Lover's Night Flight〜SINGAPORE





 ホテルの部屋に入るなり、雪哉は敬一郎に抱きすくめられた。

 初めて抱きしめられたのは、半月ほど前。

 あの時は、去り際のほんの一瞬だったけれど、それが最初で最後なのだと自分に言い聞かせた。

 思いを断ち切るために、互いの気持ちを確かめ合った後の、別れの抱擁なのだと。

 でも、あの時の力強さと温もりは、ずっと忘れないでいたいと思っていた。

 けれど今、雪哉はまた抱きしめられている。
 今度は、息も出来ないほど強く。



 キャビンクルーたちには、『今日のフライトについての反省があるから』と言って、敬一郎は自分の部屋に雪哉を連れ込んだ。

 雪哉の部屋は向かい側に用意されていたが、一度も寄らせずに、フライトバッグとオーバーナイトバッグも一緒にまとめて。


「やっと…」

 誰に聞かせるでもない呟きには、どこか複雑な色があったから、雪哉は顔を上げて敬一郎を見たいと思ったのだが、あまりに強く抱きしめられていて叶わない。 

 羽田を飛び立って8時間と少しが過ぎた。

 その間に起きたことはあまりにも想定外過ぎて、まだ雪哉は事態が完全には把握しきれていない状態だ。

 だから、今こうして抱きしめられていても、何だか夢の中のようで。

 もちろん抱き返すことなどできるはずもなくて、雪哉は敬一郎の身体の中にすっぽりと包まれたまま。

 けれど、これが夢ではないと教えてくれるのは、少しずつ身体に染み込んでくる敬一郎の体温。

 少し高めに感じるのは、ここが亜熱帯の国だから…だけではないだろう。



 拘束が少し、緩んだ。

「キスからやり直していいか? …雪哉」

 何のことかわからずに、雪哉は少しぼんやりとした目で見上げた。

「雪哉の了解も得ずに、黙ってもらってしまったから、一度返すよ」

 言葉の最後に、触れるだけのキスが落ちてきた。

 けれど、今の雪哉にはそれだけでも刺激が強すぎて、反射的に逃げをうった頭は後ろからがっちりと捕まれてしまった。

 その力強さとは裏腹に、やはり触れたままだっただけのキスは、ほんの少しだけ離れて、その唇は熱を帯びて告げる。


「雪哉…愛してる」

 瞬間破裂しそうになった心臓が、雪哉の口から飛び出しそうになったけれど、それを封じ込めるように、今度こそ触れるだけではない、深い口づけが雪哉を覆った。

 もう、何がなんだかわからない。
 こんなキスは初めてだから。

 表面を触れあわせるだけでない、もっと深い結びつきの中で、敬一郎の舌先が雪哉のそれを探し当てようとしている。 

 逃げることも、もちろん差し出すこともできずに、されるがままになるしかない。

 頭がぼんやりして立っていられなくなったけれど、力が抜けても敬一郎は強く抱きしめていてくれるから、もう、このまま何もかもを委ねるしかないと、力の入らない腕で弱く、広い背中にすがった。

