Lover's Night Flight〜TOKYO

(注!ほぼR-15です)





 タクシーに乗り込み、連れて行かれたのは敬一郎の自宅マンションだった。

 どれくらい乗っていたのかわからないほど、雪哉は緊張し始めていて、その様子を察した敬一郎は、何も言わずに手を握る。

 その温かさにホッとする反面、これからどうなるんだろうという緊張はやっぱり雪哉の中に居座り続けて、少しだけ逃げ出してしまいたい気持ちもあって。

 それは今もって心の準備がまったく出来ていないから。

 いや、もしかしたら昨夜の中途半端な接触の所為もあるかも知れない。
 高校の3年間で、知識だけは豊富になってしまっていることも足を引っ張っているような気がする。



「どうぞ」
「あ、はいっ、お邪魔、します」

 後ろでドアが閉まる音がする。

 考えてみれば、コックピット以外のところで長い時間2人きりになったのは、昨夜が初めてだ。

 ホノルルの時は、付き添ってもらったけれど、短い時間だったから。

 その『昨夜』は部屋に入るなり抱きしめられたけれど、今日はそんなこともなく、フライトバッグとオーバーナイトバッグを玄関に置いたまま、通された先は日の光が差し込む明るいリビング。


「わあ…眺めがいいんですね」

 高層マンションの中層階――18階の部屋からはレインボーブリッジが見える。

「ああ、結構気に入ってるんだ。少し遠いが発着する機も見えるからな」

 離婚した時、住んでいたマンションは別れた妻に渡した。

 ここへ移ってきた時に随分気持ちが晴れやかになったのは、解放されたという思いの他に、この眺めのおかげかも知れないとも思っている。


「駅まで歩いて6分。快特なら第2ターミナルまで16分だ」
「便利ですね」
「ああ、寮からは少し遠くなるけど…」

 窓辺に立つ雪哉の背後では、冷蔵庫の開け閉めやグラスの音、そして『新婚生活には悪くない場所だと思うな』と、敬一郎が呟く声がしたが、眺めに気をとられている雪哉は気づかない。


