Dead Head

前編





 それは、9月の終わり、折しも超大型台風が列島縦断コースで接近中という、全国の航空関係者全員が気を揉んでいるに違いない、とある日に起こった不測の事態だった。

 不測の事態というのは、得てしてスタンバイ中に起こる。

 いや、不測の事態に備えるのが『スタンバイ』なのだが、この日の『不測の事態』は少々珍しい出来事だった。



「え? 不具合でフェリー(空輸/回送)なんですか?」

 雪哉が大きな瞳を見開いて、小首を傾げる。

「だとさ」

 そんな雪哉の頭を慣れた手つきでパフパフ叩くのは、機長の杉野。

「珍しいこともあるもんですね。もしかして台風にも関係ありですか?」

「だろうな。那覇の閉鎖が解除になると予測してたのに、解除前に九州が全滅で、もたもたしてたら広島や松山の辺りもヤバくなる。それだけならまだなんとかなるんだろうが、そこへ『関空で不具合』ってイレギュラー発生で、機材繰りがヤバイことになってるらしい。オペレーションが殺気立ってるってさ」


 出社して、制服に着替えてすぐに飛べる状態で待機する『出社スタンバイ』中、雪哉はセットで待機していた機長の杉野と呼び出しを受けた。

 スタンバイ中に呼ばれること自体はレアなことではない。

 特にインフルエンザの流行時期などは、体調不良のパイロットに代わって乗務するなどは日常茶飯事に近い状態になることもあるし、市販の風邪薬を飲んだだけでも乗務不可となるから軽い風邪でも交代になり得るし、機材が変われば、その機のライセンスをもつパイロットでないと乗務できないので、交代となる。

 が、そういうときに呼ばれるのは自宅スタンバイのパイロットだ。

 制服に着替えてすぐに稼働できる出社スタンバイのパイロットは、『今すぐ』飛ばなくてはいけないときに残してあるからだ。

 その、『今すぐ』の声が雪哉にかかった。


「え、不具合、関空ですか?」

 もしかして…と、雪哉は思った。
 この時間だと、敬一郎のシップかもしれない。

「そう。雪哉のパパの折り返し便だ。ハイドロ(油圧)の不具合らしい」
「うわ」

 やっぱりそうか…と、雪哉は不安になる。

「フライト中は大丈夫だったんでしょうか?」

「ああ、フライト自体に影響はなかったらしい。不具合も、関空でナイトステイなら問題無かったみたいなんだが、折り返しだからな。そこへ持ってきて、沖縄と九州から来るはずの便が足留めで全滅だから、どうしようもなかったってことだ」

 そういうことだったんですか…と、雪哉は応えて、そういえば…と続けた。

「僕、フェリー初めてです」

「ああ、経費節減で極力減らしてるからなあ。特に不具合の代替機をフェリーで飛ばすってのは滅多にないな」

「ですよね」

 空っぽの旅客機を飛ばすのは、訓練生だった頃の実機訓練以来だ。
 乗務を始めてしまえば、訓練はすべてフライトシミュレーターになるから。

「…ってか、その『雪哉のパパ』ってのやめて下さいよ〜」
「遅っ。」

 反応鈍いな、雪哉…なんて失礼なことを言いながら、またしても雪哉の頭をパフパフ叩く杉野は、敬一郎の同期の機長だ。

 航大時代からの自他共に認める『良きライバル』で、機長昇格も半年差だったと聞いている。

 2人はプライベートでも気の置けない間柄なので、雪哉は杉野と乗務するのを楽しみにしている。

 敬一郎の、航大やコ・パイ時代の話が聞けるからだ。


 