 その瞬間、身体が攫われてベッドに運ばれた。

 寝かされて、覆い被さってくる、雪哉とは比べものにならないほどのしっかりと身体は、それでも雪哉を潰してしまわないようにしてくれている。

 そしてまた、重なる唇。

 乱暴ではないけれど、どこか切羽詰まって荒々しい繋がりは、お互いの息が上がるまで続いた。
 


「あの時…」

 新鮮な空気を求めてやっと口づけが解けて視線が合い、雪哉の想いはようやく声になった。

「胸が張り裂けそうでした」
「雪哉…」

 敬一郎が痛みを堪えるように、眉を寄せる。

「片想いのままでいたかったのにって…」

 何もかもを諦めることで納得していたから、僅かな期待もしたくなかったのだと。

「でも、どうしようもなく嬉しくて、この気持ちがばれてしまわないように、必死で隠しました」

 目尻から一筋落ちた涙つぶを、敬一郎の指がそっと拭う。

「辛い思いをさせたな…」

 雪哉は緩く首を振る。

「キャプテンのせいではありません」

 全ては自分の恋心のせいなのに、全てを余すところ無く拾い上げてもらえて、信じられないほどに幸せで。


「…あのな、雪哉」
「…はい?」
「ここは職場じゃないんだが」 

 含みのある笑顔が見下ろしてくる。

「降りたら名前で呼んでくれると言ったね?」

 しまった…と思っても後の祭り。

「や、でも、あの、ステイ先では一応、職務中の休憩扱いってこと、で」

 とにかく名前で呼ぶなんて、かなりの修行が要ることは必至で、雪哉はなんとかこの場を取り繕おうとしたのだが。

「そうか、こんな階級章の入ったシャツを着ているからだな」

 上着を脱いでも、中のシャツには職位を示す肩章やパイロット胸章がついている。

「脱がしてしまうか」
「ええっ!?」 

 ネクタイの結び目をキュッと引き、するりと抜いて放り投げる。

 次は当然ボタンが上から外され始めて、雪哉は慌ててその手を止めようとするのだが、力が入らなくてただ、縋るだけのようになってしまう。

「名前を呼んで、雪哉」

 2つ目のボタンを外しながら、敬一郎が囁く。

「…あ、の…恥ずかしい、です。心の準備が…全然できて、なくて…」

 頬を染める様子があまりに可愛らしすぎてうっかり暴走しそうになったが、それをグッと堪えて、でもボタンを外す手は止められない。

「じゃあ、今夜だけ特別に、職位で呼んでもいいことにしようか」
「…キャプテン…」

 嘘みたいにするりと自然に出てきた言葉に、思わず2人して顔を見合わせて笑ってしまった。

「でも、何だか部下にセクハラしてる気分になるな…」

『ヤバイなあ…』なんて不穏当な言葉を呟いて、でもやっぱりその手はせっせとボタンを外している。

「セクハラ…なんかじゃないです…。だって、僕だって、す、好き…」

 諦めていた時には口に出来た『好き』と言う言葉が、今になってなかなか出てきてくれないのはどうしてなのか。

 けれど、たったその一言に、敬一郎は見たことも無いほどの晴れやかな笑顔を見せてくれて、雪哉の胸が熱くなる。


「雪哉…」

 額を合わせ、名を呼んで、また口づけて。

 ボタンはすっかり外されてしまって、キスを解かないままに、肩からシャツが脱がされた。

 エアコンのひんやりとした風が、露わになった腕を撫でて、それに気を取られた瞬間、今度は頭からアンダーシャツがスポッと抜かれてしまった。

 晒された素肌が粟立ったような気がした。
 少し震えたせいか、敬一郎がきゅっと抱きしめてくれる。

 そしてまた、キスが始まって、今度は大きな手のひらが雪哉の身体を撫で始めて、そのしっとりとした暖かさに力が抜けてくる。


「…キャプテン…」

 少し唇が離れたときに、呼んでみた。

「ん? どうした?」

「…僕も…きっと、初めて会ったときから…惹かれてたんだと、思い…ます。好きだって気づいたのは、もう少し後…ですけど…」

 嬉しい告白に頬が緩むが、初対面のあの時は、最悪の印象だったはずなのに…と、不思議になる。

「俺はあんなに無愛想で素っ気なかったのに?」

 その時を思い出して、雪哉が少し笑った。

「…確かに僕は緊張してしまいましたし、降りてからも、どうして上手くできなかったのかって悩みました…」

 言葉を切った雪哉の頭を撫でて、次の言葉を待つ。

「でも、2度目の時、フライトプランについて『不動くんはどう思う?』って聞いて下さって、初めて名前を呼んでいただいて、凄く……すごく嬉しかったんです」

 そう、2度目は敬一郎も気を張っていたのだが、ディスパッチ中に思い切ってかけてみたあの一言がきっかけで、2人の間の奇妙な緊張感の一端が解けたのだ。

 それを雪哉も感じていてくれたのは、嬉しくて、やはり申し訳なくなる。
 不要な緊張を強いてしまったことは事実だから。


 また小さく口づけて、敬一郎もまた、心の内を晒した。

「初めて乗った後から、ずっと雪哉のことを考え続けて、大切なことを思い出したんだ」

「大切…なこと、ですか?」

「そう。為すべき努め…だ。機長には、コ・パイの成長を助けると言う大切な役割がある。だからまず、雪哉が自由に発言できる環境に戻さなければいけないと、これでも必死だったんだ」