「はい」

 いきなり目の前にグラスが現れた。中で揺れるのは、鮮やかな黄色。

「喉渇いただろう?」
「ありがとうございます」

 受け取る雪哉の肩を、敬一郎が優しく抱き寄せる。
 それだけでもまた、心拍数が上がりそうだ。

「あ、れ?」

 一口飲んで、気がついた。

「これ、もしかして…」
「そう、雪哉が大好きな、ホノルル線限定のパイナップルジュースだ」

 確かに雪哉はこれが大好きで、これが飲めるから次のホノルル線乗務はいつかなあ…と、楽しみにしてしまう有様で。

「…あの、これ確かに大好きで、嬉しいんですけど、でもどうしてそれを…?」

「ん? 1課と2課のキャビンクルーたちは大概知ってるって都築が言ってたぞ」

「え〜、僕まだ2回しかホノルル飛んでませんよ。なのになんで…」

「幸せそうな顔して『おいし〜』って言ったのがあっという間に広まったんだってさ」

 笑いを堪える敬一郎に、雪哉はぷうっと膨れたが、そんな顔すら可愛いのだと気づいていないのは本人だけのようで。

「さて、夜通し雲と戦ったから、疲れてるよな?」

「あ、そうですよね。休んで下さい。僕は…」

「帰さないよ」

「……ええと」

「それとも何? 今日明日の公休日、予定があるとか言う?」

「…や、あの、特に何にも…」

 どうせ、寝ているか勉強しているかのどちらかだ。

「じゃあ、明日の夜まで一緒にいよう」
「…は、い」

「これからのこと、まだまだたくさん相談しなくてはいけないからな」
「…キャプテン…」

 本当に自分でいいのだろうかと、やっぱりまだ不安が残る雪哉は、敬一郎を見上げてしまったのだが。

「…雪哉」

 敬一郎がスッと目を細めた。

「今、なんて?」
「え? きゃ…」

 ぷてん…とは続けられなかった。言うと、とんでもないことになるのがわかったから。いや、もうすでに遅いようだ。

「約束したよな?」
「ええと…」

 したっけ?…なんて口が裂けても言える雰囲気ではなさそうだ。

 思わず目を逸らした雪哉の手からグラスを取りテーブルに置くと、『さ、行こうか』と言って雪哉の身体を横抱きに抱き上げた。

「わあああっ」

 相変わらず――と言っても昨日からだが――慣れない反応が面白いなと、笑いをかみ殺しながら、歩き出す。

「あのっ、どこっ…へ?」
「ん? バスルームだよ。さっぱりしてから寝たいからね」

 それはそうだと雪哉も思う。 
 早朝や夜中に帰ってきた時でも、必ずシャワーを浴びてから眠っているから。


「ドア、開けて」
「あ、はい」

 キャプテンに指示されたら、咄嗟に従ってしまうのはもう、コ・パイの性だ。

 抱き上げられた状態で、両手が塞がっている敬一郎の代わりに言われたとおりにドアを開ける。

 2つ開けたらそこは、洗面脱衣所だった。ダブルシンクでかなり広い。


「さてと」

 降ろされたはいいが、どうしていいのかわからずに雪哉は立ち尽くす。

 けれど敬一郎はそんな様子の雪哉に気がついているのかいないのか、給湯システムのスイッチを入れる間も、雪哉の肩を抱いて離さない。

「今日は洗ってあげるよ」

 言葉が終わらないうちに、被りのパーカーの裾に手が掛かり、『はい、バンザイ』と言われて、これまた素直に従ってしまった結果、綺麗に剥かれてしまった。

 いや、まだシャツが残っているけれど。


「あ、あのっ」

 洗ってあげるとはどう言う意味だろうかと狼狽える。
 脱がされた服の洗濯を意味するのではないような気はするが。

 その間にもシャツのボタンが外されていき、雪哉はその手を止めることも出来ずにただ見ているだけ。

 シャツを脱がせてしまうと、敬一郎は雪哉の身体を抱きしめて、言った。

「怖い?」

 いつも、コックピットでこの声を聞くとホッとする。この人と一緒なら大丈夫だと思わせてくれる、深くて優しい響き。

 雪哉は小さく首を振った。

「怖く…ないです」

 そう、敬一郎を怖いと思ったことは一度もない。

 いや、初めて一緒に飛んだ時にはちらっと思ったかも知れないが、そんな記憶はすでに上書きされて久しい。

 だから、その敬一郎がすることならきっと、何も怖くはないはすだ。


「でも…」
「でも?」
「少し、不安です」

 瞳を揺らせて見上げてくる雪哉に優しく微笑んで、敬一郎は『大丈夫だよ。俺に任せていればいいから』と囁く。

「…はい、きゃ…」

 また『禁断の一言』を言ってしまいそうになったが、その唇は塞がれてしまった。

 そこからは、深く浅く、途切れなく繰り返される口づけに翻弄されているうちに、いつしか素肌に素肌が触れていて、降り注ぐ温かいシャワーで体温が上がっていき、雪哉は無意識に敬一郎にしがみついていた。

 自分とは比べものにならないほどのしっかりした大人の身体は、綺麗でしなやかな筋肉に覆われていて、厚すぎない気持ちのいい弾力感についうっかりと頬を寄せてしまう。

 そんな雪哉を敬一郎はもっと強く抱きしめて、十分に温まったところでシャワーを止めた。

 ボディーソープを取った手のひらを、そっと雪哉の背中に這わせると、華奢な肩が小さく震える。

「どこもかしこも綺麗だな、雪哉は」
「…そんなこと…ない、です…」

 もう27にもなるのに、まだやせっぽちの子供っぽい体つきのままで情けなくなるのに、そんな雪哉を敬一郎は綺麗だと言ってくれるのが、嬉しくて、でも恥ずかしい。

「可愛いな…」

 もう、何も返せなかった。
 恥ずかしいのと、口を開けば思わぬ声が出てしまいそうで。

 暖かくて大きな手のひらが身体を覆い尽くしていく。

 その間も、気がつけば口づけて、洗っているのかじゃれてるのかわからない状態の中で、身体を入れ替えられて背中から抱きしめられると、長い指が反応し始めていた雪哉の中心に絡みついた。

「…やっ…」

 慌てて身体を引こうにも、がっちり後ろから抱きしめられていて逃げ場はない。

 的確に、快感を引きずり出すように煽られて、雪哉は堪らずに腰を捩るがやはり逃がしてはもらえずに、逃れようとすればするほど自分を追い詰める結果になって、やがて小さく震えて達してしまう。

 再び暖かいシャワーが降り注ぎ、その中でまた縺れるようにキスをして、抱きしめ合った。


                    ☆ .。.:*・゜


 春はまだ浅くて、部屋の空気はひんやりしている。

 敬一郎はバスローブを羽織り、雪哉にも着せるがそのサイズは雪哉にぴったりだ。

 もちろん、最初から連れ込む気満々で、シンガポールへ発つ前に何から何まで準備万端だから。


 風邪をひかせるわけにはいかないと、雪哉の髪にドライヤーをかける。

 少し癖のある毛はところどころでクルンとまるまってしまう。
 それをいつもの髪型になるように、少し伸ばしながら丁寧に乾かす。

 濡れ髪の雪哉は、宗教画から抜け出た天使のようで、瞳の色と癖毛は確かに少し外国の血を感じさせる。

 信隆から聞いたのは、『恐らく母親にヨーロッパの血があったようだ』ということだった。

 フランスの西海岸あたりからベルギーやイギリス南部に多く分布する遺伝子が認められたらしいが、それ以上のことはもちろんわかっていない。

 年齢に似合わない可愛らしさは、もしかしたら母親譲りなのかもしれない。

 いずれにしても、自分が愛したのは雪哉というひとりの人間なのだから、わからなくてもどうということはないが。


「…あの」

 雪哉が肩越しに見上げてきた。

「ん? どうした?」

 ドライヤーを止めて、乾き具合を確かめる。

「冷たく、ないですか?」

 雪哉は敬一郎の濡れた髪を心配していた。自分に構っている間に冷えてしまうのではないだろうかと。

「風邪引いたら、大変です」

 休日の入浴ではいつもタオルドライで放置の敬一郎だから、なんと言うことはないのだけれど、心配してくれる雪哉が可愛くて嬉しくて、それに、乾いてない髪で雪哉とベッドに入れば、結局雪哉に冷たい思いをさせてしまうなと思い、『じゃあ』とドライヤーを手渡した。