 今日は運航便ではなく、フェリーと呼ばれる回送便のフライトだ。

 不具合を起こした機の代替機を関空まで運ぶことになった。

 普通なら、機材を変えてでも現地から飛ばすのだが、台風の影響があって、関空に飛べる機材がない状況になってしまったのだ。

 それは、杉野が言うとおり、『滅多に起きない』ことだ。
 通常なら、『フェリー』ではなく『欠航』を選ぶのだ。航空会社は。


 乗客がいてもいなくても、フライト前には当然ブリーフィングがあって、今日は台風の接近で風の影響が出始めているから、特に気象関係は念入りな打ち合わせをした。

 ただ、キャビンクルーは乗らないので、そのあたりのブリーフィングがないのはいつにないことで、雪哉は少しばかりこの状況を楽しんでいた。

 しかも帰りは、折り返しのこの機にデッドヘッド(Dead Head/乗務以外の目的での便乗/業務移動)することになっている。

 つまり、敬一郎の機に『乗客』として乗れるのだ。
 こんなことは、それこそ滅多にない。


「雪哉、お前、結構楽しんでるだろ?」
「え? わかりますか?」

 順調にオートパイロットに入ったところで、杉野が笑いながらまた雪哉の頭をパフパフしてくる。

 他の機長同様に雪哉を可愛がっている杉野だが、実はひとつの疑問を抱いていた。

 敬一郎と雪哉の『仲』だ。

 3ヶ月ほど前のこと。
 敬一郎が雪哉を養子にしたときには驚いた。

 会社への報告前に、本人から聞かされたのは、『結婚しても子供が出来ないってわかったから、雪哉を養子にすることにした』という、まるで『真理が導けない三段論法』のような、筋が通っているようでまるで通ってない話だった。

 突っ込んで聞いてみれば、雪哉には親がいないということで、それならな…と、概ね納得はできたのだが。

 いや、納得はしたのだが、どうも『それ以来』の2人の様子を近くで見ていると、『ほんとにそれだけか?』という気がしてならないと、杉野は常々感じていた。

 噂好きのキャビンクルーたちの話に乗っかるつもりはないが、彼女たちよりも自分は2人には近い存在だと自負もしているので、彼らが深い信頼関係で結ばれているようなのは十分感じているし、それはとても幸せなことだろうとも思っている。

 そう、『幸せいっぱい』なのだ。この2人は。

 というわけで、杉野の疑問とはズバリ、『こいつら、もしかして実質結婚じゃないのか?』…ということだ。


 だが、そう思う端から否定材料になっているのは、杉野が知っている今までの『来栖敬一郎の実態』だ。

 これだけの面構えをしながら、誠実すぎて、ある意味『面白くない』この男は、恋愛関係にはやはり相当疎かった。

 大学時代にはそれなりに彼女がいたという話も聞いてはいたが、そもそも『そういうこと』に興味もないようで、だからといって同性が対象なのかと言えば、そんな様子も微塵もなく、やっぱり『そういうこと全般』に興味がなさそうで、とどのつまり、来栖敬一郎は飛ぶことしか考えていないヤツ…だったのだ。