 髪を梳く、優しい手はそのままに、話を継ぐ。

「雪哉に恋をしたと自覚してからは、それを理由に大切なことを蔑ろにしてしまっては、何より雪哉に申し訳無いと思った。 同じパイロットとして、ひとつひとつのフライトの大切さをわかっているのに、その機会を奪うなんて許されないことだと」

 後悔の色が滲む様子に、雪哉はそっと手を伸ばして、その頬に触れた。暖かく。

 敬一郎はその手を取り、また手のひらに口づける。


「それからは…ずっと、雪哉を想う気持ちを押さえ続けた。でも……耐えられなくなった…」

 言葉の最後に抱きしめると、雪哉もそっと、背中に手を回してきた。

「僕は…キャプテンに会えて、本当に…幸せ、です」
「それは、俺の台詞だよ」

 それ以外に、もう返す言葉はなかった。
 どれだけ想っているのかを、心と身体に刻みたい。

「雪哉…」

 抱きしめて、柔らかい頬から細い首を唇で辿る。
 緊張の所為か、エアコンの所為か、少し身体が冷えている。

 その身体に熱いキスを贈り続けられて、雪哉の息が上がってくる。

 意識までふわふわしてきて、何を考えればいいのかわからない。

 優しいキスが胸先にたどり着いて、小さな尖りに熱い舌先が絡みついた。

「んっ…」

 かみ殺した声が、漏れる。

 その、漏れ出た息の中に潜む艶めかしさに、声を出してしまった方も、聞かされた方も、一気に熱を帯びた。


 こんな感覚は知らない。

 雪哉はぎゅっと目を閉じて、身体の中に集まってくるもどかしさをやり過ごそうとするのだが、身体は雪哉の理性を裏切って、熱さを増していく。

 二の腕をベッドに縫い止められた状態で、恥ずかしさに縮んでいた意識が徐々に霞んでくる。

 何もかも初めてだから、どうしていいかわからない。

 けれど、飛びかかっていた雪哉を、耳障りな音が引き戻した。 
 カチャ…と鳴ったのは、ベルトの金属音だ。

「あ、あのっ」

「大丈夫。今夜は無茶なことはしない。雪哉が気持ちよくなればいいから」

『今夜は』という念押しと『無茶』の中身が気になったけれど、そんなことをウロウロと考えている間に、腰回りはすっかりくつろげられてしまっていて、忍び込んできた手に最も敏感な部分が柔らかく握り込まれた。