「乾かしてくれる?」

 聞くと、雪哉はちょっと恥ずかしそうに、こくんと頷いた。
 が。

「届かないです」

 立ったままだと20cm以上の身長差があって、頭の上が満足に乾かせない。

 困り顔の雪哉も可愛いなと思いつつ、敬一郎は雪哉の両脇に手を入れて、ひょいと洗面台に座らせた。

「冷たくない?」
「大丈夫、ですけど、でも…」
「これなら届くだろう?」

 結局いちゃつきまくりながら、髪を乾かしあって、敬一郎はまた雪哉を横抱きに抱き上げた。

 今度は雪哉も暴れなかった。 
 しかも、首に腕を回して来てくれて。

 慣れない反応も可愛いが、素直に身体を預けて貰えるのはやはり格別だと敬一郎は胸を熱くする。


 廊下に出て、また『開けて』と言われて雪哉が従えば、そこは深いブルーで統一された寝室だった。

 けれど、なんと言ってもまだ午前中で、お日様は燦燦だ。

 セミダブルのベッドに雪哉をおろし、緩い温度でエアコンをかける。
 その間に、寝かせて降ろしたはずの雪哉が起き上がってベッドに腰掛けた。 

「あの…」 

『キャプテン』とも名前でも呼べなくて、雪哉が先ほどから『あの…』としか言えないでいることに、敬一郎も気づいてはいたが、敢えて触れないでおこうと思った。

 雪哉はきっと努力はしてくれているのだと思うから。

「ん?」

 隣に腰を下ろして肩を抱く。
 雪哉は言葉を迷う様子を見せた。

「もしかして、明るくて恥ずかしい?」

 少し笑いながら言うと、雪哉はちょっとだけ口を尖らせて、頷いた。

 自分でも少し甘ったれてるなと、雪哉は意識の少し奥で感じていたが、止められなかった。

 この人になら何もかも預けても良いのだと、コックピットの中でのように、絶対の信頼を寄せてしまっているから。

 けれど、自分は必ずその助けにならなくてはいけないのだと言うこともよくわかっている。

 だからもう、何も迷うことはないと、心は決まっている。
 あとは、身体がついていけるかどうか、それだけ。


 遮光カーテンを閉めて、ベッドサイドの淡いオレンジだけを灯して、2人でベッドに潜り込んだ。

 バスローブを剥がしてベッドの外へ放り出し、どちらからともなく抱き合ってキスをする。

 触れ合った唇は、すぐに貪るような口づけに変わった。 
 もつれ合うように抱きしめ合って。

 新鮮な酸素を求めて漸く離れた雪哉の唇は、いつもの淡いピンクではなくてかなり赤みを帯びていて、飲みきれなかった唾液がうっすらと開いた端から少し流れた様子は扇情的過ぎて、目眩がしそうだ。

 その唇の端をぺろっと舐めると、少し飛びかかっていた意識が戻ったように、雪哉は身体を震わせる。

 今まで誰ともこんな接触をしたことがない雪哉にとっては、もうこれだけでも許容量オーバーだが、敬一郎がそれ以上を求めているのももちろんわかっているし、自分ももう、きっと止まれない。

 だからもう、躊躇わずにいて欲しいから、雪哉は敬一郎の首に腕を回して引き寄せた。 

 抱いて下さいと、まだ言葉には出来ない思いを込めて。

「雪哉…」

 けれど、敬一郎はその言葉にならない思いを正しく受け取った。

 自分が雪哉を求めたように、雪哉もまた自分を求めてくれているのだと感じて、いい歳をして涙が滲みそうになる。

「抱くよ?」

 出来るだけ優しく言うと、雪哉はこくんと頷いた。

 横向きに抱きしめて、キスを続けて気を逸らせながら、枕の下から秘密兵器を取り出す。

 信隆お薦めの『初めての子を傷つけないため』のジェルだ。
 信隆曰く、『慣れたらこんなもの要らないんですけどね』…だそうだが、とにかく最初は慎重にと言うレクチャーに、素直に従うことにした。

 手のひらで少し温めたそれを指に纏わせて、雪哉の後ろを探る。

「…んっ」

 キュッと固くなる身体を左腕でしっかり抱きしめて、『大丈夫だから』と囁くと、息をついて力を抜く。

 何度かはその繰り返しだったけれど、敬一郎がその長い指を雪哉の身体の中へそっと潜り込ませると、さすがにきつくしがみついてきて、少し可哀相になったけれど止められるはずもなく。

「…あ、ん…」

 くちゅくちゅと、かなり淫らな音を立てて雪哉の中を探っていると、弱い部分に行き当たったようで、雪哉の身体が大きく震えた。

「どう?気持ち悪い?」
「…だいじょうぶ…」

 それだけ言うのがやっとの様子だけれど、その頬は確かに上気し始めていて、吐き出す息にも艶が混じってきた。

 探る指を増やし、雪哉の身体を柔らかくすることに時間をかけたが、そろそろ敬一郎の方も限界だった。

 よく我慢したと自分を褒めてやりたいくらい暴走したがる身体を押さえ込んでいたけれど、もうだめだと諦めて、雪哉を仰向きに寝かせ、足の間に割り込んで身体を重ねた。

 腰を引き寄せると、目が合った。

 にこ…と微笑まれて、敬一郎は自分が今どれほど幸せなのか、思い知る。  

「雪哉…」

 想いを込めて名を呼んで、張り詰めている自身をあてがって、少し潜り込ませると、雪哉の背が浮いた。

 抱きしめて、キスをする。

 狭い場所をこじ開けられる感覚に、雪哉が喘いだ。

「辛い?」

 心配そうに尋ねられて、大丈夫と伝えたかったけれど、雪哉はもう、声が出なかった。

 辛いか辛くないかと問われたら、辛いに決まっているのだけれど、そんなことよりも、大好きな人と一つになれる喜びの方が遥かに大きくて、今はもうはっきりと、やめて欲しくないと願っている。