 なので、『あの来栖』が『そう』なるとはやっぱりどうしても思えなくて、2人の仲の実態がつかめないまま悶々としていたというわけだ。

 ただ、確かめたからといって、どうということもない。

 それならそれで、見守っていければいいなと――時々はおちょくって遊びたいが――思っている程度で。



 キャビンクルーも乗客もいないフライトは、『飛んで、降りる』だけだ。
 
 途中、キャビンからの連絡もないし、機内アナウンスもいらない。当然キャビンでトラブルが起こることもない。

 乗客がいれば極力揺らさないようにしなくてはいけないが、その気遣いもいらない。

 かと言って積乱雲に突っ込んでいいはずはないが、燃費最優先で飛べるのはある意味楽だ。

 特に『代替機のフェリー』などという、経営側が最も嫌がる『無駄遣い』の場合は、『そちら側』への配慮も発生するから。


 短いオートパイロット時間だが、2人は少しばかりリラックスして、いつものように話を弾ませていた。

 …のだが。

「雪哉さあ、来栖が離婚したときの話ってどれくらい聞いてる?」

 思わぬ内容の話が出てきて、雪哉は少し、驚いた。

 今まで杉野が話してくれたのは、かなり脚色はされているだろうけれど、楽しめるエピソードばかりだったから。

「ええと、あんまり聞いたことないんです」

 雪哉の返事に『そうだろうなあ…』と呟いて、杉野は少し遠い目になった。

「あいつがたった半年で別れた時にさ、俺、こいつなにやってんだって思ったわけ。嫁のひとりもコントロール出来なくてどうよ、この朴念仁め…とかね」

 言葉は乱暴だが、実際は敬一郎を案じたのだろうことは、雪哉には何となくわかった。

「ま、実際それ本人にも言ったけどさ」
「なんて返ってきました?」
「俺はお前みたいにそっちの経験は積んでないんでな…ってさ」

 あははと笑い、『こいつ、自覚してたんだって驚いたけどな』と続けて、今度はため息をついた。

 その様子に雪哉は、『キャプテン、いつもと違うかも』と、少しばかり不安になる。

「ま、かえって半年ってのは傷も浅くて済んだんじゃねえかなあ。口には出さなかったけど、ヤツも半年間かなりキツかったみたいだし」

「…そうなんですか?」

 その頃の事を敬一郎が話した事はないし、雪哉も敢えて聞こうとは思っていなかったから、今さらながら、敬一郎が前回のことでかなりの傷を負ったのではないかと胸が痛んだ。

「オペレーションのヤツに聞いたんだけど、フライトスケジュールに口挟むような嫁だったらしいし、あのまま結婚生活続けてたら、多分機長昇格も遅れてたんじゃないかな。機長昇格候補に指名される目前の頃だったけど、家で勉強できないって、1回だけ口に出してぼやきやがったからな。あいつが口に出すなんて、よほどのことがあったんだと思う」

 雪哉は言葉も無く、口を引き結んで頷くことで同意した。

 普段、敬一郎の口からネガティブなことを聞く事はない。
 無理をしているわけではなく、きっと精神が柔軟なのだろうと雪哉は感じている。

 そして、自分はその柔らかさにいつも包まれて癒されて……つまり、幸せだというこだ。


「でもさ…今になって来栖の気持ちがわかるようになってきたんだな、これが」

 ポロッと零してしまったのは、まさに本音。

「どうかされたんですか?」

 雪哉もそれを感じ取る。

「ここだけの話なんだけどさ…」
「あ、はい」

「俺、今、離婚調停中なわけよ」
「…ええっ?! そうだったんですかっ?!」

 目を見開く雪哉に、杉野は大きなため息をついて応える。

「結婚して7年だけどさ、どっちかが浮気したとか、好きな人が出来たとか、DVだとか、そんな解り易い理由があるわけじゃないんだ。でもさ、ただなんとなく、7年間のすれ違いが埋められなくなってきた…なんて言われても、困るんだなあ」

「…ですよね」

 まともな恋愛経験が敬一郎としかない雪哉にとって、『7年間のすれ違い』というのはどうにも理解し難い。

 それはきっと、経験してみないとわからないのだろうと思うのだけれど、絶対経験したくはないから、理解できなくても仕方ないかと結論づける。


「そう思われてるのに気づかなかった俺も俺だけどさ、もうちょっと口にして伝えてくれてもよかったんじゃねえかなあ…ってのは、多分、俺の甘えなんだろうなあ」

「…や、そんなことないと、思いますよ。やっぱり言葉にしないと伝わらないこと、多いと思うんですけど」

「うー、雪哉は優しいねえ」

 またパフパフされてしまったが、雪哉こそ、杉野をパフパフと慰めたい気分になった。

 常は明るく快活なキャプテンが、こんな様子になるなんて、よほど堪えているに違いないと。


「ま、どうしても別れたいっていうもんだから、こっちとしては、子供に会わせてもらえさえすればもういいやって感じになったんだ。息子が大学出るまでは養育費も学費もちゃんとするつもりだし」