「…やっ…」

 思わず目をギュッと瞑り、その手を外そうともがいたけれど、びくともしない。

「…だ…め…」

 それだけ言うのが精一杯で、次に口を開いたら、絶対変な声が出てしまう…と、雪哉は唇を噛んだ。

「雪哉…力、抜いて」

 噛んだ唇に優しく触れるキス。

 今まで全く経験したことないことばかりが次々と身に降りかかってきて、もうだめだ…と、考えることを放棄したら、身体が勝手に快感を拾い集め始めた。

 優しいけれど、容赦なく追い詰められて、真っ白になった瞬間に高く放り投げられて、そしてまた、暖かい腕の中に墜ちていく。

 その間の痺れるような感覚に、思わず縋った愛しい人の広い肩には機長の証し、金色の4本線。

 自分が脱いでもキャプテンがこのままじゃあ意味ないじゃん…と、雪哉は意識の遠くでちょっと笑ってしまう。

「雪哉…」
「…は、い」

 声を上げたわけでもないのに、何故か返事は掠れていた。

「大丈夫? フライトで疲れているのに無理させたな…」
「…いえ…僕より、キャプテンの方が…」

 シップの全責任を背負う機長の疲労は、コ・パイには想像もつかないほどなのだと何度も聞かされているから、雪哉は敬一郎こそ…と慮る。

「俺は雪哉を堪能していただけだから、これっぽっちも疲れてないよ。いや、反対だな。元気をもらったよ」

 あまりに幸せそうに微笑まれて、雪哉はつい今し方の出来事を思い出して、いたたまれない。

「バスルームまで運んであげるよ。シャワー、ひとりで大丈夫?」

 問われたが、ひとり以外の選択肢が雪哉にあるはずもない。

「あのっ、自分で、行けますっ」

 と、言ったのだが、あっという間に抱き上げられてしまった。

「わあっ」
「こら、暴れない」

 雪哉は慌てているが、敬一郎は楽しんでいる。明らかに。

「洗って上げたいんだけどな、一緒に入ったら絶対に歯止めが利かなくなるから、今夜は我慢するよ」

 また『今夜は』と念を押されてしまったが、それよりも『一緒に入ったら』という一言が派手に引っかかった。

 今夜でなければ一緒に入るつもりだという意味に聞こえたが、出来れば聞き間違いにしたい。

 24時間前にはこんなことになるなんて夢にも思っていなかったのに、想定外も甚だしすぎて、何から何までついて行けていない。

 確かなのはやっぱり、自分は敬一郎が大好きなのだという、その事実だけ。


 ――これから、どうなっちゃうんだろう…。

 不安だけれど、それよりも楽しみで、楽しみよりも、幸せで、でもなんだか少し、怖くて。

 でも、やっぱり幸せなんだと、嬉しそうに自分を抱き上げている敬一郎の横顔を、ちらっと盗み見た。


                    ☆ .。.:*・゜


 バスルームのドアの音がして、雪哉がバスローブ姿でおずおずと出てきた。

 大きなタオル地の中で身体が泳いでいる様子が可愛らしすぎて目眩がしそうだ。

「ちゃんと温もった?」

 ドアの前に立ちつくす雪哉の元へ行き、シャンプーの香りがする髪に手を入れて、ちゃんと乾いているか確かめる。

「あ、はい」

「亜熱帯だと油断して簡単なシャワーだけにしてしまいがちだが、ちゃんと身体を温めて解しておかないと、リラックスして休めないし、エアコンの影響でうっかり風邪を引いてしまうこともあるから」

 気温差で体調を崩した経験のある雪哉には、耳の痛い話だ。

「はい、気をつけます」

 だから雪哉の返事はやっぱり『優秀な副操縦士』で。

 本日めでたくなりたてのカップルだから仕方はないのだけれど、雪哉が『上司と部下』の垣根を越えてくれるのはまだまだ先になりそうで、もどかしいけれどその様子もこの際だから楽しんでしまおうかな…なんて、『恋愛オンチの朴念仁』はワクワクと『これから』に思いを馳せる。


「さて」
「わあっ」

 抱え上げるとまた慌てる。 
 反応が可愛くて、ちょっと癖になりそうだ。

 先ほどまでじゃれていたのと違う、窓際のベッドに雪哉を降ろす。

 海外のステイ先でのパイロットの部屋は、基本的にツインのシングルユースになっているから、同じ部屋でも違うベッドでゆっくりと雪哉を休ませてやれる。

 そっと雪哉を横たえて、剥いでおいた上掛けで包む。

「雪哉、好き嫌いは?」
「何にもないです」
「そう、いい子だね。夕食を頼んでおくから、少しの間、眠りなさい」

 耳元で優しく言われると、呪文を掛けられたように瞼が下りる。

「…はい」

 時差もたった1時間で、まだまだ宵の口だけれど、今日一日のあれこれは濃密過ぎて、やっぱり心も身体も少しだけ疲れているのかも知れない。 

 明日のフライトは午後10時発だから、眠る時間も語り合う時間もたっぷりある。

 けれど、早く帰りたい。何もかも忘れて、愛し合える場所に。

 眠りについた雪哉の額にキスを落とし、小さな声で囁いた。

「帰れば2日の公休だ。寮へ返す気はないから、覚悟しておいてくれ」




 敬一郎と雪哉の機は、定刻の午後10時にシンガポールを出発した。

 昨夜はあの後、ゆっくり食事をして、少し夜更かしをして色々な話をした。

 仕事のこと、仲間のこと、そしてお互いの学生の頃の話も少しだけ。

 そして、深夜便に備えて午前中をゆっくり休んで、夕方少しだけ散歩をしてからキャビンクルーたちと合流した。

 往路では散々コックピットで雪哉を構い倒した敬一郎だったが、復路は残念ながらそうもいかない事態に陥った。

 前日の好天が嘘のように手のひらを返したのだ。

 いや、手のひらを返したと言うよりは、前日の好天が珍しかったと言える。
 この空域は、元々積乱雲の多発地帯として知られているのだから。


 ただでさえ夜間飛行で雲の状態は視認しづらい。

 特に今夜は新月なので頼みの月明かりはなく、かろうじて星明かりで見えないこともないのだが、結局気象レーダーだけを頼りにせざるを得ない状態なのに、航空機にとって嬉しくない雲ばかりがそこら中にはびこっていた。

