと諦めてたんだ。けれど、どうしても思い切れなくて…」 手のひらに滲む汗は、ギアが降りなかったあの時より多い気がする。 「初めて一緒にホノルルへ飛んだとき、熱を出して眠る雪哉に、堪らなくなってキスをした」 「あっ、あれはっ…」 「なんだ、もしかして気づいていたのか?」 「ええと〜」 「それはもう、お仕置き決定だな。幸いシンガポールではゆっくり一泊出来ることだし」 鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌な敬一郎に、雪哉はもう、何を言っていいのかわからない。 「いや、一泊じゃ雪哉の身体が辛いな。でも我慢するのも辛いか…」 何が辛いんですか、何の我慢ですか…なんて聞けるわけもなく、ホラー映画で鍛えたはずなのに上がりっぱなしの心拍数と戦っている雪哉は、ふと、あることに思い至った。 「あ、あのっ、キャプテンっ」 「なんだ?」 「ぼ、ボイスレコーダーが回ってますっ」 そう、2人の会話はずっと記録されている。 「随時上書きされていくのはわかってるだろ?」 「そ、それはそうです、けどっ」 普段は気にも留めていないけれど、一度気がついてしまえばもう、気にするなというのが無理な話だ。 「大丈夫だよ。俺もコ・パイの頃は先輩機長のきわどい話に随分付き合わされたからな」 そう言う問題ですかと突っ込みたいのは山々だけれど、雪哉はもう、口を開けば何を口走ってしまうかわからない状態で、酸素を吸い込むのが精一杯だ。 「で、プロポーズの返事は?」 「………」 「返事、欲しいな」 「…………」 「え、もしかしてNOなんて言う気じゃ…」 「そんなことありませんっ」 言ってしまってから真っ赤になる雪哉がどうしようもなく可愛くて、早く2人きりになって思い切り抱きしめたい。 今まで『いつまでも飛んでいたいな』と思ったことは何度もあったけれど、こんなにも到着が待ち遠しいのは初めてだ。 「あ、あのっ」 「うん」 「よ…」 希望したとおり、『喜んで』と返事をしてもらえるものと思ったら…。 「よろしくお願いしますっ」 返ってきたのは、いつもと変わらない『コ・パイの定番ご挨拶』なお返事で。 吹き出す敬一郎に、雪哉はちょっと恨めしそうな視線を向けて、また真っ赤に染め上がった。 「こちらこそ、よろしく頼むよ。末永く…ね」 『幸せになろう』と、白い手袋を脱いで伸びてきた右手が優しく雪哉の頭を撫でて、手のひらが柔らかく雪哉の頬をなぞり、親指がそっと唇に触れる。 雪哉は為す術もなくされるがままで、気分はもう、エアポケットだ。 「ところで雪哉」 「あ、はいっ」 「敬一郎って呼んでくれないかな」 「こっ、ここは職場ですっ、キャプテンっ」 好きで好きで仕方なくても、それでも恥ずかしくて心の中でもファーストネームで呼んだことなんかないのに、今ここで口に出して呼べるはずなんてない。 「じゃあ、降りたら頼むよ?」 「…ええと、あの、努力は…してみます」 ほんの少し前まで、まさかこんな結末が待っているなんて予想もしなかった。 ずっと『幸せな失恋』を抱えて生きていくつもりだったのに、その空っぽな荷物はあっさり取り上げられて、代わりに敬一郎は抱えきれないほどの幸せを雪哉に持ってきてくれた。 まだ夢のようで、まだ少し信じられなくて、まだちょっと怖いけれど、でも、ついていきたいと思った。 空でも、地でも。どこまでも。 「雪哉」 不意に敬一郎の声が『いつもの』色になった。 「あ、はい」 「帰りの羽田、ランディングやるか?」 復路便の着陸を任せてもいいかと問われ、雪哉は瞬時に副操縦士の顔になった。 「はい! お願いします!」 やはり、どんな状況下にあっても雪哉の集中力は変わらない。 大したもんだと感心し、それから敬一郎も、機長の顔に戻った。 続きは到着してからだな…と、心の中では笑いが止まらなかったけれど。 |
【7】へ |
*航空身体検査:パイロットが乗務を続けるために受ける健康診断。
一般の検査項目の他、運動機能や精神科の面談などもある。
機長は半年に一度、コ・パイは1年に一度実施されて、合格しないと飛べない。
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