 家庭をもち、責任を負うというのはこういうものなんだなあ…と、雪哉は今さらながらに思う。

 甘やかされるばかりの現状ではいけないな…とも。ただ、それを敬一郎に言うと、『雪哉を甘やかす楽しみを取り上げないでくれ』と言われてしまうに違いないけれど。


「ところが、向こうの言うとおりに丸呑みしてきたら、今になって『そんなにいらねーだろっ』ってくらい慰謝料要求してきやがってさー」

「…そ、それは、大変です、ね」

 どんどんディープになっていく話に、雪哉はかなりお手上げ状態だ。

「だろ?」

「でも、僕、民法のことよくわかんないですけど…」

「あれ? 雪哉は東大の文Tじゃねえの?」

「入ったのは文Tですけど、法学部じゃないんですよ。教養学部へ行きました…じゃなくて、ええと、慰謝料の請求には、やっぱりそれなりの理由がいるんじゃないですか? つまり…」

「俺にそれなりの非があるって認定されなきゃ…だよな」

「そう、それです。でも、僕にはキャプテンに非があるようには思えません。いつも、ご家族のこと大切にされてるなあって思ってましたし…」

 杉野機長がいつも胸ポケットに妻子の写真を入れている…というのは、一緒に乗務するコ・パイはみんな大概知っている。

「だろー?! ヨメと息子を養うのに必死で働いてきたのになあ…」

 はあ…と、いつもより少しは軽いはず――空っぽではなくて、ある程度の錘と便乗貨物は積んでいるが――の機体が重くなるようなため息をどんよりと落とし、次に出た言葉は、ついうっかりと『心の声』だった。

「ああ、俺マジで来栖が羨ましい…。こんなに可愛くて優しくて、しかも仕事に理解があるヨメがもらえて…」

 雪哉がつう…っと『ジト目』になる。

「あのー、僕は一応息子なんですが」
「あ。そうだっけか」
「そうですよ」

 けれど、ふふっ、と漏らす小さな笑いには余裕がある。
 そんな『からかい』は割とあるからだ。

「んじゃ、家ではあいつのこと何て呼んでるわけ?」
「ええと、名前で呼んでます」
「パパ…じゃなくて?」

 言われて雪哉は声を上げて笑い出した。

「一回りしか違わないのにパパは可哀相ですよ〜」
「…だよな」

 確かにそうだ。たった一回り下にパパと言われるのは合点がいかない。


「じゃあさ、雪哉に交際を申し込もうと思ったら、やっぱり『お父様』にお願いしなきゃいけないわけだな」

 自分がフリーになったあかつきには、雪哉にターゲットロックオン!…しようと思ったわけではないのだが。今のところは。

 けれど雪哉はばっさりと斬ってくれた。

「申し込んでも無駄だと思いますよ」
「それはまたどうして」
「いつも『うちの可愛い息子は誰にもやらん』って言ってますから」

 えへ…と笑う雪哉は、可愛いさレベル最強。

 この愛されっぷりはやっぱり、事実上『アレ』なのか…と、いつになくガックリきてしまった杉野は、ちょっとふて腐れて雪哉に言う。 

「な、雪哉」
「はい」

「今の話、来栖の耳にもさりげなく入れといてくれるか?」
「あ、はい、わかりました」

「で、今度慰めてって言っといて」
「は、はいっ」

「ついでにランディングも頼む…って言いたいとこだけど…」
「今日は無理ですよ。コ・パイが降りていい風速超えてます」

「だよな」
「です。」

「んじゃ、パパがお待ちかねだからとっとと降りたいとこだが…」

「…キャプテン、今カンパニーから『九州からのダイバートで関空超混雑』って…」

「マジかよ…」

 勘弁してくれよ…と呟く杉野をチラッと見て、雪哉は管制と交信する。

 案の定、着陸順は相当後ろだった。

 今頃、この機の到着を敬一郎が空を見上げて待っているだろうと思うといても立ってもいられないが、ともかく焦りは禁物だと雪哉は気持ちを引き締めた。




 結局着陸順番待ちで20分もロスし、予定通りに降りられていたら、折り返し便の関空出発は30分遅れで済んだはずだったのに、それどころか『どれくらい遅れるのかわからない』状況になってしまった。