 もちろん、あらかじめ予測はしていたけれど、それよりも状況の悪化は早く、敬一郎と雪哉は対応に追われる羽目になった。

 荒れている空域は近づいている。しかも幅が広い。

「雪哉ならどうする」

 問われ、ほんの少し考えて答える。

「回避できるものならすべて回避したいですが、この幅で立ちはだかれては回避の度に余計な揺れを誘発するかもしれませんし、燃費は最悪です。到着に遅れが出る可能性もあります。ですが、レーダーエコーでは比較的層の薄い部分が確認できますので、そこを通り抜けられるのではないかと予想します。 その、最も影響が少ないと予想される高度をリクエストして、高度と方角を出来るだけ維持した上で、影響が免れない時間帯だけベルトサインを出す…というのはありかなと思います」

 旅客機に搭載されている気象レーダーの解析にはそれなりのノウハウが必要で、それは経験を積むことはもちろんだが、過去のデータの研究などが豊富であればあるほど、素早く的確な判断に繋がっていく。

 今夜の雲の様子も、経験を積んだ出来のいいコ・パイなら答えられるが、雪哉のキャリアで答えられるのは驚き以外の何ものでもない。


「具体的にはどの辺りの高度?」
「当初は2000フィート降下程度が適当ではないかと考えますが」

 即答に敬一郎が満足そうに笑った。

「上出来だな。明日にでも機長昇格の諮問試験が受けられそうだな」

 その言葉に、雪哉が『まさかですよ』と笑う。

「確かにコ・パイになったばかりの頃は、早く機長になりたいなって思いましたけど、実際乗務を始めたら、出来るだけ遅い方がいいなと思うようになりました」

「どうして?」

 誰しも、早く上へ行きたいと思うのは当然だ。

「乗っても乗っても足らないことが多すぎて追いつきません。今はキャプテンに護られてどうにか飛べていますけれど、自分より上がいなくて、誰も何も教えてくれない状態ですべての責任を負う機長なんて、怖くてあと10年は確実に無理です」

 大真面目に語る雪哉に、敬一郎が目を丸くした。

「おいおい、あと10年だと俺の記録を抜けないじゃないか」

 雪哉には抜いて欲しいと思っているのだ。

 ただパイロットの世界は不要な競争を避けるために――もちろん安全運航のためだ――昇格順による序列が徹底していて、機長昇格候補に指名されるのも当然上から順番だ。

 だから、たとえ雪哉がもっとも優秀だと全員が認めていても、上にいる先輩コ・パイをすっ飛ばして機長昇格候補に上げるわけにはいかないのだ。

 けれど、5年後から数年間に渡ってかなり多くの定年退職者が出るのがわかっていて、恐らく昇格指名は前倒しになってくるはずだから、雪哉の記録更新は確実だろうと敬一郎は思っている。

 だが雪哉は首を振った。

「僕はキャプテンの記録を抜きたいなんて思ってません。それよりも……」

「それよりも?」

「いつか、キャプテンのような機長に、なりたいです」

 言い切る雪哉に、敬一郎は声にならない笑いを漏らす。
 その様子に雪哉が可愛く口を尖らせる。

「…なんですか?」
「いや、面と向かって言われると、さすがに照れるなと思って」

 その言葉に今度は雪哉が恥ずかしくなる。

「…でも、本当のこと、ですから」

 俯いた雪哉の頭を、伸ばした手でくちゃっ…とかき混ぜ、敬一郎は管制への高度リクエストを指示した。

 それに応えて雪哉は、いつものように機敏に動く。

 ほどなく高度の変更は許可され、深夜の時間帯に入っているので機内へのアナウンスは最小限に留め、キャビンクルーに注意を促すなど、慌ただしくなった。 

 2人は絶え間なく気象レーダーを監視して、雲の隙間を縫ってフライトを続ける。

 時折、後ろを飛んでいる旅客機から前方の雲の状況を教えて欲しいと交信があったり、先を行く旅客機から情報をもらったりというやりとりがある。
 
 安全な航行のために、同じ空域を飛んでいる者同士が連携するのは珍しい事ではない。

 そして、幸いなことに、思惑通り揺れは最小限・最短に押さえられて、キャビンからも『揺れで目が醒めた乗客はいなかった』と報告受け、テイクオフから5時間ほどが過ぎたところで漸く一息つくことが出来た。