 そんな雪哉の様子を気にとめながら、敬一郎はゆっくりと身体を進めて行き、時間をかけて狭い雪哉の中に漸く自身を収めきった。

 まとわりついてくる暖かさに目眩がする。 

 雪哉が少し苦しそうに息をつき、その細い腕を敬一郎の背に回した。

 そして。

「敬一郎さん…」

 それは小さな小さな声だったけれど、耳元で熱い吐息と一緒に囁かれて、敬一郎の身体が一気に熱くなった。

 身体の中を苛む圧迫感が増して、雪哉が小さな声を上げる。

「雪哉…ずっと一緒だ…」

 そう告げて、ゆっくりと動きだす。

 押し込まれて仰け反り、引きずられて何もかも持って行かれそうになり…。

 ベッドが軋む音と粘膜が擦れあう濡れた音に、耳を塞ぎたくなるほど恥ずかしかったのは最初だけだった。

 容赦が無くなってきた動きに、大好きな人が自分の身体で快感を得てくれているのだと思うと、とてつもなく嬉しくて、それを自覚した途端に、雪哉の身体も少しずつ妖しい感覚の断片を見つけ始めた。

 圧迫され、押し広げられている辛さに勝る感覚。

 もしかしたら、これが『気持ちが良い』という感覚なのかと、痺れ始めた頭の中でぼんやりと考える。

「雪哉…っ」

 今まで聞いた事がない、少し切羽詰まったような響きに、雪哉は目を開けようとしたのだけれど、強く突き上げられて何も出来ないままに、意識がふと、遠のいた。

 その瞬間、強く抱きしめられて、身体の中で何かが脈打ったのだけがわかった。

 ホワイトアウトした意識の中で、雪哉は遠い日を思い出す。



 もしかしたら、生まれてきて良かったのかも知れない…と、初めて思ったのは高校へ入った時だった。

 中学の時はまだ、沈んでいた底から浮かんだだけ…の様な感じだったから。

 笑えるようになったのも、高校生になってから。

 それからやっと、本当に生まれてきて良かったと思えたのは、パイロット訓練生として採用が決まった時。

 そして今、焦がれた人の腕の中で思うのは、産んでもらえたことへの感謝。

 どんな事情があって棄てられたのかは知らないけれど、ともかく自分はこの世に来た。

 だから、この人に出会えた。


 ――どこの誰か知らないけれど、僕を敬一郎さんに会わせてくれて、ありがとう…。




 目が開いた。

 覚めたというよりは、開いただけ…の目に映ったのは見慣れない光景。

 身体はしっかりと抱きしめられていて、目の前に広がるのは一面に肌の色。

 近すぎてよくわからない。
 少し頭を動かして、上を見てみる。

 そこには、自分を抱きしめている人の顔。

 いつもはきちんと整えられた髪が無造作に額に落ちていて、見慣れている『落ち着いた大人の男』ではない。

 まだ青年の色を残した無防備な寝顔に、胸がトクンと音を立てる。

 シンガポールから早朝に戻ってきて、午にもならないうちから抱き合って、夕方漸くベッドから出る気になったのは、お互いに空腹を自覚したからだった。

 最後に食事をしたのは午前4時頃。
 漸く凶暴な雲のジャングルから抜けてホッとしたところで朝食になった。

 国際線のクルーミールはビジネスクラスのものが箱詰めにされていて、味は良いけれど、コックピットではいつもゆっくり味わう暇無く流し込んでいる状況なので、もったいないなとは思っている。

 ともかく最後の食事から12時間ほど経っていたわけで、食欲よりもさらに本能的な欲求の方が先行してしまっていたことが可笑しくて、『まるでケモノだったな』なんて幸せそうに笑われて、それさえ嬉しくて。


 入浴して食事をした後、じゃれているうちにまた妖しい雰囲気になってしまい、そこからまたどれくらい時間が経ったのかわからない。

 感覚としては、夜中…くらいだろうか。


 少し目が覚めたから、触ってみたくなった。

 そっと手を伸ばして額にかかった髪を梳いてみる。

 指先に伝わる温もりが嬉しくて、そのまま少し移動して、耳をそっと触ってみる。

 柔らかさが気持ちよくて、離れられなくなった。

 なので、またそのまま指を滑らせて、起こさないように気をつけながら、頬を撫で、そっと唇に触れてみた。

 昨夜はこの唇に何度となく翻弄された。
 途切れることなく愛していると囁いてくれて、キスして、身体中食べられてしまいそうで。

 身体の奥の奥まで浸蝕されて、揺さぶられて、嵐のような時間だったのに、ずっと幸せだった。


 ――キス、してみたいな…。

 そう思ったけれど、身体がしっかり抱えられているので、身動きが出来ない。
 だから、そのまま指先で唇の柔らかさを感じていた…のだが。


「ひゃっ」

 指先がいきなり咥えられた。
 慌てて手を引こうとしたが、手首をがっちりと捕まれてしまった。

「何時かわからないけど、おはよう、雪哉」
「あ、あのっ」

 捕まれたまま、指先を舐められて、雪哉の身体が小さく震えて一気に目覚める。

「あんまり可愛いことすると、また当分ベッドから出られなくなるよ」

 そう言って、指先にキス。
 そして、そのキスは離れることなく手首を辿り、肘から肩へと熱を起こして行く。

「…っ」

 声にはならない喘ぎが漏れて、慌てて口をつぐんだけれど、すでに愛しい人の熱い唇は雪哉の胸先を啄んでいる。

 そうしながらも、指先は背後に回り、長い指がそこをそっと探る。

「大丈夫…かな」

 心配そうに敬一郎が言った。

 初めてなのに何度も受け入れさせてしまったと言う自覚はもちろんあるから、これ以上の無理はさせられないと思いつつも、指先は理性の指令を無視して、もう侵入を始めている。

 雪哉は雪哉で、煽られたままにされる方がよほど辛いと言うことを初体験なのにすっかり覚え込まされてしまって、すでに腰の辺りにうずうずモヤモヤが集まり始めてしまい、身の置き所がない状態で。