 それもこれも台風の所為だが、『台風』という大義名分があると、通常の『機材変更のため遅れ』という案内よりも苦情が少なくなるのは助かるし、他社の羽田行きもすべて満席だから、キャンセルもないだろうと思われる。

 しかし、だからこそ一刻でも早く出発できるようにしないといけないのだが。

 
 漸くスポットにたどり着いた時、敬一郎とコ・パイの中野――いつも雪哉をからかって遊んでいる4年先輩だ――は、すでにゲートでスタンバイしていて、交代する時にも『お疲れさま』という言葉を交わすことしか出来ないほどの慌ただしさだった。

 ただ、敬一郎も中野も、雪哉の頭を撫でて行くことだけは忘れなかったが。


 雪哉と杉野はここからは『乗客』だ。

 コックピットから出てすぐに、シャツの上からウィンドブレーカーを羽織って、ボーディングブリッジを渡って一旦ゲートの外へ出る。

 ガラス越しに見るシップは出発の準備でおおわらわだ。

 ボーディングブリッジのサイドドアが開いて、地上への階段を敬一郎が下りていく。

 ウォーク・アラウンド・チェックだ。

 出発前には必ず行われる機の外部点検で、整備担当がもちろん念入りに行っているのだが、必ずコックピットクルーも行うことになっている。

 敬一郎がアラウンド・チェックをするのを見るのは初めてだ。

 通常は機長がアラウンドチェックをしている間にコ・パイはコックピットで各種データの入力に忙しい。

 最初からコ・パイが操縦することに決まっている時は、その反対になる場合が多い。

 つまり、同じフライトになっても、雪哉は敬一郎がアラウンド・チェックをしている時にはコックピットでデータの入力に追われているから、その姿を見ることはできないし、自分がアラウンド・チェックに行く時は敬一郎はコックピットでデータを入力しているというわけだ。


 ――かっこいいなあ…。

 思わずうっとり見入ってしまうと、横で杉野が笑い出す。

「来栖の親バカぶりも大概だが、雪哉のファザコンも相当だな」

 そう言ってまた頭をパフパフするのだが、雪哉の生い立ち――あくまでも『生後すぐの死別』だが――を知っているから、こうやってからかう振りで『2人の親子関係』を応援するのは杉野ばかりではない。

 そして、その気持ちを雪哉もありがたく受け取っているという状況だ。

「出来たての新米親子ですから」

 ニコッと笑う雪哉はやっぱり最強で、そんな雪哉をもう一度パフパフした後、杉野は『搭乗始まったら起こしてくれ』と言い置いて椅子で仮眠を始めてしまった。

 搭載も給油も整備も急ピッチだが、搭乗開始までにはまだもう少し時間がかかるだろう。

 雪哉は、『当然』コックピットを眺めている。

 コックピットの窓は狭くて、中の様子は容易には伺えないが、アラウンド・チェックから戻った敬一郎が忙しく各種のチェックをしているのが何となく見える。


 ――お父さんの職場見学…ってこんな感じなのかな。…って言ったら、敬一郎さん、むくれちゃいそうだけど。

 思わずふふっ…と笑いを漏らした時、雪哉に掛かる声があった。

「ねえきみ、ひとり?」

 見れば真横に男がいる。優しげで、大学生風のちょっと自信ありげなイケメンだ。

「あ、いえ上司と一緒です」
「え〜、なんだ残念〜」

 去って行く男に、雪哉は『ひとりだったら何だったんだろ?』…と、小首を傾げてまた視線をコックピットに戻そうとすると、すぐ側に雪哉と同じように熱心に出発準備を見ている青年がいた。 

 きっと『飛行機大好き』なんだろうな…と、嬉しくなって、今度こそコックピットに視線を戻そうとすると…。


「きみ、どこまで行くの?」

 また別の男が声を掛けてきた。
 今度はスーツのイケメンだ。

 おそらく雪哉とたいして変わらない年齢だろうに、身につけているものはかなり高級そうだ。
 言ってみれば『イタリア系伊達男』と言った感じだ。
 ちょっと若すぎて青臭いのが残念だが。