「確かに…」

 雲の帯を抜け、高度を戻したところで敬一郎が口を開いた。

「今までで一番怖かったフライトは…と聞かれたら、機長になってコ・パイを乗せた最初のフライトだったと答えるだろうな」

「キャプテン…」

 静かに語る敬一郎の横顔を、雪哉は少し見つめ、またパネルに視線を戻す。

「うちの社は機長昇格には殊更慎重だから、昇格審査に合格しても最初のフライトはライトシートに訓練機長が座ってくれて、2回目と3回目はジャンプシートに同乗してくれる。 正式に辞令が出るのはその後だ。 もちろんその3回のフライトも全てPICは自分だから甘えは許されないが、それでもどこかに『何とかなる』って気持ちがあるんだ。 だが、その時期が過ぎて、正式に機長になって始めてライトシートのコ・パイと2人きりになった時には、本当に自分が全てを背負うんだ…と、手が震えたよ」

 誰も助けに来てくれない高度3万5千フィートの密室で、自分の肩に乗員乗客全員の命が掛かっているのだという恐怖は、今でもレフト・シートに着く時には必ず思い出す。

 肩に乗る線がたった1本――3本から4本に――増えただけなのに、その1本の重さは計り知れなかった。

 雪哉は深く息を吐いた。

 その『怖さ』が、気持ちの芯まで伝わって、言葉がなかった。

「けれど、その時の怖さを忘れないでいようと思った」

 雪哉がはっきりと頷くのを視界の端に入れて、敬一郎はやはり静かに言葉を継ぐ。

「雪哉も、さっき話していた『怖い』と思う気持ちを持ち続けることは大切だと思う。ただ、そればかりでもいけない。判断を下した後はもう、大胆に動くことも必要になる」

「はい」

 冷静かつ大胆に…とは、訓練生だった頃からよく聞かされていた言葉なのだが、字面の理解しか出来ていなかった雪哉に、最初にそれを思い知らせたのは、あの、『ギアが出なかった』一件だった。

『次の一手』を決めたらそれに向けて真っ直ぐに最善の努力を尽くす。
 けれど視野はいつも広く持って他の可能性も常に探るという、ある意味矛盾していることを同時にやらなくていけない状況は、まさにそれだった。

 そして今、また少し近づけたかもしれないと思った。
 敬一郎の言葉で、自分の手も震えたから。

「でも、機長のデビューフライトに当たったコ・パイはもっと怖いと思ってるだろうけどな」

 あははと笑ってから、『そう言えば』と、何事かを思い出した様子で、 雪哉の頭をいつものように優しく撫でた。

「雪哉の方が俺よりずっと怖い思いをしてるじゃないか」

 言われて、『え?』…と答えてからすぐに、思い至る。

「俺は雪哉よりずっと長い時間飛んでいるが、ギアが出なかった経験は一度もないぞ」

「あれはもう二度とごめんです…」

 雪哉がへにょ…と眉を下げる。
 やはり『怖い』には違いないのだ。人間だから。

「そうだな。幸い無事だったのだから、良い経験にするしかないな」
「はい、そうします」

 雪哉の応えに満足そうに微笑んでから、敬一郎は表情を引き締めた。

「さて、そろそろだな。ランディングブリーフィングを始めようか」
「はい!」

 このフライトで2人が交わした言葉と言えば、パイロット同士の会話ばかりで、恋人らしいそれはひとつもなかったけれど、そんなことがなくても、とても満たされていた。

 愛しい人の成長を見守っていける喜びと、愛しい人を目標に歩んでいける喜びを、それぞれに深く胸に抱いて。




「You have Control」
「I have Control」

 操縦が敬一郎から雪哉に替わる。

 ここから先、機長判断が必要な事態にならない限り、到着までの操縦を雪哉が担い、敬一郎は交信などを担う『副操縦士の任務』をすることになる。

 正式にパイロットとなって1年5ヶ月。
 飛行時間は900時間になろうとしていて、離着陸もそれなりの回数をこなしてきた雪哉だが、機長たちから見れば、まだまだ殻を付けたひよこも同然だ。