「大丈夫…です。だから…」

 だから…の続きはさすがにまだ口に出来なくて、しがみつくことで気持ちを伝えたら、すぐに応えてもらえた。

 力が入ると余計に辛いことはもうわかったけれど、だからといってすんなり力が抜けるはずもなく、それでも優しく抱かれてうっとりしている間にしっかり身体はひとつになってしまう。

 繋がったまま抱き起こされて、雪哉は自分の重みで一番奥まで敬一郎を受け入れてしまい、細い身体を仰け反らせた。

 胡座をかいた上に向かい合って乗せたその身体をしっかりと抱きしめて、ゆるゆる揺すると、小さく途切れがちな声が上がる。

 白い肌が粟立ったのは、身体の中を貫かれている感覚だけでなく、部屋の肌寒さもあるかもしれないと思い、敬一郎は枕元に脱ぎ捨てていた自分のシャツを取り、雪哉に羽織らせる。

 袖を通しても、袖口から指先すら見えず、首回りも胸回りも遥かに大きなシャツの中で華奢な身体が泳いでいて、時折うっすらと開く目はとろんと溶けている。

「可愛い…雪哉…」
「…ん……ふぁ…」

 抱きしめて耳朶を甘噛みすると、小さく喘いで敬一郎の肩に頭をくたりと預けてきた。

 その仕草に身体が一気に熱くなる。

 抱きしめたまま、またベッドに押し倒してそのまま一番奥まで奪い尽くす。

 小さく上がる声が艶めいて、自分こそが雪哉にすべてを奪われているのだと敬一郎は知る。

 揺さぶられながら雪哉は、きっとまたお腹が空くまで頑張ってしまいそうな自分を予感していて、でもその前に、自分が食べられてしまいそうだな…と、少し可笑しくなって、目を閉じた。



【9】へ



祝! お初!!
SS2つの大盤振る舞い!

☆ .。.:*・゜

おまけSS その1
『キャプテンvsコ・パイ 仁義なき戦い』



 シンガポールから帰ってきて、ベタ甘の2日間を過ごした翌日。

 敬一郎は早朝便の乗務に当たっているため、まだ夜も明けない午前4時過ぎに、会社が手配したタクシーでオペレーションセンターに向かった。

 雪哉も同乗させたが、雪哉は出社スタンバイなので、寮の最寄り駅で降ろした。

 寮の前を通るルートで通勤するのはなんら不自然ではないので、雪哉を寮まで送って行きたいのはやまやまだったのだが、諦めた。

 この時間はまだ到着便がないので、あからさまに『プライベートな朝帰り』となるわけで、その現場に機長がいるのを見られたら困る…とはもちろん雪哉の考えであって、敬一郎の気持ちではない。

 敬一郎に隠す気はさっぱりないから。


 業界最大手のフラッグキャリアは数年前まで機長の送り迎えを全て会社手配のタクシーで行っていたが、雪哉たちのエアラインはかなり以前にその制度を止めていて、敬一郎がコ・パイになった頃にはもうなかった。

 機長であろうと公共交通機関での通勤が基本だが、早朝のショウアップでまだ公共交通機関が動いていない時はもちろん迎えがくる。

 当然それは、機長・副操縦士・キャビンクルー問わずだ。

 マイカー通勤も禁止はされていないが、コックピットクルーは出来るだけ控えるようにとの指導がされている。

 万一の事故や渋滞を考えてのことで、つまりは『操縦前に余計な神経を使うな』…と言うことだ。事故や遅延は公共交通機関でもあることだから。

 ただし、機長に限り、公共交通機関のラッシュ時にも迎えが来るが。



 ロッカールームで制服に着替え、気持ちを切り替えたつもりだったが、つい先ほどの雪哉の様子が思い出されて、うっかり口元が緩む。

 タクシーを降りる時、少し恥ずかしそうに、雪哉は言ってくれたのだ。

『行ってらっしゃい。気をつけて』…と。

 気分はもうウキウキの新婚さん――以前新婚さんになった時にはまったく浮かれなかったが――だったが、ディスパッチルーム前で自分を待つ、本日のコ・パイの顔を見て、『そう言えば、今日はこいつだったっけ』…と、思わず目を泳がせてしまった。

 そう、今日国内線3レグを一緒に飛ぶのは、雪哉の親友だ。

 ペーパーで渡されるスケジュール表には基本的に同乗者名が記載されているので、わかっていたのだが、すっかり失念していた。

 単なる親友なら別段問題はないのだが、敬一郎は信隆からすでに聞いている。

 彼が、雪哉がもっとも苦しんでいた時に救ってくれていたことを。
 そして、その想いを。


                    ☆★☆


 定刻に出発した新千歳行きは、昌晴が離陸を担当した。

 そして、オートパイロットに切り替えて一息ついたところで、呼びかけられた。

「キャプテン」
「ああ、良いテイクオフだった。腕上げたな、藤木くん」

 ヨイショではない。本当のことだ。
 雪哉の優秀さは突出しているが、昌晴も『10年にひとりの逸材』と言われただけあって、さすがの度胸と腕前を持っている。

「ありがとうございます」

 いつも快活な昌晴とは少し違う、わずかに固い声。

「少し伺ってもいいですか?」
「どうぞ」
「雪哉、2日間帰ってこなかったんですけど」

 もちろん、社会人寮なので、門限もないし外泊届も必要ないから、どこでなにをしていようが誰に咎められることもない。
 が。

「今まで公休日に丸ごといないってことなかったんです」

 まして外泊など一度もない。
 同期入社してから5年が経ったが一度もない。
 帰る家がないからと言うのを差し引いても一度もない。

 とは言え、親友の外泊をいきなり上司に問いただすと言うのは、事情を知らなければ奇異なことだが、 前日のフライトが誰と一緒だったのかを知った時に、昌晴はほぼ確信していた。