「羽田です」

 聞かれたので真正直に答えれば、高級風イタリア男はさも楽しそうに笑った。

「あはは、可愛いこと言うなあ。そうじゃなくて、都内のどこ?ってこと」
「あ、ええと、羽田で仕事です」

 だから羽田だって言ってるじゃん!…と言いたいところだが、そこをグッと我慢して、雪哉はニコッと微笑む。

「あれ? 社会人なんだ?」
「そうですよ」

 よく言われることだから、全く気にしていない。

『CAさんかと思った』『学生かと思った』『女の子かと思った』はもう、雪哉の中では聞き流すことにしている三大セリフだ。

 さすがに最近は『女の子』は少なくなってきたような気がするけれど絶滅はしていない。

「羽田で何の仕事してるの?」

 しつこいなあと思いつつ、さりとて一応『お客様』なので無碍にもできず、雪哉はコックピットから目を離さないままで答える。

「空港関係です」  
「そうか、飛行機好きなんだ。男の子っぽくて可愛いな」

 何かブツブツ言っているようだが、これには答える必要はないだろうと、雪哉は無視を決め込んだ。

「ね、席はどこ? 僕は『5H』だけど」

 プレミアムシートだ。
 さり気なくヤングエグゼクティブをアピールしているらしい。

「『42F』です」

 国内線のデッドヘッドは最後尾の中央列と大概決まっている。
 満席表示でも、デッドヘッドに備えてあらかじめ確保されてるいるのが常で、そこそこの航空マニアなら、席と出で立ち――会社支給なのに社名も何も入ってない、ただのダサいウィンドブレーカーだ――を見れば、デッドヘッドの乗員だとわかるらしいのだが。

 ちなみにパイロットの国際線のデッドヘッドはビジネスクラスだ。
 機長だとファーストクラスのこともある。

 雪哉はまだ国際線のデッドヘッドを経験していないので、ビジネスクラスは未体験ゾーンだ。

 乗ってみたい気もするが、慣れてないからいたたまれなくなるんじゃないかなあ…と、今から心配しても仕方がないことに気を揉んだりもしている。ちなみにアッパークラスが満席なら当然エコノミーだが。


「『42F』? それ、どの辺り?」

 この人物にとって、どうやら飛行機はただの移動手段で、エコノミークラスには縁がないらしい。

「一番後ろのど真ん中です」
「それは乗り降りが面倒だね」 
「そうでもないですよ」

 どのみち最後に乗って、最後に降りなくてはいけないという規則だから、関係ないのだ。

 ともかく邪魔しないで欲しいのだが、イタリア風味のヤンエグは雪哉から離れようとしない。

「ね、羽田で降りたらちょっとお茶しない?」
「すみませんが、降りたらすぐに仕事なんです」

 スタンバイが起用になったので、スタンバイ時間内に帰りつけたとしても、そこで本日の業務は終了だが、フライトしたのだからデブリーフィング(報告)はもちろん必須だし、何よりも、敬一郎もこのフライトで終了なので当然一緒に帰るつもりだ。

 いや、それ以前に、たとえ暇でしょうがなくても、この見知らぬ人間とお茶する気はさらさらないが。


「あ、搭乗始まりましたよ」

 プレミアムクラスは当然搭乗順が最初だ。

 伊達男は肩を竦め、『じゃあまた後でね』と、気障っちく手を振ってゲートを通過していった。

 ――後なんかないってば。

 心の中で呟いて、雪哉はまたコックピットを見つめた。

後編へ


カンパニー…カンパニー無線/カンパニー・ラジオ。
短波の無線で、航空会社各社が社内連絡用に使う無線。
主に空港内で使用する「ターミナル」と、飛行中に使う「エンルート」があって、
フライト中もさまざまな情報交換が行われている。
管制とのやりとりと違い、日本語で交わされる。
音声交信だけでなく、情報をコックピットで印刷することもできる。


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