 けれど、ひとつひとつのフライトを誠実にこなして、いつかは自分も誰かの目標になれるようになりたいと願う。

 自分が敬一郎の背中を追っていくように。



『Japan Skyways 288,Runway 34R, cleared to land』 

 タワーから着陸許可が下りた。
 復唱した後、自社運航部と交信し、到着スポットを確認する。

「Runway in sight」 

 晴れた朝の空の下、滑走路が見えてくる。

 何度飛んでも、ベースに帰ってくるのは特別だ。

 そんな中でも今日のランディングはきっと一生忘れないと思った。
 雪哉も、敬一郎も。


「Set Go-around ALT」

 着陸をやり直す場合に備えての高度を確認。

「Gear Down」
「Gear Down」

 敬一郎が復唱し、モニターで車輪が完全に降りたことを確認し、操縦を自動から手動に切り替える。

「Autopilot off」
「Landing checklist」 

  雪哉のコールで計器類が正常に動いているかを敬一郎が確認する。

「Landing checklist completed」

 滑走路はもう目前で、遮るものなく真っ直ぐ伸びる。

「Minimum」

 敬一郎が着陸の可否を判断する高度に達したことをコールする。

 その瞬間に、着陸するのかやり直すのかを決めなくてはいけない。 
 ためらう間は一瞬たりともない。
 その間にも猛スピードで地面に接近しているのだから。

「Landing」

 雪哉が着陸を宣言して、機体はぐんぐん高度を下げて行く。

「1000」

 高度1000フィートを通過した。
 風向と風力の情報が伝えられ、雪哉はそれを念頭に滑走路へ進入する。

「Auto throttle off」
「300」

 敬一郎が高度300フィート(約90m)をコール。
 時速は約260km。

 高度100フィートを過ぎると、接地までの高度を読み上げるのはコンピューターの自動音声に切り替わる。

 めまぐるしい勢いで下がっていく高度に、人間のコールでは追いつけないからだ。

 50、40、30、20、10…。

 メインギアがタッチダウンする瞬間、通常の雪哉のランディングは振動をほとんど感じさせない。

 まるで、羽のように舞い降りる。

 乗客に接地を認識させるのは、次の瞬間に響き渡るエンジンの逆噴射の轟音だ。

 ドライコンディションの滑走路なら、雪哉はいつもパーフェクトに降りる。

 けれど、同じ事を敬一郎は悪条件下の滑走路でもやってのける。
 ハードランディングになるのは、強くタッチダウンしないと安全を保てない時だけだ。

 雪哉はそれに追いつくのが目下の目標だ。

 機体は速やかに滑走路を離れ、指定されたスポットまで移動して、午前6時20分、途中の高度変更にも関わらず、定刻に到着した。


「Door Open OK」

 キャビンに、ドアを開けて良いと伝える。

 乗客が降機を始めると、コックピットは漸く緊張から解放される。

 だがパイロットにはまだ仕事が残っている。

 タイヤ圧などを確認後、エンジンをシャットダウンしてから、チェックリストを元に各項目を最終点検してようやくシートから立つことができる。


「キャプテン、雪哉くん、お疲れさまでした。降機完了です」

 チーフパーサーの香澄が乗客の降機完了を伝えにきて、航空整備士がコックピットに乗り込んでくる。

「お疲れさまでした」
「お疲れさま。オペレーション・ノーマル。よろしく」
「了解です」

 フライト中に不具合がなかったことをメカニックに伝え、2人は上着と帽子を身につけて、コックピットを出る。

「ナイスランディングだったよ、雪哉」
「ありがとうございます。今日は風の影響が少なくてラッキーでした」

 嬉しそうに見上げてくる雪哉の頭を、わざわざ帽子を取ってパフパフ撫でると…。

「あ〜、キャプテンずるいですよっ、私も〜」
「あ、私も〜」

 降りてきたキャビンクルーたちが次々と雪哉の頭を撫でていく。

「え〜、もう勘弁して下さよ〜」

 敬一郎の手から帽子を取り返して慌てて被るとまた取り上げられ…と、乗務を終えた開放感から、少しはしゃぎながら入国審査と税関を通りオペレーションセンターへ戻る。

 センターへ戻りデブリーフィング(報告)を行い、やっと業務のすべてを終えて、それぞれのロッカールームへ向かう途中、誰もいない廊下で敬一郎は雪哉の手を握り、耳元で囁いた。

『うちへおいで』…と。


【8】へ


PIC:PILOT IN COMMANDの略。指揮操縦士の事。
複数の機長が搭乗している場合、命令系統を明確にするため、指揮権を持つ機長を定めておく。


祝!両想い!!