 雪哉が誰と2日間、一緒だったのかを。

 そんな昌晴に、敬一郎は静かに口を開いた。

「雪哉なら、フライトから戻った後、今朝までずっと一緒だったよ。寮へは今朝戻っている。今日は出社スタンバイだから、まだ寮にいるんじゃないかな」

 あっさりと認められて、昌晴が絶句する。

「いずれ雪哉からも話があると思うけど…」 

 脳裏に雪哉を思い浮かべただけで、幸せになり、その幸福感は表情に漏れ出てしまう。

「雪哉にプロポーズしたよ」
「…キャプテン…」

 昌晴の気持ちを知らなければ、『養子縁組』としか言わなかったと思うが、ここは誤魔化してはいけないところだと、正直に告白した。

「雪哉を来栖の籍に入れることも、両親の了解を得ている」

「…それ、本当ですか?」

「ああ、どうやって話をつけたかは、家庭的事情があるので割愛させてもらうけれど、私は雪哉を幸せにしてやりたいし、家族になりたいと願って、雪哉に一緒になろうと言った」 

 コントロールからの交信で、一時会話が途切れる。
 高度のリクエストを許可するとの交信だ。

 許可に従い、速やかに高度を上げる。

 やがて、リクエストした高度で水平飛行に入ったところで、再び敬一郎が口を開いた。

「私は雪哉を一生護っていくつもりだし、その努力も怠らないと誓えるが、人として至らない部分もまだまだ多い。今回の事も、君や都築がいてくれたからこそだと感謝している。雪哉は君をとても頼りにしているようだし、出来ればこれからも雪哉の力になってやってくれるとありがたいと思っているんだが」

 言われて昌晴が憮然とする。

「頼まれなくても了解です」
「頼りにしてるよ」

 いつもと同じ、穏やかな口調で言われ、昌晴がムスッと口を尖らせた。

「キャプテンって…」
「ん?」
「めちゃくちゃ大人でカッコ良くて、ちょっとムカつきますっ」

 ヤケクソ気味な言葉に、敬一郎が一瞬目を丸くしてから大笑いを始めた。

「藤木くんだって負けてないよ。12年後には、今の私よりずっと格好良い大人で、頼りになる機長になっているさ」
「努力しますっ」
「期待してるよ」
「あー!やっぱり大人の余裕でムカつく〜!」

 ヘッドセットがなければ頭を掻きむしっているところだ。

「ちなみにですけど」

 ピタっと視線を座らせて、昌晴が低く言った。

「なに?」
「もしかして、一目惚れってヤツですか?」
「よくわかったね。そのとおり、一目惚れの片想いだったよ」
「片想いじゃなかったと思うんですけどっ」

 間髪入れずに否定するのは、もう完全にやけくそモードだからだ。

「ああ、雪哉はそんな風に言ってくれたな。嬉しかったよ。私にもう少し意気地があれば、もっと早くこうなっていたかなとも思うんだが、なにしろ一回りも上のバツイチなんでね、臆病にもなっていたし、とても受け入れてもらえるとは思えなかったんだよ」

 とにかく何をどうつつかれても、今の来栖敬一郎は最強だ。
 幸せいっぱいなのだから。

「キャプテンって、なんでいちいちそんなにいい男なんですかっ?」

「そりゃあ、君たちより一回りも上だし、バツイチだし、一応それなりに色々な経験もしているし、何より恋をしたからね」

 ふふっ…と軽くあしらわれた上に壮絶に惚気られ、いつか絶対、この人よりいい男になってみせると昌晴は固く決意したのだった。


おしまい


☆ .。.:*・゜

おまけSS その2
『ゆっきーのスマホに着信アリ』



 羽田空港は24時間空港だ。
 僕が勤務するエアラインも、24時間飛んでいる。

 国際線出発は、0時15分発のロサンジェルス行きから23時45分のシンガポール行きまで1日だいたい40便。

 国際線到着は、5時20分着のロサンジェルス便から22時40分着のサンフランシスコ便まで同じく40便。

 国内線出発は、6時15分発の伊丹行きから22時5分の福岡行きまで、1日だいたい240便。

 国内線到着は、7時45分着の関空便から23時30分着の新千歳便まで同じく240便。

 国内線・国際線どちらも、繁忙期には増便になるのでこの限りでは無い。

 国際線はすべて羽田ベースの便だから、僕たち羽田のクルーが飛んでいるけれど(成田は成田ベースのクルーがいる)、国内線は、福岡・関空・伊丹のそれぞれのベースからの便も多いから、すべての便に羽田のクルーが乗ってるわけではない。

 それでも24時間飛んでいるから、運航に関するすべての職種が必ず稼働している。

 だから、僕が住んでいる寮の灯りも消えることはない。

 寮の住人のうち、コ・パイは1割くらいだけれど、他にはキャビンクルーやグランドスタッフ、オペレーション、グランドハンドリング、メカニック…といろんな職種の人がいて、とにかく飛行機が飛ぶ為には本当にたくさんの人が関わっていて、僕たちコ・パイと同じように、一日中、誰かが頑張っている。