おまけ小咄
*シンガポール発〜キャビンクルーたちのかしましい日常


 シンガポールからの復路。

 敬一郎と雪哉がコックピットで、はびこる雲のジャングルの対応を協議している最中。

 あらかじめ、揺れる雲が多発しているとキャビンブリーフィングの時に敬一郎から伝えられていたクルーたちは、いつベルトサインが出ても対応出来るようにと、気を張ってウェルカムサービスをしていたが、それも一段落して、客室内は照明が落とされて夜間モードに入った。

 時折コールされる以外は、ほとんどの乗客が目を閉じて落ち着いている。

 そんな中、キャビンクルーたちは、今日もギャレイでひそひそと噂話…ではなくて、情報交換に勤しんでいた。


「ねえ、気がついた?」

「もしかして、キャプテンとゆっきーのこと?」

「そう! それ」

「キャプテンってばすごく愛おしそうな目でゆっきー見てるのよ」

「でも、ゆっきーは全然キャプテンの顔見ない」

「うつむいてたよね」

「ピンクのほっぺしてね」

「昨夜、フライトの反省がとか何とか言って、ご飯に来なかったよね、2人とも」

「部屋に籠もってたみたいですよ」

「ちなみに、ゆっきー、自分の部屋に帰ってなかったって情報あり」

「マジで?」

「…本当に『反省会』してたんですかね」

「ないね。絶対」

「そう。来栖キャプテンはフライトの問題点は現場で解決する主義なんだよ」

「だよね。絶対、外へ持ち越さない」

「しかもコ・パイは雪哉さんですもんね」

「ってことよ」

「んじゃ、この事態をどう解釈すれば良いんでしょうか…」

「…うーん、難しい問題だな…」

「キャプテン、再婚されるって聞いたんですけど」

「って噂だよね」

「ってさ、私、小野チーパーから、ちらっと聞いちゃったんだけど」

「なになに?」

「ゆっきー、コックピットで泣いてたらしいんだよ」

「え〜! 雪哉さんが!?」

「でも、あの来栖キャプテンがコ・パイを苛めるとは思えないよねえ」

「まして、ゆっきーだよ?」

「…ってことは〜?」

「まさか、キャプテン、ゆっきーに『結婚してくれ〜』とか言ったんじゃない?」

「ちょっと、そりゃ妄想が過ぎるって」

「なになに?『来栖キャプテン×ゆっきー』ってカップリングの出来上がり?」

「確かに絵的には美味しいですよ」

「いや、中身的にもかなり美味しい」

「あの2人なら許しちゃう…みたいな?」

「ってか、2人とも、他の人のものになってほしくないかも」

「ん〜、私としてはゆっきーは都築チーパーとくっついて欲しかったなあ」

「…やだ、それも美味しそう」

「私は同期の藤木くんがあやしいと思ってたんですけど」

「いやー、ありゃ親友の域を出てないよ」

「そうそう。公休日にゲーセンの『太鼓の達人』でバトってる2人だからね」

「なにそれ、オコサマ〜」

「藤ぴー、言ってたもん。自分がゆっきーに勝てるのって太鼓の達人だけだって」

「情けねえな、それ」

「ま、とりあえず今のところは、『来栖キャプテンがゆっきーにプロポーズした』って辺りで押さえとくか」

「それが1番美味しいネタですよね」

「そうそう、妄想こそ明日への活力!」

「え〜、私はやっぱり都築チーパーがいい〜」

「男子のキャビンクルーにもゆっきー狙いいるよね」 

「それ勘弁して欲しいわー。ただでさえ独身女子クルー180人に男子ひとりの割合だよ?」

「あ、それ、来年から採用枠増えるらしいよ」

「え、そうなんですか?」

「最終的には2割から3割程度を男性にするって」

「うわ、めっちゃ楽しみ〜」

「って、ますますゆっきーのハーレムが拡大するだけだったりして…」

 一同沈黙。

 その時インターフォンにコックピットからのオール・コール(一斉呼び出し)が入った。

 ハーレムの主、ゆっきーだ。

『5分後にベルトサイン。揺れる空域に入ります。お客様のベルトを確認して、その後クルーも着席願います』

「「はいっ」」

 たくましい彼女たちは、『デキるキャビンクルー』に戻っていったのでありました。


おしまい。

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