 定時に出て定時に帰れるのはパイロット訓練生と客室訓練生くらいかな。

 客室訓練生は入社から半年くらいでクルーに昇格して、不規則勤務に突入する。
 でも、採用が年数回に別れているから、訓練生はいつでもいる。

 パイロット訓練生は、航大卒の訓練生だと入社から昇格までの1年数ヶ月のほとんどをここで過ごすし、採用が年4回に分かれているから、どの時期でも必ずいる。

 自社養成所の訓練生は年に1回の採用で、平均3年以上に及ぶ訓練期間のうち、やっぱり通算で1年くらいはここにいる。
 

 僕は入社した時から寮にいて、1年間地上職に就いた後、2年目に養成所に入って訓練を始めた。

 最初の3ヶ月は勉強ばかり。
 最初に必要な国家資格を全て取る。

 それが終わったらアメリカへ渡り、1年半、小型機の操縦を学ぶ。
 初めて教官と飛んだ時の爽快感と、初めてひとりで飛んだ時の緊張感は今でも忘れられない。

 無事アメリカの訓練を乗り切ったら――この間にフェイル(不合格)する訓練生が毎年数人はいるけれど、幸い僕の同期は全員通った――帰国して、半年間のフライトシミュレーター訓練を受ける。

 で、その半年間はまた寮に入って、それに合格したら今度は実機――本物の旅客機で訓練するためにオーストラリアへ行く。
 これは1ヶ月と、意外と短い。
 ひたすらタッチアンドゴーを繰り返して離着陸の訓練だ。

 そしてこの実機訓練に合格できたら、運航便での路線訓練に出るために、また羽田へ戻ってくる。

 路線訓練期間はうちのエアラインの場合はだいたい5ヶ月程度。半年を超えることも少なくない。

 僕は3ヶ月で、昌晴は4ヶ月でチェックアウトできて、副操縦士になった。

 僕がキャプテン――敬一郎さんに初めて会ったのはこの頃だ。

 入社から数えると3年9ヶ月、訓練開始からは2年9ヶ月が経っていた。昌晴は通算で2年10ヶ月。

 ちなみに3年未満で副操縦士に昇格したのは、僕と昌晴が初めてらしい。

 僕たちは自社養成所出身だけど、敬一郎さんは航大出身。

 大学を卒業してから航大へ行って、航大の2年間と入社してからの訓練――フライトシミュレーター訓練から始まる――を合わせて、副操縦士に昇格するまでは、3年1ヶ月だったそうだ。

 その時年齢は25歳11ヶ月。
 僕は25歳10ヶ月で昇格。

 僕が2月生まれで敬一郎さんが6月生まれだから、年齢を比べても仕方ないんだけれど、26歳未満で昇格できることは、今の訓練体制になってからは稀だそうだ。

 僕がもし航大出身だったら、25歳未満で昇格の新記録だったかもなって、多くのキャプテン達に言われたけど――航大出身だと地上職はスキップするから――僕にはこの選択肢しかなかったし、地上職を経験して得たことと多くの人と出会いは僕の財産だから、これで良かったって本当に思ってる。

 パイロットの割合は、養成所出身と航大出身が半分ずつくらいって聞いた。

 でも、パイロットになってしまえば、それまでの道がどうだったかはあんまり関係がなかった。
 だって、学ぶ場所が違うだけで、学ぶことは同じだから。

『飛んでしまえばみんな仲間だよ』

 そう教えてくれたのは、初めて路線訓練に出た時の教官キャプテン。

 対外的には、機長と副操縦士の関係は『上司と部下』だし、機内での命令系統の上下関係はこれでもかって言うくらいはっきりしているけれど、飛んでいる時はみんな『仲間』だから、お互いを尊重し合い、信頼し合わないといけないと教わった。

 そして、このエアラインではキャプテンたちがみんな、それを率先して実行しているから、コ・パイやキャビンクルーもその姿を見て、自分の言動や振る舞いがどう在るべきなのかを学んでいる。

 僕は、ここで飛ぶことが出来て本当に幸せだと思っている。
 大好きな人にも…出会えて…。



 まだ真っ暗な午前4時過ぎ。 

 駅前でタクシーを降りて、ターミナルに向かうキャプテン…敬一郎さんを見送って、寮の灯りを見た途端に僕は思い出した。

 昌晴に、何にも言わずに2日間も出かけてしまったってことを。

 僕がシンガポールへ行ってる間、昌晴は公休日で、今日はドメ3連発の3日目のはず。

 ちゃんと、キャプテンの家にいることを連絡しておこうと思ってたのに、すっかり忘れてた。

 時間の感覚すらあやふやになるような2日間だったから…って、思い出すだけで恥ずかしい。

 それにしても、昌晴、心配してるだろうな。
 何時にショウアップだろ…。

 僕は立ち止まり、スマホを取りだして昌晴のスケジュールを確認した。

 Web上のスケジュールは基本的に非公開なんだけど、自分が許可した相手は閲覧できるようになっている。
 ただし、便名と時刻と行き先だけで、誰と組むかはここには載ってない。

 ええと、この便名…つい最近聞いたような…。
 や、最近どころじゃなくて…。

 ってか、この時間の便なら、もう寮を出てるはずだ。

 僕は今度はキャプテン…敬一郎さんのスケジュールを確認した。

 昨日初めて、お互いのスケジュールの閲覧が出来るようにしたから、これからはいつでも、何処を飛んでいるのかわかるんだ。

 …って、この便名…昌晴と一緒じゃん……。

 ええと、ええと、もしかして、ちょっと、マズい?

 や、でも今さらどうしようもないし…。
 とりあえず、部屋に戻って言い訳考えないと…。



 鍵を開けて、灯りを点ける。

 シンガポールへ発った4日前とまったく変わらない、ひんやりとした僕の部屋の中。

 でも、僕はと言えば、気持ちも身体も『これから』も、これ以上ないほど変わってしまっていて、この4日間の事が改めて夢のように思えて不思議な気持ちがしている。

 本当に僕は、キャプテンの籍に入るんだろうか。

 そうは言われたけれど、全然実感わかないし、キャプテンのお家のこと考えたら、無茶な気がする…。

 いや、物思いに耽ってる場合じゃない。
 そこはあとでじっくり考えるとして、ともかく今は2日間行方不明の言い訳考えないと…。

 でも、どうしよう…今から昌晴にメールしても、見るのは多分、今日のフライトが終わってから。

 ヘタしたら、その前にオペセンで鉢合わせしちゃうかも。

 でも、一応朝早くにメールしたって事実を作っておくべきか…と、僕はスマホのメールを開いて、何て書こうかとまた悩み…。


 僕のアドレス帳の中に、キャプテンのものはあんまりない。
 僕が属するチームの主席機長と、路線訓練の時の教官機長、あとは家族ぐるみで親しくしてもらっている牛島機長くらい。

 他のキャプテンはメールボックスでやりとりが完了しちゃうし、実を言うとキャプテン…ええと、敬一郎さんのアドレスも昨日教えてもらったばかり。

 反対に、何故かキャビンクルーは多い。
 都築さんや野崎さんは当然としても、かなり多いと思う。

 みんな、そんなに連絡してくるわけじゃないのに、何故か交換してるんだ。面白いことに。


 そんな僕たちクルーにとってスマホや携帯の電話機能は必須アイテム。

 自宅スタンバイでの呼び出しは基本的に携帯電話。
 それで連絡が取れなければ、自宅固定電話が鳴るわけだけど、それでも捕まらなかったらスタンバイ起用は次のクルーに移り、呼び出しに出なかったクルーは『始末書』。

 1年に2回やっちゃうと『処分』の対象になって、3回になると査定に影響して昇進に関わってしまう。

 まあ、そんな人はまずいないけど。

 出社スタンバイでも、スタンバイルームにいなければ――ターミナル内なら食事に出たりしてもいいから――携帯で呼び出される。

 だからみんな、公休日以外は携帯電話は肌身離さず。


 携帯は私物だけど、会社からはタブレットを支給されてる。
 これはあくまでも運航に関わるデータを管理するため。

 これのおかげで重いマニュアル類を持って歩かなくて済んでる。更新されたデータの差し替えも瞬時だし。

 ベテランキャプテンたちは、『お前たちは便利な時代にパイロットになって幸せだなあ』って言うけど、確かにそうかも。

 で、多数のクルーは会社支給の他に、個人でタブレットやノートパソコンを持って歩いてて、情報の収集や連絡なんかに使ってる。

 つまり、タブレット・ノートパソコン(もしくはタブレット)・スマホの3台持ち。
 特にパイロットはほとんどそう。

 個人の持ち物は、僕たちはロッカールームで制服に着替えた段階で電源を切る。

 国際線でステイになったら電源入れるけど、国内線だったら1日のフライトが全部終わるまで電源切りっぱなしの事が多い。

 用があればメールチェックくらいはするけど、そんな時間はあんまりない。

 …って、現実逃避のように、次々とどうでもいいことにばかり頭がいってて纏まんない。

 …寝不足かな?

 や、そんなことはない。
 キャプテンが早朝ショウアップだから、昨夜はちゃんと8時前には寝た。

 普段使ってない部分の体力使ったせいか、ぐっすり寝ちゃったし……って、抱き合ったままだったけど。

 いやいや、やっぱり寝不足に違いない。

 今日は出社スタンバイで、9時には制服でスタンバイルームにいなきゃいけないし、その前に運航データチェックもやっとかなきゃだし、身体は大丈夫みたいだけど、取りあえず、少し寝よ。



 
 午前8時45分。 

 先にデータチェックして、制服に着替えてスタンバイルームに向かう前。

 結局僕は昌晴に『言い訳メール』を送ることが出来なくて、もうこうなったら、腹を括って男らしく(?)顔を見て言い訳しようと決めて、スマホを胸ポケットにしまおうとした時、メールが着信した。

 …キャプテンだ。

『新千歳に着いたよ。身体は大丈夫?』

 嬉しいけれど、身体の心配までされちゃって、恥ずかしい。

 続きがあった。

『藤木くんが心配していたから、報告だけはしておいた。帰ったらゆっくり話そう』

 …やっぱり心配してくれてたんだ。

 …あれ?そう言えば、なんでメールがなかったんだろ?
 寮に戻らなかったら、『どこにいるんだ?』くらいメールして来そうなのに。
 今までだって、ちょっと寄り道して遅くなっただけでもメールしてきたのに。

 と、思ったところでもう一通着信した。

 …昌晴だ。

『ちゃんと帰って来たそうだな。俺とキャプテン、15時に戻るから、首洗って待ってろ』

 …ええっと。これは何て返事すれば…。
 ってか、キャプテン、いったいなんの報告を…。
 首ってどこで洗えばいいんだろ…って、そんな話じゃなくて。


 出社スタンバイは、『制服でそこに居さえすれば』基本的に何をやっててもいい。

 勉強してる人が多いけど、小説読んだり、パソコンで何やらやってる人もいる。

 もちろん、私用でメールしてても全然OK。
 すぐに飛べる状態で待機する事自体が仕事だから。


 僕は、スタンバイルームで2人になんて返事するか、悶々と考えた。

 取りあえずキャプテンには『お疲れ様です。僕は元気です。お帰りになるのを待ってます』と。

 昌晴には…。

『心配かけてごめん。いろいろと言い訳を考えたんだけど、顔見てちゃんと話すから』…と、優等生的返事を。


 いっそのことスタンバイ起用になって、2人が帰って来る頃に飛び立てたりしたら…なんて思ったけど、こういう時に限って1日は平和に過ぎて行くんだな…。はあ…。


はっぴいはっぴいv


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